2021年1月8日金曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(11) 〔482〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(11)


大寶元年(即位五年、西暦701年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

壬辰。勅親王已下。准其官位賜食封。又壬申年功臣。隨功等第亦賜食封。並各有差。又勅。先朝論功行封時。賜村國小依百廿戸。當麻公國見。縣犬養連大侶。榎井連小君。書直知徳。書首尼麻呂。黄文造大伴。大伴連馬來田。大伴連御行。阿倍普勢臣御主人。神麻加牟陀君兒首一十人各一百戸。若櫻部臣五百瀬。佐伯連大目。牟宜都君比呂。和爾部臣君手四人各八十戸。凡十五人。賞雖各異。而同居中第。宜依令四分之一傳子。又皇大妃。内親王。及女王。嬪封各有差。是日。左大臣正二位多治比眞人嶋薨。詔遣右少弁從五位下波多朝臣廣足。治部少輔從五位下大宅朝臣金弓。監護喪事。又遣三品刑部親王。正三位石上朝臣麻呂。就第弔賻之。正五位下路眞人大人爲公卿之誄。從七位下下毛野朝臣石代爲百官之誄。大臣。宣化天皇之玄孫。多冶比王之子也。

七月二十一日、親王以下にその官位に準じて、また壬申の役での功労に従って食封を与えている。更に持統天皇紀に功臣に与えた具体的な記述があり、新令によってその四分の一を子に与える、と記載している。皇大妃、内親王、女王、嬪にもそれぞれに封戸を与えている。

村國小(男)依:百二十戸

この日、高齢であった左大臣の多治(丹)比眞人嶋が亡くなり、「波多朝臣廣足」・「大宅朝臣金弓」に葬儀を執り行わせるように命じ、刑部親王石上朝臣麻呂を遣わして弔い、路眞人大人、「下毛野朝臣石代」が弔辞を述べたと記している。大臣は宣化天皇の玄孫、多冶比王の子だと追記されている。

「牟宜都君」の表記は、古事記で「大碓命、娶兄比賣、生子、押黑之兄日子王。此者三野之宇泥須和氣之祖。亦娶弟比賣、生子、押黑弟日子王。此者牟宜都君等之祖」の記述に登場している。書紀は「身毛君」に変えるが、ここでも續紀は、おそらく原資料の表記をそのまま用いたのではなかろうか。

壬申の功臣に大伴連吹負(不破軍将軍:馬來田の弟)の名前が登場しない。「村國小依」に勝るとも劣らない活躍だったと思われるが、贈られた冠位も大錦中であった。その後の消息も死亡記事のみであり、何らかの特別な事件でもない限り違和感のある記述となっている。Wikipediaによると、續紀の記述から天武紀に常道頭(國守相当)となっていたと推測されている。地方官の冠位は決して高くはなかった、かもしれない。

倭京陥落させるまでの行動はそのまま素直に受け取れるが、その後壹伎史韓國及び犬養連五十君の出自の場所を曖昧にした書紀の記述にまんまと載せられて倭京と瀬田の戦闘が全く独立したものになっているのが通説である。倭京を手中に収めなければ「小依」等の背後が攻撃される配置であることを捻じった表記で暈してしまった書紀であった。困った時には省略する常套手段だったのであろう。

いずれにしても後々まで『壬申の乱』の功臣記述が続けられているが、肝心の実態が今も未解明のままである。前述したように「筑紫」、「壹伎」、「淡海」の解釈が今のままでは、乱の実態は全く読み解けないのである。

<波多朝臣廣足>
● 波多朝臣廣足

重臣が亡くなると新人が登場する、と言うパターンである。「波多」は、そもそも建内宿禰の子、波多八代宿禰で登場し、その後応神天皇の孫、意富富杼王が祖となった「波多君」にも表れていた。

既に幾人かの書紀中の登場人物に羽田公(眞人)、羽田朝臣があり、同じ氏名でも系統が異なっていることも判明している。即ち同じ一族だが、その系譜は定かではなく、また地域も散らばっていたことが伺える。

現地名で言えば、北九州市門司区の風師・二夕松町から大里東に跨る風師山の西麓の地と推定した。南北に延びた地であり、名前を拠り所として、その出自の場所を求めることになる。

廣足=山稜が長く延びて広がった様と読み解いて来た。すると最も北側にある地が該当すると思われる。古くは大年神の子、羽山戸神の後裔が蔓延っていた場所である。同じ「天神族」であるが天皇家と争った一族であり、その系譜が失われていても止む無しだったかと思われる。

<大宅朝臣金弓-大國-小國・兼麻呂・諸姉>
● 大宅朝臣金弓

系譜がしっかりと把握されていると、実に明解に出自の場所が求められるようである。既出である祖父の大宅臣鎌柄、父親の大宅朝臣麻呂の場所を求めたが、その近隣と思われる。

図に示したように祖父、父の北側の谷間に先端が三角形()の山稜がなりに延びているところ、その端が出自の場所と推定される。

更に北側は古事記の大長谷若建命(雄略天皇)紀に登場した金鉏岡の山稜が延びていることが解る。祖父の「鎌」の刃先に当たる場所となる。「金」が寄り集まった、穂積一族の末裔であろ。山稜の端ではあるが、明瞭に読み取れる貴重な地と思われる。

後の元明天皇紀に子の大宅朝臣大國が、そして元正天皇紀に弟の大宅朝臣小國、系譜不詳の大宅朝臣兼麻呂及び大宅朝臣諸姉が登場する。「金弓」の西側の平らな台地の麓が出自の場所と推定される。「大」→「太」に変えているのは、平らな頂の山稜が異なることに依るのであろう。「大宅」の「大」の麓で延び出た「大」の地と解釈できるように思われる。

「小國」の「小」は山稜の端が三角形(小)になった場所を示していると思われる。また「兼麻呂」の「兼」=「秝+又」と分解され、「秝」=「山稜が並んでいる様」を表している。すると兼=山稜の端で枝分かれした山稜が並んでいる様と読み解ける。上図に併記した場所と推定される。

「諸姉」は女官として、従五位上に叙爵されている。調べると写経を行ったいたようである。諸=言+者=耕地が交差するように延びている様であり、「金弓」の谷間の出口辺りが出自の場所と推定される。

<下毛野朝臣石代>
● 下毛野朝臣石代

既に下毛野朝臣古(子)麻呂が登場し、現地名築上郡吉富町鈴熊辺りを出自の場所と推定した。父親が「久志麻呂」と知られており、その場所が重要なヒントになっていた。

今回の人物石代の系譜は、どうやら定かではないようで、同じ一族なのだが、別系のように思われる。それを背景に出自の場所を探すと、「古麻呂」と並ぶように海に突き出た山稜の端がある。

「赤烏」の献上記事の場所と推定した山麓であり、開拓が進行していた地域なのであろう。そして「赤烏」の後ろ側が石代の出自の場所と思われる。現地名は築上郡吉富町広津である。後に下毛野川内朝臣と名乗るようになったと伝えられている。「古麻呂」の言上が受け入れられたとのことで、憶測になるが、この二つの系列には些か確執があったように伺える。

戊戌。太政官處分。造宮官准職。造大安藥師二寺官准寮。造塔丈六二官准司焉。」凡選任之人。奏任以上者。以名籍送太政官。判任者。式部銓擬而送之。」又功臣封應傳子。若無子勿傳。但養兄弟子爲子者聽傳。其傳封之人亦無子。聽更立養子而轉授之。其計世葉。一同正子。但以嫡孫爲繼。不得傳封。」又五位以上子。依蔭出身。以兄弟子爲養子聽叙位。其以嫡孫爲繼不得也。」又畫工及主計主税算師雅樂諸師如此之類。准官判任。

七月二十七日、太政官の取り決めを伝えている。即ち、律令制における省内の職、寮、司の文官の組織体制を表す。ここでは造宮官は最も行為に職に、造大安寺官・造藥師寺官は寮に、造塔官・造丈六官は司に準じることになっている。それぞれ選任については奏任(太政官の奏聞で任じる)、判任(申し出て任じられる)などの区別があったことが伺える。「大安寺」の場所は後に求める(こちら参照)。

更に功臣の与えた封の相続について、子が無くても、兄弟の子を養子とすれば引継げる。また叙位の同じようにできると記載している。画工、主計・主税の算師、雅樂諸師の類は太政官の判任に準じると述べている。

八月壬寅。勅僧惠耀。信成。東樓。並令還俗復本姓。代度各一人。惠耀姓觮。名兄麻呂。信成姓高。名金藏。東樓姓王。名中文。癸夘。遣三品刑部親王。正三位藤原朝臣不比等。從四位下下毛野朝臣古麻呂。從五位下伊吉連博徳。伊余部連馬養撰定律令。於是始成。大略以淨御原朝庭爲准正。仍賜祿有差。甲辰。太政官處分。近江國志我山寺封。起庚子年計滿卅歳。觀世音寺筑紫尼寺封。起大寳元年計滿五歳。並停止之。皆准封施物。」又齋宮司准寮。屬官准長上焉。

八月二日に三名の僧、惠耀{觮兄麻呂}・信成{高金藏}・東樓{王中文}を還俗させ、それぞれに{姓名}を与え、その代わりに一人を出家させている。三日、刑部親王・藤原朝臣不比等・下毛野朝臣古麻呂・伊吉連博徳・伊余部連馬養が撰定した律令が完成した(関連記事こちら参照)。その大略は淨御原朝庭の制度に準じている。

四日に太政官の取り決めで、「近江國志我山寺」の食封は既に三十年が過ぎ、「觀世音寺」・「筑紫尼寺」のそれは五年を経過した故にこれを中止し、食封に準じたものを施すこと、また齋宮司は寮に準じることなどが申し渡されている。

<近江國志我山寺>
近江國志我山寺

「近江」の表記を續紀が用いるならば、書紀で行われた変換に類似すると思われる。即ち「近江」は古事記の近淡海と還元することができる。

更に「志我」とくれば、若帶日子命(成務天皇)の宮、近淡海之志賀高穴穗宮が連想される。「賀」と「我」の違いは何処に求められるであろうか?・・・。

「我」は、かつて頻出した蘇我臣に含まれた文字であり、「ギザギザの刃が付いた戈(矛)」を象った文字であり、地形象形もその様を表していると解釈した。

その地形が塔ヶ峰の東麓に見出せる。志我=蛇行する川の傍にあるギザギザの刃がある矛のような様と読み解ける。即ち志我山は塔ヶ峰を表し、その麓にある寺を志我山寺と名付けていたと解釈される。現地名の行橋市高来にある天聖寺辺りの小高い山麓にあったと推定される。

興味深いのは「蘇我」も「蘇賀」の中にある地と推定した。複数の川の水が谷間を抉り、蛇行しながら流れて、山麓に延びた山稜の端の台地にギザギザの縁を生じる。自然の造形に従った結果を見事に反映した表記であろう。「記紀」、「續紀」の地形象形表記をあらため確信することになった。

<觀世音寺・筑紫尼寺>
觀世音寺・筑紫尼寺

觀世音寺は後に「筑紫」が冠されていることから両寺は共に筑紫國にあったようである・・・で終了するわけには行かない。藥師寺が見事な地形象形表記であるならば、これらもキッチリとなされているのではなかろうか。

「觀」は初登場なので詳細に調べると、「觀」=「雚+見」と分解される。更に「雚」=「萑+吅」から成り、仲良く二つ並んで子育てをする鸛(コウノトリ)の象形と解説される。

全てを纏めて見ることを意味する文字と知られている。「萑」=「艸+隹」の構成要素に「隹」が含まれていることが解る。図に示したようにこの地は三輪君小鷦鷯の出自の場所の麓であった。これで読み解きが一気に前進する。

「見」は「見える」の意味から、近傍にある場所を示すと解釈できるが、「見」=「目+儿(足)」と分解すると、地形象形表記として「延びた山稜の端にある谷間」と読むこともできる。「觀」に含まれる要素として適切な解釈と思われる。

常世國に用いられた「世」=「長く引き延ばされた様」であり、幾度か登場の「音」=「言+一」=「耕地が途切れた様」と読み解いた。纏めると觀世音寺=山稜に挟まれた鳥のような地がある谷間を耕地が長く引き延ばされて途切れたところにある寺と読み解ける。筑紫大宰の最北部に当たる場所を表しているのである。

筑紫尼寺、これもそうか?…と首を傾げるところだが、臆せず探索すると、尼=尸+匕=背中合わせのように並んだ様の場所が見出せる。朝倉橘廣庭宮の東側の谷間である。二つ並んだ山稜が近付いて離れる地形を示している。通説の觀世音寺は…国譲りされて…太宰府市にある、と決め付けられているが、尼寺は諸説があるとのこと。橘廣庭宮の近傍説、国譲りされる以前の状況は、それを支持する結果となったようである。

丁未。先是。遣大倭國忍海郡人三田首五瀬於對馬嶋。冶成黄金。至是。詔授五瀬正六位上。賜封五十戸。田十町。并絁綿布鍬。仍免雜戸之名。對馬嶋司及郡司主典已上進位一階。其出金郡司者二階。獲金人家部宮道授正八位上。并賜絁綿布鍬。復其戸終身。百姓三年。又贈右大臣大伴宿祢御行首遣五瀬冶金。因賜大臣子封百戸。田卌町。〈注年代暦曰。於後五瀬之詐欺發露。知贈右大臣爲五瀬所誤也。〉」撰令所處分。職事官人賜祿之日。五位已下皆參大藏受其祿。若不然者。彈正糺察焉。戊申。遣明法博士於六道。〈除西海道。〉講新令。己酉。皇親年滿者不論官不。皆入賜祿之額。

八月七日の記事で、ちょっとした事件の顛末を述べている。「大倭國忍海郡」人「三田首五瀬」を對馬嶋に遣わして黄金の精錬を成功させたようで、冠位授与、封戸、田、綿布などを与え、更に雑戸を良民にしている。更に對馬嶋司などの関係者の冠位を進めているが、その郡司は二階級特進だったとか。実際に担当した「家部宮道」にも冠位、綿布を与えて、賦役については終身免除、また郡の百姓は三年免除するとしている。

「五瀬」に指示したのが右大臣大伴宿禰御行、おそらく実務はその子だったのであろうか、封百戸・田四十町を授けている。ところが『年代暦』によると「五瀬」の詐欺であることが発露したようである。

同日、撰令所の取り決めで、職事官の禄の受け取り方法を定めている。律令制定で定められた禄(給与)なのだが、受け取りに来ない輩もいたようで・・・勿論銀行振り込みは未だ行えず・・・厳しく取り締まったようである。

八日に明法博士を六道に派遣して新令を講じさせている。但し「西海道」は除いたと付記している。この道は書紀には登場せず、後に登場の場面で詳細に述べることにする。九日、皇親で年滿(十三歳)に達している者には任官に関わらず禄の対象とする、と記載している。

<大倭國忍海郡・三田首五瀬>
大倭國忍海郡

天武天皇紀に「連」姓を賜った忍海造の一族が住まっていた地を忍海郡と名付けていたのであろう。主な登場人物は忍海造鏡・忍海造荒田・忍海造能麻呂であった。現地名は田川郡福智町上野である。

● 三田首五瀬

その地で既出の三田=三段に並んだ田と読み解いた。やや小ぶりになるが、それらしき山稜の端が見出せる。その傍らにの地形も示されている。

五瀬=川の瀬が交差するよう様と解釈する。古事記に登場する五瀬命などに用いられていた文字列である。忍海に面した山稜の端にある狭い土地が出自の人物と思われる。

冶金の知識を保有していたのかは全く不詳であり、些か違和感もあるのだが、その後の顛末を知ると納得できるようでもある。如何なる處分がなされたのかは定かではないのであろう。

<家部宮道>
● 家部宮道

對馬嶋で人が住まえる地は極めて限定的である。現在の対馬市厳原町辺りで求めることになろう。既出の家=宀+豕=谷間で延びた山稜の端が豚口のような様と読み解いた。

同じく宮=宀+呂=谷間で積み重なった様、頻出の道=辶+首=首の付け根の様と解釈して来た。

これらの地形要素を満足する場所を図に示した。對馬國司の南側の谷間である。この地も「忍海」の状態であって、現在の山稜の端は直に海辺となっていたと推察され、出自の場所は谷間の奥側だったと思われる。どうやら海辺に住まう連中が山奥に入って一攫千金を目論んでいたのかもしれない。

甲寅。播磨。淡路。紀伊三國言。大風潮漲。田園損傷。遣使巡監農桑存問百姓。」又遣使於河内。攝津。紀伊等國。營造行宮。兼造御船卅八艘。豫備水行也。辛酉。參河。遠江。相摸。近江。信濃。越前。佐渡。但馬。伯耆。出雲。備前。安藝。周防。長門。紀伊。讃岐。伊豫十七國蝗。大風壊百姓廬舍損秋稼。」詔贈從五位下調忌寸老人正五位上。以預撰律令也。丙寅。廢高安城。其舍屋雜儲物。移貯于大倭。河内二國。」令諸國加差衛士配衛門府焉。

八月十四日に播磨・淡路・紀伊の三國が申すには、大風、高潮のために水田・園地が損なわれている。使者に農業・養蚕の巡察させ百姓を慰問させている。また河内・攝津・紀伊等の國に使者を遣わして行宮造営させ、御船三十八艘を造らせているが、水上での行幸に備えたことのようである(記載された國は再掲した下図を参照)。

<諸國(一部)>
「紀伊國」が二度登場するが、前者の高潮被害は北部、即ち阿提郡牟婁郡の海辺の汽水域に広がった水田地帯であろう。播磨・淡路國の地形に類似した場所と思われる。

南から播磨~淡路~紀伊國が周防灘に面して並び、「大風潮漲」の表現は、おそらく倭國の西側を台風が通過して、東~東南からの猛烈な風が吹いた様子を物語っているのであろう。

一方、造船は南側の國縣神の近傍地域を示していると思われる。すると被災地近くに行宮を設置して、船で向かうことを想定してように受け取れる。

更に推し進めると「淡路國」の西隣が「攝津國」と推定したが、被災地淡路國の近隣となる。ならば上記の「河内國」は「播磨國」の近隣を示しているのではなかろうか。

「河(川)内」の名称は、固有ではなく、書紀では天武天皇紀に河內國司守來目臣鹽籠の名称で登場している。現地名で言えば、行橋市・京都郡みやこ町ではなく、直方市頓野辺りの場所を表していると推定された。

ここでの「河内國」は、「播磨國」の北側、城井川と岩丸川に挟まれた地と推定される(こちら参照)。この地は古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に稻羽國と名付けられていた。その後の登場が全く見られない場所であるが、人々が住まっていた地であることは確かなように思われる。

二十一日に參河遠江相摸近江信濃越前佐渡但馬・「伯耆」・出雲備前安藝周防長門紀伊讃岐(讚吉)・伊豫の十七國に蝗(イナゴ:稲を食する害虫、重要な蛋白源でもある)が発生した。それに加えて大風で百姓の家が倒壊したり秋の収穫に重大な損害を生じている。

近江但馬出雲紀伊國は上図<諸國(一部)>を、參河相模信濃こちらを参照。その他は各リンクを参照。

<伯耆國>
この中で唯一國としては未登場なのは
伯耆國であるが、「伯耆」の文字列は天武天皇紀に「連」姓を賜った伯耆造が登場していた。

「鳥取」に隣接する地であり、それらしき配置なのであるが・・・因播國との関係が危うい感じでもある。

と言うことであらためて「因播」の近隣を探索すると、図に示した場所に見事に「伯耆」の地形を示す場所が見出せたようである。

文字の解釈は「造」と同様にして、伯=人+白=谷間がくっ付く様耆=老+日=海老のように曲がった地の傍に[炎]の形がある様と読む。現地名は宗像市池田辺りである。

孔大寺山系の湯川山の南西麓、邇邇藝命が降臨した竺紫日向の西側に当たる場所である。既に多くの人々が住まっていたと思われるが、古事記の表舞台には全く登場することのなかった地域である。ここで漸くお会いできたことになる。

またこの日、持統天皇紀に「撰善言司」を仰せつかった一人であった調忌寸老人を律令選定に寄与したことから昇進させている。

二十六日に高安城を廃止すると述べている。貯えていた諸々の物を大倭河内國に移し、諸國から募った衛士を宛がっている。

唐・新羅の脅威が低減したこと、築城が天智天皇即位六年(西暦667年)であり、老朽化もかなり進行してのであろう。また、保管場所とするには極めて不便な場所であり、それを活用するには別の場所に移す必要性も高かったと推測される。

ところで、ここでも河内國が登場する。大雑把な記述であり、何とも言えないが、これを上記で引用した河內國司守來目臣鹽籠の國とすると、二國併せて古遠賀湾~遠賀川~彦山川の防衛ラインと見ることもできる。最後の「令諸國加差衛士配衛門府焉」は、単にかつての城を解体したのではなく、そこに保管されている武器類を強化すべき国防に用いたことを暗示しているのではなかろうか(斉明天皇紀の図<唐・新羅の侵攻予想行程>を参照)。

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上記の伯耆國については、ずっと後(元正天皇紀)に「山陰道伯耆國」と記述される。詳細は登場の時に読み解くが、この地は出雲の西隣、古事記の伯伎國の場所と推定される。蝗が発生した十七國に記載された順序は、こちらの國を示しているのかもしれない。いずれにしても「伯耆國」は二つあったことになる。(2021.06.12)