2021年1月12日火曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(12) 〔483〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(12)


大寶元年(即位五年、西暦701年)九月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

九月戊寅。遣使諸國。巡省産業。賑恤百姓。丁亥。天皇幸紀伊國。

冬十月丁未。車駕至武漏温泉。戊申。從官并國郡司等。進階并賜衣衾。及國内高年給稻各有差。勿收當年租調并正税利。唯武漏郡本利並免。曲赦罪人。戊午。車駕自紀伊至。己未。免從駕諸國騎士當年調庸及擔夫田租。

九月九日に諸國に使者を遣わして、産業を巡行視察させ、困っている百姓に物を贈っている。十八日、天皇は紀伊國に行幸している。

十月八日に一行は武漏温泉」に到着したと記している。九日、行幸に従った官人及び國司等階級を進め、衣服・寝具を、またその國の高齢者に稲を与えている。租調、納税を取り止めている。武漏郡については元利を免除し、罪人に恩赦を与えている。十九日に帰還されている。二十日、行幸に従った諸國の騎士の調庸を、また担ぎ手の田租を免じている。

<武漏郡・武漏温泉>
武漏郡・武漏温泉

紀伊國に行幸されて向かった先が「武漏温泉」となれば、天武天皇紀に記載された牟婁湯泉を示しているのであろう。

牟婁温湯(任那、韓国慶尚南道)、あるいは紀温湯(豊前市)の表記もあって、従来は錯綜とした解釈がなされている。と言うか、全て現在の和歌山県西牟婁郡白浜町辺りに比定されているようである。

天武天皇紀「紀伊國牟婁温(湯)泉」の表記は、そのものズバリで納得の比定と見做されて来たと思われる。更に今回の武漏温泉はダメ押しの文言のように受け取られているのであろう。

前置きはこれくらいにして、別名表記を読み解いてみよう。既出の文字である「武」=「戈+止」=「矛のような地が横たわっている様」、及び「漏」=「氵+屚」=「狭間から延び出る様」とすると、武漏=矛のような山稜の狭間から延び出ているところが見出せる。その傍らにある泉を表していると思われる。「牟婁」の別名として不足の無い表現であろう。

この地は、古事記の倭建命が「足柄之坂本」から「東國」に抜け、更に「甲斐」に向かったと推定した(こちら参照)。天皇一行は、紀伊國々懸神の近隣(前記の行宮)に上陸した後、倭建命とは逆行して「東國」から「武漏郡」へ入ったと推測される。天皇が行宮で待機している間に車駕が安全に通れる道にしつつ、従者たちは何度も往復して「武漏温泉」でのお迎えの準備を行ったものと思われる(水平距離約1.5km/標高差約70m)。

少し後に紀伊國賀陀に驛家を初めて設けたと記載される。賀陀=押し広げたような谷間が崖になっている様であり、それらしき地形が図に示した場所に見出せる。東山道のルート上の拠点としての役割が果たせる位置に設けられたのであろう。

十一月壬申。大赦天下。但盜人者不在赦限。老疾及僧尼賜物。各有差。丙子。始任造大幣司。以正五位下弥努王。從五位下引田朝臣爾閇爲長官。丁丑。令彈正臺巡察畿内。乙酉。太政官處分。承前有恩赦罪之日。例率罪人等。集於朝庭。自今以後。不得更然。赦令已降。令所司放之。

十一月四日に恩赦、但し盗人は除外している。老人・病人・僧尼に物を与えている。八日、初めて造大幣司(神祇用の大串につける布帛である大幣を製作する役)を任じている。長官は弥努王(三野王、栗隈王の子)と「引田朝臣爾閇」としている。九日に彈正臺(監察・治安維持などを主要な業務とする官庁)に畿内を巡察させている。十七日に太政官の取り決めで、恩赦された罪人を朝廷に集めて放免したが、今後は所司が担当することとしている。

<引田朝臣爾閇・祖父>
● 引田朝臣爾閇

「引田朝臣」については持統天皇紀に登場した引田朝臣廣目等の一族であろうが、系譜は定かではないようである。調べると父親が「阿倍魚主」と知られている。どうやら近隣ではあるが、少し離れた地に住まう一派の様子である。

「廣目」の北側、山稜が入組んだ谷間の奥に現在も大きな池があり、その畔にの鰭が四つ並んだ地形が見出せる。その一つが真っ直ぐに延びている様をで表現したと思われる。

その西側に爾=四角く広がった様の谷間があり、出口が閉じられたように見える()地が出自の場所と推定される。

少し後に引田朝臣祖父が登場する。同様に近隣で探すと、祖父=積み重なった高台が交差するような様と読み解けば、「魚主」の東隣の地と推定される。

この一族は引田朝臣から阿倍朝臣に改姓したとのことであるが、英雄阿倍引田臣比羅夫から始まる「引田」の系譜も元の鞘に納まって行ったのかもしれない。それにしても出雲東部の山岳地帯に蔓延った一族だったと思われる。

十二月戊申。賜諸王卿等帒樣。癸丑。制。五位以上婦不得著夫服色。但朝會之日聽著得色已下。乙丑。大伯内親王薨。天武天皇之皇女也。是年。夫人藤原氏誕皇子也。

十二月十日に諸王卿等に帒樣(小物入れ?)を与えている。十五日、制令で五位以上の夫人は夫の服色を着用してはならないが、朝会の日ではそれ以下の色なら許されるとしている。二十七日に天武天皇の皇女、大伯内親王が亡くなっている。この年、夫人藤原氏(藤原朝臣宮子娘)が皇子(首皇子:後の聖武天皇)を産んでいる。

<首皇子>
● 首皇子

後の聖武天皇の誕生であるが、紆余曲折があって即位はかなり遅くなったと伝えられている。詳細はその時点として、出自の場所を推し定めておこう。

重要なヒントは沙彌(修行中の僧)として「勝滿」と名乗っていたことである。そのまま読み解けば、勝滿=盛り上がった地が水辺で平らに広がり渡る様であろう。

前出の新益京の地形を表していると思われる。首=首の付け根のような様であり、その地で探すと、図に示した、少々小ぶりだが、それらしき窪んだ場所が見出せる。

現在にまで際どく残存した地形と思われる。藤原宮の近くに住まわせたのであろう。『壬申の乱』以降、一見穏やかに過ごせた時代から激動の時へ突き進んでいくことになるようである。

二年春正月己巳朔。天皇御大極殿受朝。親王及大納言已上始著礼服。諸王臣已下着朝服。丙子。造宮職獻杠谷樹長八尋。〈俗曰比比良木。〉戊寅。始置紀伊國賀陀驛家。癸未。宴群臣於西閣。奏五帝太平樂。極歡而罷。賜物有差。乙酉。以從三位大伴宿祢安麻呂爲式部卿。正五位下美努王爲左京大夫。正五位上布勢臣耳麻呂爲攝津大夫。從五位下當麻眞人橘爲齋宮頭。從四位上大神朝臣高市麻呂爲長門守。正六位上息長眞人子老。丹比間人宿祢足嶋並授從五位下。癸巳。詔以智淵法師爲僧正。善往法師爲大僧都。辨照法師爲少僧都。僧照法師爲律師。

大寶二年(即位六年、西暦702年)正月一日、天皇は大極殿で朝賀を受けられ、親王・大納言以上は初めて礼服を、諸王臣以下は朝服を着用している。八日に造宮職が長さ八尋の杠谷樹(比比良木:ヒイラギ)を献上している。十日、初めて「紀伊國賀陀」に驛家を設けている(上図<武漏郡・武漏温泉>参照)。十五日に西閣に於いて五帝太平樂(五常樂・太平樂とも、無礼講なのか?)を奏でて歓極まったと述べている。

十七日に大伴宿祢安麻呂を式部卿、美努王を左京大夫、布勢臣耳麻呂を攝津大夫(攝津國)、「當麻眞人橘」を齋宮頭(泊瀬齋宮)、大神朝臣高市麻呂(三輪君高市麻呂)を長門守(長門國)に任命している。また、息長眞人子老(持統天皇紀の息長眞人老)と「丹比間人宿祢足嶋」を從五位下に昇進させている。二十五日、智淵法師を僧正、善往法師を大僧都、辨照法師を少僧都、僧照法師を律師としている。

<當麻眞人橘>
● 當麻眞人橘

既に多くの人物が登場した「當麻公」の一族であろう。がしかし、詳しい系譜は調べた範囲では明らかとはならず、また續紀でも一度の登場で姿を消されるようである。

特徴的な名前である「橘」の地形を頼りに出自の場所を求めることにする。橘=多くの川が寄り集まっている様と読み解いたが、そんな地形は「當麻」に見出すことができるかが決め手である。

すると少し変形的ではあるが、彦山川川辺に程なく近い場所が出自の場所と思われる。

前出の當摩眞人智德の西側に当たる。決して大きくはない川が寄り集まっている場所であることが解る。福智山・鷹取山山麓から始まっていよいよ彦山川に辿り着いた様子であろう。

<丹比間人宿禰足嶋・丹比宿祢人足>
● 丹比間人宿禰足嶋

「丹比間人」は「丹比」の地に住まう一族なのであろうが、頻出の「丹比公(眞人)」とは異なる系列であろう。「間人」は既出の表記なのであるが、固有の地名ではない。要するに「丹比」の地で「間人」の地形を有する山麓に住まった一族と思われる。

間人=山稜に挟まれた地に三日月のような山稜がある様と読み解いた。間人皇女などの例があった。「丹比」の地で探すと、図に示した場所に見出すことができる。

足嶋=山稜が長く延びた端が鳥の形をしている様と読み解ける。三日月の山稜が延びた端の地形を表していると思われる。

後(聖武天皇紀)に丹比宿祢人足が外従五位下を叙爵されて登場する。系譜は全く知られていないようであるが、丹比間人の谷間の近隣が出自の場所と思われる。人足=谷間が延びた先にあるところと読み解ける。図に示した場所を示していると思われる。

古事記の大雀命(仁徳天皇)の水齒別命(後の反正天皇)の多治比之柴垣宮があった谷間の奥に当たる地域である。皇別氏族の眞人ではないが、古くから開けた場所であることには違いないであろう。

二月戊戌朔。始頒新律於天下。庚戌。越後國疫。遣醫藥療之。是日。爲班大幣。馳驛追諸國國造等入京。丙辰。諸國大租。驛起稻及義倉。并兵器數文。始送于辨官。丁巳。任諸國國師。己未。歌斐國獻梓弓五百張。以充大宰府。是日。分遷伊太祁曾。大屋都比賣。都麻都比賣三神社。乙丑。諸國司等始給鎰而罷。〈先是。別有税司主鎰。至是始給國司焉。〉

二月一日に新律(大寶律)を天下に頒布している。十三日、越後國で疫病が発生、医師・薬師を派遣して治療させたと記載している。この日、大幣(大祓の時に用いる大串につけた、ぬさ)を配分するため、駅馬を諸國に遣わせ、國造等が京に入ったと述べている。

十九日に諸國の大租(各国に蓄積されていた田租)・驛起稻(駅を維持・運営するために必要とされた経費の財源となる稲のこと)・義倉(国内の要地に置かれた穀物を備蓄する倉庫)並びに兵器數文(兵器の数を記した文書)を初めて辨官(太政官)に送らせた。二十日、諸國の國師を初めて任命している。

二十二日に「歌斐國」が梓弓(古くは神事用、後に一般的な弓の意)五百張を献上、それを太宰府に充てている。この日、伊太祁曾・大屋都比賣・都麻都比賣の三神社を分け遷している。二十八日、諸國司に初めて正倉の鍵を授けて引き取らせている。

<歌斐國>
歌斐國

「歌斐(カヒ)」は「甲斐」を示す表記と思われる。甲斐=山稜の傍らの狭い谷間を表すと読んで来たが、「歌」の文字は、古事記、中国史書に登場し、歌=可+可+欠=二つの谷間が並び集まった様と読み解いた。

今回は谷間が並列ではなく、縦列に連なった様を表しているようである。図に示したように、峠を境に二つの狭い谷間()が並び、その峠に[コ]の字形に切り取られた平坦な地()がある様をで表記していると思われる。

あらためて「斐」を読み解くと、斐=非+文=狭い隙間が[文]になっている様と解釈される。この國の地形を最も詳細に表現したものと思われる。

古事記の倭建命に随行すれば、「東國」の山を越えれば「甲斐國」である。書紀はその「東國」の地を「紀伊國」の一部と表現している。それらの國を現在の日本列島に散りばめられた地名に置き換えて読んでは、「記紀」も「續紀」も読み下すことができないであろう。

<伊太祁曾神・大屋都比賣神・都麻都比賣神>
伊太祁曾神・大屋都比賣神・都麻都比賣神

天武天皇紀に登場した紀伊國々縣神(日前神)に関連して、現在も竈山神社、伊太祁󠄀曽神社を加えて「三社参り」と伝えられていると知った。

勿論現在の和歌山県での言い伝えである。伊太祁曾神はそこに登場した「伊太祁󠄀曽神」を示していると解る。他の二神は國縣神を中心とした地域に分け遷らされたと推測される。

伊太祁曾神に含まれる、伊=山稜が谷間で区切られている様太=平らな頂の麓に盛り上がった山稜がある様祁=示+邑=高台が寄り集まっている様曾=積み重なった様と読み解いて来た。図に示した場所がその地形要素を満たしていることが解る。大屋都比賣神は、大=平らな頂の様屋=尾根が延び至った様都=集まった様であり、図の場所と推定される。武漏温泉に抜ける山口である。

都麻都比賣神には「都」が二度用いられている。少し解釈を違えてみると、「都」=「者+邑=山稜が交差する様」とすると、「麻」=「擦り潰されたような様」であり、纏めると交差する擦り潰された山稜がより集まっているところと読み解ける。残念ながら現在は広い宅地に変わっているが、当時も山裾のなだらかな地形を有していたのではなかろうか。

古事記の倭建命が”阿豆麻(東)”と叫んだところである。「豆麻」を「都麻」と置き換えたのかもしれない。ところで三神の場所には大きな池がある。何らかの繋がりがあるのかもしれないが、不確かである。

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<大神朝臣(三輪君)>
大神朝臣(三輪君)

「大神朝臣」の氏姓の表記は、上記の「三輪君」高市麻呂で初見である。系譜として三輪君一族に属することは知られているが、彼等の氏名としてこの後用いられることになる。

当然ながら、「大神(神)」は地形象形した表記であろう。頻出の文字列で「大神」を読み解いてみよう。

「大」=「山稜の頂が平らになっている様」、「神」=「示+申」=山稜が長く延びた先が高台になっている様」と解釈した。纏めると大神=平らな頂から延びた山稜の端が高台になっているところと読み解ける。

現在の足立山(古事記では美和山)から延びた稜線上にある砲台山を示していることが解る。「大神朝臣」は、砲台山西麓に居処を持っていた一族に名付けられた氏姓と思われる。通常、「大神(オオミワ)」と訓するようだが、実に勝手な読みであって、立派な地形象形表記なのである。

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