2021年1月24日日曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(15) 〔486〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(15)


大寶二年(即位六年、西暦702年)十一月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちら(巻二)を参照。

十一月丙子。行至尾張國。尾治連若子麻呂。牛麻呂。賜姓宿祢。國守從五位下多治比眞人水守封一十戸。庚辰。行至美濃國。授不破郡大領宮勝木實外從五位下。國守從五位上石河朝臣子老封一十戸。乙酉。行至伊勢國。國守從五位上佐伯宿祢石湯賜封一十戸。丁亥。至伊賀國。行所經過尾張。美濃。伊勢。伊賀等國郡司及百姓。叙位賜祿各有差。戊子。車駕至自參河。免從駕騎士調。

十一月十三日に尾張國に到着している。前記で十月十日に參河國に行幸されたと記載されていた。およそ一ヶ月の滞在だったようである。「尾治連若子麻呂・牛麻呂」に宿禰姓を授けている(本段に登場の國はこちらを参照)。どうやら行幸の「往」の記述ではなく、「復」の道すがらの仔細を記述しているようである。

書紀の天武天皇紀に記述された五十氏(尾張連を含む)には「尾治連」は含まれていなかった。「治(ハリ)」と訓することができるが、やはり文字が異なれば、「尾張」の中心地ではないように思われる(下記詳述)。併せて國守の「多治比眞人水守」に封十戸を与えている。この人物は、「丹比眞人嶋」の次男、「池守」の弟に当たる(こちら参照)。

十七日に美濃國に到着している。不破郡大領の「宮勝木實」に外從五位下を授けている。併せて國守の「石河朝臣子老」に封十戸を与えている。『壬申の乱』における好意に報いた行幸であったようである。初戦での不破道の封鎖は大きな成果と描かれていた。士気を挙げるためにも効果大の出来事であったと思われる。ここでも上記の「丹比」→「多治比」と同じく、「石川」→「石河」であり、古事記表記を採用している。

二十二日に伊勢國に到着している。國守の「佐伯宿祢石湯」に封十戸を与えている。二十四日、伊賀國に至っている。行幸中に立ち寄った美濃國・伊勢國・伊賀國等の國郡司及び百姓にそれぞれ位階・禄を与えている。二十五日に車駕が參河國から帰着したと記している。従った騎士の調を免じている。伊賀國に至った翌日に帰京している。各國の配置はこちら参照。

車駕至自參河」の表現は微妙である。本来なら車駕至自伊賀」であろう。何故?…その行程の所要時間が合わないからである。勿論、奈良大和が舞台として読ませるために直截的な記述を避けたのであるが、当時はともかく、地図がある現在では全く辻褄が合わない結果となっている。行幸行程については下記で述べることにする。

<尾治連若子麻呂・牛麻呂>
● 尾治連若子麻呂・牛麻呂

「尾治連」に含まれる「治」=「氵
+台」と分解して、治=水際にある耜のような様と読み解いて来た。確かに「尾張」と同じ訓となるが、この「治」が示す地形が重要なのである。

すると山稜の端が「耜」の地形を持つ場所が尾張國の西部に見出せる。現地名は北九州市小倉南区横代東町辺り、当時は海に突き出た山稜である。

古事記では神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が東方に向かって船出をして最初に敵と応戦した青雲之白肩津の近隣の場所である。

若子麻呂若=叒+囗=腕のように延びた多くの山稜寄り集まっている様と読み解いて来た。子=生え出た様であり、図に示した山稜を示していると思われる。その東側の山稜は、牛の角のように岐れていることが解る。牛麻呂の出自の場所と推定される。

上記したように「國守」の名前を「多治比眞人水守」と記載している。「丹比」の表記を用いなかったのは、「治」の文字が表す地形を示唆する記述であることが解る。續紀の編者からすると容易い別表記と言えるであろう。古事記の「青雲之白肩津」(楯津、日下之蓼津)の記述では古事記編者が思い切り戯れた表記を行っている。それにあやかったのかもしれない。

<不破郡大領:宮勝木實>
● 破郡大領:宮勝木實

勿論壬申の乱のランドマークである「不破」であるが、「大領」が居たと記している。既出の惣領と同じく、立派な地形象形表記、それを兼ねていると思われる。

宮=宀+呂=山稜に挟まれた地で積み重なった様勝=朕+力=盛り上がった様と読み解いて来た。すると不破郡と片縣郡の間の谷間にある地形を表していると思われる(こちら参照)。

現在は広い宅地に開発されており、地表の状態を求めることは叶わないが、元の姿を推し測ることができそうである。

領=令+頁=四角く平らな地を寄せ集めた様と解釈した。図に示したように山稜の端の平たくなったところ()の麓に並んでいると見做したのであろう。その中で一際小高くなった場所を宮勝と名付けたと推定される。木實=山稜が実のような様と解釈される。

<佐伯宿禰石湯-太麻呂-果安・百足>
● 佐伯宿祢石湯・百足

調べると佐伯連麻呂の子であることが判った。狭い谷間を大伴連と分け合うにもそろそろ限界かもしれないが、それらしき場所が見出せるようである。

「麻呂」の南側の深く切れ込んだ谷間の麓辺りと思われる。幾度も登場の湯=水が飛び散って流れる様であり、温泉が出るところではない。

残念ながら現在の地図上で川の存在は確認されないが、北側の「大目」の地形との類似性から当時は存在していたものと推測される。「石」は、その谷間の出口辺りが平らに広がっている様を表していると思われる。

また長男が太麻呂、弟が果安と知られ、後に登場する。太=大きく広がった様果安=丸く小高い地の傍らにある谷間が嫋やかに曲がっている様と読み解ける。既に蘇我果安臣などに含まれていた文字である。彼らの出自は、少々混み入っているが、図に示した場所と推定される。

少し後に百足が登場する。こちらは廣足の子と知られている。些か地図が見辛くなっているが、父親の南側の山麓ではなかろうか。上図に併せて記載した。

<參河國行幸>
參河國行幸

太上天皇(持統天皇)の『壬申の乱』に関わる行幸は、度重なる吉野宮は別として、持統天皇即位六年(西暦692年)三月の伊勢・志摩・伊賀即位九年(西暦695年)十月に菟田吉隱への記事があった。

前者は約二週間程度、後者は一泊二日の日程であった。後者の行幸目的は記述されず、土地の者への施しもなく、不明なことが多いが、この地への所要時間は一日以内であったことは確かである。

また前者は、「志摩國」が記載され、『壬申の乱』における鈴鹿郡・三重郡以降のルートが異なって、伊勢神宮方面に向かっていることが解る。即ち朝明郡には足を踏み入れていないのである。おそらく当時に朝日が差す中で迹太川の畔で望拝した天照大神(伊勢神宮)を訪れることが目的のように思われる。

太上天皇としては、どうしても乱における残りの部分を埋め合わせたかったのであろう。これが參河國から帰京しながらの行幸だったと推測される。さて、今回は如何なることになるのであろうか?…『壬申の乱』の戦闘図を再掲した(見やすくなったかどうかは不確かだが、背景を陰影起伏図とした)。

參河國は、現在の企救半島の付け根辺りであり、今回も何の説明もなく登場することからも往路は船路であったと推測される。そしてこの國におよそ一ヶ月滞在したと記述しているのである。乱には、勿論登場しない國であり、関連する人物も見当たらない。正に謎めいた記述と言える。

戦闘図は重要な意味、即ち配置を示していることが分る。參河國と筑紫大宰(図❼)とは、直線距離で約1.5km、船は係留したままで後は陸路で済まされるのである。そして、參河守(許勢朝臣祖父は遣唐使として出航済み)の不在の場所よりも筑紫大宰(この時は石上朝臣麻呂)の地に滞在したのではなかろうか。乱の時の大宰は栗隈王であり、二人の息子も加えた大友皇子の使者への対応がなければ、謀反人として処罰されていた、かもしれなかったのである。

太上天皇としては、前半戦、最大の山場を見逃すわけには行かなかったであろう。「伊勢桑名」での不安な雰囲気を思い起こされていたのかもしれない。当然の流れであるが、續紀編者してみれば、「筑紫行幸」とは、流石に記載するわけにはいかなかったと思われる。故に、曖昧な記述となってしまったわけである。

後は「尾治連」やら「不破郡大領」を登場させて、太上天皇が「桑名郡」でじっと耐えていた時の戦いの場所を漸く目の当たりにすることができたようである。既に多くの褒賞を与えた者以外の人物を描くとは、気配りがあったと言うことかもしれない。また、最後の「伊賀國」から帰京まで一日で済ませている。「菟田吉隱」から一日足らずの表記と矛盾しない記述であろう。

十二月甲午。勅曰。九月九日。十二月三日。先帝忌日也。諸司當是日宜爲廢務焉。戊戌。星晝見。壬寅。始開美濃國岐蘇山道。乙巳。太上天皇不豫。大赦天下。度一百人出家。令四畿内講金光明經。甲寅。太上天皇崩。遺詔。勿素服擧哀。内外文武官釐務如常。喪葬之事務從儉約。乙夘。以二品穗積親王。從四位上犬上王。正五位下路眞人大人。從五位下佐伯宿祢百足。黄文連本實。爲作殯宮司。三品刑部親王。從四位下廣瀬王。從五位上引田朝臣宿奈麻呂。從五位下民忌寸比良夫爲造大殿垣司。丁巳。設齋於四大寺。辛酉。殯于西殿。壬戌。廢大祓。但東西文部解除如常。

十二月二日に九月九日と十二月三日は先帝の忌日に当たる故に諸司は職務を止めよと命じられている。六日、金星が昼間に見えたと述べている。十日に初めて美濃國の「岐蘇山道」を開通させている。十三日に太上天皇の病気が重くなったので天下にに大赦し、百人に出家させて四畿内で金光明経を講じさせている。二十二日、崩御され、文武官は常の如くに務め、葬儀は倹約しろと遺言されたそうである。

二十三日に穗積親王・「犬上王」・路眞人大人・佐伯宿祢百足(上図に併記)・黄文連本實を殯宮造営の司とし、刑部親王廣瀬王引田朝臣宿奈麻呂・「民忌寸比良夫」を大殿垣を造る司としている。二十五日、四大寺で設齋を執り行っている。二十九日に西殿の殯宮に安置している。三十日の大祓を中止したが、東西の文部の厄除けの儀は常のように行ったと記している。

<美濃國:岐蘇山道>
美濃國:岐蘇山道

美濃國の木曽山道…と思わず読んでしまいそうだが、全く異なる表記である。素直に文字列を読み解いてみよう。頻出の岐=山+支=分岐する様蘇賀蘇=艸+魚+禾=魚の形の山稜と稲穂のような山稜が並んで延びている様と読み解いて来た。

図に示したように山稜が寄り集まる谷間を真っ二つに分ける山道を見出すことができる。不破郡と多伎郡の間から礪杵郡を通り尾根に向かう道と思われる。

何とも見事な配置であろう。勿論、これを国譲りした結果なのだから当然と、言える。”木曽路”の本貫の場所である。「不破」はそのまま、「多伎」は「多芸」と一時は言われ、「礪杵」は「土岐」に音を残している。

現在も尾根には林道貫山線、更に井手浦線が走っている。「菟田」に繋がる山中の道だったようである。初めて「岐蘇山道」が通じたと記載しているが、貫山・水晶山山塊を越えるようになるにはまだまだ多くの時間を要したのではなかろうか。

<民忌寸比良夫・袁志比・大梶
● 民忌寸比良夫

調べると父親が民直小鮪と知られているようである。そうなると民直の地に「比良夫」の地形を見出せるか否やになる。図に示したように思い煩うことなく出自の場所を求めることができたようである。

比良夫=くっ付いているなだらかな地が岐れて広がっていると解釈される。「比羅夫」など文字を変えながら多くの名前に用いられている。

後(元明天皇紀)に民忌寸袁志比が登場する。系譜は定かではないようだが、近隣に住まっていたと推測される。既出の文字列であって袁志比=ゆったりとした山稜の端(袁)で蛇行する川(志)が並んでいる(比)様と読み解ける。図に示した場所辺りと推定される。当時の彦山川が複数に分かれて流れていたと思われる。「民」一族だが、「德太」系列ではなかったのであろう。

更に後(聖武天皇紀)に民忌寸大梶(大楫とも記載される)が登場する。系譜は不詳のようであり、名前から出自の場所を探ってみよう。大=平らな頂の山稜として、「梶」=「木+尾」と分解される。更に「尾」=「尸+毛」とすると、梶=山稜が延びた地が鱗のような形をしている様と解釈される。併せて「楫」=「木+囗+耳」とすると、「耳」の形をしている場所が出自と推定される。

「民直(忌寸)」の地を檜隈の南側にあったと推定したが、近隣を含めても登場する地名・人名は殆ど見られることがなく、傍証することが叶わなかった。上図に示したように、その地に知られている五人の名前を当て嵌めることができたと思われる。倭漢一族として片付けられているようだが、彦山川を挟んで東西の配置であり、特異な存在の一族であったと推測される。

<犬上王>
● 犬上王

初見で従四位下を叙爵されているが、系譜不詳である。皇孫扱いなのだが、母親の出自に問題でもあったのかもしれない。

と言う訳で、名前が示す地形から出自の場所を求めてみよう。「犬上」は古事記の倭建命の子、稻依別王が祖となった犬上君に用いられている。

犬上=[犬]の文字形をした地の上にあるところと読み解いた。現地名は京都郡苅田町山口にある北谷・等覚寺辺りである。その地形を飛鳥近辺で探索すると、図に示した場所が見出せる。

持統天皇及び文武天皇の喪葬に関わったと記載され、最終正四位下・宮内卿であり、皇族の行事に関わった人物だったように伝えられている。

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『續日本紀』巻二巻尾。