2020年7月5日日曜日

天命開別天皇:天智天皇(Ⅱ) 〔430〕

天命開別天皇:天智天皇(Ⅱ)


朝鮮半島内の騒乱は、いよいよ本格化する。百濟は滅亡したとは言え、反転攻勢の機運が高まりつつあって、唐の興味は高麗であって、百濟は新羅に任せていたことも半島南部の混乱を一層大きくしたのであろう。書紀は百濟・高麗からの応援要請に応えたと記載している。

その対応やら国内の防備体制強化やら、何かと気忙しい時期を向けていたと思われる。時は斉明天皇即位七年(西暦661年)十二月からである。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

十二月、高麗言「惟十二月於高麗國寒極浿凍、故唐軍雲車衝輣鼓鉦吼然。高麗士卒膽勇雄壯、故更取唐二壘、唯有二塞、亦備夜取之計。唐兵、抱膝而哭、鋭鈍力竭而不能拔。」噬臍之恥、非此而何。(釋道顯云「言春秋之志正起于高麗、而先聲百濟。百濟、近侵甚苦急、故爾也。」)

百濟が滅んだのが七月だから、半年弱経って唐の高麗への進軍は進んでいたのであろうが、冬将軍に遭遇する羽目になったと言う。寒い国への侵略には常に付きまとう出来事のであるが、高麗の抵抗も凄まじく、なかなか決着は付かなかったようである。現場の兵士達の苦悩が伝えられている。こんな有様で後数年高麗は唐の圧力を受け続けることになる。

釋道顯」が宣った意味は、おそらく…新羅の「金春秋」と「春秋」(孔子が著した歴史書)とが重ねられていて、新羅の目的は高麗の簒奪なのだが、「春秋」の歴史戦略に基けば、先ずは近くの百濟から落とすことになろう…であろう。実際、高麗は強かった、のである。「浿(江)」は、現在の国境にある鴨緑江であろう。中国側の川岸が「貝」が並んだような様を表しているように思われる。

是歲、播磨國司岸田臣麻呂等、獻寶劒言、於狹夜郡人禾田穴內獲焉。又日本救高麗軍將等、泊于百濟加巴利濱而燃火焉、灰變爲孔有細響、如鳴鏑。或曰、高麗・百濟終亡之徵乎。

引き続いて「寶劒」献上の話になるが、何故これが?…の感じである。前記したように「新羅」の話が出て、引き続いて「蝦夷」の話と同じで、潜められた何かを繋げている記述と思われる・・・と考えて、キーワードを探すと「不能拔」の「剣」であった。寶劒」は抜けない剣であろう・・・そうそう、抜けないと言えば寶劒」と・・・

● 播磨國司岸田臣麻呂・狹夜郡・寶劔

見つかった場所が「播磨國」、これも絡めた記述かと推測されるが、先ずはこの地を求めてみよう。勿論兵庫県には向かわない、筈である。この国名は、古事記の針間國(針のような谷間)に当たる場所と思われる。現地名は築上郡築上町の椎田辺りと推定した。
 
<播磨國司岸田臣麻呂・狹夜郡>
「播磨」の「播」=「広く散らばらせる様」であり、地形象形的には「広がり渡る様」と読む。「磨」=「磨く様」であり、同じく「磨いたように平らな様」と訳す。播磨=磨いたように平らに広がり渡ったところと読み解ける。


「針間」と「播磨」は、かつては谷間が主たる居住地だったのが、時と共にその先の山稜がなだらかになり、広がった地に移り住んで行ったことを示しているように思われる。

海退と沖積によって大きく地形が変化した場所を表している。「播(ハ)」の訓を使って、同一の音とし、その歴史的経緯を示す表現である。

とあるブログで、「播磨」の由来について、諸説を挙げられ、結局”もどかしい”気分になられている。答えは、現在の播磨平野ではない、である。現在の地名が「記紀」に登場したら、ここではない、と考える方が、当たる確率が高い、のである。

「岸田臣麻呂」の居場所は、その平坦になった山稜の端で小高くなった海辺と推定される。図に示した場所は、谷間にあって一段高くなったところである。谷間で「臣」、小高いところで「麻呂」と表記されたち思われる。

「狹夜郡」の「夜」=「亦+夕」と分解される。「亦」=「谷間に複数の川が流れる様」を表し、「夕」=「山稜の端の三角州」である。狹夜=幾つかの三角州がある狭い谷間と読み解ける。「岸田臣」の西側の谷間と思われる。「禾田」とわざわざ述べているころから、その山稜が大きくしな垂れるところを示していると推察される。図に示した場所で、山稜が窪んで、曲がるところと推定される。

古事記の品陀和氣命(応神天皇)紀に新羅の王子、天之日矛の物語が載せられている。紆余曲折あって、彼の後裔達が求菩提山の麓に広がったと記載されている。針間國の山稜の多くは、この山の麓に当たる。修験道の山、また渡来する人々が様々な形で住まっていた場所であろう。

これが寶劒の由来かもしれない・・・と考えてみると、それらしき解釈であろうが、地形象形表記と見做すと、「寶」=「宀+王+缶+貝」と分解され、「周りを取り囲まれた窪んだ地」を表す。幾度か登場した文字である。即ちで取り囲まれたの地を献上したことを述べているのである。
 
百濟加巴利濱

高麗救援軍の日本の将軍たちが「百濟加巴利濱」に停泊し、火を燃やすと灰が細い穴のようになって鳴鏑の音がしたと述べ、これは高麗・百濟の終亡の予兆かと、それが実感されたと言うことであろう。さて、百濟の濱は多く見られるが、何処の場所であろうか?…先ずは文字解きを行ってみる。
 
<百濟加巴利濱>
「加」は「何かに力を加える様」であって「加」=「強いて~する様」と読み解く。「巴」=「渦巻く様」これは文字の成立ちそのものであろう。

頻出の「利」=「切り離す様」とすると、並べると加巴利濱=渦巻く地を強いて切り離した浜と読み解ける。ポイントは「巴」の地形である。

百濟の最南端に近い場所に「巴」の地形が見出せる。正に山稜が渦を巻いたような地形を示している。この山塊の北側の麓が浜となっていたのであろう。現在も幾つかの港が記載されている。

現地名は全羅北道全羅北道高敞郡心元面・富安面である。立ち寄りの浜辺とすると必要な補給が得られれば目的を達せられる。「巴」の山塊を浜の名前に付けたことからも伺える。上陸なら最奥にある場所、現地名は扶安郡茁浦面辺りの浜辺を目指したであろう。

いずれにしても、ここから更に高麗に向かうのであるが、陸路はあり得ず、一番安全と思われる場所と考えた。無寄港では高麗に届くのは難しかったと思われる。具体的な派遣者名などが省略されており、高麗に届いたかどうかは不詳、おそらく目的は達せられなかったのであろう。いや、偵察が主たるところで、端からそんな令が下されていなかったのかもしれない。

元年春正月辛卯朔丁巳、賜百濟佐平鬼室福信矢十萬隻・絲五百斤・綿一千斤・布一千端・韋一千張・稻種三千斛。三月庚寅朔癸巳、賜百濟王布三百端。是月、唐人・新羅人伐高麗、高麗乞救國家、仍遣軍將據䟽留城。由是、唐人不得略其南堺・新羅不獲輸其西壘。夏四月鼠産於馬尾、釋道顯占曰、北國之人將附南國、蓋高麗破而屬日本乎。

天智天皇即位元年(西暦662年)正月の記事である。百濟の鬼室福信へ物資援助を行ったと記載している(矢、糸、綿、布、鞣革、稲種)。三月には百濟王に布を支援したとのことである。百濟の救援が本格化したようであるが、高麗はかなり劣勢に追い込まれて、救いを求め、それに応じて将軍を派遣して「䟽留城」に立寄らせたと述べている。

唐・新羅は高麗攻略に専念しているようで、百濟の中部~南部は、かなり自由に出入りできたようである。釋道顯が宣った言葉をそのまま読めば、かなりいい加減な発言のようである。高麗が破れたら属するのは唐であろう。「䟽留城」の場所は下記する。

五月、大將軍大錦中阿曇比邏夫連等率船師一百七十艘、送豐璋等於百濟國。宣勅、以豐璋等使繼其位、又予金策於福信而撫其背、褒賜爵祿。于時、豐璋等與福信稽首受勅、衆爲流涕。六月己未朔丙戌、百濟遣達率萬智等進調獻物。

五月には阿曇比邏夫連、登場する度に出世しているかな?…一百七十艘を率いて豐璋等を百濟に送り、国を継がせ、福信には金策(金泥で書いた冊書とのこと)及び冠位を授けたと述べている。衆は涙を流したと言うから、福信の思惑通りに反転攻勢の準備は整ったようである。翌月には百濟が進調したと記している。

冬十二月丙戌朔、百濟王豐璋・其臣佐平福信等、與狹井連(闕名)・朴市田來津議曰「此州柔者、遠隔田畝・土地磽确・非農桑之地、是拒戰之場、此焉久處、民可飢饉。今可遷於避城、避城者西北帶以古連旦涇之水、東南據深泥巨堰之防、繚以周田、決渠降雨、華實之毛則三韓之上腴焉、衣食之源則二儀之隩區矣。雖曰地卑、豈不遷歟。」於是、朴市田來津獨進而諫曰「避城與敵所在之間一夜可行、相近茲甚。若有不虞、其悔難及者矣。夫飢者後也、亡者先也。今敵所以不妄來者、州柔設置山險盡爲防禦、山峻高而谿隘、守易而攻難之故也。若處卑地、何以固居而不搖動及今日乎。」遂不聽諫而都避城。是歲、爲救百濟、修繕兵甲・備具船舶・儲設軍粮。是年也、太歲壬戌。

天智天皇が即位して、早一年が経とうとしている時のこと、百濟側の豐璋・其臣佐平福信等と救援に赴いた狹井連(闕名)・朴市田來津があれこれと論議した内容である。前記で登場した狹井連檳榔ではなかったのであろうか、「闕名」と記載されている。それはともかく重要な戦略会議だったのだが、「百濟王豐璋」はさっさと居心地の良い場所へと移ってしまった伝えている。

「鬼室福信」が蜂起した中部の地形が語れている。その地を「州柔」と呼び、険しい山間で谷間は狭く防御に適しており、故に攻められなかったが、田地にするには土地は痩せていて長期戦には不向きであること。また、一方「避城」の地は、水利も良く、周囲は田に囲まれた多くの収穫が得られる場所であるが、防御策が不可欠な上に敵に近いことが挙げれている。
拠点として二つの地が並べられて、それぞれの得失が述べられて、さてどうするか、王の判断となったようである。結果は「避城」に移動したのである。暢気な「避城」説を唱えたのは、狹井連(闕名)を含めた大勢のようであり、朴市田來津が一人が「州柔」説だったと伝えている。支援は途切れることなく続いたようである。
 
䟽留城・州柔

上記で登場した「䟽留城」に併せて「州柔」は何処を示しているのか?…百濟の中部であることには違いないと思われるが、先に「州柔」の文字が何を表しているのか読み解いてみよう。「州」はそのまま川中島の中州として、「柔」=「矛+木」と分解すると、地形象形の要素文字が現れる。「柔」=「山稜が矛の形」である。
 
<䟽留城・州柔>
すると州柔=中州が矛の形を山稜と読み解ける。既に求めた久麻怒利城及び都々岐留山の近隣に横たわっていた極めて特徴的な地形であることが解る。

「熊津」と併せてこの地の特異さは際立っていると思われる。Google Mapと雖もこの地形の明確さは隠し切れない?…ようである。

「州柔」の周辺の川名は、西から維鳩川、韓川(?)、正安川が本流錦江に北側から流れ込む地形である。それらが作る巨大な中州と判る。

「䟽留城」の「䟽」=「足+㐬」と分解すると、「䟽」=「生え出た山稜が流れるように延びた様」と解釈される。度々の登場である「留」=「押し拡げられた谷間」と読む。すると䟽留城=生え出た山稜(足)が流れるように延びて(㐬)押し拡げた谷間(留)にある城と読み解ける。

図に示した忠清南道公州市牛城面にある小高いところと推定される。上記で語られた狭隘な谷間の地形である。現在はこの小高いところを除いては広い水田になっているようだが、当時は川の氾濫などに対応できる治水が未熟だったのであろう。標高が不明だが、地形から勾配もあって、痩せた土地のようでもある(古事記の「葛城」に類似)。天然の要塞の地である。

「周留」、「疎留」などの別名が知られている。「周」は文字形での表記のように思われるが、「疎」=「足+束」と分解しても当該の地形を表す文字と考えにくく、他の目的(由来)があっての表記かもしれない。書紀の表記の的確さが示される例であろう。
 
<避城>
避城

さてもう一つの場所「避城」を何処に求められるのであろうか?…情報としては「西北帶以古連旦涇之水、東南據深泥巨堰之防」と記載されている。

勿論、”古事記風”に紐解かなくては、意味不明の文字列であろう。通説は、説にもなっていないので、従来はほぼ放棄の状態である。

「古」=「丸く小高い様」、「連」=「連なる様」、「旦」=「飛び出た様」日の出の太陽だから地形象形的には「飛び出て丸く大きな様」が適切であろう。「涇」=「水+坙」と分解され、「真っ直ぐに流れる川」と読み解ける。

纏めると西北帶以古連旦涇之水=西北には丸く小高い地が連なって飛び出たところで大きく広がって延びた傍らにある真っ直ぐな川あると紐解ける。

さて、東南の方は、幾度か登場した「深」=「氵+穴+又+火」と分解され、「深」=「水辺のある谷間に[炎]のような複数の山稜が延びている様」と読み解いた。「泥」=「氵+尼」と分解され、「水辺で近付く様」と読み解く。古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の名前に含まれる文字である。「巨」は文字形そのもの、「堰」=「土を盛り上げて水を止める様」である。

纏めると東南據深泥巨堰之防=東南では水辺のある谷間に[炎]のような複数の山稜が延びている地と[巨]の形の土を盛り上げて水を止めるような地が川辺で近付いたところに寄り添って防ぐと紐解ける。

こんな地形情報を念頭に「州柔」の北方を探すと、図に示した現地名の忠清北道清州市興徳面に、その地形を見出せる。「避城」の場所の特定は些か曖昧な感じであるが、辛うじて小高くなったところと推定した。山間で大きく開けた場所である。「避」=「辶+辟」と分解され、「動物を切り開く様」を表す文字と知られる。簡略に表現すれば、その通りの地形であろう。

「避城」を百濟南部の全羅北道金堤市辺りに比定する説があるようだが、海辺の開けたところではないことを「避」そのものが伝えている。「避ける」も重ねた表現であろうが、もう既に逃げ場所は無くなっていたであろう。

二年春二月乙酉朔丙戌、百濟、遣達率金受等進調。新羅人、燒燔百濟南畔四州、幷取安德等要地。於是、避城去賊近、故勢不能居。乃還居於州柔、如田來津之所計。是月、佐平福信、上送唐俘續守言等。三月、遣前將軍上毛野君稚子間人連大蓋・中將軍巨勢神前臣譯語三輪君根麻呂・後將軍阿倍引田臣比邏夫大宅臣鎌柄、率二萬七千人打新羅。夏五月癸丑朔、犬上君(闕名)、馳告兵事於高麗而還、見糺解於石城。糺解、仍語福信之罪。

即位二年(西暦663年)二月に百濟が進調し、新羅が百済の南畔の四州と併せて「安德」等の要地を取ったと伝えている。この四州については、現在の全羅北道任実郡・潭陽郡南原市、全羅南道淳昌郡・ 潭陽郡辺りではなかろうか。東の知異山・長安山山塊と西の内倉山・母岳山山塊に挟まれた地域である。
 
<百濟南畔四州>
巨大な盆地形状の地である。上記の「避城」も全く類似して、韓国に無数に存在する「韓」の地形と思われる。

結局「州柔」に戻ってしまう。書紀編者が苛立ちを込めて「朴市田來津」を再登場させている。福信が唐の捕虜「續守言」等を日本に送ったと述べている。

三月に、また前後軍を仕立てて、今度は二万七千人で新羅討伐に向かわせた。三百~五百艘を連ねたのであろうか・・・。

五月に入って直ぐに犬上君(闕名)がこの軍事行動を高麗に報告し、その帰り「石城」で「糺解」と会ったが、福信が何か罪を犯したようなことを聞かされたと記している。

百濟・高麗の救援も次第にエスカレートしている状況となっている。どこまで深入りするのか、その判断が極めて難しくなりつつあったのであろう。派遣されたメンバーもそれなりに交替しているようで、重要な地名と併せて初登場の方を紹介してみよう。
 
<安德>
安德

「安德」は内倉山・母岳山山塊を越えて百濟の平野に抜ける要所であったと思われる。それが落とされたら、新羅が雪崩れ込んでくる状態となる。

前記で登場した北の怒受利之山(現地名忠清南道論山市連山面)に相当する地点であろう。

「安」=「宀+女」と分解され、「山稜に囲まれた嫋やかに曲がる谷間」を表す。頻出の「德」=「彳+直+心」と分解して「真っ直ぐに延びる様」を表す。

図に示した場所(現地名は全羅北道完州郡九耳面)の谷間と推定される。近くに「大徳」と言う地名もあり、真っ直ぐに延びる山稜を模した表記を用いている。更にこの近隣に「安徳」と言う地名が多く残っていることが判る。韓国内地名には残存する地名があると期待していたが、漸くお目に掛かれることになった。

時代の変遷をくぐり抜けて現在に達した貴重な地名と思われる。そして、古事記・中国史書・日本書紀と読み解いて来た”地形象形表記”に基づくと、この地には間違いなく「倭人」が住まっていたことを示す。超が付く概略の「倭人」の朝鮮半島を経由した日本列島への移動を示したが、その”限りなく小さな足跡”を見出した気分である(こちら参照)。
 
<上毛野君稚子>
新羅討伐の遠征軍の中では以下の四名については既に読み解いた。間人連大蓋三輪君根麻呂阿倍引田臣比邏夫犬上君(闕名故に白麻呂の場所)、それぞれのリンクを参照。

● 上毛野君稚子

「上毛野君」としては上毛野君形名が舒明天皇紀に登場していた。現地名の築上郡上毛町と推定した。その地で「稚子」の地形を探すことになる。

「稚」=「禾+隹」と分解される。「しなやかに曲がる山稜が鳥の形を示す」と読み解いた。すると「形名」の南側、山国川(古事記では荒河)に沿った場所と思われる。

この台地の東側、即ち山国川の川辺に当たるところは崖の様相となっていることが判る。正に「荒れ狂う川」である。当時は、今からは想像できないくらいの川幅で流れていたと推測される。と言うことで君の居場所は台地の上と思われる。

通説の「上毛野」は、確定的に群馬・栃木県の広域に比定されている。律令制以後の解釈をそのまま、安易に解釈しただけの代物と言える。古文献に登場した地名(本来地名と言う概念は存在しなかった)を引っ張り出して張り付けただけの作業で生まれた。真に悲しい生立ちである。
 
<巨勢神前臣譯語>
● 巨勢神前臣譯語

人材輩出の「巨勢臣」の地に出自の場所を求める。それにしても「淡海」間近の地が盛んに開拓されたのであろう。時代が進んで下流域に人々が住まい始めたことを示していると思われる。

「神前」は「神」=「示+申」であり、より明確な「稲妻」の地形を表していると思われる。その地形が福智山・鷹取山の西稜が延びたところに見出せる。修験の山に重ねた表記と推測される。

「譯語」の文字は、譯語田宮御宇天皇(敏達天皇)に用いられていた。「譯語」=「耕地が点々と繋がり交差した様」と解釈した。谷間を川が横切る地形を示している。

神前臣譯語=稲妻のような山稜の先で川が谷間を横切るところと読み解ける。山稜の先に小ぶりな谷間(臣)が居場所であることが解る。敏達天皇が坐した場所、現地名の京都郡みやこ町勝山矢山の谷間の地形との類似をあらためて気付かされる。また天皇名前を使うなんて…ではなく、居場所の地形が同じなら、問題なく使っていることも分かる。「記紀」の一貫した表記方法である。

<大宅臣鎌柄>
● 大宅臣鎌柄

「記紀」を通して「大宅臣」の出現は、決して多くはないが、古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の御子、天押帶日子命の祖に「大宅臣」が記載されている。

現地名は田川郡赤村内田辺りと推定した。その地で「鎌柄」を探すことになる。果たして見出せるか、である。

何とも呆気なく終了である。いつもこの程度の地形象形表記なら、もっと早くに読み下せるのに・・・と愚痴っても致し方なしである。

早期に開けた地も着実に人々が住み着き、発展していたかと思われるが、歴史の表舞台への登場は格段に少なくなったのであろう。倭國の開拓は、山間の狭い谷間から下流域へと広がった行ったことをあらためて気付かされた。

後の持統天皇紀に大宅朝臣麻呂が登場する。「鎌柄」の子とする系図があるそうで、多分、谷間の出口辺りが出自の地と推定される。皇別氏族として天武天皇紀に「朝臣」姓を賜っている。
 
<石城>
「犬上君」と「糺解」が出会った「石城」は、錦江「熊津口」の東南の近隣に、今もその名前が残っていると知られる(忠清南道扶余郡石城面)。前図<怒受利之山>を参照。

通常に用いられる文字列であるが、「石」=「厂+囗」と分解され、「崖下にある区切られた様」、「城」=「土+成」と分解され、「土地が盛り上がった様」と読み解ける。

石城=崖下の地が盛り上がったところと解釈される。決して特異な地形ではないが、やはりこれも上記の「安德」と同様に地形象形表記が残存した場所と思われる。

二人が出会った場所?…不明なので現在の小学校辺りとしておこう。

百濟王「豐璋」(上記の「糺解」とされている)の言動はどうも怪しい、と書紀は記述する。「福信之罪」と言いふらした(?)王を信用するわけには行かなかったのであろうか、事態は最悪の方向へと進んで行くようである。