2021年1月16日土曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(13) 〔484〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(13)


大寶二年(即位六年、西暦702年)三月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

三月壬申。因幡。伯耆。隱伎三國。蝗損禾稼。乙亥。始頒度量于天下諸國。戊寅。正五位下中臣朝臣意美麻呂。從五位下忌部宿祢子首。從六位下中臣朝臣石木。忌部宿祢狛麻呂。正七位下菅生朝臣國桙。從七位下巫部宿祢博士。正八位上忌部宿祢名代。並進位一階。己夘。鎭大安殿大祓。天皇御新宮正殿齋戒。惣頒幣帛於畿内及七道諸社。

三月五日に因幡國(書紀の因播國)伯耆國隱伎國で蝗害が発生した模様である。「隱伎國」は古事記の隱伎之三子嶋と記載された島々と思われる。「菟」が住まう島と描かれていた。「記紀」を通じて漸く人…蝗も…の存在が確認されたようである。余談だが、蝗(イナゴ)に関して、Wikipediaには・・・、
 
日本での発生は稀なため、漢語の「蝗」に誤って「いなご」の訓があてられたが、水田などに生息するイナゴ類が蝗害を起こすことはない。
 
・・・と記載されている。蝗」はトノサマバッタ類とのこと。中国での発生の記録が多くあり、直接あるいは朝鮮半島経由で飛来したのかもしれない。疫病発生と関連しているように思われるが、定かではない。

八日に初めて度・量を諸國に頒布している。「度量」=「長さと容積」でその基準・測る器具などを含んでいるのではなかろうか。

十一日に中臣朝臣意美麻呂忌部宿祢子首・「中臣朝臣石木」・「忌部宿祢狛麻呂」・「菅生朝臣國桙」・「巫部宿祢博士」・「忌部宿祢名代」の各冠位を一階進めている。十ニ日、大安殿にて大祓を行い、天皇は新宮正殿で齋戒(身を浄めること)している。また畿内及び七道諸社に幣帛を頒布している。尚、「七道」ついては後に詳細を述べることにする(概略図はこちらを参照)。

<中臣朝臣石木>
● 中臣朝臣石木

「中臣朝臣」の一族なのだが、系譜など全く不詳のようである。更に氏名の「石木」が簡明が過ぎて、これも地形象形的にも困難な状況である。

石木=山麓の小高い地が木の形をしている様と読み解けるが、それを頼りに「中臣」の狭い谷間を散策すると、「中臣朝臣意美麻呂」の西側の山稜がそれらしき様相を示していると気付かされる。

若干「木」の形を認識するには地図の解像度不足の感があるが、丸まった地形ではないようである。この地は武天皇紀に宿禰姓を賜った「中臣酒人連」の出自の場所に近接する。この「連」の系譜など不明なところが多く、「石木」に共通するようである。「中臣朝臣意美麻呂」が中臣一族を代表する立場になって推挙されたのかもしれない。

<忌部宿禰狛麻呂・名代>
● 忌部宿祢狛麻呂・名代

調べると「忌部宿禰狛麻呂」は「子首」の子であり、「忌部宿禰名代」は「子首」の弟の色弗(色夫知)の子と判った。

『壬申の乱』では倭京陥落時に活躍し、日本書紀編纂に従事した功労者となり、中臣氏の隆盛で神事に関わる存在が薄れる中で気を吐いている人物のように伺える。

前記で推測したように、それらに加えて天武天皇一家が桑名(現地名北九州市小倉南区日の出町)に滞在した時に忌部一族がそれを支えたのではなかろうか。当時の大臣中臣金連への対抗意識も利用した桑名への逃亡であったように思われる。

狛=犬+白=平らな頂の山稜がくっ付いて並ぶ様と読み解いたが、「首」の北側にその地形を見出すことができる。名代=山稜の端の三角形の地が背後にある様と読み解ける。父親「色弗」の西側に当たる場所と推定される。

<菅生朝臣國桙>
● 菅生朝臣國桙

「菅生」の文字列は、「記紀」には登場しない。「朝臣」の姓とは言え「正七位下」であり、その系譜に高位の者がいなかったようでもある。いずれにせよ、登場のなかった地が出自であろう。

「菅」の文字も決して多くはなく、古事記に伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の菅原之御立野中陵及び穴穗命(安康天皇)の菅原之伏見岡陵に登場するぐらいである。

「菅」=「艸+官」と分解され、通常は「管のような草」即ち「茅」の形を表す文字と知られている。それを地形象形に用いて、管のような山稜が並んでいる(艸)様を示していると解釈される。

図に示したようにが太く広がった場所ではなく、西側の細く生え出たような地を菅生と表記していると思われる。「桙」=「木+牟」と分解される。木製の「鉾」を表すと解釈することもできるが、「牛」の古文字の形で囲われた地形と見做すこともできそうである。國桙=大地が矛のような様と読み解ける。

「菅生」一族は、天兒屋命が遠祖であり、「中臣」一族とは同根と知られる。神事に関わる氏族だったようで、今回の昇進に加えられたのではなかろうか。尚、この後にも多くの人物が登場するようになったようである。

<巫部宿禰博士>
● 巫部宿禰博士

天武天皇紀に「宿禰」姓を賜った「連」の一覧の中で登場していた(こちら参照)。現地名の北九州市小倉南区志井の中心地辺りと推定した。

この地の人物も「記紀」で出現すことはなく、貴重な記述と思われる。博士=突き出た山稜(士)が四方に平らに広がっている(博)ところと読み解ける。

持統天皇紀に登場した文忌寸博士(勢)などの解釈と同様である。図に示した志井川が大きく蛇行するところの脇で広がった平らな場所が出自の場所と推定される。

『日本姓氏語源辞典』によると「巫部」は…福岡県北九州市小倉南区徳力に建立した神社で祈念した住民が古墳時代の雄略天皇の病が平癒して賜った名前と伝える。江戸時代に佐野姓で1940年頃に戸籍上の姓として称したとの伝もあり…と記載されている。

間違いなく残存地(人)名と思われる。と言うわけで「巫部」に関連する発言は、都合が悪く、少ないのであろう。名前の通り、神事に関わっていた一族と推測される。上記の「菅生」も含め、神事関連の埋もれた人材の掘起しを行ったように思われる。

甲申。令大倭國繕治二槻離宮。」分越中國四郡屬越後國。庚寅。美濃國多伎郡民七百十六口。遷于近江國蒲生郡。甲午。信濃國獻梓弓一千廿張。以充大宰府。丁酉。聽大宰府專銓擬所部國掾已下及郡司等。

三月十七日、大倭國に二槻離宮(兩槻宮:後飛鳥岡本宮)を修繕させている。また「越中國」の四つの郡を「越後國」に属するようにしたと記している。調べるとその四郡は「頸城郡・古志郡・魚沼郡・蒲原郡」のようである。転属の真意は憶測になるが、北方からの脅威に対応するためかもしれない。下記で「越中國」の有様と合わせて示すことにする。

二十三日に「美濃國多伎郡」の民七百十六人を「近江國蒲生郡」に遷している。これもどんな背景なのかは定かではないが、かつて天智天皇紀に、百濟百姓を一旦「近江國神前郡」に住まわせ、四年後に「蒲生郡」に転居させたと言う記述があった(こちら参照)。多分土地開発が順調に進展して人が住まう場所が確保されつつあったのであろう。また更に発展させるためにも移住の命を下したのではなかろうか。

二十七日に信濃國が弓千二十張を献上、従前通りに大宰府に充てている。三十日、大宰府が國司の「掾」(三等官)以下の者及び郡司を選考することを許可している。

<越中國四郡>
越中國四郡

「越後」は前出であり、越後蝦狄の名称で續紀に登場する。勿論「記紀」には見当たらない文字列である。

既に読み解いたように「越」=「高志」であり、その背後に位置する地名として用いられていると思われる。

本来ならば「後」に対して「前」の表記がなされるのであろうが、「越前」は既に別の場所で用いられている(こちら参照)。それ故に「越中」の表記にしたものと推察される。

上記したようにこの四郡は頸城郡古志郡魚沼郡蒲原郡と知られている。国譲りされて現在でも馴染みのある名称が並んでいる。先ずはこの郡の場所を求めてみよう。

「頸」=「首」とされるのでそれを用いて解釈するも良しだが、頸=坙+頁=頭部に真っ直ぐに突き通す様と読むこともできる。いずれにせよ、図に示したように首の付け根の地形を表していると思われる。城=土地を盛り上げて平らにした様であり、これらの地形要素を満たしていることが解る。

古志=丸く小高い地の傍らで川が蛇行している様であり、最も東側の場所を表していると思われる。「高志」の高=皺が寄ったような様であり、全体を捉えた表現となるが、「古」を用いればその場所が特定されることになる。実に適切なものであろう。

「魚沼」の「魚」は多くの例があったように山稜の端が細かく四つに分かれている様を示すと思われる。「沼」本来の意味は、沼=水+召=水辺が大きく曲がっている様であり、通常使われる「沼」とは異なることに気付くべきであろう。その地形を頸城郡の東隣に見出すことができる。蒲原郡蒲=艸+水+甫=水辺で平たく広がった様と読み解いた。更にその東隣の地が該当すると思われる。

四郡は越中國の北部に並んだ地域であることが解る。それらを背後の越後國に統合したと記載しているのである。越中國に残されたのは飛騨國との境までの一郡程度の広さになったようである。律令制定に伴って國・郡の整備も急速に進められていたように伺える。

同じような表記に備前・備中・備後があるが、既に読み解いたように吉備國が分割されたのではないことを述べた。「備」の地形の位置関係から名付けられたものと考察した。いずれにせよ、都に近い、遠いの表現ではないことは確かであろう。

また、四郡を受け入れた越後國の領域は、現在の北九州市門司区春日町の行政区分に重なっている。既に幾度か見られた現象であるが、古の”國境”を反映しているのではなかろうか。

<美濃國多伎郡・大野郡>
美濃國多伎郡

『壬申の乱』では重要な役割を果たした國であり、既に不破郡・片縣郡礪杵郡(昭和池の南側)そして安八磨郡が登場していた。これらに「多伎郡」が加わることになる。

常用の文字列、多伎=山稜の端の三角州が谷間で岐れた様と読み解ける。現在の地形図から容易に見出すことができる場所である。東朽網小学校周辺の地となろう。

当時はこの小学校の北側は海に面し、広大な入江となっていたと推測される。「乱」の際に先発隊が侵攻したのだが、捕らえられたり、逃げ帰ったりしたと記述された場所に当たる。多くの谷間に潜んだ敵に恐れをなした、と言うわけであろう(詳細はこちら参照)。

現在の地形とは大きくかけ離れて、耕作地は極めて少ない土地であったと思われる。おそらく「乱」の功績もあった人々を新たな開拓地に入植させたのではなかろうか。現地名の朽網=山稜が曲がって延び至った先が見えなくなる様と読むことができる。山稜の端が水没した地形、依網であったことを今に残していると思われる。

少し後に大野郡が登場する。「平らな頂がある野原」とすれば、多伎郡の北に接して海に突き出た山稜の端の地が見出せる。この地の人の献上物が記載されるが、詳細はその時に述べることにする。多伎郡は耕地を拡げるには、やはり地形的に無理があったのであろう。

夏四月庚子。禁祭賀茂神日。徒衆會集執仗騎射。唯當國之人不在禁限。乙巳。飛騨國獻神馬。大赦天下。唯盜人不在赦限。其國司目已上。出瑞郡大領者。進位各一階。賜祿有差。百姓賜復三年。獲瑞僧隆觀免罪人京。〈流僧幸甚之子也。〉又普賜親王以下畿内有位者物。免諸國今年田租。并減庸之半。丁未。從七位下秦忌寸廣庭獻杠谷樹八尋桙根遣使者奉于伊勢大神宮。庚戌。詔定諸國國造之氏。其名具國造記。壬子。令筑紫七國及越後國簡點采女兵衛貢之。但陸奥國勿貢。

四月三日に「賀茂祭」(場所はこちら参照)の時に武器を執り、騎射することを禁じているが、山背國の人はその限りではないと述べている。八日、飛騨國が「神馬」を献上している。それ故に天下に大赦し(盗人は除く)、國司の「目」以上の者、「瑞」を出した郡の大領の冠位を一階進めている。

更に百姓の賦役三年間の免除を与え、担当の「僧隆觀」(流罪となった僧幸甚の子)の入京を許している。また畿内の有位者に物を与え、諸國の今年の田租を免じ、庸を半減している。久々の大献上物だったようである。勿論、「馬」ではなかろう。

十日に「秦忌寸廣庭」が「杠谷樹八尋桙」(八尋もある柊の桙)に根が付いたような樹を使者を遣わして伊勢大神宮に奉納している。葛野秦造河勝の後裔と知られる。十三日、諸國の國造の氏を定め、その名が『國造記』に具わっている。十五日、「筑紫七國」及び越後國に、采女・兵衛を「簡點」(人選)し、貢進させているが、陸奥國からは除外している。

<飛騨國:神馬・僧隆觀>
飛騨國:神馬

「飛騨國」は、現在の北九州市門司区黒川西に当たると推定した場所である。さて、そこに神馬が放牧されているのであろうか?…神=示+申=山稜が畝って延びた高台の様と読み解いた。

馬=馬のように見える様であろう。すると飛騨國西側の麓で延びた山稜に目が止まる。山稜の端が一段小高くなっているところを頭部見立てたのであろう。

これまでにも土地開発の立役者の名前が記載された場合は、それが重要なヒントを示していた。僧隆觀の名前に潜められた情報は・・・隆=降+生=高く盛り上がった様を表す文字と知られる。「馬」の頭部を示しているようである。

前記で筑紫國の觀世音寺で用いられた觀=鳥のように見える山稜がある谷間と読み解いた。これらの地形要素を満たす場所が現在の不動院辺りに見出せる。即ち、「神馬」の北麓の谷間から東郷中学校に至る地を開拓したことを述べていると思われる。大盤振る舞いのような記述であるが、決してそうではなく、この「神馬」の献上は大きな成果であったことが伺える。

<秦忌寸廣庭-大魚・百足>
● 秦忌寸廣庭

「山背國」に蔓延った秦氏一族ではあるが、二系統、即ち現地名では京都郡みやこ町犀川大村辺りと田川郡赤村赤辺りを中心とする系列があったようである。

前者は秦大津父などが、後者は葛野秦造河勝が登場している。「葛野」と冠されたのにはそれなりにわけがあったと言うことになる。

地形的には犀川(現今川)が大きく曲がって流れることによって、彼らの統治域も些か飛地のような配置になったものと推察される。

調べると「廣庭」は後者の葛野系であり、秦忌寸石勝の子であることが判った。息子に秦忌寸大魚がいたとも記載されている。幾度か登場の廣庭=山麓で平らに広がった様と読み解いた。図に示したように犀川の川辺に近い場所と思われる。頻出の「魚」は、変わらず「灬」の象形であろう。

慶雲元年(西暦704年)正月の記事で秦忌寸百足が登場する。これも調べると「石勝」の子、「廣庭」とは兄弟と知られる。その東隣の山稜が百足の脚のように延びた場所を出自としていると思われる。実に”分かりやすい”一族であろう。

<筑紫七國>
筑紫七國

「筑紫七國」の表記は、「記紀」も含めて他には全く登場せず、実に曖昧なのであるが、書紀・續紀で登場する国々、筑前國・筑後國因幡國伯耆國隱伎國安藝國などを纏めて表現したものかもしれない。

では何故「筑紫」と冠したのか?…図に示すと右のような配置であることが解る。古事記の表現では「竺紫(日向)」であり、またその西側は「胸形」及び「阿岐」となる。

一方、書紀では「筑紫(日向)」と表記する。即ち、着目する山稜の形でそれに関わる地の名称としたと思われる。これが日向國の由来である。

更に續紀は西端の山稜に着目し、それを「筑」と見做して、その前後で筑前・筑後と名付けていると解釈した。これらの書紀において用いられた命名(方法)を引き継いで言い表したのが筑紫七國かと思われる。国史記述の一貫性を重んじた作業を行ったのではなかろうか。

ただ、既に述べたように古事記における地形象形表記の適切さも損なわないようにしているのが續紀と思われる。興味深いところではあるが、この辺で・・・通説、續紀にそれは存在しないのかもしれないが、古事記の筑紫嶋の「面四」の筑紫國・豐國・熊曾國・肥國の中で熊曾國以外を前後二つに分けて計七つにする解釈が見受けられる。「采女・兵衛」を供出させるには、少々漠然過ぎた地域のような気もするが、筑紫嶋を九州島とすると必然の結果なのであろう。