2022年1月13日木曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(30) 〔567〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(30)


天平十二年(西暦740年)十一月の記事である。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

十一月甲申朔。到伊賀郡安保頓宮宿。大雨。途泥人馬疲煩。乙酉。到伊勢國壹志郡河口頓宮。謂之關宮也。丙戌。遣少納言從五位下大井王。并中臣忌部等。奉幣帛於大神宮。車駕停御關宮十箇日。是日。大將軍東人等言。進士无位安倍朝臣黒麻呂以今月廿三日丙子。捕獲逆賊廣嗣於肥前國松浦郡値嘉嶋長野村。詔報曰。今覽十月廿九日奏。知捕得逆賊廣嗣。其罪顯露不在可疑。宜依法處决。然後奏聞。丁亥。遊獵于和遲野。免當國今年租。戊子。大將軍東人等言。以今月一日。於肥前國松浦郡。斬廣嗣綱手已訖。菅成以下從人已上。及僧二人者。禁正身置大宰府。其歴名如別。又以今月三日。差軍曹海犬養五百依。發遣。令迎逆人廣嗣之從三田兄人等廿餘人。申云。廣嗣之船從知駕嶋發。得東風往四ケ日。行見嶋。船上人云。是耽羅嶋也。于時東風猶扇。船留海中。不肯進行。漂蕩已經一日一夜。而西風卒起。更吹還船。於是。廣嗣自捧驛鈴一口云。我是大忠臣也。神靈弃我哉。乞頼神力。風波暫靜。以鈴投海。然猶風波弥甚。遂着等保知駕嶋色都嶋矣。廣嗣式部卿馬養之第一子也。乙未。車駕從河口發。到壹志郡宿。丁酉。進至鈴鹿郡赤坂頓宮。甲辰。詔陪從文武官。并騎兵及子弟等。賜爵人一級。但騎兵父者。雖不在陪從。賜爵二級。授從二位橘宿祢諸兄正二位。從四位上智努王。塩燒王並正四位下。從四位下石川王。長田王。守部王。道祖王。安宿王。黄文王並從四位上。无位山背王從四位下。從五位下矢釣王。大井王。茨田王並從五位上。從四位上大原眞人高安正四位下。正五位下紀朝臣麻呂。藤原朝臣仲麻呂並正五位上。從五位上下道朝臣眞備。佐伯宿祢清麻呂。佐伯宿祢常人並正五位下。從五位下多治比眞人家主。阿倍朝臣吾人。多治比眞人牛養。大伴宿祢祜信備。百濟王全福。阿倍朝臣佐美麻呂。阿倍朝臣虫麻呂。藤原朝臣八束。橘宿祢奈良麻呂並從五位上。正六位上多治比眞人木人。藤原朝臣清河。外從五位下民忌寸大楫並從五位下。外從五位下菅生朝臣古麻呂。紀朝臣鹿人。宗形朝臣赤麻呂。引田朝臣虫麻呂。物部依羅朝臣人會。高麥太。大藏忌寸廣足。倭武助。村國連子虫並外從五位上。正六位上當麻眞人廣名。紀朝臣廣名。笠朝臣蓑麻呂。小野朝臣綱手。枚田忌寸安麻呂。秦前大魚。文忌寸黒麻呂。日根造大田。守部連牛養。酒波人麻呂。外少初位上壹師君族古麻呂並外從五位下。乙巳。賜五位已上絁各有差。丙午。從赤坂發到朝明郡。戊申。至桑名郡石占頓宮。己酉。到美濃國當伎郡。庚戌。賜伊勢國高年百姓百歳已下八十歳已上者大税各有差。

十一月一日に伊賀郡安保頓宮に到着したが、途中は大雨で人も馬も泥で難渋したと記している。二日に「伊勢國壹志郡」の「河口頓宮」に到着している。これを「關宮」と称している。三日に少納言の大井王と中臣・忌部の人たちを伊勢大神宮に遣わして幣帛を奉納させている。天皇は十日間「關宮」に留まっている。

この日、大将軍の「東人」が[進士の安倍朝臣黒麻呂(豐繼・蟲麻呂に併記)が、今月(十月)二十三日に逆賊の藤原朝臣廣嗣を「肥前國松浦郡」の「値嘉島」の「長野村」で捕らえた]と言上している。これに答えて、以下のように詔されている・・・今、十月二十九日の奏を見て、逆賊の「廣嗣」を捕らえたと知った。「廣嗣」の罪は明白で疑う余地がないので、法の規定通りに処罰をし、終わってから奏聞せよ・・・。

四日に天皇は「和遲野」で遊猟を行っている。当國の今年の田租を免除している。五日に大将軍の「東人」が以下のように言上している・・・今月一日に「肥前國松浦郡」で、「廣嗣」と「綱手」の斬刑を執行、終了した。「菅成」(彼等の弟?)以下従者以上の者と僧二人の身柄を拘禁して、大宰府に置いている。彼等の名簿は別紙の通りである。また、今月三日に軍曹(征討軍の四等官)の「海犬養五百依」を選んで差し遣わし、逆人の「廣嗣」の従者の三田兄人(鹽籠に併記)等二十数人を連れて来させた。従者等が申すには<「廣嗣」の船は「知駕嶋」より出発して、東風を受けて”四ケ日”(四日間?)行って、島を見つけた。船上の人は「耽羅嶋」であると言っていた。この時には東風がなお吹き続けて接岸できず、船は海中に留まった。どうしても進み行かず漂ううちに一昼夜が経った。そのうちににわかに西風がおこり、あらためて船を吹き帰した・・・(続)。

この時、「廣嗣」は自ら駅鈴一個を掲げて<自分は大忠臣である。なのに何故神霊は自分を捨てようとするのか、どうか神力によって風波をしばらく静かにさせて下さい>と言って鈴を海に投じたが。それにもかかわらず風波はますます強くなって、ついに「等保知駕嶋」の「色都嶋」に着いた、とのことである・・・。「廣嗣」は式部卿馬養(宇合:式家)の第一子であった。

十二日に天皇は河口頓宮を発って、「壹志郡宿」に到着している。十四日に、更に進んで「鈴鹿郡赤坂頓宮」に至っている。二十一日に詔が下され、陪従の文武官並びに騎兵と子弟に位をそれぞれ一級賜っている。但し騎兵の父には陪従していなくても位を二級賜っている。

また、橘宿祢諸兄(葛木王)に正二位、智努王(文室淨三)・鹽燒王に正四位下、石川王(長皇子の子)長田王(六人部王に併記)・守部王道祖王(鹽燒王に併記)・安宿王黄文王(共に長屋王の子)に從四位上、山背王(長屋王の子)に從四位下、矢釣王(八釣王)・大井王・茨田王(茨田女王と谷間を分け合っていたかも?)に從五位上、大原眞人高安(高安王)に正四位下、紀朝臣麻呂(麻路)・藤原朝臣仲麻呂に正五位上、下道朝臣眞備佐伯宿祢清麻呂(淨麻呂。人足に併記)・佐伯宿祢常人(豐人に併記)に正五位下、多治比眞人家主阿倍朝臣吾人(豊繼に併記)・多治比眞人牛養(池守の子の犢養)大伴宿祢祜信備(小室に併記)百濟王全福(①-)・阿倍朝臣佐美麻呂阿倍朝臣虫麻呂藤原朝臣八束(眞楯、北家の三男)・橘宿祢奈良麻呂(橘宿祢諸兄の子)に從五位上、「多治比眞人木人」・藤原朝臣清河民忌寸大楫(大梶)に從五位下、菅生朝臣古麻呂(大麻呂に併記)紀朝臣鹿人(多麻呂に併記)・宗形朝臣赤麻呂(胸形朝臣)・引田朝臣虫麻呂物部依羅朝臣人會高麥太(背奈公行文に併記)・大藏忌寸廣足(老・伎國足に併記)・倭武助村國連子虫に外從五位上、當麻眞人廣名(東人に併記)・紀朝臣廣名(宇美に併記)・「笠朝臣蓑麻呂」・「小野朝臣綱手」・「枚田忌寸安麻呂」・秦前大魚(秦忌寸廣庭に併記)・「文忌寸黒麻呂」・「日根造大田」・「守部連牛養」・「酒波人麻呂」・「壹師君族古麻呂」に外從五位下を叙位している。

二十二日に五位以上の者に絁を、それぞれ賜っている。二十三日に「赤坂」を発って「朝明郡」に到着している。二十五日に「桑名郡石占頓宮」に至っている。二十六日に「美濃國當伎郡」に到着している。二十七日に伊勢國の高齢の民の百歳以下・七十歳以上に、それぞれ大税を賜っている。

<伊勢國壹志郡・河口頓宮・關宮・和遲野>
伊勢國壹志郡:河口頓宮(關宮)・和遲野

十一月一日に前泊地である伊賀國伊賀郡安保頓宮へは、悪路で難渋しながら辿り着いたが、翌日には伊勢國壹志郡に到着した、と記載している。

幾度か登場の「壹」=「蓋+壺+囗」=「壺のような谷間を蓋するように山稜が延びている様」、「志」=「蛇行する川」と解釈したが、纏めると壹志=壺のような谷間を蓋するように山稜が蛇行する川の傍らで延びているところと読み解ける。

図に示した場所に、その地形を見出すことができる。伊勢大神宮(現蒲生八幡神社)が鎮座する山稜と紫川に挟まれた地を示していると思われる。狩りをした場所、和遲野=しなやかに曲がって延びる山稜の端が角のように尖っている傍の野原と読むと、図に示した場所と推定される。

河口頓宮の「河」=「氵+可」=「谷間の出口が広がってる様」であり、「和遲野」の山稜と「壹志郡」の山稜に挟まれた谷間の出口辺りが頓宮が設けられたところと思われる。別称である關宮は、二つの山稜で閉じられたような地形を表現していることが解る。

壹志郡宿は、”蓋”の山稜の端辺りを示していると思われる。多分、紫川の渡渉地点近傍だったのではなかろうか。後に「桑名郡」へと向かうための事前の整備を行ったのであろう。次に向かう赤坂頓宮は、もう目と鼻の距離である。尚、地形が大きく変形している地域でもある。国土地理院航空写真1945~50を引用して置く。

<伊勢國鈴鹿郡:赤坂頓宮>
伊勢國鈴鹿郡:赤坂頓宮

「壹志郡宿」に到着したのが十二日で、赤坂頓宮へは十四日に入っている。鈴鹿郡の「鈴鹿」は、書紀の天武天皇紀に登場した名称であって、伊賀國に隣接する場所と推定した(こちら参照)。

鈴鹿=開口部のある鈴のように山稜が並んでいる麓と読み解いたが、その地形を示す場所が見出せる。古事記で記載された佐久久斯侶伊須受能宮が表す地形である。

捻じれた表現をする書紀に準じるのではなく、古事記の記述に合致していることが、ここでも確認される。明らかに言えることは、伊勢大神宮は、伊勢國鈴鹿郡にあったのである。「鈴」の地形、即ち、五十鈴宮(山稜が交差するように寄り集まった鈴のような地にある宮)なのである。

赤坂赤=火+大=平らな頂の麓で山稜が火のように延びている様坂=麓で山稜が長く延びている様であり、「鈴」の谷間から延び出た山稜を表していることが解る。地形が変化している場所ではあるが、明確に特定されていると思われる。

<伊勢國桑名郡:石占頓宮>
伊勢國桑名郡:石占頓宮

二十三日に「赤坂頓宮」を発って、その日のうちに朝明郡に到着し、次の桑名郡石占頓宮には二十五日に到着しているから、おそらく一泊したのであろう。

「朝明」、「桑名」は書紀の天武天皇紀に登場した地名である(こちら参照)。天照大御神を望拝した場所近隣であり、「朝明」=「朝が明るい地」を実感したのではなかろうか。

桑名=山稜の端が細かく岐れて延びているところと解釈したが、その地で山麓から少し離れて小高くなっている場所が確認される。石占=山麓で区切られた地が小高くなっているところと読み解ける。

<美濃國當伎郡>
美濃國當伎郡

「石占頓宮」に二十五日に到着して、翌日の二十六日に「美濃國當伎郡」に至ったと記載している。「當伎」は、古事記の倭建命が難渋しながら帰途に急いだ當藝野と思われる。

あらためて読むと、多用される「當」=「向+八+田」と分解され、その文字形が示す「左右対称の地形」を表現していると読み解いた。別表現すると「同じように分かれて広がる様」となる。

「藝」=「多くの山稜が延び出ている様」であり、當藝=延び出ている山稜が左右対称に並んでいるところと読み解いた。図に示した場所を端的に表現していることが解る。頻出の伎=人+支=谷間が岐れている様と解釈したが、山稜に注目するのではなく、それらに挟まれた谷間を表している。別表記として申し分なしであろう。

と言うことで、當藝野當伎郡と呼称していると結論付けられる。ところが、この地は「尾張國」に属していた筈である。古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の子、大中津日子命が祖となった尾張國之三野別と記載された地でもある。續紀編者は、「三野」を美濃國に置換えたのである。

後の伊勢國桑名郡と尾張國との間は”七里の渡”が存在していた。現在の濃尾平野は、その大半が海面下であった。奈良大和を中心とした國別配置では、尾張國を経由して美濃國に向かうことは、全く不合理な行程となってしまうからである。「尾張國之三野別」を拠り所にして、虚偽の記述を回避できた、とほくそ笑んだのであろうか・・・。

文武天皇紀に美濃國多伎郡が登場した。後の元正天皇紀に當耆郡と記載される。「多・伎・當・耆」の四文字から「當伎」を選べば、やはり當伎郡は、この地を示す・・・ではなかろう。類似の地形ではあるが、同一場所を表わしてはいない。訓読み類似は、論外であろう。さて、行幸は続き、次は美濃國不破郡へと向かうことになったと伝えるが、次月の記事で述べることにする。

<知駕嶋>
知駕嶋

同時進行する豊前國での「廣嗣」鎮圧の物語である。結末は「廣嗣」が「肥前國松浦郡値嘉島長野村」で捕らえられ、斬刑に処せられて一件落着と伝えているが、捕らえた従者等が語った逃亡経緯が記載されている。

時系列的に並べて述べてみることにする。前記の板櫃河での戦い、と言っても殆ど戦闘場面はなく、いつの間にやら「廣嗣」は逃亡したような記載であった。

逃げるとなると、「廣嗣」が通って来た鞍手道を帰ったのであろう。現在の立石峠を越えると彦山川に向かうことができる。おそらくそこまでは船で来ていた筈で、それに乗船して下流へ、更に遠賀川を下ったと推測される。すると知駕嶋は、遠賀川河口付近にあったことになる。

頻出の知=矢+口=鏃のような様、「駕」=「加+馬」と分解される。「加」=「上に乗せる様」の意味を示し、「駕」=「馬の上に乗せる様」を表している。地形象形的には、駕=馬の背のような様と解釈される。その地形をしている嶋(現在は陸続きとなっているが)、現在の遠賀郡水巻町にある明神ヶ辻山と推定される。

<耽羅嶋>
耽羅嶋

遠賀川河口を抜けたところで猛烈な東風に見舞われたと述べている。当然船は西へ西へと流されたのであろう。その間”四ケ日”だったと記載している。これを”四日間”と読んで良いのであろうか?…そもそも「ケ」は中国語に存在しない文字である。

全くの編者等の戯れと見做すべきであろう。「四ケ」=「シケ」(海が荒れる様:時化は当て字)と解釈する。これで全てが氷解する。四日間流されて見つけた耽羅嶋を耽羅國(現済州島)とするのではなく、”時化”の中を流されて最初に目に止まるのが、図に示した宗像市地島と推定する。

耽=耳+冘=谷間で山稜が耳の形をしている様と解釈した(こちら参照、隋書俀國伝)。地島は二つの谷間が耳のような地形して、それが連なっている()島であることが解る。”船上”の人に言わしめた島の名前なのである。

この島に上陸することは叶わず、彷徨って、今度は西風に押し戻された航路は宗像市の釣川河口へと向かった、と推測される。「廣嗣」の寿命が尽きる地を、現在の佐賀県松浦市辺りに、簡単に求めるならば、済州島が必要だったのであろう。

また、そう読めるような記述を續紀編者が行っていたのである。しかしそう読んでは何処かに綻びがある、それが”四ケ日”である。日本の古代史は、書紀・續紀編者が巻き起こす”四ケ(時化)”の中で彷徨い、未だに着岸できていないようである。

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余談だが、片仮名の起源については諸説があるが、Wikipediaによると・・・片仮名の起源は9世紀初めの奈良の古宗派の学僧たちの間で漢文を和読するために、訓点として借字(万葉仮名)の一部の字画を省略し付記したものに始まると考えられている・・・と記載されている。また吉備眞備(下道朝臣眞備)が創作したとの俗説があるとも記している。あながち、俗説と片付けられないかもしれない。上記の「ケ」は、間違いなく片仮名である。

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等保知駕嶋色都嶋・肥前國松浦郡値嘉嶋長野村

<等保知駕嶋色都嶋>
<肥前國松浦郡値嘉嶋長野村>
西風に押し戻されるように迷い込んだのが現宗像市を流れる釣川であったと思われる。

勿論、現在のような河口ではなく、その先は汽水湖となっていて、それが谷間の奥へと広がっていた、と推測される。古事記の胸形三柱神が坐していた地である。

「廣嗣」の従者等によると、辿り着いた場所が等保知駕嶋色都嶋と述べている。風は、いよいよ強まり、谷間の奥深くまで運ばれたのであろう。

逃亡者の身であることから、上陸するのは人気の少ない地を望んだのかもしれない。あるいは、その背後が山深い地形であることも必要だったであろう。結局は、汽水の海が尽きる場所まで、成り行きの様相で至ったものと思われる。

胸形之奧津宮(上図では周防國熊毛郡)から、もう少し奥に入った場所で下船する羽目になったと思われる。それが上図に示した「等保知駕嶋色都嶋」であったと述べている。そして東隣の値嘉嶋長野村で捕捉されることになったのである。勿論、現在は広々とした水田地帯にある小高い地であるが、汽水の海に流れる川に挟まれた”中之島”の様相であったと推測される。

これらの嶋の地形象形表記は下記で読み解くことにして、この地が肥前國松浦郡であることについて述べる。肥前國は、記紀・續紀を通じて初見である。いやいや、魏志倭人伝の”末盧國”で周知の國?…ロマン溢れる古代史、であろう。

一方、「肥後國」は書紀にも登場するが、相変わらず捻くれた表記であって、續紀の元正天皇紀に登場した場所に寄り添ってみよう。その場所は宗像市と福津市の境にある許斐山の山容を肥=月+巴=渦巻くように盛り上がった様と見做し、その””と解釈した(こちら参照)。

すると肥前國は、図に示したように許斐山の””に広がる地域と推定される。そして松浦に含まれる既出の松=木+公=山稜に挟まれた地で小高く盛り上がっている様浦=氵+甫=水辺で平らに広がった様と解釈すると、図に示した場所、現地名は宗像市朝野辺りと推定される。ここが、肥前國松浦郡の”本貫”の地である。

<等保知駕嶋-色都嶋-値嘉嶋長野村>
等保知駕嶋の頻出の等=竹+寺=揃って並んでいる様保=人+呆=谷間にある山稜の端が丸く小高くなっている様と解釈した。知駕嶋は上記で読み解いた地形に基づく名称であろう。

すると図に示した嶋の地形をそのまま表現していることが解る。色都嶋の色=人+巴=谷間にある渦巻くような様であり、それが集まった()地形の嶋であることを表している。

この二つの嶋が繋がっていると見做していることから「等保知駕嶋色都嶋」と表記したのであろう。彷徨った挙句に着岸する場所は「色都嶋」であり、実に自然な位置にあると言える。

値嘉嶋値=人+直=谷間で真っ直ぐに延びた様嘉=壴+加=鼓のような湾曲した地を押し開く様と解釈した。この名称も地形を素直に表現していることが解る。長野村は、島の東部で細長く延びている山麓を表していると思われる。「色都嶋」で上陸し、更に谷奥に向かおうとしていたのかもしれない。

<海犬養五百依>
● 海犬養五百依

「海犬養」は、書紀の皇極天皇紀に発生した所謂『乙巳の変』で登場した海犬養連勝麻呂の氏名に含まれていた。幾度も述べたように、捻じれ表記の書紀ではあるが、地形象形表記としては、実に真面である。

その人物の出自は、現地名の北九州市小倉北区上・下富野辺りと推定した。今回登場の五百依は、その名前から図に示した場所と思われる。

頻出の五百=連なる小高い地が交差するように並んでいるところ依=人+衣=谷間にある山稜の端の三角州と解釈した。その地形を示す場所である。

書紀に登場の「勝麻呂」には「連」姓が付けられていたが、「五百依」にはない。おそらく同族ではあるが、遠い繋がりだったのであろう。それしても、記紀・續紀を通じて未登場の地が、これでもかと、言わんばかりに記載されている。手間が掛かるが、興味深いところではある。

<多治比眞人木人-石足-犬養>
● 多治比眞人木人

多くの登場人物がある「多治比眞人」一族の一人である。一説に縣守の子ではなかと言われている。彼の子には國人がいたと知られているが、この人物もその可能性が高いように思われる。

木人=山稜の先に谷間があるところと読むと、図に示した山稜の端が岐れて谷間になっている場所を表していると思われる。

既に登場の人物名を併記したが、この谷間が出自となった例はなかった。配置からしても「縣守」の子としても無理のない場所であろう。”〇人”で繋がる命名だったのではなかろうか。

少し後に多治比眞人石足が従五位下を叙爵されて登場する。この人物も系譜不詳のようであり、石足=山麓の区切られた地から足が延び出ているところと読むと、「多夫勢」の南側の地形を表していると思われる。

後(孝謙天皇紀)に多治比眞人犬養が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳ではあるが、列記とした「多治比眞人」一族であったことは確かなようである。頻出の犬養=平らな頂の山稜に挟まれた谷間がなだらかに広がり延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自だったと思われる。

元明天皇紀に登場した「吉備・吉提」は、こちらを、「多夫勢」は聖武天皇紀のこちらを参照。谷間の隅々まで多治比眞人の人物が広がっていたことを伝えているようである。現地名では京都郡みやこ町と行橋市の境となっている。

<笠朝臣蓑麻呂>
● 笠朝臣蓑麻呂

多くの人物が登場ししている「笠朝臣」ではあるが、「蓑麻呂」の系譜は垂の孫、御室(こちら参照)の子と知られているようである。直近では三助(子の道引は未だ登場せず)が外従五位下を叙爵されていた。

そんな背景で名前に含まれる、初出の「蓑」の文字解釈で出自の場所を求めてみよう。「蓑」=「艸+冉+衣」と分解される。「冉」=「草木の端が垂れ下がった様」を表す文字と解説される。

その地形を探すと図に示した山稜の端が小高く盛り上がって垂れたように見える場所が見出せる。「蓑」の形そのままの地形と見做したのであろう。

配置的には「垂」の系列である「滿誓(麻呂)・御室」等に関わる人物として申し分のない結果となったように思われる。この後も地方官に任じられて幾度か登場されるようである。

<小野朝臣綱手-田守>
● 小野朝臣綱手

「小野朝臣」一族も多くの人材を提供して来ているが、「妹子」の曽孫、「老」等の世代の登場である(こちら参照)。些か図が込み入って来たので改めて示すことにした。

綱手は「牛養」の子と知られている。「廣人」の孫となる。この系列は、兄の「毛人」より少々遅れるが着実に子孫が登場する。

「綱手」の文字列は、既出であり、例えば藤原朝臣綱手が挙げられる。綱手=筋張った山稜の先にある手のようなところと解釈される。その地形を図に示した場所に見出すことができる。現在の御祓川上流域の谷間の地形を象形した命名と思われる。歌人でもあり、地方官を務めたが、その後については詳しく伝わっていないようである。

少し後に小野朝臣田守が従五位下を叙爵されて登場する。頻出の文字列である田守=平らな地が両手を曲げたような山稜に囲まれたところと読み解くと、図に示した場所が見出せる。「小野臣」の本貫の地であるが、系譜は知られていないようである。

別名に「淡理」と称していたと伝えられるが、淡理=水辺で[炎]のような地が切り分けられているところと解釈される。高低差が少なく、上図では判り辛いが、陰影起伏図のこちらを参照すると、納得の地形象形表記であることが解る。

<枚田忌寸安麻呂>
● 枚田忌寸安麻呂

「枚田忌寸」は但馬國を出自とする氏族だったことが知られている。但し確定的な情報ではないが、名前が示す場所を推定してみることにする。

但馬國関連では、元正天皇紀に朝來直賀須夜が従五位下に叙爵されていた。同様に情報が少なく、やや不確かではあったが、人物名が示す地形を見出すことができた。

枚=山稜が細かく岐れている様であり、別表現では「比良」とも記載される。但馬國の特徴的な地形を表していて、おそらく「安麻呂」の出自の地として妥当と思われ、図に示した場所と推定される。前出の「朝來直賀須夜」に隣接していることが解る。

<文忌寸黒麻呂-上麻呂>
● 文忌寸黒麻呂

「文忌寸」について、直近で主税頭に任じられた文忌寸馬養が幾度となく登場している。「根麻呂」の子であり、現地名の京都郡みやこ町勝山黒田の谷間が出自の場所と推定した。

頻出の黑=谷間で山稜が炎のように延びているところと解釈した。すると「馬養」の谷間の奥の地形を表していることが解る。

後に主税頭に任じられている。「馬養」の後を追っている感じであり、弟だったのかもしれない。「根麻呂」の記録には存在しなかったのか、委細は不明である。『壬申の乱』の功臣の子孫が絶えることなく登用されていたのではなかろうか。

後(孝謙天皇紀)に文忌寸上麻呂が同じく外従五位下を叙爵されて登場する。系譜は知られていないようである。上=山稜の端が盛り上がった様と解釈すると、図に示した場所辺りが出自と推定される。上野國の解釈に類似する。

<日根造大田>
● 日根造大田

「日根」は、元正天皇紀に河内國日根郡に含まれていた。調べると新羅からの渡来人で「日根造」を名乗っていた一族が住まっていたことが記録されているようである。

また、この地には天智天皇紀に遣唐使であった「河内直鯨」、天武天皇紀には「田邊小隅」(近江朝側で活躍した一人、後に行方不明となった)等が登場していたが、「日根」の中心地ではなかったようである(こちら参照)。

大田=平らな頂の麓に田が広がっているところと解釈すると、図に示した辺りと思われる。和泉郡と日根郡で和泉國として河内國から分離されるのだが、その後も幾度かの変遷を経るようでもある。

<守部連牛養・守部垣麻呂>
● 守部連牛養

「守部連」は文武天皇紀に登場した鍜造大角が後に賜った氏姓と知られている。元正天皇紀には、明經(儒教の経典)第一博士として褒賞された人物でもあった。

「鍜」が示す地形も極めて適切な表現ではあるが、”倭風”の「守部」として谷間全体を含めた地域を示す表記としたようである。

「牛養」もそれなりに用いられた名前であり、牛養=牛(頭部)の形をした谷間がなだらかに延びているところと解釈した。図に示した「守」の谷間の奧の地形を表していると思われる。「大角」との何らかの繋がりあったと推測されるが、記録は残っていないようである。

後に下総守を任じられたとのことであるが、その他の事績は伝わっていない。「名經」に秀でていたわけでもなさそうである。それにしても「牛養」は、牛飼いを生業としていた人という解釈の不自然さに無頓着な歴史学である。

後(淳仁天皇紀)に守部垣麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。未だ連姓を賜っていなかったのであろう。「守部」の周囲を眺めると図に示した場所が出自と思われる。垣=土+亘=盛り上がった地が取り囲んでいる様と解釈される。麻呂=萬呂であろう。

<酒波人麻呂-長歳>
● 酒波人麻呂

「酒波」の氏名については、殆ど情報がなく、辛うじて近江國に関係する人物であったことが知られている。ただ、その氏の本貫の地であるや否やは定かではないようである。

そんな背景なのだが、名前が示す地形を近江の地で探索してみることにした。「酒」=「氵+酉」=「水辺で酒樽ような形をしている様」と解釈する。古事記の”酒=坂”とは、異なり、文字が示す地形象形に準じた解釈である。

「波」=「端」としても問題なかろうが、「波」=「氵+皮」=「水辺で覆い被されるような様」と解釈する。纏めると酒波=水辺で酒樽のような山稜の麓が覆い被さるように延び広がっているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せることが解った。

この地は後に近江國高嶋郡と呼称されたと推定した。書紀で今來大槻と記載された場所でもある。人麻呂=山稜が[人]の形に岐れている様と読み解ける。「麻呂」=「萬呂」として、その地形を図に示した場所に見出せる。

後(淳仁天皇紀)に酒波長歳が登場する。密告を褒められて従八位下を叙爵されている。歳=戌+歩=鉞のような山稜が延びている様と解釈すると、「長歳」の出自は図に示した場所と推定される。

壹師君族古麻呂
● 壹師君族古麻呂

壹師君は、古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の子、天押帶日子命が祖となったと記載されている。何とも古めかしい地であるが、列記とした皇別氏族の仲間であろう。

「族」=「一族」として解釈すると、図に示した場所に古麻呂の地形が見出せる。現地名は北九州市小倉南区志井である。

この地の周辺は、邇藝速日命の子孫である物部一族が蔓延っていたわけで、そもそも天押帶日子命の子孫が侵出するに当たって、様々な確執があったのではなかろうか。

記紀・續紀が全く語らない裏の歴史が存在したと思われる。「壹師君」の東側は玄昉法師の出自である安斗(阿刀)連一族が住まう地域である(こちら参照)。

漸く、今回の叙位で登場した人物の出自を求めることができた。時間を要するが、貴重な地形情報が含まれていたように感じられる。前進あるのみ、かも・・・。