2021年1月4日月曜日

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(10) 〔481〕

天之眞宗豐祖父天皇:文武天皇(10)


大寶元年(即位五年、西暦701年)三月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、和訳はこちらを参照。

三月丙子。賜宴王親及群臣於東安殿。戊子。遣追大肆凡海宿祢麁鎌于陸奥冶金。壬辰。令僧弁紀還俗。代度一人。賜姓春日倉首名老。授追大壹。

三月三日に王親、群臣と東安殿(内裏内部の殿舎名)で宴会をしている。十五日、「凡海宿祢麁鎌」を陸奥での冶金(鉱石から金属を採取)に遣わしている。この人物は大海宿禰荒蒲の名称で天武天皇の殯の時に弔辞を述べた一人として登場していた。十九日、僧弁紀を還俗させ、姓を春日倉首、名を老として爵位を与えている。

<凡海宿禰麁鎌・凡海連興志>
● 凡海宿禰麁鎌

既に出自の場所を読み解いた人物であるが、「大」→「凡」、「荒」→「麁(麤)」、「蒲」→「鎌」に置き換えられた表記により、その場所の地形について視点を変えて表しているのであろう。

山稜の形を「平ら」だけでなく、「凡」の文字形で表してより具体的な表現となっている。既出の正字体である麤=鹿+鹿+鹿=山麓が三つに岐れた様と解釈した。麁蝦夷(越蝦夷)で登場した文字である。

鎌=鎌のような様、中臣鎌子などで用いられていた。「荒蒲」=「山稜が水辺で途切れて広がった様」を「麤」で簡略に表現し、「鎌」を加えて、出自の場所を明確にした表記と解釈される。

別名に大海蒭蒲があったと知られる。「蒭」=「艸+包」と分解され、地形象形的には「山稜が取り巻くように曲がった様」と解釈される。「包」は斉明天皇紀の蝦夷國飽田郡などに含まれていた。「鎌」の地形を表している。「大海宿禰荒蒲・凡海麁鎌・大海蒭蒲」の三つの表記が一つの地形に収束していることが解る。

陸奥冶金が唐突に記載される。がしかし、実に明解なことだと気付かされる。この人物の出自の系譜は定かではなく、大海人皇子(天武天皇)の養育に関わった人で阿曇連の一族と解説されている。「大海」の表現によって墨江之三前大神の末裔とされる一族に加えられたような解釈である。この解釈が錯乱状態を導くのである。

香春岳の麓に住まう豪族は、全てではないにしても「冶金」を生業としていたと推測することは容易であろう。その中で「大海(凡海)」が選ばれて大海人皇子が幼少の時代を過ごす地になったと思われる。弔辞として「第一大海宿禰荒蒲、誄壬生事」と記載されていた。「壬生」は、そもそも水辺を表すのであるが、皇子の世話や養育の意味も含んでいると解説されている。様々に重ねられた表現を行っていると思われる。

錯乱は止まることを知らず、Wikipediaには・・・、

凡海氏と同族とされる阿曇氏には祖神を宇都志日金柝命(うつしひかなさくのみこと)とする伝えがあり(『古事記』)、その神名に見える「金柝」が金属に因む…

・・・と記載されている。「三柱綿津見神」(底・中・上筒之男命)は何処に行かれてしまったのであろうか。彼らは”海流を自在に操る一族”と描かれている。都合の良い文字を見つけて繋げる解釈から脱却することが先決であろう。「宇都志日金拆命・阿曇連」についてはこちらを参照。

後(元正天皇紀)に武藝に優れたとして褒賞された凡海連興志が登場する。「麁鎌」とは別系列だったのか宿禰姓に変わっていないようである。幾度か用いられている興=手+手+同+廾=山稜に囲まれた筒のような様志=川が蛇行する様であり、図に示した辺りが出自の場所と推定される。

古事記序文の飛鳥淸原大宮に含まれる淸=氵+靑=水辺で山稜に四角く取り囲まれた様で表現していることが解る。別表記によって飛鳥淨御原宮の場所が確信されたようである。古事記に準じる續紀の記述が、また、伺えたと思われる。

<春日倉首老・倉首於須美>
● 春日倉首老

僧「弁紀」を還俗させるには何らかの理由があったのであろうが、由緒ある「春日」の地の開拓をさせようとしたのか?…既に開けた地で更に・・・。

「春日倉首」を調べると、倭國添下郡に出自を持つ一族とだったと知られていることようである。がしかし、その地に「春日」があるのか?…些か混乱気味の様相となった。

書紀の天武天皇紀に「添下郡」の住人である鰐積吉事が登場し、その出自場所を現在の田川郡添田町添田の中心地辺りの谷間を推定した。あらためてその場所の地形を確認すると、その北側の山稜の形が、所謂「春日」の地形に酷似していることが分かった。

春日=太陽ような地の前で延び出た山稜が炎のように細かく岐れて延びているところの地形を目の当たりにすることになるのである。倉=四角く取り囲まれた様老=山稜が海老のように曲がって延びている様と解釈すると、図に示した場所が賜った氏姓が表すところと推定される。

弁(辨)紀=畝って曲がる山稜から切り分けられた山稜が揃って並んでいるところと解釈される。出自の場所であったことが解る。この人物は万葉集に複数の歌が入集していることも知られている。添下郡に住まう人材の開発に寄与したのかもしれない。最終従五位下だったと伝えられている。

ずっと後(聖武天皇紀)になるが、倉首於須美が外従五位下を叙爵されている。「春日」が略されているとして、既出の文字列である於須美=旗のような形をした州の傍らで谷間が広がったところと読み解くと、図に示した場所を表していると思われる。

甲午。對馬嶋貢金。建元爲大寶元年。」始依新令。改制官名位号。親王明冠四品。諸王淨冠十四階。合十八階。諸臣正冠六階。直冠八階。勤冠四階。務冠四階。追冠四階。進冠四階。合卅階。外位始直冠正五位上階。終進冠少初位下階。合廿階。勳位始正冠正三位。終追冠從八位下階。合十二等。始停賜冠。易以位記。語在年代暦。又服制。親王四品已上。諸王諸臣一位者皆黒紫。諸王二位以下。諸臣三位以上者皆赤紫。直冠上四階深緋。下四階淺緋。勤冠四階深緑。務冠四階淺緑。追冠四階深縹。進冠四階淺縹。皆漆冠。綺帶。白襪。黒革舄。其袴者。直冠以上者皆白縛口袴。勤冠以下者白脛裳。」授左大臣正廣貳多治比眞人嶋正正二位。大納言正廣參阿倍朝臣御主人正從二位。中納言直大壹石上朝臣麻呂。直廣壹藤原朝臣不比等正正三位。直大壹大伴宿祢安麻呂。直廣貳紀朝臣麻呂正從三位。又諸王十四人。諸臣百五人。改位号進爵。各有差。」以大納言正從二位阿倍朝臣御主人爲右大臣。中納言正正三位石上朝臣麻呂。藤原朝臣不比等。正從三位紀朝臣麻呂。並爲大納言。▼是日罷中納言官。

三月二十一日に對馬嶋が金を献上している。また「大寶」を建元し、冠位制度を改めている。冠位四十八階から三十階に簡素化されているが、詳細はこちらを参照。諸臣の人事が併せて記載され、左大臣の多治比眞人嶋を正二位、大納言の阿倍朝臣御主人を從二位及び右大臣、中納言の石上朝臣麻呂藤原朝臣不比等を正三位及び大納言、大伴宿祢安麻呂紀朝臣麻呂に從三位を授けている(中納言は廃止)。諸王十四人、諸臣百五人ついてそれぞれ改位と爵位を進級させている。

己亥。丹波國地震三日。壬寅。賜右大臣從二位阿倍朝臣御主人。絁五百疋。絲四百絢。布五千段。鍬一万口。鐵五万斤。備前。備中。但馬。安藝國田廿町。

三月二十六日、丹波國で地震があり、三日間続いたようである。二十九日に右大臣の阿倍朝臣御主人に絁、絲(絢:巻?)、布、鍬、鐵など、更に備前・備中但馬安藝國の田二十町を与えている。

夏四月甲辰朔。日有蝕之。丙午。勅。山背國葛野郡月讀神。樺井神。木嶋神。波都賀志神等神稻。自今以後。給中臣氏。庚戌。遣右大弁從四位下下毛野朝臣古麻呂等三人。始講新令。親王諸臣百官人等就而習之。癸丑。遣唐大通事大津造廣人賜垂水君姓。乙夘。遣唐使等拜朝。戊午。奉幣帛于諸社。祈雨于名山大川。罷田領委國司巡検。

四月一日に日蝕があったと記載している。三日、山背國葛野郡の「月讀神」、「樺井神」、「木嶋神」、「波都賀志神」の「神稻」を中臣氏に給うように命じている。七日に下毛野朝臣古麻呂等三人が初めて新令を講じ、親王、諸臣、百官等が習っている。十日に遣唐使の一員であった「大津造廣人」に「垂水君」姓を授けている。十二日に遣唐使等が拝朝している。十五日、諸社に幣帛を奉納し、名山大川で雨乞い、また田領を廃止して國司に巡検を委ねている。

<月讀神・樺井神・木嶋神・波都賀志神>
月讀神・樺井
木嶋神・波都賀志

山背國葛野郡は、古事記の品陀和氣命(応神天皇)紀に登場した葛野であろう。現地名は田川郡赤村赤である。

近淡海國に行幸された時に宇遲野上に立って国見をされ、その地が豊かになっている様に深く感動されたと記述されている。

そこに四つの神(社)が祀られていたと記載している。月讀は「記紀」の神代紀だけでその後には全く登場しない表記である。

古事記の月讀命は、山稜の端の三角州(月)にある耕地(言)が次々と繋がっている(𧶠)ところに坐す命と読み解いた。その地形が赤村赤の峯岡に見出せる。複数の山稜の端が並ぶ場所である。樺井の「樺」=「木+華」=「山稜の端」と解釈される。樺井=山稜の端にある四角く囲まれた様と読み解ける。赤村赤の岡村にある場所と思われる。この地は古事記の大山咋神が坐した葛野之松尾と推定したところである。

木嶋はそのまま読み解くと、山稜が鳥の形をした様となる。赤村赤の珠数丸に求めることができそうである。最後の波都賀志は既出の文字列であり、押し開いたような谷間(賀)を蛇行する川(志)が集まった(都)端(波)と読み解ける。赤村小学校上赤分校の近隣の場所を示していると思われる。中臣氏が神祇としてその勢力を拡大しつつあったことを伝えているのであろう。葛野郡の中心地を任された様相である。

<大津造廣人>
● 大津造廣人

この人物に関する記述は極めて少なく、調べると古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に登場した上毛野君、下毛野君等之祖の豐木入日子命の後裔のようである。

すると「大津」は母親の遠津年魚目目微比賣の「遠津」近隣を示しているのではなかろうか。

図に示したように大津は「遠津」の少し東友枝川下流域の平らな台地を表していると思われる。名前の廣人=広がった谷間であり、更に下流域を示している。

居場所は、その東側の山稜の麓辺りと推定される。その山稜の谷間に現在も「池」が並んでいるが、その地形を「垂」で表して垂水(君)の氏名・姓を授かったと思われる。崇神紀より少し前の大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)には山下影日賣・建内宿禰親子が登場していた地は西側に当たる。

五月癸酉朔。太政官處分。王臣五位已上上日。本司月終移式部。然後式部抄録。申送太政官。丁丑。令群臣五位已上出走馬。天皇臨觀焉。己夘。入唐使粟田朝臣眞人授節刀。」勅。一位已下。賜休暇不得過十五日。唯大納言已上。不在聽限。己亥。始改勤位已下之号。内外有位六位已下者。進階一級。

五月初めに太政官の王臣五位以上の出勤日の取り扱いは、所管の部署が月末に式部省に伝え、その後式部省が取り纏めて太政官に申し送るようにしたと述べている。五日に群臣五位以上が馬を走らせ、それを天皇がご覧になっている。七日に遣唐使粟田朝臣眞人が節刀(出征前の任命の印)を授けられている。

同日に一位以下の者は休暇は十五日を過ぎてはならないとし、大納言以上は、これに限らない、と命じている。二十七日に初めて勤位以下の号を改め、六位以下は一階級昇進させている。

六月壬寅朔。令正七位下道君首名説僧尼令于大安寺。癸夘。正五位上忌部宿祢色布知卒。詔贈從四位上。以壬申年功也。」始補内舍人九十人。於太政官列見。己酉。勅。凡其庶務。一依新令。又國宰郡司。貯置大税。必須如法。如有闕怠。隨事科斷。是日。遣使七道。宣告依新令爲政。及給大租之状。并頒付新印樣。壬子。以正五位上波多朝臣牟胡閇。從五位上許曾倍朝臣陽麻呂。任造藥師寺司。丁巳。引王親及侍臣。宴於西高殿。賜御器膳并帛各有差。丙寅。以時雨不降。令四畿内祈雨焉。免當年調。庚午。太上天皇幸吉野離宮。秋七月辛巳。車駕至自吉野離宮。

六月初め、律令撰定者の一人であった道君首名に僧尼令を大安寺(場所は後に求める。こちら参照)で説かせている。二日、忌部宿祢色布知(色弗)が亡くなり、壬申の功より昇位させている。同日、初めて内舎人九十人を補充し、太政官で整列させている。

八日に全ての庶務は新令に従うこと、國宰郡司の税の取り扱いは法に則れ、怠った場合は処罰すると命じられている。この日、「七道」に使者を派遣して新令を布告、国印の見本を頒布したとのこと。尚、「七道」ついては後に詳細を述べることにする(概略図はこちらを参照)。

十一日に波多朝臣牟胡閇と「許曾倍朝臣陽麻呂」を藥師寺造営の司に任命している。十六日に王親・侍臣と宴会し、物を与えている。二十五日、時節の雨が降らず四畿内で雨乞いをさせ、当年の調を免じている。二十九日~七月十日に持統太上天皇が吉野離宮に行幸されている。

<許曾倍朝臣陽麻呂-足人-津嶋-難波麻呂>
● 許曾倍朝臣陽麻呂

「許曾倍朝臣」は、幾つかの別表記で登場していた一族であろう。書紀の孝徳天皇紀に阿倍渠曾倍臣と記載され、阿倍臣と同祖の一族と知られている。阿倍引田臣の北側の谷間と推定した。

また天武天皇紀に登場した社戸臣大口もその流れを汲む人物であり、実に多彩な名称となっている。

かつてにも述べたが、「渠曾倍」の渠=氵+巨+木=水辺で山稜が[巨]の形をしている様、「巨勢」などに用いられている文字である。また社戸=盛り上げられた大地が戸になっているところであり、再掲した図を参照すると、多彩な名称もそれぞれの出自の場所を忠実に示していることが解る。

陽麻呂陽=太陽と読むと、「社戸」及び「倍」の地形を「太陽」と見做した表記と思われる。出自の場所は、おそらく、その高台の北側にある台地状になった場所と思われる。

後(聖武天皇紀)に巨曾倍朝臣足人・巨曾倍朝臣津嶋が外従五位下を叙爵されて登場する。足人は、「陽麻呂」の西側の谷間で山稜が足のように延びているところを示していると思われる。津嶋津=氵+聿=水辺にある山稜が筆のように延びている様嶋=山+鳥=山が鳥のような形をしている様と読むと、「陽麻呂」の「陽」を今度は「嶋」と見做し、東側の延び出ている山稜を「津」としたのであろう。ご当人は、その間の窪んだところが出自と推定される。

ずっと後(孝謙天皇紀)になるが、巨曾倍朝臣難波麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。頻出の難波麻呂であるが、川が直角に曲がっている畔を出自とすると解釈したが、図に示した辺りと推定される。續紀に記載される巨曾倍朝臣としては、最後の人物のようである。上図に一族の配置を纏めてみた。