2020年7月12日日曜日

天命開別天皇:天智天皇(Ⅳ) 〔432〕

天命開別天皇:天智天皇(Ⅳ)


百濟王豐璋は百濟復興軍の要であった鬼室福信を殺害してしまった。内紛は付き物の状態であろうが、書紀の記述にはその事件に日本軍は関わっていなかったような記述であった。真相は闇の中であろうが、「白村江」での損失は、数量的な真偽は別としてもかなりのものであったと推測される。勿論、中国及び朝鮮半島内における戦闘の実体を目の当たりすることができたであろうが・・・。

中国史書の取扱いが「倭兵・倭衆」であって、国対国の戦いとなっていないことも、想定内のことであったと推測される。いずれにしても天皇は、安心・安全な国造りを目指すこととなる。戦後処理も含めた記述が続く。即位三年(西暦664年)二月の記事からである。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

三年春二月己卯朔丁亥、天皇命大皇弟、宣増換冠位階名及氏上・民部・家部等事。其冠有廿六階。大織・小織・大縫・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上・大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建・小建、是爲廿六階焉。改前花曰錦、從錦至乙加十階。又加換前初位一階、爲大建・小建二階。以此爲異、餘並依前。其大氏之氏上、賜大刀。小氏之氏上、賜小刀。其伴造等之氏上、賜干楯・弓矢。亦定其民部・家部。三月、以百濟王善光王等、居于難波。有星、殞於京北。是春、地震。

「天皇命大皇弟」は後の天武天皇、初登場である。冠位をあらためて二十六階(前記十九階)に増やしたが、それぞれに「中」の位を設けている。入口の「建」は、やはり分かり易くて好まれたようである。新設の「中」には下賜がないのはまだ該当者がいなかったからかもしれない。

「百濟王善光王」(後に百濟王を賜姓。居処はこちら❶)は「豐璋」の弟、帰国せずに難波に住まっていたようである。百濟の王子名は些か複雑で、この王も不詳との説もある。書紀の記述からすると「人質」の解釈が妥当と思われる。星が流れて、地震とは、何かの予兆と言いたいのであろうか・・・。

夏五月戊申朔甲子、百濟鎭將劉仁願、遣朝散大夫郭務悰等、進表函與獻物。是月、大紫蘇我連大臣薨。(或本、大臣薨注五月。)六月、嶋皇祖母命薨。

五月に百濟鎭將「劉仁願」が朝散大夫「郭務悰」を遣わしたと記載している。白村江以降の唐側の動静を知る上に置いて重要な役割を果たしたと思われるが、その目的などを読み切れていないのが現状であろう。この後、度々登場することになる。

同じ月、蘇我連大臣、翌月には嶋皇祖母命(舒明天皇の母親:伊勢寶王)が亡くなったと伝えている。いつの間にやら大臣になっていた「蘇我連」であるが、書紀では初登場である。
 
<蘇我連大臣>
● 蘇我連大臣

「蘇我連」は「蘇我倉麻呂」の息子で、倉山田石川麻呂大臣とは兄弟になる。「乙巳の変」に登場した彼らの多くが大臣経験者となるわけで、「宗賀稲目」系列も含めると日本の一時代に大臣輩出の地であった。

現在の京都郡苅田町の広い谷間、時代の変遷と共に移り変わるのは必定としても、隔世の感がある地と思われる。

「連」=「連なり延び出る様」であるが、別名があって、より詳細な出自の地形を表していると思われる。それを求めてみよう。

「武羅自」の文字列は頻出であり、そのまま解釈できる。武羅自=矛のような地(武)が連なった(羅)端(自)のところ「牟羅志」も同様に頻出であり、牟羅志=[牛]の地形の谷間が連なって(羅)蛇行する川(志)があるところと読み解ける。

冬十月乙亥朔、宣發遣郭務悰等勅。是日、中臣內臣、遣沙門智祥賜物於郭務悰。戊寅、饗賜郭務悰等。是月、高麗大臣蓋金、終於其國、遣言於兒等曰「汝等兄弟、和如魚水勿爭爵位。若不如是必爲隣咲。」

十月に入って「郭務悰」は帰国することになったと述べている。五月に発令された以後の消息は記載されておらず、五ヶ月近く何処で何をしてのか不明である。中臣内臣(藤原鎌足)が使者を遣り、饗応して送り出すようにしたが、実際に帰ったのは十二月である(下記)。「高麗大臣蓋金」が息子達に爵位を争うことのないようにと言う遺言をしたと伝えるが、これは後の高麗滅亡の布石であろう。

十二月甲戌朔乙酉、郭務悰等罷歸。是月、淡海國言「坂田郡人小竹田史身之猪槽水中忽然稻生、身取而收、日々到富。栗太郡人磐城村主殷之新婦床席頭端、一宿之間稻生而穗、其旦垂頴而熟、明日之夜更生一穗。新婦出庭、兩箇鑰匙自天落前、婦取而與殷、殷得始富。」

十二月十二日に「郭務悰」が帰ったとのことである。なんと発令から半年余りが経ったわけである。読み手に憶測を呼び起こす記述であろう。未だに憶測の定説はない、かもしれない。続けて「淡海國」の話に飛ぶ。極めて重要な「淡海」が登場する。勿論通説は、迷うことなく「淡海」→「近江」と解釈する。

書紀中に「淡海」は二度出現するが、「淡海國」としてはこれが最初で最後である。古事記に頻出の「(近)淡海」を書紀は「近江」と記載していることは、既に幾度か述べた通りであるが、書紀編者が「淡海」と記したものを”勝手に”「近江」と解釈する真っ当な理由は存在しない。後代の惚けた輩が「近くにある淡い海」=「近江」とした解釈に捉われた寝惚けた同輩となる。
 
<蚊屋野~佐佐紀山>

淡海國

これ以降、幾つかの地名、人物名などが記載されている。即ち「淡海國」に関わる場所を表す表記と思われる。

古事記で「淡海國」は例えば、淡海之久多綿之蚊屋野とか、淡海國賤老媼(置目)とかが記載されている。右図の左側が「淡海」(古遠賀湾とも言われる)である。

現地名で言えば遠賀郡水巻町~北九州市八幡西区~直方市に至る遠賀川の東畔の地域に用いられていることが分かる。

● 坂田郡人小竹田史身

「小竹」は、古事記の天石屋の出来事の記述に「手草結天香山之小竹葉而訓小竹云佐佐」と記されている(小竹=佐佐と訓じる)。

すると「淡海之佐佐紀山」の西麓を示していると思われる。現地名は北九州市八幡西区畑である。金剛山山系を「笹」に模した表記と紐解いた。通説では、勿論琵琶湖の東側に国譲りされている。
 
<淡海國坂田郡小竹田史身・猪槽>
既出の「史」=「中+又」と分解され、すると山系の西南麓に弓なりなった山稜の端が延びている地形が見出せる。頻出の「坂」=「崖のように山稜が延びた様」である。

「田」は決して広くはないが、崖下にある弓なりに延びる山稜に囲まれたところを表している。おそらくこの人物は、現在の毘沙門天王辺りに住まっていたのであろう。

この弓なりに曲がった山稜の南側は、現在の直方市との境である。「巨勢」一族の住まっていた地との境なのである。度々遭遇する、今に残る”国境”であろう。

「猪槽水中忽然稻生」と記述され、日々収穫して富を得たと訳されている。これも地形象形と重ねた表現と思われる。何で「猪槽」なのか?…図に示した場所が「猪槽」の地形だからである。

「猪」=「犬+者」と分解すると猪=平らな頂の麓(犬)で山稜が交差するように集まっている(者)ところと読み解ける。大長谷若建命(雄略天皇)紀に登場した引田部赤猪子で用いられている。「者」の文字は記紀を通じて多用される重要な文字と思われる。
 
<淡海國栗太郡磐城村主殷・床席・鑰匙>
● 栗太郡人磐城村主殷

同じような不思議な物語が載せられている。上記の「坂田郡」の場所がヒントになって、求められることになった。「栗」の地形象形は、「采女」の地で数多く出現した。

「栗」には雌花と雄花があり、それを地形象形した表記であると読み解いた。

すると現在の金剛山~雲取山が作る巨大な雌花とその脇から生え出た雄花の地形を表していることが解る。

「磐城」も頻出の文字列で、磐城=山稜の端が広がり盛り上がったところと読み解ける。「村主(ムラヌシ)」はそのままの表記と見做すことにする。「殷」=「身の逆字+殳(棒状の戈)」と解説されている。即ち、殷=弓なりに曲がった棒戈の様と読み解ける。纏めると、磐城村主殷=山稜の端が広がり盛り上がった地で弓なりに曲がった棒戈のような台地の麓の真っ直ぐに延びたところを表していると解釈される。

新婦床席頭端、一宿之間稻生而穗」と記載されている。「鑰匙」(鍵のような匙)であるが、彼らの居場所を挟むように山稜の端がギザギザとした山稜が延びていることが判る。正に天(金剛山)より落ちてきたような「鍵」であり、「村主殷」はその「鍵」で多くの富を得たと述べている。

「淡海國」が急速な発展をしていることを記載しているのであるが、書紀の記述は一見脈絡のない記述が実は繋がっていることを示すようにも受け取ることができる。即ち、「郭務悰」一行は長期滞在をこの地で過ごしたのではなかろうか。彼らの食い扶持を発展する地に委ねたこと、また遠賀川を遡った行程における飛鳥への侵入防御を確かめることも兼ねていたのかもしれない。

通説は、この逸話の舞台を現地名の草津~栗東~彦根~米原~長浜辺りの琵琶湖東南畔としているようである。書紀の「淡海國」を「近江國」に改竄した結果である以上、云々するほどのことではないが、例の如く、何故この逸話がここに挿入されたか、意味不明のままとなろう。ましてや、郭務悰」一行が「近江大津宮」の東方に侵入していたなど、到底考えつかない出来事となってしまうであろう。

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これまでに古事記の「淡海」及び「近淡海」を書紀は「近江」と”改竄”したと述べて来た。書紀全体を読み下してからのことかもしれないが、どうやら書紀が「近江」としたのは、古事記で「近淡海(國)」と記述された場所に限られるように思われる。書紀が地形象形表記を立派に行っていることが判りつつある中で、「近」を残しているならば、即ち、「近」=「辶+斤」=「辶+⺁+T」と分解して解釈された…近=斧で二つに切り分けられたような様…結果を忠実に引継いていることになる。

一方で出雲関連など、奈良大和を舞台とするには都合の悪い「淡海」を”割愛”することにした。言い換えれば、自らは”改竄”せず、読み手に”改竄”させる、何とも手の込んだ記述を行ったのである。決して褒められることではないが、古代の日本人(中国江南の住人)の”凄さ”を偲ばせる事柄であろう。水田稲作を見出し、島国日本の狭隘な谷間(棚田)に展開した人々の能力は、やはり、「尋常」ではなかったと言えそうである。

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是歲、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等置防與烽。又於筑紫築大堤貯水、名曰水城。
 
<水城>
「對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等」に防人と烽火を設置したと述べている。最低限の情報伝達網の整備というところであろう。そして筑紫に「水城」を造ったと記している。
 
水城

前記で「築大堤貯水」は海岸線に堤を築くことを示しているとした。上陸する浜を可能な限りに無くし、海に接するように堤城を造った。それを筑紫の海の「貯水」と表現したのである。

図は推定した当時の海岸線に沿った「水城」の場所を示した。東から高坊、城野町、下城野町に跨っている。尚、図中の「大野城」については後に登場する。その時点で纏めて述べることにする。

四年春二月癸酉朔丁酉、間人大后薨。是月、勘校百濟國官位階級、仍以佐平福信之功、授鬼室集斯小錦下。其本位達率。復、以百濟百姓男女四百餘人、居于近江國神前郡。三月癸卯朔、爲間人大后、度三百卅人。是月、給神前郡百濟人田。

即位四年(西暦665年)二月。「鬼室集斯」は「福信」の子とする系図もあるとのこと、出自場所からしても息子の可能性が高いと思われる(後に「集信」も登場する、果たしてどちらが?…両方?)。百濟百姓男女四百余人を「近江國神前郡」に住まわせ、翌月には田を与えた、と伝えている。
 
近江國神前郡・蒲生郡

「近江國」は古事記の近淡海國である(これからは”改竄”と言わないことにする)。その地に二つの郡を求める。尚、蒲生郡は数年後(即位八年)に彼らが移された場所である。未開の土地を彼らを使って開拓して行ったのである。首領には、それなりの冠位を与えるのだから、優れものの戦略であろう。
 
<近江國神前郡・蒲生郡>
近江國神前郡の「神前」は容易に関連する記述を思い起こさせる名称である。古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の御子、日子坐王の系譜に登場する神大根王・亦名八瓜入日子王が居た。

これに含まれる「神」を示していると思われる。その「前」となれば、現在の京都郡苅田町にある旭ヶ丘ニュータウンと名付けられたところと推定される。

この地は蘇我稲目一族が所狭しと住まった地であるが、全く彼らが手を付けなかった場所なのである。現地名に残る「葛原」が示す通り、渇いた荒れ地であったと思われる。

おそらく開拓をさせてはみたものの、極めて困難な地であったと思われる。困った末の移住だったのかもしれない。また、蘇我一族が権勢を奮っていた時には手が出せなかった地と言えるであろう。時代は確実に流れていたのである。

近江國蒲生郡の「蒲生」は「蒲」=「艸+浦」と分解される。通常は、「水際にある草」の解釈であろうが、地形象形としては「艸」=「並んだ山稜」と読み解く。蒲生八幡神社(伊勢神宮)の地は、今に残る地名と思われる。そして「蒲生」の地形である。現地名は京都郡苅田町新津である。

この地も現在は大規模団地となっている。生まれた国から遠く離れた地に移り、辛酸を舐めて生き永らえたのではなかろうか。生き延びるための移住、人はその歴史を繰り返して来たように思えるし、現在も未来にも続くのであろうか・・・。

秋八月、遣達率答㶱春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城。耽羅遣使來朝。九月庚午朔壬辰、唐國遣朝散大夫沂州司馬上柱國劉德高等。(等謂、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰、凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉。)冬十月己亥朔己酉、大閲于菟道。十一月己巳朔辛巳、饗賜劉德高等。十二月戊戌朔辛亥、賜物於劉德高等。是月、劉德高等罷歸。是歲、遣小錦守君大石等於大唐、云々。(等謂、小山坂合部連石積・大乙吉士岐彌・吉士針間。蓋送唐使人乎)

八月になって、百濟からの亡命者に築城させている。「稻城」の時代ではなくなったのである。造った場所が「長門國」と筑紫國に二城(大野と椽)と記載されている。耽羅から使者があった。九月に唐が劉德高等を派遣したと伝えている。詳細は前出の郭務悰以下の約二百五十四人で、七月二十八日に対馬、九月二十日に筑紫に至り、二十二日に文書を差し出したと述べられている。この度は唐の正使となっている。

十月十一日に「菟道」で検閲を行った。結果的にここを通過させたのであろう。十一月十三日に饗応した。十二月十四日に下賜、この月に劉德高等は帰ったと記載している。また、この年に遣唐使を送ったようであるが、唐の使者の送者だったかも、と記されている。

<椽(基肄)城>
筑紫國大野城・椽城

百濟様式の山城を造るように命じられた人物は、「弖禮」から逃げた中に「憶禮福留」がおり、後の冠位授与にも「答㶱春初」と共に名前が挙げられている。

「大野城」の場所は、上記の「水城」に併記した。その東側にある小高いところ(標高約18m)に造られていたと推定される。

「椽城」の場所を求めてみよう。同じ筑紫國内である。「椽」=「木+彖」と分解される。「彖」は「豚の口」を象った文字と解説されている。全くそのままの地形が見出せる。

「磐瀬行宮」があった、即ち、前記した古事記の「勝門比賣」の地の先端、海に面した高台(標高約33m)である。西海を眺めるには最適な場所であろう。「娜大津」が如何に重要な要所であったことを繰り返し伝えているようである。

「椽」の文字に関連しては、この地は古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、神八井耳命が祖となったところ、筑紫三家連の場所である。「家」に「豚」が含まれている。実に古のことを熟知したような命名であろう。後付けかもしれないが・・・現地名は北九州市小倉北区赤坂である。

調べると別表記があって「基肄城」と表記されるようである。「基」=「其+土」と分解され、「箕の地形」を表す文字と解釈される頻出の文字である。「肄」=「𠤕+聿」と分解される。「𠤕」=「行き止まる様」を表す文字と知られる。すると「肄」=「筆が行き止まった様」と読み解ける。纏めると、基肄=箕の地形がある筆のようなところが行き止まったところと解釈される。正に別名として受け入れられる表記と思われる。
 
<長門國>
長門國

城名が記載されおらず、情報が少なくなるが、「長門國」を求めてみよう。この文字列は書紀中に二度、残りは天武天皇紀に登場するのみである。

通説は、長門とくれば・・・なのであるが、殆どお目に掛からない場所に国防上の設備を造るか?…と思いたくなるが、それはさて置いて・・・。

「門」がキーワードであり、伊勢神宮の外宮の場所に登場した御門之神、出自は天石門(戸)別神であり、この地に降臨して別名が付けられたと記載されていた。数ある「門」の中の「長い門」の地を「長門國」と称していると解読される。なんと「天石屋」から繋がる遠大な物語なのである。

現在は大規模団地となって些か変形が見受けられるが、基本の地形は十分に伺うことが可能である。即ち、この谷間を挟む地を「長門國」と称したのであろう。城名が無く、特定は難しいが、おそらく西側の高台の上に建てられたのではなかろうか。
 
<築城配置>
隣接するところが「石見國」となる。何とも配慮された配置となっている。山口県と島根県、あらためて調べると、書紀中に「石見國」は一度だけの登場であった。

そしてこれらの国は頻出の地に隣接する重要な場所だったのである。「長門」と「穴戸」を同じと解釈するなど、以ての外であろう。

築城された四つの城の配置を図に示した。北に「椽城」~「水城・大野城」~「長門國城」と直線距離で、3~4km間隔で造られていたことが解る。これだけを見ても高い戦略性を伺うことできる。

何と言っても中央に当たる「水城・大野城」での鉄壁な防御体勢が売りであろう。抑えが「長門國城」である。「白村江」での敗戦は水際戦術の重要さ、唐(おそらく新羅も)の強力さを思い知らされたと思われる。

「筑紫」は交通の要所、故にそこを突破されたら、飛鳥は丸裸のように感じられたのではなかろうか。神倭伊波禮毘古命(神武天皇)も、少し東側にずれるが、このルートで侵攻なされた。いや、しようと思ったが、強力な抵抗にあって、大幅な戦略転換を余儀なくされたのである。いぜれにせよ、侵攻最短のルートは鉄壁にしておくことが肝要であろう。

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通説の防衛体勢については「水城」を中心に様々な説が述べられているようである。そもそもこの城は現在の太宰府市水城辺りと比定され、地名にもなっている。あまりにも実しやかに語られている故に、一言、簡単に述べてみよう。現在の比定場所は、一体何を防御しようとしていたのか?…大宰府?…まさかの行宮の朝倉橘廣庭宮?…この「水城」を突破しても広大な筑紫山地に阻まれ、有明海に入ればUターンであろう。逆に有明海からの侵入に対しての備えは?…意味不明な事柄の山積みであろう。守る物もなく、防御の場所が頓珍漢、現物が存在するのは事実として、構造上「貯水」でもないものは書紀の「水城」とは別物とすべきであろう。

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菟道

「劉德高等」を検閲した場所と記載されている。筑紫からいきなり「菟道」とは何とも手抜きの記述なのだが、しかも難波津をスルーしていることも怪しげな感じである。通説は、ほぼお手上げの状態、それどころか”改竄”しかねない有様のようである。「菟道」とくれば「宇治」とする。地名有りきの解釈では、自らの首を絞めてしまうことになろう。

「菟道」は書紀中で、それなりに多用された文字である。初出は垂仁天皇紀であり、その後も天武天皇紀まで引続き登場する。前記で「菟」の文字は、古事記と書紀で、全く異なる地形象形を行っていると述べた。
 
<菟道>
菟=艸+免=山稜に挟まれた分娩しているような地形のところ
と読み解いた。大きく長く深く切れ込んだ谷間の地である。これならば至るところとは言えないまでもそれなりに存在する地形であろう。

都に入る道筋で探すと、実に立派な「菟」があり、かつ、これも立派な道=辶+首の地形が見出せる。現地名は北九州市小倉南区呼野辺りである。竜ヶ鼻の北麓に当たる。

神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が「飛鳥」(当時は師木)に向かう途中で兄・弟宇迦斯と遭遇した場所、訶夫羅前である。因みに書紀では「菟道」の北側を「菟田」(古事記の宇陀)と呼んでいるようである。

そこから先の細い谷間を通ると金辺峠となる。後は押坂(忍坂)を下れば「飛鳥」に届く。正に峠越えの難所であり、その直前の検閲だったと述べている。

筑紫から真っすぐに南下すると、即ち水城・大野城の裏へと入り、長門國の城下を通れば、「菟」の谷間に至る。この最新の防衛設備を、一部は未完成であっただろうが(築城始めて一~二ヶ月か?)、軍が通ることができない狭隘な道を最後に紹介したことになる。

この峠は呼野側(北側)からは、かなりの急峻な坂で、かつての鉄道はスイッチバック形式で登っていたと知られる。越えれば忍(押)坂のなだらかな傾斜となる。真に防御に適した峠である。また、対馬から筑紫に移るのに一ヶ月半以上も要していることは、デモルート上の築城に深く関連することだったのではなかろうか(劉德高一行が対馬到着後に発令、「水城」は昨年に着手)。

そもそも「飛鳥」は優れた防御網に囲まれた地なのである。それに加えての防御、不安はなし、と言えないまでも十分な勝算を持って臨んだ出来事であったと思われる。勿論、肅愼國・蝦夷國を経て難波津へのルートを開示することはあり得ないことであろう。書紀は奈良大和あるいは近江大津に彼らを導かなければならない故に、その間にある「菟道」を持ち出し、曖昧にせざるを得なかったのである。
 
<吉士岐彌・吉士針間>
遣唐使を命じられた守君大石及び坂合部連石(磐)積は既出である。残りの初登場の「吉士岐彌・吉士針間」の出自の場所を求めておこう。

● 吉士岐彌・吉士針間

いよいよ「吉士」も埋まってしまうかもしれないが、果たして席は空いているのであろうか・・・。

何だか空き場所にすっぽりと嵌ったような感じである。

どうやら送使のような感じがするが、定かではない。「吉士」は、凄まじいばかりの人材輩出地となっていたようである。それだけ食うに困らずの教育水準が高かったのであろう。書紀における「東國」との境に近付いている。仕分けがきちんとなされているのであろうか、今後の課題でもある。