2021年1月20日水曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(14) 〔485〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(14)


大寶二年(即位六年、西暦702年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

五月辛未。勅。若五世王自有辞訟須受理者。特給坐席而与所分。丁亥。勅從三位大伴宿祢安麻呂。正四位下粟田朝臣眞人。從四位上高向朝臣麻呂。從四位下下毛野朝臣古麻呂。小野朝臣毛野。令參議朝政。

五月五日、五世王が自ら訴訟を起こして、それを受理する場合は特別に座席を設けて裁定するようにしろ、と命じている。二十一日に大伴宿祢安麻呂粟田朝臣眞人高向朝臣麻呂下毛野朝臣古麻呂小野朝臣毛野に朝廷の政治に参画させている。

六月壬寅。復大倭國吉野宇知二郡百姓。癸夘上野國疫。給藥救之。庚申。以從三位大伴宿祢安麻呂爲兵部卿。甲子。震海犬養門。乙丑。遣唐使等去年從筑紫而入海。風浪暴險不得渡海。至是乃發。

六月六日、大倭國の吉野郡宇知郡の百姓の租税を免じている。大倭國の範囲がどんどん広がって、畿内と重なるような感じになって来ているが、意識的な記述なのであろう。

<宇閉直弓・白海石榴>
吉野郡かつての吉野國巢の場所として、宇知郡は、天武天皇紀の「宇閉直弓」が「白海石榴」を献上したと言う記述に関連する場所と思われる(図を再掲)。

「宇が閉じる」の知=鏃の形を用いた名称と思われる。確かに吉野の「首」に当たる場所ではあるが、地形的には「宇」であろう。「記紀・續紀」を通じて確度の高い比定場所となったようである。

七日に上野國で疫病が流行り、薬を与えて救ったと記載している。二十四日、大伴宿祢安麻呂を兵部卿に任命している。

二十八日に「海犬養門」が震えたようである(「海犬養」はこちら参照)。その門のような谷間の入り口付近に落雷があって震えたのではなかろうか。

二十九日に延び延びになっていた遣唐使が漸く出航することができたと述べている。大寶元年一月の記事に記載されていた(遣唐執節使としての粟田朝臣眞人から山於億良までの計九名)。

秋七月己巳。有勅斷親王乗馬入宮門。癸酉。詔。伊勢太神宮封物者。是神御之物。宜准供神事。勿令濫穢。又在山背國乙訓郡火雷神。毎旱祈雨。頻有徴驗。宜入大幣及月次幣例。乙亥。詔。令内外文武官讀習新令。」美濃國大野郡人神人大獻八蹄馬。給稻一千束。丙子。天皇幸吉野離宮。乙未。始講律。是日。赦天下罪人。

七月四日に親王が乗馬して宮門に入ることを禁じている。八日、伊勢太神宮の封物は神の御品である故濫りに穢すことを禁じる。また「山背國乙訓郡」の「火雷神」は旱魃の折に霊験あらたかである故、大幣と月次の帛を奉るようにせよ、と命じられている。

十日に内外の文武官に新令を習わせている。また「美濃國大野郡」の人、「神人大」が「八蹄馬」を献上し、稲一千束を与えている。十一日に天皇は吉野離宮に行幸。三十日、初めて大寶律を講義している。同日、恩赦している。

<山背國乙訓郡・火雷神>
山背國乙訓郡・火雷神

山背國に「乙訓」の文字列が示す地形を見出すことができるのであろうか?…直感的には文字の意味ではなく文字形そのものを地形象形に用いているように思われる。

またその地にあった「火雷」の地形も重要な情報を提供していると思われる。「雷」の古字体、「靁」=「雨+畾」と分解される。「畾」=「丸いものが多く寄り集まった様」を表すと解説される。「鬼」にも含まれる「田」の文字要素である。

これで思い出されるのが、天武天皇紀に登場した坂田公雷である。御所ヶ岳山系南麓の山稜が示す形を「雷」と見做したと解釈した。この「雷」を含む地をよく見ると、広い谷間が「乙」の形になっていることが解る。「訓」=「言+川」に分解できる。

纏めると乙訓郡=[乙]の形になった耕地(言)の傍らを川が流れている郡と読み解ける。火雷神=丸く小高いところ(畾)から垂れる(雨)山稜が炎(火)のように延びた先の高台(神)と紐解ける。おそらく社は図に示した場所にあったのではなかろうか。

国譲りされた現在も、実に絶妙な配置になっている(近江・葛野・山科・乙訓)。と言うことは、主たる各地の名称は国譲り後に付けられたのではなく、それ以前にあったと推測される。「〇前・〇中・〇後」の配置も全く同様の状況を示唆していると思われる。

<美濃國多伎郡・大野郡>
美濃國大野郡:八蹄馬

美濃國多伎郡に併記した図を再掲する。前記で登場した飛騨國神馬のような大騒ぎはないのだが、やはり開拓した地を献上したものと推測される。

「蹄」が八つもある馬は、珍しい「瑞」と解釈するのも勝手であるが、やはり絵空事となってしまうようであろう。折角の地形情報を見失ってしまうことになる。

「蹄」=「足+帝」と分解される。地形象形で解釈するなら「山稜が長く延びた端で締め括られた様」と読み解ける。

八蹄馬=谷間で山稜が長く延びた端で締め括られた馬のようなところと読み解ける。残念ながら現在は広い団地になっているようで全体の地形を伺うことは叶わないが、主要な地形要素を知ることができそうである。

この「馬」の先は周防灘の海となっていたと推測される。正に入江に突き出た岬である。それを「蹄」で表記したと解釈される。開拓者、神人大=延びる高台(神)にある谷間(人)で平らな頂の麓(大)を示すと読み解ける。図に示した須佐神社の小高い地の麓に住まっていたのではなかろうか。

八月丙申朔。薩摩多褹。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉。」授出雲狛從五位下。己亥。以正五位上高橋朝臣笠間。爲造大安寺司。庚子。駿河下総二國大風。壊百姓廬舍。損禾稼。癸夘。震倭建命墓。遣使祭之。戊申。有勅。五衛府使部始准兵衛給祿。辛亥。以正三位石上朝臣麻呂爲大宰師。癸亥。勅伊勢太神宮服料用神戸調。

八月一日、「薩摩多褹」は変化(倭國化)を遠ざけ命令に逆らっている。故に兵を送って征討し、戸を調べ、官吏を置いたと記載している。同日、「出雲狛」に從五位下を授けている。『壬申の乱』(出雲臣狛)で具体的な活躍が記載されていたが、遅まきながら?・・・少し後に「臣」姓を授けたと記載される。書紀の記述は後の冠位で表記したのであろう。この時点では無姓だったようである。「出雲」に神経を尖らせるのには変わりはないようである。

四日に高橋朝臣笠間を「大安寺」築造の司に任命している。五日、駿河國・下総國に大風が吹いて、百姓の家が壊れ、稲に損害が出ている。即位二年(西暦698年)九月にも大風の記事があったが、南方からの風が吹き堪る地形によるのかもしれない。八日に倭建命の墓(古事記:白鳥御陵)に落雷があって、使者に鎮祭させている。

十三日、初めて五衛府使部にも兵衛に準じて禄を与えている。十六日に石上朝臣麻呂(物部連麻呂)を大宰帥に任命している。二十八日、伊勢太神宮の衣服料に神戸の調を用いることを命じている。

<薩摩多褹>
薩摩多褹

多褹は、書紀で多禰と表記された島である。續紀は「多褹」に置換えている。ここでは、それに「薩摩」を付加して記述している。この文字列は、「摩」を「麻」とすると、書紀に薩麻之曲(耽羅國、現在の済州島東北の隅と推定)として登場していた。

また文武天皇紀では薩末(現在の福岡市南区)の表記も登場する。いずれにせよ固有の名称ではなく、地形を表すために用いられた表現である。既出の「薩」、「摩」と同様にして解釈できる。

纏めると、薩摩=二つに岐れて生え出た山稜が細切れになったようなところと読み解く。「多褹」は延びた山稜の端の地形であるが、その山稜に住まっていた人物を竺志惣領と記載していた。即ち、すんなり延びた山稜ではなく、途切れ途切れの地形を示す山稜と見做していたのである。薩摩多褹は、これらを併せた地域を示していると解釈される。

<大安寺・熊凝精舎・熊凝王>
大安寺

「大安」だけではとても特定することは叶わないが、調べると本寺の前身は廐戸皇子に関わる一寺、「熊凝精舎」と判った。

「熊」=「隅」、「凝」=「行き止まって寄り集まった様」とすると、山稜の端が途切れて小高く盛り上がった様を表していると思われる。

大安=平らな頂の麓で谷間が嫋やかに曲がっている様である。これらの地形要素を満たす場所を、容易に求めることができる。書紀の天武天皇紀に倉梯と名付けられた山稜の先端部の地形を表していると思われる。

後(續紀の元明天皇紀)に熊凝王が登場する。出自の詳細は不明のようであるが、おそらくこの大安寺付近に住まっていたのではなかろうか。関連する主要な名称を併記したが、藤原宮(新益京)、後には平城京へと都の中心が西に遷って行く中で、必要な大寺だったのであろう。

九月乙丑朔。日有蝕之。戊寅。制。諸司告朔文者。主典以上送弁官。惣納中務省。」討薩摩隼人軍士。授勲各有差。辛巳。駿河。伊豆。下総。備中。阿波五國飢。遣使存恤。癸未。遣使於伊賀。伊勢。美濃。尾張。三河五國。營造行宮。乙酉。從五位下出雲狛賜臣姓。丁亥。大赦天下。己丑。詔。甲子年定氏上時。所不載氏今被賜姓者。自伊美吉以上。並悉令申。

九月一日に日蝕があったようである。十四日、諸司の告朔の文書は、主典以上は弁官に送り、弁官が纏めて中務省に納めるようにせよ、と命じられている。同日、「薩摩隼人」(上記<薩摩多褹・隼人>を参照)を討伐した軍士に、それそれ勲位を授けている。十七日、駿河國伊豆國(嶋)・下総國備中國阿波國(粟國)の五國が飢饉が発生している。使者を遣わして「存恤」(慰問し恵むこと)している。これらの國の地形を考えると台風による風水害の影響だったのかもしれない。

十九日に使者を遣わして、「伊賀國・伊勢國・美濃國・尾張國・三河國」の五國に行宮を造らせている(各國の配置はこちらを参照)。二十一日に「出雲狛」に臣姓を授けている。二十三日、天下に大赦。二十五日に甲子の年の氏上を定める時に不記載であって現在姓を授かっている者で、「伊美吉」(忌寸)以上は全て申し出るように、と命じられている。

冬十月乙未朔。從四位下路眞人登美卒。丁酉。先是。征薩摩隼人時。祷祈大宰所部神九處。實頼神威遂平荒賊。爰奉幣帛以賽其祷焉。」唱更國司等〈今薩摩國也。〉言。於國内要害之地。建柵置戍守之。許焉。」鎭祭諸神。爲將幸參河國也。甲辰。太上天皇幸參河國。令諸國無出今年田租。乙巳。近江國獻嘉禾。異畝同穗。戊申。頒下律令于天下諸國。乙夘。詔。上自曾祖。下至玄孫。奕世孝順者。擧戸給復。表旌門閭。以爲義家焉。

十月一日に路眞人登美(迹見)が亡くなっている。「登美」は古事記の表記(登美能那賀須泥毘古)が示す場所である。續紀の記述で古事記表記に還元された例を纏めると興味深い結果が得られるかもしてないが、後日としよう・・・。

三日に薩摩隼人の征伐に向かう際に前もって(筑紫)大宰が所管する地九ヶ所の神で祷祈している。これが荒賊を平らげるのに威力を発揮したようである。よって幣帛を奉納したと記載している。今は「薩摩國」となっているが、その國内の要害の地に柵を設置し、守衛を置くことにしたいとする國司の言上を認めている。この日、諸神を鎮祭しているが、參河國(三河國)へ行幸されるためである。

十日に太上天皇が參河國に行幸されている。関係する諸國の今年の田租は免除している。十一日に近江國が嘉禾を献上し、「異畝同穗」だったとか。十四日に律令を天下の諸國に頒布している。二十一日、曽祖父から玄孫に至るまで,累代孝行を尽くす一家には,その戸の税を免除し,家の門や里の入口に掲示し,「義家」とせよ、と命じている。

<近江國:嘉禾>
近江國:嘉禾(異畝同穗)

文武天皇即位二年(西暦698年)六月に近江國が白樊石を献上したと記載されていた。この地を近江國蒲生郡の山麓を開拓したと解釈した。現地名は京都郡苅田町尾倉・新津辺りである。

また書紀の天武天皇紀に縵造忍勝が嘉禾:異畝同頴を献上した記事があった。「異畝同頴」は「異畝同穗」とは類似の表記と思われる。即ち、類似の地形を表している。

図に示したように離れた尾根から延びる山稜が端でくっ付くようになっている様を示していると思われる。海辺の台地での水田稲作を可能にしたのであろう。現地名の新津は地形象形表記かもしれない。忘れるところであった・・・嘉=壴+加=鼓のような湾曲して盛り上がった様と読み解くと「異畝」の「禾」が綺麗な形をした鼓に向かって延びている様を示していることが解る。

近江國蒲生郡の地に百濟人やら美濃國多伎郡の人々を入植させて、急斜面の地の開拓が進展したのであろう。「記紀・續紀」は正に国土開発の史書なのである。