2022年1月19日水曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(31) 〔568〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(31)


天平十二年(西暦740年)十二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

十二月癸丑朔。到不破郡不破頓宮。甲寅。幸宮處寺及曳常泉。丙辰。解騎兵司。令還入京。皇帝巡觀國城。晩頭奏新羅樂飛騨樂。丁巳。賜美濃國郡司及百姓有勞勤者位一級。正五位上賀茂朝臣助授從四位下。戊午。從不破發至坂田郡横川頓宮。是日。右大臣橘宿祢諸兄在前而發。經略山背國相樂郡恭仁郷。以擬遷都故也。己未。從横川發到犬上頓宮。丙寅。外從六位上調連馬養授外從五位下。辛酉。從犬上發到蒲生郡宿。壬戌。從蒲生郡宿發到野洲頓宮。癸亥。從野洲發到志賀郡禾津頓宮。乙丑。幸志賀山寺礼佛。丙寅。賜近江國郡司位一級。從禾津發到山背國相樂郡玉井頓宮。丁夘。皇帝在前幸恭仁宮。始作京都矣。太上天皇皇后在後而至。

十二月一日に「不破郡不破頓宮」に到着している。二日に「宮處寺」と「曳常泉」に行幸されている。四日、騎兵司を解散し、京に帰らせている。天皇は國城を巡視し、夕方には新羅楽と飛騨楽を演奏させている。

五日に美濃國の國郡司及び人民の勤労者には位を一級ずつ賜っている。賀茂朝臣助(鴨朝臣助)に従四位下を授けている。六日、「不破」を発ち、「坂田郡」の「横川頓宮」に至っている。この日、右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)は先発している。「山背國相樂郡恭仁郷」の地を整備して遷都の候補地とするためである。

七日に「横川」を発って「犬上頓宮」に到着している。十四日に「調連馬養」に外從五位下を授けている。九日に「犬上」を発って、「蒲生郡宿」に到着している。十日に「蒲生郡宿」を発って「野洲頓宮」に到着している。十一日に「野洲」を発って、「志賀郡禾津頓宮」に到着している。

十三日に天皇は「志賀山寺」に行幸し、仏を拝まれた。十四日、近江國の國郡司に位を一級ずつ賜っている。「禾津」を発って、山背國相樂郡の「玉井頓宿」に到着している。十五日に天皇は先発して「恭仁宮」に行幸し、初めて京都の造営を行わせている。太上天皇と皇后は後れて到着している。

<宮處寺・曳常泉>
宮處寺・曳常泉

關東への行幸の続きである。十二月一日に「不破頓宮」(現在の朽網小学校辺り)に到着し、翌日に宮處寺曳常泉へ赴かれている。元正天皇の多度山美泉への行幸を想起させる記述である。

重なる「泉」の文字に引き寄せられて、多度山周辺を散策することにした。現地名は北九州市小倉南区東朽網である。

宮處寺の「宮處」の文字列は、既出であって、中臣宮處連東人に用いられていた。「宮」=「宀+呂」、「處」=「虍+几+夂」と分解して地形象形表記として解釈した。

宮處=谷間が[几]形をして奥深く虎の縞模様のように幾筋もの山稜が並んでいるところと読み解いた。その地形を示す場所が幾つか見出せるが、決め手は曳常泉の表記であることが解った。

「曳」=「絡み合った糸玉から糸を引っ張りだす様」を象形した文字と知られる。地形象形表記としては、曳=高く聳える頂きから山稜が延び出ている様と読み解ける。図に示した「多度山」から延びる山稜を表していると解釈される。頻出の常=向+八+巾=北向きに並ぶ山稜が延び広がっている様と解釈した。「曳」の主稜線の南麓で枝稜線が縞状に並んでいる地形を示していることが解る。

そして「常」の地形を「處」で言い換えた表現であることを気付かされる。これだけの表記では、寺及び泉の場所を一に特定することは叶わないが、図に示したように「曳」の山稜の南麓に寄り添って並んでいたのであろう。

現在は樹木に埋もれたような様相であるが、国土地理院1945~51年の航空写真では、棚田が広がった谷間であったことが認められる。「多度山」の谷間には、清泉が湧き出る場所が幾つもあったのではなかろうか。

<坂田郡:横川頓宮>
坂田郡:横川頓宮

「不破」滞在中では、騎兵司を解散し、雅楽を楽しんだり、國城を視察したり、美濃國郡司等を昇進させたり、真に多忙な日々を過ごし、十二月六日に不破を発って、その日のうちに坂田郡横川頓宮に至っている。

この郡は、後の國郡司の昇進の記述からすると、近江國に属していたことが分る。既に蒲生郡(書紀の天智天皇紀)及び志我郡・依智郡(元正天皇紀)が登場していた。さて、「坂田郡」の入り込む余地はあるのか?…全くの杞憂であることが解った。

元明天皇紀に登場した近江國木連理十二株の主稜線を坂=土+厂+又=山麓で山稜が長く延びている様と見做し、その先にある平坦な地を坂田郡と称していたと思われる。図に示した通りに志我郡に北に接する場所である。現地名は京都郡苅田町南原・馬場辺りである。

横川頓宮横川=東西に流れる川と解釈する。孝徳天皇紀の名墾横河(畿内の西限)
、天武天皇紀の横河息長横河など幾つかの例がある。「頓宮」は、おそらく図に示した殿川の畔の高台辺りに造られていたのではなかろうか。

現在の殿川上流の谷間は、国土地理院1961~9年航空写真ではダムは存在せず、棚田が敷き詰められた実に奥深く大きな谷間であったことが伺える。ここが古事記の熊野之高倉下であり、書紀の倉歷道と記載された場所と推定した。真に貴重な写真である。

上記したように唐突に騎兵司を解散し、京に戻らせている。即ち、美濃國不破郡以降の行程には不要だったのである。美濃國當耆郡及び信濃國を経て近江國に至る道は、山稜の端が直に海となる地形であり、騎兵が活躍できる場所ではなかったことを告げているのである。

<犬上頓宮・蒲生郡宿・野洲頓宮>
犬上頓宮・蒲生郡宿・野洲頓宮

駆けるように近江國の各頓宮(宿)を巡ったと記載されている。いずれも発った日のうちに次の目的地に到着したとも述べている。

「横川頓宮」を発って、志我郡を経由して南下して、犬上頓宮に至ったのであろう。「犬上」は、古事記の倭建命の子、稻依別王が犬上君の祖となったと記載されている。

書紀では、舒明天皇紀に遣唐使を拝命した犬上君三田耜が、その他にも関連する人物が登場する。犬上=[戌]の形をした谷間の上にあるところと読み解いた。現地名は京都郡苅田町山口の北谷である。

その地形に類似した、最もかなり小ぶりではあるが、谷間が見出せる。依智郡に属する場所、現地名は京都郡苅田町尾倉である。近隣には多くの渡来人たちが入植し、土地を開拓して来たようであり、登場した人物名が記載されている(こちら参照)。

次の蒲生郡宿については、図に示した辺りかと思われる。蒲生郡の初出は、書紀の天智天皇紀に神前郡と共に百濟を脱国した人々を移住させた地として記載されている。戦乱で発生した移民を受け入れ、国土開発に向けている。聖武天皇の時代に至って、すっかり定着した様子だったのであろう。

次の野洲頓宮の「野」は通常、”〇〇野”と記載される場合が多く、「野原」と解釈して不都合はないのだが、ここでの用いられ方では、「野」が地形象形表記と解釈すべきと思われる。「野」=「里+予」と分解される。「予」=「杼」(横糸を通す様→横に広がる様)である。すると「野」=「平らな地が横に広がっている様」を表している。

纏めると野洲=川に挟まれた(洲)平らな地が横に広がっている(野)ところと読み解ける。図に示した山稜の端の地形を表していると思われる。頓宮の場所は、おそらく、かつて大臣蘇我蝦夷が住まった近隣だったのではなかろうか。

ところで、この地の近隣は、書紀の持統天皇紀に益須郡と記載されていた。共に「ヤス」と読んで同じ場所とするのであるが、明らかに異なる地である。記紀・續紀を”読んで”はだめなのである。

<志賀郡禾津頓宮>
志賀郡禾津頓宮

十二月十一日に野洲頓宮を発って、やはり、その日のうちに志賀郡禾津頓宮に至っている。「志賀郡」は、記紀・續紀を通じて初出である。

古事記に記載された若帶日子命(成務天皇)の宮、近淡海之志賀高穴穗宮に含まれる志賀=蛇行する川が押し拡げられた谷間を流れているところである。この地を現在の行橋市高来辺りと推定した。

禾津頓宮は、禾津=稲穂のような山稜が川が集まる地に延びているところと解釈すると、稲穂の先端部、現在の興隆寺辺りに造られていたと思われる。

また、「幸志賀山寺礼佛」と記載された志賀山寺は、文武天皇紀に登場した近江國志我山寺と推定される。本寺は、聖武天皇になって紫郷山寺の別表記で”官寺”にしたと述べられている。即ち「志賀・志我・紫郷」は、同じ読みであると同時に同一場所を示す地形象形表記であることが解る。

上記で示した志我郡(現地名京都郡苅田町集)は、元正天皇紀に記載されている。大混乱の有様であるが、古事記の記述に従って、この地を「志賀」とし、「志賀山寺」と表記したと思われる。古事記の時代では、近淡海は入江の中、その水辺の地を表していたのに対して、開拓に伴って外海の地を含めて「近江」と表現したことに基づくのであろう。

<玉井頓宿・恭仁宮・河頭>
玉井頓宿・恭仁宮

山背國相樂郡の登場は、かなり古く、例えば古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀の説話で山代國之相樂が記載されている。

直近では元明天皇紀に、その地に「岡田離宮」があったと告げ、併せて「賀茂里・久仁里」の二つの里があったことも記載している(こちら参照)。

玉井頓宿玉井=玉のような山稜に囲まれた四角く区切られたところと読むと、図に示した場所、岡田離宮の南側の地形を表していると思われる。正に仮宿であって、直ぐに恭仁宮に遷っている。

その宮の場所は、「恭」=「共+心」と分解する。「共」=「両手を差し上げた様」であり、「心」=「中心、中央」を表す文字要素である。既出の「仁」=「人+二」=「谷間が二つ並んでいる様」と解釈した。これらを組み合わせると、恭仁=谷間が二つ並んで両手を差し上げたように延びた地の中心にあるところと読み解ける。

図に示した小高くなった地を示したいると思われる。この地は、”山背國相樂郡賀茂里”となる。現地名は田川郡赤村赤である。原文中に「始作京都矣」と記載されている。京都=高い台地の都と述べているのである。”山背國賀茂”にあった甕原離宮に近接するのではなく、「岡田離宮」に近いところにあった宮である。上記の「志賀(我)」と同じように「賀茂」も”迷宮”なのであろう。

この時点までで聖武天皇は、三度も「甕原離宮」に行幸している。それは平城宮から甕原離宮へ向かう途中に相樂郡賀茂里があり、すっかり、この地が気に入ったからであろう。さて、初めて造営された「京都」は、如何なることになるのか?…まだまだ、先が続きそうである。

幾度か述べたように行幸の記述は極めて重要である。登場する地名及び行宮名が地形により、その道筋が解明されて各々の配置を求めることが可能となる。時空を越えず、実に合理的な解釈となる。また、そうでなければ、その解釈をそのまま受け入れるわけにはいかないのである。

また、後日に太上天皇(元正天皇)が恭仁宮に移って来た時に、天皇が出迎える場所、「河頭」が記載される。辞書によると、”川のほとり”と解釈されているようだが、わざわざ記載しているのに、極めて曖昧な表記であろう。河頭=川が流れ出るところと読むと、図に示した現在の戸城山の東麓、春日からの峠を表しているのではなかろうか。太上天皇を迎えるのに相応しい場所と思われる。

<調連馬養-牛養>
● 調連馬養

調連は、『壬申の乱』の功臣であった調首淡海が後に「連」姓を賜った氏姓と知られている。古事記の大雀命(仁徳天皇)紀に登場した筒木韓人奴理能美の系列と言われる。

それぞれの名前が表す地形が見事に合致し、渡来系の名称から倭風へと変わっていることが分った。おそらく百濟の地でも地形象形表現を日常的に用いていたのであろう。現地名は京都郡みやこ町犀川木山である。

馬養と「淡海」の繋がりは不詳のようであるが、近接する場所が出自であることには違いないと思われる。すると、図に示した山稜をと見做し、その東側の谷間を養=羊+良として、命名されたと推測される。

この人物についての情報は續紀の記述以外に殆ど見当たらないが、備前守を任じられたりして、ここで叙位された外従五位下から内位の従五位上にまで昇進したことが記載されている。

後(孝謙天皇紀)に調連牛養が同じく外従五位下を叙爵されて登場する。「馬養」の谷間の奥にある山稜を牛の頭部に見立てた表記と思われる。系譜は不詳のようである。

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『續日本紀』巻十三巻尾