天命開別天皇:天智天皇(Ⅴ)
「白村江」の敗戦処理が記述された。唐は日本に対して決して厳しい扱いを望んだわけではないようだが、手向った以上はきっちりとしたけじめが必要であろう。大国らしい振舞いに反って疑心暗鬼が呼び起こされた感もある。いずれにしても負けた方は何らかの手を打つのであるが、唐の正使の到来には、かなり慌てふためいたようである。
それでも何とか遠賀川あるいは紫川などを遡るルートで彼らを迎入れる企てを実行したわけだが、斉明天皇における防衛戦略は的を得たものであったと思われる。広範囲に及ぶ防衛設備の準備には些か時間が短かったと言える。正に凌いだ、わけで、十分に当時の緊張感が伝わって来る記述と読み取れた。
通説を引き合いにでしても詮無いことのようだが、一つ言えることは、奈良大和から出掛ける場合は例の如くで省略できるが、客を迎えるとなると様々な不具合が生じることになる。「筑紫」からいきなり「菟道」は、単なる不具合では済まされそうにない記述であろう。速やかに修復されることを切に望む、である。
さて年が明けて即位五年(西暦666年)正月の出来事からである。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちら、こちらなどを参照。
五年春正月戊辰朔戊寅、高麗遣前部能婁等進調。是日、耽羅遣王子姑如等貢獻。三月、皇太子親往於佐伯子麻呂連家、問其所患、慨歎元從之功。夏六月乙未朔戊戌、高麗前部能婁等罷歸。秋七月、大水。是秋、復租調。冬十月甲午朔己未、高麗遣臣乙相奄𨛃等進調。大使臣乙相奄𨛃・副使達相遁・二位玄武若光等。是冬、京都之鼠、向近江移。以百濟男女二千餘人、居于東國。凡不擇緇素、起癸亥年至于三歲、並賜官食。倭漢沙門智由、獻指南車。
正月に高麗、耽羅から進調・朝貢があったと述べている。三月、皇太子(天智天皇称制)は、佐伯子麻呂連を見舞っている。「乙巳の変」の功労者、皇太子と共に入鹿殺害の実行役であった。Wikipediaにはその後の経緯が載せられている。三代に渡って労ったとのことである。六月に高麗の使者が帰った。七月に大水、租調を戻した(復)。徴収した後のことであろう。
十月には高麗の別使(大・副使を揃えて)が進調。高麗内紛を契機に唐の攻勢が始まった時期のようであり、救援要請かもしれない。冬になって京都の鼠が近江に向かって移った。勿論、これは予兆。百濟の二千余人を「東國」に住まわせた。前出の東國不盡河(現在の祓川下流域)辺りではなかろうか。土地は平坦で広いが、治水が課題、それを行わせたのであろう。「指南車」の重要性は、今一明確ではないように、また後日調べてみよう。
唐は高麗に梃子摺っている感じで、大きな動きを仕向けて来なかったのであろう。静かに一年が過ぎたようである。
六年春二月壬辰朔戊午、合葬天豐財重日足姬天皇與間人皇女於小市岡上陵、是日以皇孫大田皇女葬於陵前之墓。高麗・百濟・新羅、皆奉哀於御路。皇太子謂群臣曰、我奉皇太后天皇之所勅、憂恤萬民之故、不起石槨之役。所冀、永代以爲鏡誡焉。
小市岡上陵
女性三代の墓所である。何が何でも突止めてみよう…情報は少ないが・・・そんな時の「小」は、大きい小さいではなく、文字形を表していると思われる。古文字の三角形を稜線が示し、それが「市」=「寄り集まっている様」の場所と思われる。ヒントは、こよなく愛情を注がれた「建王子」、その傍らであろう。前記で隣に葬れと仰っていたのである。
<小市岡上陵> |
中大兄皇太子の出自の場所の西方に当たる。地形図では些か不鮮明だが、現在の航空写真をみると山稜の端で二段になっていることが判る。
書紀の記述を実証することが目的ではないが、かなりの確度で本陵の位置を示していると思われる。
通説は、他の天皇陵と同じく、釈然としていないが、2010年頃に越塚御門古墳(奈良県高市郡明日香村大字越)と名付けられた古墳が確実視されているそうである。
確実と記載しながら立派な(天皇級?)の墓だからが根拠とある。「不起石槨之役」”簡素な墓”は何処?…この根拠で”宮内庁指定見直し迫る”なんて見出しを付けるメディアの無責任さが、古代史の混迷を助長しているようである。読み手が勝手に創った”神話”の世界には閉口する。
三月辛酉朔己卯、遷都于近江。是時、天下百姓不願遷都、諷諫者多、童謠亦衆、日々夜々失火處多。六月、葛野郡獻白䴏。
秋七月己未朔己巳、耽羅遣佐平椽磨等貢獻。八月、皇太子幸倭京。冬十月。高麗大兄男生、出城巡國。於是、城內二弟、聞側助士大夫之惡言、拒而勿入。由是、男生、奔入大唐、謀滅其國。
三月十九日に近江に遷都したと記している(近江大津宮)。今までの宮の中で最も東に位置する場所である。西海からの侵攻を遠賀川・紫川を遡るルートを想定し、「飛鳥」へは至らない防備がほぼできたと感じたのであろう。
更に最悪の事態が生じても対応できる場所としてこの地を選んだと思われる。それには関門海峡ルートの防御に関して、粛慎・蝦夷への信頼が不可欠である。それも含めた行動だったのだが、民を承服させるには至らなかったようである。葛野郡で見つかった白䴏(白い燕)は、悪いことばかりではない兆し、であろう。
七月に耽羅が朝貢。かなり頻度高くなって来たようである。耽羅は百濟との繋がりが強かったのであろう。一方の新羅とは決して折り合いが良くなかったことが日本への接近だったのかもしれない。前記に記載されていたが、日本は具体的な品物を与えたり、結構手厚く処遇していたようである。勿論、唐への渡航ルート上にある国だったからである。
八月、天智天皇は倭京に出向いた、と述べている(何?)。十月になって高麗に動きがあった。いよいよ兄弟間の決裂が生じ唐が関与し始めたと述べている。この内紛がなかったなら、高麗滅亡はなかったかもしれない・・・高麗は強靭な国であった。
十一月丁巳朔乙丑、百濟鎭將劉仁願、遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等、送大山下境部連石積等於筑紫都督府。己巳、司馬法聰等罷歸。以小山下伊吉連博德・大乙下笠臣諸石、爲送使。是月、築倭國高安城・讚吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城。潤十一月丁亥朔丁酉、以錦十四匹・纈十九匹・緋廿四匹・紺布廿四端・桃染布五十八端・斧廿六・釤六十四・刀子六十二枚、賜椽磨等。
十一月に百濟鎭將劉仁願が「熊津都督府熊山縣令」を送って来て、「筑紫都督府」で迎え、滞在五日ばかりで帰ったと記載している。おそらく今後一切百濟関係で手出しはするな、と言い付けに来たのであろう。百濟の現状も併せて伝えたであろう。いや、もっと強烈に恫喝されたのかもしれない。伊吉連博德・笠臣諸石が送ったと述べている(出自の場所はそれぞれのリンク参照)。
この月に倭國高安城・讚吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城の三つの城を造らせたとのことである。目的は、烽火の情報伝達用の城と思われるが、後に詳細に述べる。閏十一月に耽羅に日常の物を下賜した。上記に耽羅との関係が変化した理由の一つであろう。耽羅は地形上収穫できるものに限りがあったと推測される。
<筑紫都督府> |
熊津都督府・筑紫都督府
「都督府」の文字列は、この段のみの出現である。流れを見る限り「熊津」に中国で軍事あるいは行政機構に対応して「筑紫」に設置したと思われる。
とすれば地形象形されていないように思われるのだが、解読は行ってみるものである。先に「筑紫都督府」を求めてみよう。
頻出の「都」=「者+邑」と分解され、都=山稜が交差するように集まった様と読み解いた。「督」=「叔+目」と分解される。更に「叔」=「尗+又(手)」と分解され、「指を引き締める様」を表す文字と解説される。
目を引き締めて見る様が通常に用いられている意味となるが、地形象形的には、督=山稜の端が隙間なく延びた様と読み解ける。見慣れた文字ではあるが、「府」=「广+付」と分解される。すると、府=山麓にくっ付いた様を表していると読み解ける。
纏めると都督府=山稜が交差するように集まった地(都)で端が隙間なく延びて(督)山麓にくっ付いている(府)ところと紐解ける。図に示した、三輪君が並ぶ地の山稜の端にある高台の場所であることが解る。その山稜の端が一旦窪んで延びたところが筑紫大宰の場所である。
<熊津都督府-熊山縣> |
勿論この文字列が示す地形は軍事・行政機構の中心に相応しい配置である。現地名は北九州市小倉北区黒原、現在は平和公園となっている場所である。
後に天武天皇紀に筑紫大郡、持統天皇紀に筑紫小郡が登場する。「都督府」が「大郡」、その南側の小高いところが「小郡」と推定される。難波大郡・小郡の配置に模したのであろう。
では「熊津都督府」は如何であろうか?…同様に地形を見てみると、何と、いや、地図の解像度ギリギリでそれらしき配置となっていることが判る。
調子に乗って「熊山縣」は見出せるのか?…「縣」=「県(首の逆字)+系」と分解され、縣=尾根に丸く小高いところがぶら下がった様と読み解いた(縣犬養などを参照)。
何とも言いようのないくらいに見事な「熊山(隅にある山)縣」が鎮座していることが解る。送使であった伊吉博德の語学力をもってすれば唐の使者などに全く引けを取らなかったようである。
説明の都合上「對馬國金田城」から始めることにする。「對馬國」、「讚吉國」そして「倭國」と並べられた城は、前記の「筑紫國」の二城、「水城」及び「長門國」の城の設置とは、性格を異にしていたのであろう。
間違いなく、これらの城は、敵船侵入に対する情報伝達の意味を持つものと思われる。当時であれば、その手段は「伝令」と「烽火」であろう。
常時の見張り役を置かなければならないために「城」の設備が必要であったと思われる。即ち戦闘用の城ではなく、城の様式もそれに応じたものであったと推測される。
「對馬國」の中心地は現在の対馬市厳原町と推定した。古くは古事記の天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天菩比命の子、建比良鳥命が祖となった津嶋縣直で登場している地である。
その地を念頭に置いて、「烽火」に適た場所を探すと、現在の「上見坂展望台」が最適の場所であろう。東に開け、かつ浅茅湾侵入の軍船を一早く見つけ、「烽火」を上げると同時に麓に駆け知らせる役目が果たせる場所と思われる。上見=上島が見える、おそらく、そうであろう。
幾度か登場した「金」=「今+ハ+土」と分解される。これに含まれる「今」の文字形を用いた地形象形表記と解釈して来た。この平らな頂(田)の形をそのまま「金」と表現したと思われる。
通説は浅茅湾に突出た城山の尾根に築かれた場所とされている。立派な石垣のある山城なのであるが、情報伝達目的ではないように伺える。「金田」の名称も不似合いであり、敵船発見して「烽火」だけでは、天候に左右されることになろう。前記の「水城」と同じく、これも遺跡ありき、の解釈と思われる。
「讚吉國」は、讚岐國を表すと思われるが、何故別表記をしたのかも含めて読み解いてみよう。古事記の伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みで登場する国名である。現在の北九州市若松区の北東部と推定した。そもそも通説は「伊豫之二名嶋」を現在の四国に比定するのだから、全く異なる結果に行き着くことになる。
「讚岐」の表現は、耕地にされた極限られた地域を表したものである。確かに人々が住まう中心の地であったことは確かであろう。
上記の「山田郡」と表現される場所は含まれていないと気付かされる。すると、もっと広い範囲を示す表記が求められたのであろう。
吉=蓋+囗と分解される。前記の伊吉博德の場合に類似する表現である。山稜の端が延びて曲り、「蓋」をしたような地形である。これで読み解けた。
図に示した通り、現在の北九州市若松区は若松半島とも呼ばれ、洞海湾を挟んで「蓋」をするような地形を示している。飛鳥板蓋宮が思い起こされる。通説は「板で葺いた宮」である。
「讚」=「言+兟+貝」と分解される。讚=谷間の耕地の積み重ねられた田が先まで延びた様と読み解ける。纏めると讚吉國=谷間の耕地の積み重ねられた田が先まで延びたところが蓋をしたような国と紐解ける。四国の讃岐には、「讚岐」は見出せそうであるが、「讚吉」を求めることは叶わないであろう。単に同音文字で置換えた?…何故?…詭弁となろう。
「山田郡」は、その通りの山の中にある田を表している。そして「屋嶋」の「屋」=「尸+至」であり、屋=尾根が至るところと読める。即ち、尾根が至るところは「島」ではないことを意味している。「嶋」=「山+鳥」と分解し、嶋=山が鳥の形と読み解く。古事記、書紀を通じて頻出の文字解釈である。城があったのは、現地名北九州市若松区大字小石にある椿山の山頂付近だったと推定される。
香川県にある屋島が通説の比定地のようであるが、現在は陸続きだが当時は「島」であったと丁寧に説明されている。
その通りであるが、「島」では「屋」の文字が示す意味と矛盾することになる。都合の良い時には当時は・・・それで罷り通っているから、不思議な世界である。
「倭國」と冠するのは「倭國」の境を暗示しているのであろう。倉山田石川大臣が逃げた
倭國境の今來大槻の近隣と思われる。
すると「高麗」の地が見えて来る。蘇我高麗、高麗宮知・狛堅部子麻呂などの出自の場所である。
頻出の高=皺が寄ったような様、安=宀+女=山麓に挟まれた嫋やかに曲がる谷間と解釈した。城は、この皺だらけの谷間の上にあったと推定される。皺に従って尾根は北から高城山~諌山~大久保山(苅田アルプス)の連山になっている。おそらく城は諌山の北側の少し平らに広がった場所に造られたのではなかろうか。
突出している高城山の山頂が物見及び烽火の現場となろう。倭國外を遥か向こうまで見渡せる絶好の場所と思われる。幾人かの人のトレッキングレポート参照させて頂いた。こう読み解いてくると「高城」は立派な残存地名のようである。現地名は、境ではなく、この山稜を含めて京都郡苅田町に属している。
尚、通説の「倭國高安城」は信貴生駒山系に据えられているようである。
「對馬國金田城」は對馬國の防衛を主とし、烽火は余程天候に恵まれない限り、140km近く離れた「讚吉國屋嶋城」に伝達することは叶わなかったであろう。
早船を仕立てての伝令に頼ることになる。それでもいざという時には、その役割を果たせかもしれない。
次の「屋嶋城」が得た情報は、如何に伝達されたのであろうか?…図に背後の城の配置を示した。
すると何とも絶妙に各城が配置されていることが解る。逆に言えば、絶妙な位置に「讚吉國屋嶋城」が設置されていたのである。
最奥の「倭國高安城」で、およそ23kmであり、些か距離はあるが、目視確認できる配置であろう。最悪、伝令は「筑紫國椽城」に早船すれば、後は駅馬で「飛鳥」に伝達することができる。途中の城で烽火を上げれば、「高安城」に届き(大野城間約11km)、「近江大津宮」に直行できる。
これだけハードが整えば様々なソフトが浮かび上がって来るようである。限られた情報伝達手段の中で、実に見事な防衛情報網を作り上げたものである。各城は個別に存在しながら、巧みに張り巡らされた網の「目」の役割を果たすべく、配置されていたことが解明されたように思われる。通説の「倭國高安城」は信貴生駒山系に据えられている。引き延ばされて「網の目」とはなっていない、かもしれない。
調子に乗って「熊山縣」は見出せるのか?…「縣」=「県(首の逆字)+系」と分解され、縣=尾根に丸く小高いところがぶら下がった様と読み解いた(縣犬養などを参照)。
何とも言いようのないくらいに見事な「熊山(隅にある山)縣」が鎮座していることが解る。送使であった伊吉博德の語学力をもってすれば唐の使者などに全く引けを取らなかったようである。
對馬國金田城
説明の都合上「對馬國金田城」から始めることにする。「對馬國」、「讚吉國」そして「倭國」と並べられた城は、前記の「筑紫國」の二城、「水城」及び「長門國」の城の設置とは、性格を異にしていたのであろう。
<對馬國金田城> |
常時の見張り役を置かなければならないために「城」の設備が必要であったと思われる。即ち戦闘用の城ではなく、城の様式もそれに応じたものであったと推測される。
「對馬國」の中心地は現在の対馬市厳原町と推定した。古くは古事記の天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天菩比命の子、建比良鳥命が祖となった津嶋縣直で登場している地である。
その地を念頭に置いて、「烽火」に適た場所を探すと、現在の「上見坂展望台」が最適の場所であろう。東に開け、かつ浅茅湾侵入の軍船を一早く見つけ、「烽火」を上げると同時に麓に駆け知らせる役目が果たせる場所と思われる。上見=上島が見える、おそらく、そうであろう。
幾度か登場した「金」=「今+ハ+土」と分解される。これに含まれる「今」の文字形を用いた地形象形表記と解釈して来た。この平らな頂(田)の形をそのまま「金」と表現したと思われる。
通説は浅茅湾に突出た城山の尾根に築かれた場所とされている。立派な石垣のある山城なのであるが、情報伝達目的ではないように伺える。「金田」の名称も不似合いであり、敵船発見して「烽火」だけでは、天候に左右されることになろう。前記の「水城」と同じく、これも遺跡ありき、の解釈と思われる。
讚吉國山田郡屋嶋城
「讚吉國」は、讚岐國を表すと思われるが、何故別表記をしたのかも含めて読み解いてみよう。古事記の伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みで登場する国名である。現在の北九州市若松区の北東部と推定した。そもそも通説は「伊豫之二名嶋」を現在の四国に比定するのだから、全く異なる結果に行き着くことになる。
<讚吉國屋嶋城> |
上記の「山田郡」と表現される場所は含まれていないと気付かされる。すると、もっと広い範囲を示す表記が求められたのであろう。
吉=蓋+囗と分解される。前記の伊吉博德の場合に類似する表現である。山稜の端が延びて曲り、「蓋」をしたような地形である。これで読み解けた。
図に示した通り、現在の北九州市若松区は若松半島とも呼ばれ、洞海湾を挟んで「蓋」をするような地形を示している。飛鳥板蓋宮が思い起こされる。通説は「板で葺いた宮」である。
「讚」=「言+兟+貝」と分解される。讚=谷間の耕地の積み重ねられた田が先まで延びた様と読み解ける。纏めると讚吉國=谷間の耕地の積み重ねられた田が先まで延びたところが蓋をしたような国と紐解ける。四国の讃岐には、「讚岐」は見出せそうであるが、「讚吉」を求めることは叶わないであろう。単に同音文字で置換えた?…何故?…詭弁となろう。
「山田郡」は、その通りの山の中にある田を表している。そして「屋嶋」の「屋」=「尸+至」であり、屋=尾根が至るところと読める。即ち、尾根が至るところは「島」ではないことを意味している。「嶋」=「山+鳥」と分解し、嶋=山が鳥の形と読み解く。古事記、書紀を通じて頻出の文字解釈である。城があったのは、現地名北九州市若松区大字小石にある椿山の山頂付近だったと推定される。
<倭國高安城> |
その通りであるが、「島」では「屋」の文字が示す意味と矛盾することになる。都合の良い時には当時は・・・それで罷り通っているから、不思議な世界である。
倭國高安城
「倭國」と冠するのは「倭國」の境を暗示しているのであろう。倉山田石川大臣が逃げた
倭國境の今來大槻の近隣と思われる。
すると「高麗」の地が見えて来る。蘇我高麗、高麗宮知・狛堅部子麻呂などの出自の場所である。
頻出の高=皺が寄ったような様、安=宀+女=山麓に挟まれた嫋やかに曲がる谷間と解釈した。城は、この皺だらけの谷間の上にあったと推定される。皺に従って尾根は北から高城山~諌山~大久保山(苅田アルプス)の連山になっている。おそらく城は諌山の北側の少し平らに広がった場所に造られたのではなかろうか。
突出している高城山の山頂が物見及び烽火の現場となろう。倭國外を遥か向こうまで見渡せる絶好の場所と思われる。幾人かの人のトレッキングレポート参照させて頂いた。こう読み解いてくると「高城」は立派な残存地名のようである。現地名は、境ではなく、この山稜を含めて京都郡苅田町に属している。
<各城の配置> |
三つの城の場所が推定されると、それぞれの場所の意味も見えて来たように感じられる。
「對馬國金田城」は對馬國の防衛を主とし、烽火は余程天候に恵まれない限り、140km近く離れた「讚吉國屋嶋城」に伝達することは叶わなかったであろう。
早船を仕立てての伝令に頼ることになる。それでもいざという時には、その役割を果たせかもしれない。
次の「屋嶋城」が得た情報は、如何に伝達されたのであろうか?…図に背後の城の配置を示した。
すると何とも絶妙に各城が配置されていることが解る。逆に言えば、絶妙な位置に「讚吉國屋嶋城」が設置されていたのである。
最奥の「倭國高安城」で、およそ23kmであり、些か距離はあるが、目視確認できる配置であろう。最悪、伝令は「筑紫國椽城」に早船すれば、後は駅馬で「飛鳥」に伝達することができる。途中の城で烽火を上げれば、「高安城」に届き(大野城間約11km)、「近江大津宮」に直行できる。
これだけハードが整えば様々なソフトが浮かび上がって来るようである。限られた情報伝達手段の中で、実に見事な防衛情報網を作り上げたものである。各城は個別に存在しながら、巧みに張り巡らされた網の「目」の役割を果たすべく、配置されていたことが解明されたように思われる。通説の「倭國高安城」は信貴生駒山系に据えられている。引き延ばされて「網の目」とはなっていない、かもしれない。