天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(32)
天平十三年(西暦741年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
十三年春正月癸未朔。天皇始御恭仁宮受朝。宮垣未就。繞以帷帳。是日。宴五位已上於内裏。賜祿有差。癸巳。遣使於伊勢大神宮及七道諸社。奉幣以告遷新京之状也。丁酉。故太政大臣藤原朝臣家返上食封五千戸。二千戸依舊返賜其家。三千戸施入諸國國分寺。以充造丈六佛像之料。」停大射。戊戌。御大極殿賜宴百官主典已上。賜祿有差。甲辰。逆人廣嗣与黨且所捉獲死罪廿六人。沒官五人。流罪卌七人。徒罪卅二人。杖罪一百七十七人。下之所司。據法處焉。徴從四位下中臣朝臣名代。外從五位下塩屋連古麻呂。大養徳宿祢小東人等卅四人於配處。
正月一日に天皇は初めて恭仁宮で朝賀を受けている。宮の垣が未完成なので帷帳を引き回して垣の代わりとしている。この日、五位以上の官人を内裏に招いて宴を催し、それぞれに禄を賜っている。十一日に使者を伊勢大神宮と七道の諸神社に派遣して幣帛を奉り、新京に遷ったことを報告させている。
十五日に故太政大臣藤原朝臣不比等の家が食封五千戸を返上している。しかし二千戸は、もとのままその家に返し与え、三千戸は諸國の國分寺に寄捨して、丈六の釈迦仏像を造る費用に充てている。また、大射の行事を中止している。十六日に大極殿に出御されて百官の主典以上の者と宴を催し、それぞれに禄を賜っている。
二十二日に叛逆者の藤原朝臣廣嗣の一味で、現在捕らえられた者は、死罪二十六人、官に没収して奴婢とする者五人、流罪四十七人、徒罪三十二人、杖罪百七十七人となっている。これらを所管の官司(刑部省)に下して、法に則って処刑させた。中臣朝臣名代(人足に併記)、塩屋連古麻呂(吉麻呂)、大養徳宿祢小東人(大倭忌寸小東人)等三十四人を配流している。
二月戊午。詔曰。馬牛代人。勤勞養人。因茲。先有明制。不許屠殺。今聞。國郡未能禁止。百姓猶有屠殺。宜其有犯者。不問蔭贖。先决杖一百。然後科罪。又聞。國郡司等非縁公事。聚人田獵。妨民産業。損害實多。自今以後。宜令禁斷。更有犯者必擬重科。
二月七日に以下のように詔されている・・・馬や牛は人間に代わって働き、人間を養うものである。このために以前に屠殺を禁じるに定めた。今聞くところによると、國や郡では未だ禁じることができず、やはり屠殺する民がある。そこで違犯する者には蔭や贖(の特権)を問わず、先ず杖で百回打つ罪とし、その後罪を科すことにせよ。また聞くところでは、國郡司等が公務と関係なく人民を集めて狩猟を行い、生業を妨げ、損害が多いと言う。今後はそうしたことを禁止し、それでも違犯する者があったら、必ず重い罪とするようにせよ・・・。
三月壬午朔。日有蝕之。己丑。禁外從五位下小野朝臣東人下平城獄。庚寅。東西兩市决杖各五十。配流伊豆三嶋。辛丑。攝津職言。自今月十四日始至十八日。有鸛一百八。來集宮内殿上。或集樓閣之上。或止太政官之庭。毎日辰時始來。未時散去。仍遣使鎭謝焉。乙巳。詔曰。朕以薄徳。忝承重任。未弘政化。寤寐多慚。古之明主皆能先業。國泰人樂。災除福至。修何政化。能臻此道。頃者年穀不豊。疫癘頻至。慙懼交集。唯勞罪己。是以廣爲蒼生遍求景福。故前年馳驛増飾天下神宮。去歳普令天下造釋迦牟尼佛尊像高一丈六尺者各一鋪。并寫大般若經各一部。自今春已來。至于秋稼。風雨順序。五穀豊穰。此乃徴誠啓願。靈貺如荅。載惶載懼無以自寧。案經云。若有國土講宣讀誦。恭敬供養。流通此經王者。我等四王。常來擁護。一切災障。皆使消殄。憂愁疾疫。亦令除差。所願遂心。恒生歡喜者。宜令天下諸國各敬造七重塔一區。并寫金光明最勝王經。妙法蓮華經各一部。朕又別擬寫金字金光明最勝王經。毎塔各令置一部。所冀。聖法之盛。与天地而永流。擁護之恩。被幽明而恒滿。其造塔之寺。兼爲國華。必擇好處。實可長久。近人則不欲薫臭所及。遠人則不欲勞衆歸集。國司等各宜務存嚴飾。兼盡潔清。近感諸天。庶幾臨護。布告遐邇。令知朕意。又毎國僧寺。施封五十戸。水田十町。尼寺水田十町。僧寺必令有廿僧。其寺名爲金光明四天王護國之寺。尼寺一十尼。其寺名爲法華滅罪之寺。兩寺相共宜受教戒。若有闕者。即須補滿。其僧尼。毎月八日。必應轉讀最勝王經。毎至月半。誦戒羯磨。毎月六齋日。公私不得漁獵殺生。國司等宜恒加検校。己酉。三品長谷部内親王薨。天武天皇之皇女也。
三月一日に日蝕があったと記している。八日に小野朝臣東人(妹子の孫。馬養に併記)の身柄を拘束し、平城の獄に入れている。九日に平城宮の東西の市において杖で五十回ずつ打つ刑にし、その後「伊豆三嶋」に流罪としている。
二十日に攝津職が次のように報告して来た・・・今月十四日から十八日まで、鸛(コウノトリ)が百八羽やって来て「難波宮」(難波長柄豐碕宮跡地)内殿舎の上に集まったり、楼閣の上に集まったり。、あるいは太政官の庭に留まったりしている。毎日辰の時(午前八時前後)にやって来て、未の時(午後二時前後)に散り散りに飛び去っている。そこで使者を派遣して取り鎮め追い払わせた・・・。
二十四日に以下のように詔されている・・・朕は德の薄い身であるのに、忝くも重い任務を受け継いだ。まだ民を導くよい政治を広めておらず、寝ても覚めても慚じることが多い。しかし昔の明君は、みな祖先の仕事をよく受け継ぎ、国家は安泰で人民は楽しみ、災害がなく福がもたらされた。どういう政治・指導を行えば、このような統治を実現できるのか。此の頃田畑の稔が豊かではなく、疫病が頻りに起こる。慚じる気持ちと恐れとが代わる代わる起こって、一人心を痛め、自分を責めている。<続>
そこで広く人民のために、あまねく大きな福があるようにしたいと考える。そのために先年駅馬の使いを遣わして全国の神宮を修復させ、去る年には全国に一丈六尺の釈迦像一つずつ造らせるとともに、大般若経を一揃いずつ写させた。そうすると、この春から秋の収穫まで風雨は順調で五穀もよく稔った。これは真心が通じ願いが達したもので、答えとして不可思議な賜り物があったのであろう。恐れるやら驚くやら、自分でも心が安まらない。<続>
考えてみると経には[もし国内に、この経を講義して聞かせたり読経・暗誦したり、恭しく謹んで供養して、流布させる王があったなら、我ら四天王は、常にやって来て擁護しよう。一切の災いや障害は、みな消滅させるし、憂愁や疫病もまた除去し癒すであろう。願いも心のままであるし、いつも歓びが生じるであろう。]と述べてある。そこで全国に命じて各々慎んで七重塔一基を造営し、併せて金光明最勝王経と妙法蓮華経をそれぞれ一揃い書写させよう。<続>
朕は、また別に文字が金泥の金光明最勝王経を写し、塔ごとにそれぞれ一揃い置かせる。神聖な法が盛んになって天地とともに永久に伝わり、四天王の擁護の恵みを、死者にも生者にも行き届かせて、常に十分であるようにと願ってのことである。一体、塔を造る寺は、またその國の精華とも言うべきものである。必ず良い場所を択んで建て、本当に永久であるようにすべきである。人家に近くて悪臭が及ぶのはいけないし、人家から遠くて参集するのに人々を疲れさせるのは本意ではない。國司等は各々寺を厳かに飾るように努め、併せて清浄を守るようにせよ。間近に諸天(四天王)を感嘆させ、諸天がその地に臨んで護ることを願うものである。遠近に布告して朕の意向を知らしめよ。<続>
また、國ごとに僧寺には、封戸五十戸・水田十町を、尼寺には水田十町を施入することとした。僧寺には必ず僧二十人を住まわせ、その寺の名は金光明四天王護國之寺とする。尼寺には尼十人とし、名は法華滅罪之寺とする。両寺とも仏教の戒を受けていなければならず、もし欠員があれば、直ぐに補充するべきである。その僧尼は、毎月八日に必ず最勝王経を転読しなければならない。月の半ばに至るごとに受戒の羯磨(作法次第)を暗誦し、毎月の六斎日(持戒清浄であるべき日と定められた六か日)には公的にも私的にも漁猟や殺生をしてはならない。國司等は、常に検査を加えよ・・・。
二十八日に長谷部内親王(泊瀬部皇女)が亡くなっている。天武天皇の皇女であった。
<伊豆三嶋> |
伊豆三嶋
古事記では、伊邪那岐命・伊邪那美命が生んだ六嶋の一つである小豆嶋と推定した。現在の北九州市小倉北区藍島である。典型的な溶岩台地の地形をしている。関連する記述で書紀の天武天皇紀(684年)に北部で巨大噴火が発生し、貝島・姫島が誕生したと推測した(こちら参照)。
極めて貴重な記述であるが、通説では登場する「伊豆」と「土佐・伊豫」などの位置関係が異なるために意味不明な解釈で押し通されているようで、真に勿体ない有様である。
さて、その地の三嶋と記載され、初めて伊豆嶋内の詳細を登場させている。三嶋=山稜が鳥のような形をした地が三つ並んでいるところと読めば、嶋の最南部の地形を表していると思われる。余談だが、現在の伊豆半島の東南部(河津町・南伊豆町など)に多くの三嶋(島)神社がある(こちら参照)。どうやら、「三嶋」は”伊豆の南部”を示す表記と分っていたのではなかろうか。
閏三月乙夘。天皇臨朝。授從四位上大野朝臣東人從三位。從五位上大井王正五位下。從四位下巨勢朝臣奈氐麻呂從四位上。正五位上藤原朝臣仲麻呂。從五位上紀朝臣飯麻呂並從四位下。正五位下佐伯宿祢常人正五位上。從五位下大伴宿祢兄麻呂。從五位上阿倍朝臣虫麻呂並正五位下。正六位上多治比眞人犢養。阿倍朝臣子嶋並從五位下。正六位上馬史比奈麻呂。外正六位上曾乃君多理志佐。外從七位上楉田勝麻呂。外正八位上額田部直廣麻呂並外從五位下。己未。遣使運平城宮兵器於甕原宮。乙丑。詔留守從三位大養徳國守大野朝臣東人。兵部卿正四位下藤原朝臣豊成等曰。自今以後。五位以上不得任意住於平城。如有事故應須退歸。被賜官符然後聽之。其見在平城者。限今日内悉皆催發。自餘散在他所者亦宜急追。己巳。難波宮鎭恠。庭中有狐頭斷絶而無其身。但毛屎等散落頭傍。甲戌。奉八幡神宮秘錦冠一頭。金字最勝王經。法華經各一部。度者十人。封戸馬五疋。又令造三重塔一區。賽宿祷也。乙亥。勅賜百官主典已上并中衛兵衛等錢各有差。
閏三月五日に天皇は朝庭に臨んで以下の叙位を行っている。大野朝臣東人に從三位、大井王に正五位下、巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)に從四位上、藤原朝臣仲麻呂・紀朝臣飯麻呂に從四位下、佐伯宿祢常人(豐人に併記)に正五位上、大伴宿祢兄麻呂・阿倍朝臣虫麻呂に正五位下、多治比眞人犢養(池守の子。家主に併記)・阿倍朝臣子嶋(兄の駿河に併記)に從五位下、「馬史比奈麻呂」・曾乃君多理志佐(贈唹君多理志佐)・楉田勝麻呂(勢麻呂)・額田部直廣麻呂に外從五位下を授けている。
九日に使者を遣わして平城宮の兵器を甕原宮に運ばせている。十五日に平城宮の留守官である大養德國守の大野朝臣東人と兵部卿の藤原朝臣豊成に対して以下のように詔されている・・・今後は五位以上の者は勝手に平城宮に留まってはならない。もし事情があって退き帰らなければならない時は、太政官の符を受けて、その後許可せよ。平城宮に現在いる者は今日の内に全部恭仁宮に行くように促して出発させよ。これ以外の他の場所に散在する者達も至急召喚せよ・・・。
「甕原宮」の場所(現地名は京都郡みやこ町犀川大村)は、難波津からの侵入に対する備えとして極めて重要である。行宮(離宮)から宮として整備されたのであろう。通説は、「恭仁宮」に隣接するとされているが…宮に兵器は不可欠、わざわざ記載したのには、伝えることがあったと憶測されるのだが…。
十九日に「難波宮」(難波長柄豐碕宮跡地)での怪異を鎮祭させている。それは庭の中に狐の頭がちぎれて体部のないものがあり、ただ毛と糞などが頭の傍に散り散りに落ちていた。二十四日に「八幡神宮」に秘錦(金糸を加えた緋色の錦)の冠一つ、金泥で書いた最勝王経と法華経を各一揃え、得度者十人、封戸から出させる馬五匹を献上している。また三重塔一基を造営させている。これまでの祈祷に対する御礼のためである。二十五日に勅によって、全官司主典以上と中衛・兵衛等にそれぞれ銭を賜っている。
八幡神宮は、天平九[737]年四月に記載された筑紫八幡社であろう。また一年前の十月に「廣嗣」征圧軍の大将軍であった「東人」等に祈請させていた時にも登場していた。「賽宿祷」は、この記事に関連していると思われる。通常、この神宮は宇佐神宮とされているようだが、全く空間感覚欠如であろう。「廣嗣」の三軍のうち一軍は豐後國から攻めようと企てていた。敵陣の神宮に先勝祈願はあり得ない。
<馬史比奈麻呂・馬毘登國人> |
● 馬史比奈麻呂
元正天皇紀の靈龜二(716)年六月に「馬史伊麻呂等獻新羅國紫驃馬二疋」と記載されていた。実際の”紫驃馬”と地形の”馬”とを掛けた上手い表記と洒落てみたが、比奈麻呂は、その馬史一族、多分息子だったのではなかろうか。
登場人物が増えることによって、「馬史」の出自の場所がより確かになって来ると思われる。比奈=なだらかな高台が並んでくっ付いているところと読むと、図に示した場所が、その地形を示しているようである。
また別名に夷麻呂とも表記されていたと知られている。既出の夷=大+弓=平らな頂の山稜が弓のような形をしている様と解釈すると、より明確にこの人物の出自を表していることが解る。今回の行幸で騎兵への褒賞が特筆されている。在来馬と比較して”紫驃馬”の優秀さ、姿形の素晴らしさが際立ったのかもしれない。
後(淳仁天皇紀)に馬毘登國人が外従五位下を叙爵されて登場する。國人=谷間に囲われた地があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「毘登」は、「史(不比等)」に憚った表記であろう。
夏四月辛丑。遣從四位上巨勢朝臣奈氐麻呂。從四位下藤原朝臣仲麻呂。從五位下民忌寸大楫。外從五位下陽侯史眞身等検校河内与攝津相爭河堤所。
四月二十二日に巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)・藤原朝臣仲麻呂・民忌寸大楫(大梶)・陽侯史眞身(陽胡史)等を遣わして、河内國と攝津國とが河の堤の帰属について相争っている場所を調べさせている。<この河は、多分、現在の行橋市津積(攝津國)と京都郡みやこ町勝山大久保(河内國)との境を流れる井尻川ではなかろうか(こちら参照)。後日に関連する記述あれば詳細に述べてみようかと思う>
五月乙夘。天皇幸河南觀校獵。庚申。令諸國常額之外差加左右衛土各四百人。衛門衛士二百人貢之。丙子。讃岐國介正六位上村國連子老。越後國掾正七位下錦部連男笠等。与官長失礼不相和順。仍解却見任。
十一日に諸國に命じて、決められた定員の外に、左右衛士府の衛士各四百人、衛門府の衛士二百人を増加して徴発させ、これを貢上させている。二十七日に讃岐國の介の村國連子老(子虫に併記)と越後國の掾の錦部連男笠(吉美に併記)等は、役所の長官に対して礼儀を失し、従順ではないので現在の官職を解任している(介:國司の二等官、掾:同三等官)。
秋七月辛亥。從四位上勳十二等巨勢朝臣奈氏麻呂爲左大辨兼神祇伯春宮大夫。從四位下紀朝臣飯麻呂爲右大弁。從五位下藤原朝臣清河爲中務少輔。從五位上橘宿祢奈良麻呂爲大學頭。從四位上黄文王爲散位頭。從五位上紀朝臣淨人爲治部大輔兼文章博士。外從五位下猪名眞人馬養爲雅樂頭。從四位下藤原朝臣仲麻呂爲民部卿。外從五位下文忌寸黒麻呂爲主税頭。正五位下下道朝臣眞備爲東宮學士。戊午。太上天皇移御新宮。天皇奉迎河頭。辛酉。宴群臣于新宮。奏女樂高麗樂。五位已上賜祿有差。是日。授左大弁從四位上巨勢朝臣奈氐麻呂正四位上。并賜以金牙餝斑竹御杖。辛未。正五位上紀朝臣麻路爲式部大輔。
七月三日に以下の人事を行っている。巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)を左大辨兼神祇伯・春宮大夫、紀朝臣飯麻呂を右大弁、藤原朝臣清河を中務少輔、橘宿祢奈良麻呂を大學頭、黄文王を散位頭、紀朝臣淨人(淸人)を治部大輔兼文章博士、猪名眞人馬養(爲奈眞人馬養)を雅樂頭、藤原朝臣仲麻呂を民部卿、文忌寸黒麻呂を主税頭、下道朝臣眞備を東宮學士に任じている。
十日に太上天皇(元正天皇)が新宮に移っている。天皇が河頭(相樂郡と春日との境、下図<賀世山・左右京>参照)にて迎えている。十三日に群臣に新宮で宴会させ、女楽と高麗楽を奏でさせている。五位以上には、それぞれ禄が与えられている。この日に左大弁の巨勢朝臣奈氐麻呂に正四位上を授け、併せて金と象牙で飾った斑入りの竹の杖を与えている。二十三日に紀朝臣麻路(古麻呂に併記)を式部大輔に任じている。
八月丁亥。從五位下多治比眞人木人爲兵部少輔。從四位上長田王爲刑部卿。外從五位下大伴宿祢御中爲少輔兼大判事。從五位上百濟王慈敬爲宮内大輔。正四位下智努王爲木工頭。外從五位上紀朝臣鹿人爲大炊頭。外從五位下車持朝臣國人爲主殿頭。從五位上多治比眞人家主爲鑄錢長官。從五位下小治田朝臣廣千爲尾張守。從五位下百濟王孝忠爲遠江守。外從五位下陽侯史眞身爲但馬守。正五位下阿倍朝臣虫麻呂爲播磨守。外從五位下大伴宿祢百世爲美作守。癸巳。佐渡國自去六月至今月。霖雨不止。有傷民産。免當年田租調庸。丙午。遷平城二市於恭仁京。
八月九日に以下の人事を行っている。多治比眞人木人を兵部少輔、長田王(六人部王に併記)を刑部卿、大伴宿祢御中(三中)を少輔兼大判事、百濟王慈敬(①-❻)を宮内大輔、智努王(文室淨三)を木工頭、紀朝臣鹿人(多麻呂に併記)を大炊頭、車持朝臣國人(益に併記)を主殿頭、多治比眞人家主を鑄錢長官、「小治田朝臣廣千」(小治田朝臣中の❼)を尾張守、百濟王孝忠(①-❼)を遠江守、陽侯史眞身(陽胡史)を但馬守、阿倍朝臣虫麻呂を播磨守、大伴宿祢百世(美濃麻呂に併記)を美作守に任じている。
十五日、佐渡國では、去る六月から今月に至るまで長雨が止まず、人民の産業を損なっている。そこで今年の田租・調・庸を免除している。二十八日に平城の二市を恭仁京に遷している。
● 小治田朝臣廣千 「廣千」の「千」=「人+一」=「人(谷間)を束ねる(一)様」と解釈した。廣千=谷間を束ねた前が広がっているところと読み解ける。續紀に登場する小治田朝臣と名乗る人物としては、最後の一人であった。
九月辛亥。免左右京百姓調租。四畿内田租。縁遷都也。乙夘。勅。以京都新遷大赦天下。天平十三年九月八日午時以前天下罪人。大辟已下。已發覺。未發覺。已結正。未結正。無問輕重。咸釋放却。其流人未達前所。已達前所。及年滿已編付爲百姓。亦咸釋放還。其在流所生子孫。父母已亡。無可隨還者。亦不限年之遠近。情願還。皆録名聞奏。但不願還者恣聽之。又縁逆人廣繼入罪者咸從原免。又大養徳。伊賀。伊勢。美濃。近江。山背等國供奉行宮之郡。勿收今年之調。」以正四位下智努王。正四位上巨勢朝臣奈氐麻呂二人爲造宮卿。丙辰。爲供造宮。差發大養徳。河内。攝津。山背四國役夫五千五百人。己未。遣木工頭正四位下智努王。民部卿從四位下藤原朝臣仲麻呂。散位外從五位下高岳連河内。主税頭外從五位下文忌寸黒麻呂四人。班給京都百姓宅地。從賀世山西道以東爲左京。以西爲右京。丁丑。行幸宇治及山科。五位已上皆悉從駕。追奈良留守兵部卿正四位下藤原朝臣豊成爲留守。
九月四日に左右京の民の調と租、畿内四ヶ國の田租を遷都に因んで免除している。八日に以下のように勅されている・・・都を新たに遷したので、全国に大赦を行う。天平十三年九月八日の午の時以前の全国の罪人は、死罪以下既に発覚した者も、まだ発覚していない者も、罪の確定した者も、まだ確定していない者も、その軽重に関係なく全て許して開放せよ。流人で、まだ配流地に到達していない者も、既に配流地に達した者も、配流の年限を満了して、既に戸籍に付けられて一般人民となっている者も、また皆許して故郷に帰らせよ。配流地で誕生した子や子孫で、父母が既に亡くなり、付き従って還るわけにはいかない場合は、年代の遠い近いに関係なく、還りたいと願う旨を願い出れば、皆名前を記録して奏上せよ。但し、還ることを願わない者には、当人の自由にすることを許せ。また反逆人の「廣嗣」に連座して罪人となった者も、全て赦免せよ。また大養德・伊賀・伊勢・美濃・近江・山背などの國で先の行宮に奉仕した郡については、今年の調をとってはならない・・・。この日に智努王と巨勢朝臣奈氐麻呂の二人を造宮卿に任じている。
九日に宮の造営に当てるために、大養德・河内・攝津・山背四ヶ國の役夫五千五百人を徴発している。十二日に木工頭の智努王、民部卿の藤原朝臣仲麻呂、散位の高岳連河内(高丘連河内;樂浪河内)、主税頭の文忌寸黒麻呂の四人を遣わして恭仁京の人民に宅地を分け与えている。「賀世山西道」(賀世山の西の道)から東を「左京」とし、西を「右京」としている。三十日に「宇治」と山科(書紀の天智天皇紀の山科野)に行幸している。五位以上の者は、皆天皇の乗り物に付き従っている。奈良(平城宮)留守官の兵部卿の藤原朝臣豊成を召して、恭仁京の留守官としている。
賀世山・左右京・鴨川
宮の場所が定まったら、次は左京・右京であろう。但し「平城宮」の時には、特にその規定はなく、そうするまでもなく至極当然だったのである。即ち、「平城宮」は長く延びた山稜の上にあり、その山稜を基準として左右が決められたからである(例えばこちら参照)。
恭仁宮は”京都”と表記されるように高台の上にあって、その場所では左右を決めるわけにはいかなかった。左右を分ける目印を決める必要があったわけである。
そこで選択されたのが「賀世山西道」と記載されている。賀世山に含まれる頻出の「賀」=「加+貝」=「谷間を押し広げるように山稜が延びている様」、「世」=「十+十+十+一」=「長く引き延ばされた様」と解釈した。纏めると賀世=長く引き延ばされたような山稜が谷間を押し広げているところと読み解ける。図に示した場所にある山を表していると思われる。
文武天皇紀に登場した鴨首形名の出自の場所が、その山の南麓に当たることが解る。正に「鴨の首のように山稜が引き延ばされた地形」なのである。故にその地を賀茂里と名付けていたと思われる。その西麓の道を「西道」と表現しているのである。
そして、「恭仁宮」の高台の麓を蛇行して流れる川(現在名称不詳)に沿って道が造られていたと推測される。これが左右京の分岐と定義されているのである。少し後になるが、その川の名称を鴨川から宮川に改名したと述べている。
記紀・續紀は、その真偽は別としても、極めて合理的な記述を行っていると思われる。言い換えると、現在解釈されているような曖昧かつ不合理なままでは、天子は納得しないであろう。そんな報告書を提出したなら、杖打ち・配流だったと思われるが・・・。尚、通説の左右京の推定図がこちらに載せられている。
宇治・山科
山科は、書紀の天智天皇紀に登場した山科野周辺を示す場所であろう。「山稜が段々に並んだ麓」と推定した。現地名は京都郡みやこ町犀川花熊である。
通説に従うと「宇治」も「宇遲」も同じ読みとなり、従って同一場所を表すと解釈されている。「宇遲」は、現地名の田川郡香春町中津原・柿下と推定した(例えばこちら参照)。
「治」=「氵+台(耜)」と「遲」=「辶+犀」は、異なる地形を表す文字である。前者は「耜」のように「先端が広がった形」であり、後者は「犀の角の形」である。要するに、先端が”四角く”尖っているのに対して”三角に”尖っている地形を表している。
頻出の宇=宀+于=谷間で山稜が長く延びている様とすると、図に示した、山科の西側に接する場所を宇治と表現していると思われる。多治比眞人(書紀では丹比眞人)一族の地の山稜と極めて類似した地形であることが解る。「読み」で記紀・續紀を解釈しては、未来永劫に解読されることはないであろう。
勿論、この行幸は平城宮と比べれば、格段に機動力を生かせる宮となっているが、一方で賊の侵入も容易となる。その経路を確かめるためであろう。いずれにしても、奥まった地に鎮座する天皇ではなかったことを伝えているようである。
後に宇治河が枯れて渡渉が楽になったと伝えている。犀川(現在の今川)及びその支流を併せた川の名称と思われる。現在のような治水された状態ではなく、大きく蛇行していたと推測される。その川の一つに架けられた橋を宇治橋と呼称していたのであろう。
冬十月己夘。車駕還宮。辛夘。勅。五位已上礼服冠者。元來官作賜之。自今以後。令私作備。内命婦亦同。癸巳。賀世山東河造橋。始自七月。至今月乃成。召畿内及諸國優婆塞等役之。隨成令得度。惣七百五十人。戊戌。制。令内外從五位已上自今以後。侍中供奉。
十月二日に宮に帰還されている。十四日に以下のように勅されている・・・五位以上の礼服と冠は、もともと官で作って与えていた。今後は個人で作り備えさせよ。内命婦についても同じである・・・。十六日に「賀世山東河」(賀世山の東の河)に橋を造らせている。七月から始めて今月になって完成している。その工事には畿内と諸國の優婆塞(在家信者)等を呼び出して使役し、出来上がるにつれて、総計七百五十人を得度させている。二十一日に次のように定めている・・・内位・外位の従五位以上の者に命じて、今後は宮中に侍して奉仕させる・・・。
賀世山東河
「賀世山西道」に続いて、東麓には川が流れていたと述べている。国土地理院地形図には川が記載されていないが、間違いなく西麓と同様に長い谷間を流れる川が現在も存在していることが確認される。
航空写真1961~9年を参照すると、長いだけではなく、谷間全体に棚田が敷き詰められている様子が伺える。更に、川は切り立った谷間を流れている。即ち、一見では川幅は決して大きくはないのだが、渡渉するには最も難しい川であると思われる。
現在の地形ではあるが、Google Viewを添付した。重機のない時代では、最も困難な土木事業だったと思われる。谷間の吊り橋では、宮への往来を担うことは叶わなかったであろう。
十一月戊辰。右大臣橘宿祢諸兄奏。此間朝廷以何名號傳於萬代。天皇勅曰。号爲大養徳恭仁大宮也。庚午。始以赤幡班給大藏。内藏。大膳。大炊。造酒。主醤等司。供御物前建以爲標。
十一月二十一日に右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)が、[ここの朝廷は、どのような名称で後々まで伝えるか]と奏上している。天皇は、[「大養德」恭仁宮と名付ける]と勅している。
二十三日に初めて赤い幡を大藏省・内藏寮・大膳職・大炊寮・造酒司・主醤(種々の大豆発酵食品を作る司)等の官司に分け与え、天皇に奉る物の前に立てて、標としている。
大養德は、「大倭國」を改めて「大養德國」とした、と記載されていた。通常、「ヤマト」と読むようなのだが、「大倭(ヤマト)」とするなら通じる読みとなるが、この地は「山背國」である。「大養德」は、勿論、地形象形表記である。恭仁宮がある地は、大養德=平らな頂の麓にあるなだらかな谷間が四角く区切られているところである。
十二月丙戌。外從五位下秦前大魚爲參河守。外從五位下馬史比奈麻呂爲甲斐守。外從五位下紀朝臣廣名爲上総守。外從五位下守部連牛養爲下総守。從五位下阿倍朝臣子嶋爲肥後守。」安房國并上総國。能登國并越中國。己亥。外從五位下引田朝臣虫麻呂爲攝津亮。從五位下甘南備眞人神前爲近江守。從五位下大伴宿祢稻君爲因幡守。從五位上藤原朝臣八束爲右衛士督。
十日に以下の人事を行っている。秦前大魚(秦忌寸廣庭に併記)を参河守、馬史比奈麻呂を甲斐守、紀朝臣廣名(宇美に併記)を上総守、守部連牛養を下総守、阿倍朝臣子嶋(駿河に併記)を肥後守に任じている。また、「安房國」を「上総國」に、「能登國」を「越中國」に併合している。二十三日に引田朝臣虫麻呂を攝津亮、甘南備眞人神前(臣籍降下した神前王)を近江守、大伴宿祢稻君(宿奈麻呂に併記)を因幡守、藤原朝臣八束(眞楯、北家の三男)を右衛士督に任じている。
安房國は、そもそも上総國から分割して設置した國であった。養老二(718)年五月に「割上総國之平群。安房。朝夷。長狹四郡。置安房國」と記載されていた。それを、また元に戻したのである。よく似た例としては、養老五(721)年六月に信濃國から分離した諏方國を天平三(731)年二月に元に戻している。
ところが、上記の養老二年五月の記事で、同じように「割越前國之羽咋。能登。鳳至。珠洲四郡。始置能登國」と記載され、初めて能登國を設置していた。戻すなら越前國なのだが・・・どうやら単に戻すのではなく、國の広さを調整した結果なのであろう。