2022年1月5日水曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(29) 〔566〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(29)


天平十二年(西暦740年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

冬十月戊午。遣渤海郡使外從五位下大伴宿祢犬養等來歸。壬戌。詔大將軍東人令祈請八幡神焉。」大將軍東人等言。逆賊藤原廣嗣率衆一万許騎。到板櫃河。廣嗣親自率隼人軍爲前鋒。即編木爲船。將渡河。于時佐伯宿祢常人。安倍朝臣虫麻呂。發弩射之。廣嗣衆却到於河西。常人等率軍士六千餘人陳于河東。即令隼人等呼云。隨逆人廣嗣拒捍官軍者。非直滅其身。罪及妻子親族者。則廣嗣所率隼人并兵等。不敢發箭。于時常人等呼廣嗣十度。而猶不荅。良久廣嗣乘馬出來云。承勅使到來。其勅使者爲誰。常人等荅云。勅使衛門督佐伯大夫。式部少輔安倍大夫。今在此間者。廣嗣云。而今知勅使。即下馬。兩段再拜申云。廣嗣不敢捍朝命。但請朝廷乱人二人耳。廣嗣敢捍朝廷者。天神地祇罸殺。常人等云。爲賜勅符喚大宰典已上。何故發兵押來。廣嗣不能辨荅。乘馬却還。時隼人三人直從河中泳來降服。則朝廷所遣隼人等。扶救遂得着岸。仍降服隼人二十人。廣嗣之衆十許騎來歸官軍。獲虜器械如別。又降服隼人贈唹君多理志佐申云。逆賊廣嗣謀云。從三道往。即廣嗣自率大隅。薩摩。筑前。豊後等國軍合五千人許。從鞍手道往。綱手率筑後。肥前等國軍合五千人許人。從豊後國往。多胡古麻呂〈不知所率軍數。〉從田河道往。但廣嗣之衆到來鎭所。綱手多胡古麻呂未到。戊辰。遣新羅國使外從五位下紀朝臣必登等還歸。壬申。任造伊勢國行宮司。丙子。任次第司。以從四位上塩燒王爲御前長官。從四位下石川王爲御後長官。正五位下藤原朝臣仲麻呂爲前騎兵大將軍。正五位下紀朝臣麻路爲後騎兵大將軍。徴發騎兵。東西史部。秦忌寸等惣四百人。己夘。勅大將軍大野朝臣東人等曰。朕縁有所意。今月之末。暫往關東。雖非其時。事不能已。將軍知之不須驚恠。壬午。行幸伊勢國。以知太政官事兼式部卿正二位鈴鹿王。兵部卿兼中衛大將正四位下藤原朝臣豊成爲留守。是日。到山邊郡竹谿村堀越頓宮。癸未。車駕到伊賀國名張郡。

十月五日に遣渤海使の大伴宿祢犬養(三中に併記)等が帰国している。九日に大将軍の大野朝臣東人等に詔を下して、八幡神(筑紫八幡社、天平九[737]年四月に記載)に祈請させている。

この日、「東人」等が次のように言上している・・・逆賊の藤原朝臣廣嗣等が一万騎ほどの衆を率いて板櫃河(板櫃鎮の傍らを流れる河、現在の祓川の上流域、こちら参照)に到着した。「廣嗣」は自ら隼人軍を率いて先鋒となり、直ぐに木を組合わせて船とし、河を渡ろうとした。その時官軍の佐伯宿祢常人(豐人に併記)安倍朝臣虫麻呂(阿倍朝臣虫麻呂)とは弩(石弓)を打ち放ってこれを射たので、「廣嗣」の衆は退いて河の西に引き上げた。直ぐに官軍の隼人達に[反逆人の「廣嗣」に随って官軍に叛き抵抗すれば、ただその身を滅ぼすだけでなく、罪は妻子や親族に及ぶぞ]と呼び掛けさせた。そのため「廣嗣」に率いられた軍人や兵達は、強いて箭を射ようとはしなかった・・・(続)。

・・・この時、「常人」等は「廣嗣」に十回も呼び掛けたが、応答はなかった。やや時を経て「廣嗣」が馬に乗って出て来て、[勅使がやって来たと承ったが、その勅使とは一体誰であるか]と言った。「常人」達は[勅使は衛門督の佐伯大夫と式部少輔の安倍大夫である。今、この場に居る者だ]と答えた。「廣嗣」は[今初めて勅使であることを知った]と言って、すぐさま下馬し、二回ずつ二度礼拝し、[朝廷の命令を拒むつもりはない。ただ朝廷を乱している人物二人を退けることを請うだけである。なおも朝廷の命を拒めば、天地の神々が罰して殺すであろう]と言った・・・(続)。

・・・「常人」等は[勅符を下賜するために、大宰府の典(四等官)以上を召喚したのに、兵を発して押し寄せて来たのはどういうわけか]と言ったところ、「廣嗣」は答弁することができず、馬に乗って却き還って行った。その時、三人の隼人が直ぐに河を泳いで来て、降伏した。朝廷から派遣された隼人が援護したので、こちら側に泳ぎ着くことができた。そこで降伏する隼人二十人と、「廣嗣」に従った衆の十騎ばかりが帰順した。捕獲した武器の類は別に述べる・・・(続)。

・・・また、降伏して来た隼人の「贈唹君多理志佐」が[逆賊の「廣嗣」は謀をめぐらして<兵を三つの道に分けて往かせよう>と言って、「廣嗣」自身は大隅・薩摩・筑前・豊後などの國の軍、合わせて五千ばかりを率いて「鞍手道」より進み、綱手(藤原朝臣綱手、廣嗣の弟)は筑後・肥前(記紀・續紀を通じて初登場、後に詳細を述べる)などの國の軍、合わせて五千ばかりを率いて「豊後國」より進み、「多胡古麻呂」は「田河道」より進もうとしている<軍勢は不詳>。ただ「廣嗣」の軍勢は鎮所に攻め寄せて来たが、「綱手」や「古麻呂」はまだ到着していない。]と述べた・・・。

十五日に遣新羅使の紀朝臣必登等が帰京している。十九日に伊勢國の行宮を造る司を任じている。二十三日に行幸の次第司を任じている。塩燒王を御前長官、石川王(長皇子の子)を御後長官、藤原朝臣仲麻呂を前衛の騎兵大将、紀朝臣麻路(古麻呂に併記)を後衛の騎兵大将に任じ、騎兵・東西史部・秦忌寸等全てで四百人を徴発している。

二十六日に大将軍の「東人」等に次のように勅を下している・・・朕は思うところがあるので、今月の末より暫くの間、関東(三關の東方)に往こうと思う。行幸に適した時期ではないが、事態が重大で止むを得ない。将軍等はこの事を知っても驚いたり怪しんだりしないようにせよ・・・。

二十九日に伊勢國へ行幸されている。知太政官事兼式部卿の鈴鹿王と兵部卿兼中衛大将の藤原朝臣豊成とを留守官に任じている。この日は「山邊郡竹谿村」の「堀越」の頓宿(頓宮?)に到着している。三十日に「伊賀國名張郡」に到着している。

<贈唹君多理志佐>
● 贈唹君多理志佐

元明天皇紀に日向國を四つに割いて、建てた郡に贈於郡が記載されていた。原字は口偏のある「唹」であることも確認されていた。

その背景から、現地名の遠賀郡岡垣町の高倉神社周辺の地が出自の人物と思われる。勿論、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が兄の五瀬命と共に東へと旅立った跡地であろう。

”古事記風”の名称である故に一文字一文字を紐解いてみよう。全て頻出の多=山稜の端理=王+里=切り分けられた様志=之+心=蛇行する川佐=人+左=谷間にある左手のように山稜が延びている様である。

これらの地形要素を満たす場所を図に示した。古事記の高千穂宮の西側に山稜の端、おそらく左手の先辺りが居処だったのであろう。図には示してはいないが、「五瀬命」の出自の場所に近接するところと思われる。後に外従五位下に叙爵され、その時の名前は曽乃君多利志佐と表記されている。郡名に基づくのではなく、居処の地形を表していることが解る。

鞍手道・豊後國・田河道

<鞍手道・豊後國・田河道>

投降した「贈唹君多理志佐」が述べた「廣嗣」の戦法は、決戦場である「板櫃河」へ三方向から押し寄せる手筈であったと記載されている。「廣嗣」は鞍手道から、「綱手」は豊後國から、そして「多胡古麻呂」が田河道からであったようである。

鞍手道の「鞍」=「革+安(宀+女)」=「山稜に囲まれて嫋やかに延びている谷間に牛の角ような地がある様」と解釈される。「手」=「山稜が手のように延びている様」とすると、鞍手=山稜に囲まれて嫋やかに延びている谷間に手のように延びた山稜の先が牛の角ようになっている地があるところと読み解ける。

山背國葛野郡秦忌寸牛麻呂一族(朝元等が登場)の出自の場所、現地名は田川郡赤村赤の岡本辺りである。この地の周辺は、古事記の大山咋神が坐した葛野之松尾と推定した場所であり、正に太古の時代から人々行き交うところであったと思われる。

そして、この谷間を抜けて天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった三枝部造の地に辿り着く。現地名は京都郡みやこ町犀川喜多良である。後の天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)の子に三枝部穴太部王(亦名須賣伊呂杼)で再度登場する地を経て、前記で示した豐前國遠珂郡に至る道であることが解る。

「廣嗣」は、この地の郡家で軍営を造り、兵を募り、「板櫃鎮」がある川辺へと向かったのであろう。豐前國を横切る経路であり、裏切った一部の連中によって仲間が殺され、おそらく形勢不利の状況であることを認識していたと思われる。

田河道の「河」=「氵+可」=「水辺で谷間の出口となっている様」と解釈される。田河=田が水辺で谷間の出口で広がっているところと読み解ける。これだけの地形象形表現では、多くの候補地があって、一に特定することは叶わない。下記にこの道から駆け付ける筈であった「多胡古麻呂」の出自の場所が重要となって来る。詳細は下記することにして、この人物は上野國多胡郡(現地名は築上郡上毛町上唐原)を出自に持つと推定した。

その地を出立するならば、「田河道」は「板櫃河」の東側の谷間から進出する道を示していると推察される。すると現地名の築上郡築上町伝法寺辺りから山越えで辿り着ける経路であったと思われる。結局、豊後國経由の「綱手」も決戦には間に合わなかったようであるが、「板櫃鎮」を三方から進攻する作戦は、図に示した道筋を想定したのではなかろうか。

<多胡古麻呂>
● 多胡古麻呂

元明天皇紀の和銅四(711)年四月の記事に「割上野國甘良郡織裳。韓級。矢田。大家。緑野郡武美。片岡郡山等六郷。別置多胡郡」と記載されていた。

この上野國は、下野國の北側にあった上野國ではなく(現地名北九州市門司区吉志)、上毛野朝臣及び佐味朝臣一族の南側に位置するところと推定した。現地名は築上郡上毛町上唐原辺りである。

その新しく設けられた郡名を受け継いだ名前と思われる。上記の「贈唹君多理志佐」と同様に、元を質せばそれなりの由緒を有するのだが、中央からは忘れ去られた状況に、何らかの不満を蓄積していたのではなかろうか。野心は暴挙を生じる一因である。

「綱手」と同じく、幾つも山稜を越えて進まなければならない経路であったと思われる。板櫃河への到着が遅れても不思議はなかったであろう。と言うか、端から「廣嗣」の戦略には無謀な欠陥があった、と續紀は述べているようである。

<山邊郡竹谿村堀越>
山邊郡竹谿村:堀越頓宮

いよいよ「關東」への行幸が始まった。先ずは伊勢國を目指した、その一日目の宿が堀越頓宮であったと記載している。國名が冠されない山邊郡は、大倭國にあった一郡であり、車駕の一日の走行距離およそ20km以下として求めてみよう。

また、天武天皇が吉野脱出して伊勢神宮を望拝し、美濃國へと向かった行程、その後の持統天皇の伊勢行幸で記載された行程を今回も用いたのであろう。

興味深いのが、それぞれ経由する地(頓宮)が異なり、それらの名称が示す地形が同一行程上に存在することが求められる。今回もそれが試されているのである。

竹谿村竹谿=竹のように真っ直ぐ延びた山稜の傍らにある渓谷と解釈すると、図に示した場所が見出せる。現地名は北九州市小倉南区木下辺りである。頓宮の場所である「堀越」は、見慣れた文字列であるが、記紀を通じて初登場である。「堀」=「土+屈」と分解され、主な意味は「穴」と解説される。「ほり」と訓する意味は和風である。

既出の「越」=「走+戉」=「山稜の端が鉞のような形をしている様」と解釈した。纏めると堀越=谷間から鉞のような端がある山稜が延び出ているところと読み解ける。図に示した場所、天武天皇一行が吉野の山から下って津振川(現在の東谷川)を渡渉し、菟田吾城で休息した行程上にある地と推定される(こちら参照)。

<伊賀國名張郡・安保頓宮>
伊賀國名張郡・安保頓宮

「堀越頓宮」を発って、長い谷間を北上する。一時は”東谷村”と呼称された地域である。ここを一気に駆け抜けて伊賀國に至っている。

「名張」の名称は、書紀の天武天皇紀に登場している。その場所を”東谷村”の最南部、現在の小倉南区呼野辺りと推定した(こちら参照)。

勿論、「名張」は固有の名称ではなく、その地形に基づく表記であろう。名張=山稜の端の三角州が広がり出たところと解釈した。伊賀國名張郡は、図に示した場所と推定される。既に多くの登場人物が出自とする地でもある(天智天皇の水主皇女など)。

谷間を抜けて横河を渡渉して至る、この地には郡家もあり、今回の行幸に備えて頓宮を造営する必要もなかったのであろう。記述は簡明である。天武天皇の逃亡時には、その駅家を焼き払って、情報伝達網を寸断する手を打っていた。

次の経由地である伊賀郡安保頓宮に向かっている。十一月一日に到着したのだが、悪路で難儀したと付記されている。安=宀+女=山稜に囲まれて谷間が嫋やかに曲がって延びている様保=人+呆=谷間に山稜の端が丸く小高くなっている様と解釈した。その地形を持つ場所が図に示したところに見出せる。

書紀で、天武天皇は名張郡(当時は伊賀郡と表記)から莿萩野積殖山口、伊勢鈴鹿を経て三重郡へと向かったと記載されていた(こちら参照)。要するに伊賀の中心地(大友皇子の出自の地)を避けるように脇をすり抜けたのであった。今回は、迂回することなく伊賀國を縦断したようである。