天命開別天皇:天智天皇(Ⅲ)
百濟救援を本格化したのであるが、些か懸念すべきことも発生しているようである。唐・新羅による高麗討伐も激しさを増しつつある中で、唐は百濟の占領統治には決して積極的ではなく、資源を高麗に向ける。一方の新羅は、滅亡した百濟の地をここぞとばかりに、勿論本来の新羅の思惑でもあるが、簒奪しようとする状況である。
高麗・百濟の救援、果たして如何なる決着をみるのであろうか、いよいよ一つの時代の変曲点に差し掛かろうとしている。即位二年(西暦663年)の続きである。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちら、こちらなどを参照。
六月、前將軍上毛野君稚子等、取新羅沙鼻岐奴江二城。百濟王豐璋、嫌福信有謀反心、以革穿掌而縛。時、難自決不知所爲、乃問諸臣曰、福信之罪既如此焉、可斬以不。於是、達率德執得曰、此惡逆人不合放捨。福信、卽唾於執得曰、腐狗癡奴。王、勒健兒斬而醢首。
三月に派遣された将軍の活躍について、前軍の上毛野君稚子は新羅の二城を奪取したが、「豐璋」は「福信」を信頼することができず、遂に臣下に斬首させてしまったと述べている。「福信」あっての百濟復興と思っていた日本側にとっては信じ難い事件となってしまったようである。
沙鼻岐奴江二城
日本軍が奪い取ったと言う二つの城が「沙鼻岐奴江」にあったと記載しているのであるが、全くその場所を特定されていないのが現状のようである。
ここも音読みの類似で行ったのであろうが、朝鮮半島南部の中央~東側の地名である。これでは百濟救援ではなく、新羅討伐になろう。「尚州」は新羅北部の中心の地である。廃棄すべき説と思われる。では何処に二城の場所を求めるか?…「沙鼻・岐奴」・「江」と区切って読んでみよう。
<沙鼻岐奴江二城> |
「沙」=「水辺」、「鼻」=「鼻の形」とすると沙鼻=水辺が鼻の形をしているところと読むことができる。「沙」であって山稜ではないことが肝要である。
すると、微少な地形となるが、特徴的な場所がある湖が見出せる。現地名の全羅北道完州郡東上面(大雅貯水池)である。
「鼻」は馬、牛などであろうか、「鼻」=「端」=「花」など同源の文字と解説されているが、それを具現化したような地形である。
岐奴=嫋やかに曲がる山稜が岐れたところ庚川面(庚川貯水池)である。前記した新羅が錦江を遡る唐軍と合流するために百濟に侵入した場所、
二城の場所は定かではないが、百濟侵入経路脇にあったとすれば、図に示した辺りではなかろうか。百濟侵攻を目論み、その進入路に新羅が造った城を奪取したと伝ているのである。泗沘城奪還のために蜂起した福信等の後方支援として申し分のない働きであった、と自賛しているのであろう。
秋八月壬午朔甲午、新羅、以百濟王斬己良將、謀直入國先取州柔。於是、百濟知賊所計、謂諸將曰、今聞、大日本國之救將廬原君臣、率健兒萬餘、正當越海而至。願、諸將軍等應預圖之。我欲自往待饗白村。戊戌、賊將至於州柔、繞其王城。大唐軍將率戰船一百七十艘、陣烈於白村江。戊申、日本船師初至者與大唐船師合戰、日本不利而退、大唐堅陣而守。己酉、日本諸將與百濟王不觀氣象而相謂之曰、我等爭先彼應自退。更率日本亂伍中軍之卒、進打大唐堅陣之軍、大唐便自左右夾船繞戰。須臾之際官軍敗績、赴水溺死者衆、艫舳不得𢌞旋。朴市田來津、仰天而誓・切齒而嗔、殺數十人、於焉戰死。是時、百濟王豐璋、與數人乘船逃去高麗。
八月十三日、「福信」が亡き者にされた隙に乗じて新羅は「州柔」への侵攻を謀った。また百濟王は、日本が「廬原君臣」を将として兵一万余りを送ったのして来るとの一報を得て、「白村」で出迎えようとしたと記載している。十七日には新羅が「州柔」を取り囲み、一方唐は戦船百七十艘を「白村江」で戦列を整えたと述べている。
八月二十七日には日本の先陣が到着し、唐と戦ったが、敗退してしまった。この状況も把握しないまま、日本の諸将と百濟王は暢気なことを語り合って、更に戦いを仕掛けたが、惨敗してしまったと伝えている。。
『旧唐書』の百濟國関連にもう少し詳しく記載されている。抜粋すると(『旧唐書』の解釈はこちらを参照)・・・、
於是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍以進。仁軌乃別率杜爽、扶餘隆率水軍及糧船。自熊津江往白江、會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口、四戰捷、焚其舟四百艘、煙焰漲天、海水皆赤、賊衆大潰。餘豐脫身而走、獲其寶劍。偽王子扶餘忠勝、忠志等、率士女及倭衆幷耽羅國使、一時並降。百濟諸城、皆復歸順、賊帥遲受信據任存城不降。
・・・中国史書には「倭國」との戦いではなく、「倭兵」、「倭衆」と記載し、あくまで百濟支援部隊としての扱いである。平均一戦当たり百艘を損失したことになる。「劉仁軌」は、「福信」に攻め立てられていた「劉仁願」の支援の役目であった。「扶餘隆」は、百濟義慈王の太子で「豐璋」とは兄弟であり、先の戦で捕虜となったが、百濟に戻され、「劉仁軌」を補佐したようである。
おそらく「泗沘城」奪還を目論んでいた「福信」が斬首された六月以降は、着々と戦闘準備がなされていたと思われる。この目論みが「豐璋」とは合わなかったのではなかろうか。彼は、真相は不明だが、”逃げ恥の役立たず”王と描かれているように感じられる。ともあれ唐軍は「自熊津江往白江」、新羅に周留城(疏留城)を攻めさせ、自らは泗沘城から白江之口に向かったのである。
戦闘場所の「白村江」は「白江之口」と記載されていることから、現在の錦江の河口付近辺りと推定されてはいるが、詳細は不詳である。中国史書の記述に基くと特定は不可である。書紀は”地形象形表記”を行っているが故に「村」の文字が挿入されている。「白村」の文字を読み解いてみよう。
「白」は頻出と言って良いくらいに、多用されている。白=くっ付く、迫る様と解釈した。
古事記では神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が登美之那賀須泥毘古と初戦を闘った青雲之白肩津など、また書紀中では、興味深い使われ方の例として大伴狛連の「狛=犬+白」のどが挙げられる。
八月二十七日には日本の先陣が到着し、唐と戦ったが、敗退してしまった。この状況も把握しないまま、日本の諸将と百濟王は暢気なことを語り合って、更に戦いを仕掛けたが、惨敗してしまったと伝えている。。
『旧唐書』の百濟國関連にもう少し詳しく記載されている。抜粋すると(『旧唐書』の解釈はこちらを参照)・・・、
於是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍以進。仁軌乃別率杜爽、扶餘隆率水軍及糧船。自熊津江往白江、會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口、四戰捷、焚其舟四百艘、煙焰漲天、海水皆赤、賊衆大潰。餘豐脫身而走、獲其寶劍。偽王子扶餘忠勝、忠志等、率士女及倭衆幷耽羅國使、一時並降。百濟諸城、皆復歸順、賊帥遲受信據任存城不降。
おそらく「泗沘城」奪還を目論んでいた「福信」が斬首された六月以降は、着々と戦闘準備がなされていたと思われる。この目論みが「豐璋」とは合わなかったのではなかろうか。彼は、真相は不明だが、”逃げ恥の役立たず”王と描かれているように感じられる。ともあれ唐軍は「自熊津江往白江」、新羅に周留城(疏留城)を攻めさせ、自らは泗沘城から白江之口に向かったのである。
白村江
戦闘場所の「白村江」は「白江之口」と記載されていることから、現在の錦江の河口付近辺りと推定されてはいるが、詳細は不詳である。中国史書の記述に基くと特定は不可である。書紀は”地形象形表記”を行っているが故に「村」の文字が挿入されている。「白村」の文字を読み解いてみよう。
<白村江> |
古事記では神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が登美之那賀須泥毘古と初戦を闘った青雲之白肩津など、また書紀中では、興味深い使われ方の例として大伴狛連の「狛=犬+白」のどが挙げられる。
「村」の文字の解釈に戻って読み解くことが重要となる。「村」=「木(山稜)+寸」と分解される。更に「寸」=「又(手)+一」と分解される。「手指を伸ばして長さを計る様」を表すと解説される。村=山稜が手指で長さを計るように延びた様と読み解ける。纏めると、白村江=手指で長さを計るように延びた山稜が迫って並んでいる入江と読み解ける。
図に示したように「白村」は、現地名の全羅北道益山市熊浦面と忠清南道扶余郡良花面の間を示す場所と推定される。現在は熊浦大橋が架かっている。「江」としては扶余郡良花面の浜辺、海進・沖積の影響で、当時はもう少し入り込んだ形をしていたと推定される。
いずれにせよ、いつの日か中国史書も含めて纏めてみよう。目下は戦後処理を含めた書紀の記述を追いかけることにする。その前に初登場の人物の出自を求めておこう。
<廬原君臣> |
「廬原」は初登場であり、これで最後となる文字列であり、少し関連情報を検索すると「駿河國」に関わる地名であることが分かった。
古事記の倭建命の東方十二道遠征に随行した御鉏友耳建日子(書紀では吉備建彦命、同一人物かは?)が後に「廬原國」を賜ったと伝えられているようである。
すると「相武國」を通過するわけで、書紀ではその地を、後に登場するが、「相摸國」と表記する。それを信じて居場所を求めてみよう。
「廬」は、前記出現した「蘆」(「廬」=「广+虍+囟+皿」と分解される。「虍」は「虎」を象った文字である。その特徴から虍=縦縞が連なる様と解釈した。
古事記の大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)が坐した「囟」=「頭蓋の泉門」を象った文字である。地形象形的には皿=縦縞が揃って並んでいる様をそのまま表した文字と解釈する。整理すると廬=崖の麓で縦縞が並ぶように僅かな隙間で並んでいるところと読み解ける。
「駿河國」の駿足の川が生まれる場所を表す文字であることが解る。その裾野が出自の場所と推定されるが、現在は大規模な団地開発で大きく地形が変化している様子であり、更なる詳細な場所を突止めることは叶わないようである。「造船」で脚光を浴びた場所となったのであろう。だが、木が無くなれば役目は終了したのかもしれない。
九月辛亥朔丁巳、百濟州柔城、始降於唐。是時、國人相謂之曰「州柔降矣、事无奈何。百濟之名絶于今日、丘墓之所、豈能復往。但可往於弖禮城、會日本軍將等、相謀事機所要。」遂教本在枕服岐城之妻子等、令知去國之心。辛酉發途於牟弖、癸亥至弖禮。甲戌、日本船師及佐平余自信・達率木素貴子・谷那晉首・憶禮福留、幷國民等至於弖禮城。明日、發船始向日本。
「駿河國」の駿足の川が生まれる場所を表す文字であることが解る。その裾野が出自の場所と推定されるが、現在は大規模な団地開発で大きく地形が変化している様子であり、更なる詳細な場所を突止めることは叶わないようである。「造船」で脚光を浴びた場所となったのであろう。だが、木が無くなれば役目は終了したのかもしれない。
九月辛亥朔丁巳、百濟州柔城、始降於唐。是時、國人相謂之曰「州柔降矣、事无奈何。百濟之名絶于今日、丘墓之所、豈能復往。但可往於弖禮城、會日本軍將等、相謀事機所要。」遂教本在枕服岐城之妻子等、令知去國之心。辛酉發途於牟弖、癸亥至弖禮。甲戌、日本船師及佐平余自信・達率木素貴子・谷那晉首・憶禮福留、幷國民等至於弖禮城。明日、發船始向日本。
九月七日に州柔城に唐が入った。「百濟」の名前が消滅し、残るは日本を頼るしか道はない、と人々は言ったと伝えている。その通りに日本に向けて船立つことになる。その行程が記載されている。「枕服岐城」に避難していた妻子等知らせ、九月十一日に「牟弖」を発ち、十三日に「弖禮」に到着。二十四日に「余自信」(餘自進)等が人々も合わせて「弖禮城」に集合。翌日に日本の軍船が出航したと記載している。
枕服岐城・牟弖・弖禮城
これら三つの地(城)名も、勿論不詳である。要するに錦江河口と熊津辺りが読めているだけで後は全く手も足も出ない有様のようである。これでは「白村江の戦い」の再現は叶わない。妻子を避難させていたこと、弖禮(城)は港、日本軍船が待機でき、そのまま船出ができるところは、黄海に面した入江であろう。
<枕服岐城・牟弖・弖禮城> |
「枕服岐城」の「服」は、古事記の倭建命の段で登場する伊服岐山に用いられた文字であり、「服」=「箙」と解釈した。
矢を入れる筒籠の形をそのまま地形象形に用いた表記である。すると「任」の谷間の西側に筒のような山塊が見出せる。
「枕」=「頭の下に敷くもの」であり、「頭」の部分を示す文字である。即ち、枕服岐城=箙の頭の部分が岐れたところにある城と読み解ける。
「牟弖」はそのまま牟弖=[牛]の形と弓なりの形が合わさったところと解釈できる。最後の「弖禮」も同じようにそのまま弖禮=[弓]の形の山稜の麓にある高台のところと読み解ける。「望日山」の西麓の高台であろう。「望日」には、何かの由来があるのかもしれないが・・・。