天命開別天皇:天智天皇(Ⅰ)
西海の動向は、遂に百済滅亡の事態となってしまった。皇祖母尊(斉明天皇)は「狂心」と言われようが形振り構わずに国土防衛策を講じさせた。「公地公民」制の中央集権的な国家体制への移行、時代背景としてその機運に乗っかっただけとも思われるが、仮にこの移行が少しでも遅れていたならば、如何なる事態に・・・歴史にもしもは存在しないのだが、肌寒さを感じるところである。
時代の変換期に登場した孝徳天皇、斉明天皇の弟姉が果たした役割をもっと適切に評価されるべきであろう。変革の実行役を担った中大兄皇太子(天智天皇)および影の参謀役の中臣鎌足連の非情さも”革命”と言う背景の中で見直されるべきでもあろう。唐・朝鮮半島の脅威は想像を遥かに越えていたと推察される。
ともあれ、国防に関する骨太の基本戦略は出来上がった。残された中大兄皇太子と中臣鎌足連は瞬時の油断も許されない具体的な対策を実施することになる。朝鮮半島の詳細地図が求めらているようである。果たしてGoogle Mapで対応できるか・・・挑戦である。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちら、こちらなどを参照。時は斉明天皇即位七年(西暦661年)七月からである。
天命開別天皇、息長足日廣額天皇太子也、母曰天豐財重日足姬天皇。天豐財重日足姬天皇四年、讓位於天萬豐日天皇、立天皇爲皇太子。天萬豐日天皇、後五年十月崩、明年皇祖母尊卽天皇位、七年七月丁巳崩、皇太子素服稱制。
天命開別天皇(天智天皇)紀ではあるが、暫くは「皇太子素服稱制」の形式を取り、長い実務担当の役割を務めたと記載されている。和風諡号「天命開別」は、即位六年に「近江(大津宮)」に遷るのであるが、その宮の場所を表す名称、相変わらずこの名称の意味は不詳、のようである。既に読み解いたこちらを参照。何故かこの宮が舞台になったのは崩御の時ぐらいで殆ど登場しない。おそらく、そっとしておきたかった場所なのであろう。「近江」は可能な限り記載しない、だったのかもしれない。
Wikipediaには様々な記述がなされているが、例えば、中大兄皇子の・・・「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた大王位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語・・・は全くの誤りであろう。後の記述で、誕生させた多くの御子名が出現するが、「大兄」の地を全て埋め尽くす配置であることが解る。勿論、風変わりな「鸕野皇女」(別名娑羅々、後の持統天皇)も含まれている。
「稱制」の理由も諸説が載せられている。中でも大海皇子(後の天武天皇)は、異父兄弟の漢皇子とする解釈がある。幾度も述べて来たように名前は出自の地形を背負っていて…同一史書は当然として史書が異なっていても…別称は同一地形の別表現であることを明らかにして来た。この二人は同一人物ではあり得ない。
是月、蘇將軍與突厥王子契苾加力等、水陸二路至于高麗城下。皇太子、遷居于長津宮、稍聽水表之軍政。
唐の「蘇將軍」(蘇定方)が「突厥」(テュルク系遊牧民:アイアンロードの担い手?)と組んで高麗城(現在の北朝鮮平壌辺り)を取り囲んだと述べている。西暦661年のこと、記述に手落ちはないようで、きちんと下調べがなされていたのであろう。百濟を蹴散らかした後故に唐が南側の水路を担った。それを中大兄皇太子は、「長津宮」(娜大津の改名、磐瀬行宮から昇格か)で遠く西方を眺めて居たと記している。
八月、遣前將軍大花下阿曇比邏夫連・小花下河邊百枝臣等・後將軍大花下阿倍引田比邏夫臣・大山上物部連熊・大山上守君大石等、救於百濟、仍送兵杖・五穀。(或本續此末云、別使大山下狹井連檳榔・小山下秦造田來津、守護百濟。)
八月に前後二軍構成の部隊を百濟に送ったと記している。各自の出自は下記するが、既出の人物については、前軍の阿曇比邏夫連は航海、後軍の阿倍引田比邏夫臣は蝦夷討伐の実績ありで、どちらも当時最高の将軍だったようである。ちょっと気に掛かるのが、共に「羅」→「邏」と変わって、「辶」が加わっている。昇格に連れて与えられた「公地」が延びたのかもしれない。
「河邊百枝臣」は河邊臣百依の近隣と読み解いた。守君大石は有間皇子謀反に連座して上毛野國に流されいた筈が復帰したようである。また或本に記載された「秦造田來津」も古人皇子謀反に連座した朴市秦造田來津と思われるが、これも復活である。書紀本文では九月での登場となっている。ともあれ、かつては死罪を免れ、その恩を返せ、とされたのかもしれない。
● 物部連熊・狹井連檳榔
「物部」が登場すると・・・そんな雰囲気を醸し出す名前となってしまったようであるが、「熊」が付くと尚更か、である。いえ、熊=隅と解釈するのが常套である。
すると「物部」の谷間の出口付近に「隈」の地形が見出せる。物部守屋大連の川向こうに当たる場所である。徐々に狭くはなっているが、現在もポツンと一軒家が見えるが…。
「狹井連檳榔」はそのまま読んでも繋がりが不明であるが、既出の氷連・置始連と同様に物部一族であることが知られている。探すと、山稜に挟まれた細長い「井」の地形がある。
「檳榔」の文字は、古事記で登場した。伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に無口な御子が出雲の神に詣でて、言葉を発すると言う奇跡の物語があった。
それを祝して訪れた檳榔之長穗宮で用いられていた島の名前である。「檳榔(アジマサ)」の実がなっている様を象った表記と解釈した。そもそもこの実がなっている様を「檳榔」と表記したのは文字がその形態を示すからであろう。
「檳」=「木+賓」と分解される。馴染みのある文字としては「浜」の旧字体に使われている。「賓」=「すぐ傍に近付く様」を表す文字と解説されている。水がそうなるところが「浜」である。「檳」は「すぐ傍に近付いて実がなっている木」であり、「榔」=「木+郎」=「枝がなだらかに曲がっている様」と読める。「檳榔(アジマサ)」の表記である。
地形象形的には、檳榔=山稜(木)がすぐ傍に近付いて(賓)なだらかに曲がっている(郎)ところと読み解ける。四角く狭い地から延びた山稜(連)が「檳榔」と表現していることが解る。古事記の方が、やや、奔放な文字使い、かもしれない。
九月、皇太子、御長津宮、以織冠授於百濟王子豐璋、復以多臣蔣敷之妹妻之焉。乃遣大山下狹井連檳榔・小山下秦造田來津、率軍五千餘衞送於本鄕。於是、豐璋入國之時、福信迎來稽首奉國朝政、皆悉委焉。
九月に入って百濟王子の「豐璋」に冠位を授け、また「多臣蔣敷」の妹を娶らさせたと述べている。上記で登場した「狹井連檳榔・秦造田來津」に軍勢五千余りを付けて本国に送った。「鬼室福信」が迎え入れて、「豐璋」に国を委ねたと伝えている。
「多臣」は出雲國が出自と思われる。「蔣」=「艸+爿+肉(夕)+寸(手)」と徹底的に分解すると地形象形要素がズラリと並んだ構成となっていることが解る。
そのまま訳すと蔣=山稜が並んでいる地(艸)で寝台の形(爿)をした山稜(寸)の端(夕)と読み解ける。敷=平らに広がる様を表している。図に示した淡海に面した場所が求めるところである。
前記で登場した言屋社の北側の山稜の端に当たる。古事記は、この「寝台」の付け根を大入杵命の出自の地と記述した。幾度か述べたように決して触れることのない場所と思いきや、何とその先の地を記述していたのである。言い換えると「杵」の地形はスルーしている。なかなかに注意深く編集されていると思われる。
ここで百濟が占領された後に、その復興を目指して反転攻勢をかけた「鬼室福信」について、前記の書紀本文をあらためて読み解いてみよう。いよいよ、百濟の地の詳細に入ることになる。
九月己亥朔癸卯、百濟、遣達率闕名・沙彌覺從等來奏曰(或本云逃來告難)「今年七月、新羅恃力作勢、不親於隣。引搆唐人、傾覆百濟。君臣總俘、略無噍類。(或本云、今年七月十日、大唐蘇定方、率船師、軍于尾資之津。新羅王春秋智、率兵馬、軍于怒受利之山。夾擊百濟相戰三日、陷我王城。同月十三日、始破王城。怒受利山百濟之東堺也。)於是、西部恩率鬼室福信、赫然發憤據任射岐山(或本云北任敍利山。)達率餘自進、據中部久麻怒利城(或本云、都々岐留山)。各營一所、誘聚散卒。兵盡前役、故以棓戰。新羅軍破、百濟奪其兵。既而百濟兵翻鋭、唐不敢入。福信等、遂鳩集同國共保王城。國人尊曰、佐平福信、佐平自進。唯福信、起神武之權、興既亡之國。」
斉明天皇即位六年(西暦660年)九月の段を再掲した。唐と新羅が結託して百濟を攻撃した、その詳細が語られている。(或本云)に拠ると、唐の蘇定方が「尾資之津」に軍船を進めた。一方の新羅は「怒受利之山」に軍を進めた。これに対して百濟の西部に居た「鬼室福信」が「任射岐山(又は北任敍利山)」で蜂起し、もう一人「餘自進」が中部の「久麻怒利城(又は都々岐留山)」で立ち上がった。逃げ散った兵を集め、武器も棒しかない有様だったが、新羅を破り、反って士気は高まったと言う。
唐はこの百濟の抵抗には関わらず、高麗の南部方面の兵站地確保を目的とし、おそらくそれまでの戦いで長期戦になることを想定していたのであろう。兵站と新羅の協力があればそれ以上の消耗を望まなかったと思われる。
当時の百濟の王城は、錦江沿いの「泗沘」(現地名忠清南道扶余郡扶余邑)にあったことが知られている。唐軍が海路で向かえば現在の錦江の河口付近であろう。
「尾」=「尾根が延びた様」である。「資」=「次+貝」と分解される。「次々と財貨がある状態」の意味であるが、地形象形的にはそのまま「資」=「貝のような地形が並んでいる様」と解釈する。
尾資=尾根が延びた麓で貝のような地形が並んだところと読み解ける。すると現地名の全羅北道群山市少龍洞の川縁を示していると思われる。正に錦江の河口辺りを表している。
現在はもう少し東側に群山港(内港)があるが、ひょっとしたら、外港と呼ばれていたのかもしれない。Google Mapの地形図の精度で十分に判別可能な地形と思われる。尚、漢字表記は『コネスト韓国地図』を参照。
一方の新羅が進軍した場所が「怒受利之山」と記載されている。朝鮮半島東部の新羅から陸路で向かった。その詳細は不明だが、文字を読み解いてみよう。
「怒」=「女+又(手)+心」と分解される。「怒」=「嫋やかに曲がる(女)山稜(又)の中心(心)」と読み解く。「受」=「受け継ぐ、引き継ぐ様」の意味、「利」=「切り離された様」と読む。頻出の文字である。
纏めると怒受利之山=嫋やかに曲がる(女)山稜(又)の中心(心)で引き継がれるところ(受)が切り離されている地(利)にある山と読み解ける。
図に示した現地名の忠清南道論山市連山面にある山稜が途切れた場所と推定される。山稜の端が途切れた場所は幾つか見受けられるが、「怒」に含まれる心(中心)=広がった端の中心を表していると解釈される。上記で「怒受利山百濟之東堺也」と補足され、「黄山城」の麓を示していると思われる。
『三国史記』によると「黄山」で、迎撃の百濟との激しい戦闘があったようである。「泗沘城」の東南の防御は、「熊津口」と呼ばれる狭い谷間と思われる。そこに唐と新羅軍が集中して突破したように推測される(実際は新羅が黄山での戦闘に梃子摺って延着し、唐単独で突破のようなのだが…)。確かにここを破られたら後は手の打ちようがない感じである(図拡大)。
西部に居た「鬼室福信」が蜂起した場所は何処であろうか?…上記の攻防は百濟王城、唐の上陸地点、新羅の侵入経路などからある程度は想定される場所と思われるが、通説も殆ど候補地さえも挙げ辛い有様のようである。
「任」の文字から「任那」辺りか?…と憶測されている方もおられるが、それでは百済の東~南部になる。
また、戦乱の最中に進調できるのは、百済の西は海であり、新羅の妨害は殆ど考慮しなくてよい筈・・・これで探索の目途が立った。
西部、と言うか扶余郡からすると北部に近いが、「任」=「糸巻の形」の地形が見出せる。前記の任那と同様に中央部が広がって膨らんだような谷間である。現地名は忠清南道礼山郡である。「射」=「身+寸」と分解され、「矢を射る時の様」を象った文字と知られる。
かなり下流域に入って凹凸が少なくなってはいるが、「矢」の地形が目立つところがある。更にその先に辛うじて「身」=「弓なりの様」を示す小高いところが並んでいることが解る。任射岐山=中央が膨らんだ谷間(任)にある矢を射るような地形(射)の山が岐れている(岐)ところと読み解ける。
別資料では「北任敍利山」と記されているようで、「敍」=「余+攴」と分解され、地形象形的には「山稜の端が延びてその先で小高くなった様」を表すと読み解ける。北任敍利山=中央が膨らんだ谷間(任)にある山稜の端が延びて(攴)切り離されて(利)北側の小高くなった(余)ところと読み解ける。蜂起した場所が南側の華厳寺ではなく、北側にあった場所と述べていると推測される。
ここで「鬼室福信」と後に登場する「鬼室集斯」の出自の場所を求めておこう。上記の「任射岐山」の場所は、貴重な情報を提供してくれたようである。
「鬼」=「丸い様」を象った文字である。この文字は古事記よりは魏志倭人伝における重要なキーワードであった(鬼國・鬼奴國)。
頻出の「室」=「宀+至」と分解され、「山稜に囲まれた谷間が奥に延びる様」と解釈した。すると鬼室=丸く取り巻く山稜に囲まれた谷間が奥に延びているところと読み解ける。
上記で求めた「任射岐山」の南西、直線距離でおよそ10kmのところにその地形が見出せる。福信=坂になった(畐)高台(示)の傍で谷間(人)が耕地(言)になっているところと読み解ける。四つの文字構成要素に分解して求められる。図に示した「鬼」の中心地である。
後に登場の「集斯」は「集」=「集める様」、既出の「斯」=「其+斤」=「箕の形に切り込まれた様」とすると、集斯=箕の形に切り込まれた地が集まったところと読み解ける。「鬼」の出口辺りが出自の場所と推定される。同一場所に複数の人物が登場すると極めて確度の高い結果となったようである。
中部でも「餘自進」が蜂起したと伝えている。その場所が「久麻怒利城(又は都々岐留山)」と記載されている。勿論通説は不詳である。上記の鬼室集斯等と同様に日本に亡命し、その後天智天皇より大錦下の冠位を授けられている。
中部にあったことを念頭に文字を読み解くことにする。「久」=「くの字に曲がる様」、「麻」=「擦り潰された様」、「怒」及び「利」は上記で出現した。
これらを繋げると、久麻怒利城=[く]の字に曲がって擦り潰されたような地で嫋やかに曲がりながら延びた山稜の中心が切り離されているところにある城と読み解ける。
熊津に面した山稜の端を示していることが解る。解像度の限界を超えているので少々判り辛いようであるが、表現された文字列の地形であることは確認できると思われる。時代は遡るが百濟の武寧王陵が発掘された山稜の場所である。
「餘」=「山稜の端が高くなった様」、「自」=「鼻」=「端」、「進」=「辶+隹」と分解される。餘自進=山稜の端が小高くなって鳥の形をしているところと読み解ける。錦江を挟んで「久麻怒利城」の対岸の地にそのものズバリの地形が見つかる。書紀は、朝鮮半島内も、遠慮なく、地形象形表現していると言い切って良いように思われる。
「餘自進」が蜂起した可能性が高い場所として挙げられたようである。後に鬼室福信もこの地を拠点として活動したと伝えている。その段で、もう少し詳しく考察しようかと思う。生き残りを掛けた血みどろの戦いだったのであろう。白村江敗戦、百濟王子の遁走で幕を閉じることになる。
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少々余談になるが、余=山稜の端が高くなっている様の文字が多数登場している。「敍」、「餘」であるが、更に現地名の「扶余郡」にも含まれている。上図<尾資之津>の埋め込んだ全体図を拡大すると、やはり同じような地形であることが解る。「扶」=「手+夫」と分解され、「山稜が交差するようにくっ付く様」を表し、「扶余」は、”立派な”地形象形表記であると思われる。
この山稜末端の特異な地形が盆地のような窪んだ平地を生み出している。それが「泗沘」の地形象形に繋がることが解る。「泗」=「水+四」=「四方から水が流れて来る様」、「沘」=「水+比」=「水がくっ付いて並ぶ様」と読み解ける。泗沘=四方から川が流れて来てくっ付いているところと読み解ける。その川の状態を別地図で確認することができる。
限られた例かもしれないが、恣意的にぐちゃぐちゃにされた日本とは異なり、韓国の地名は本来の地形象形表記として残存しているように思われる。漢字表記の韓国地名、重要な情報を提供してくれることを期待したい。
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と言うことで、些か横道に逸れた感じであるが、本文に戻って・・・やはりこれを「還」とは言はない・・・。
「物部」が登場すると・・・そんな雰囲気を醸し出す名前となってしまったようであるが、「熊」が付くと尚更か、である。いえ、熊=隅と解釈するのが常套である。
すると「物部」の谷間の出口付近に「隈」の地形が見出せる。物部守屋大連の川向こうに当たる場所である。徐々に狭くはなっているが、現在もポツンと一軒家が見えるが…。
「狹井連檳榔」はそのまま読んでも繋がりが不明であるが、既出の氷連・置始連と同様に物部一族であることが知られている。探すと、山稜に挟まれた細長い「井」の地形がある。
「檳榔」の文字は、古事記で登場した。伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に無口な御子が出雲の神に詣でて、言葉を発すると言う奇跡の物語があった。
それを祝して訪れた檳榔之長穗宮で用いられていた島の名前である。「檳榔(アジマサ)」の実がなっている様を象った表記と解釈した。そもそもこの実がなっている様を「檳榔」と表記したのは文字がその形態を示すからであろう。
「檳」=「木+賓」と分解される。馴染みのある文字としては「浜」の旧字体に使われている。「賓」=「すぐ傍に近付く様」を表す文字と解説されている。水がそうなるところが「浜」である。「檳」は「すぐ傍に近付いて実がなっている木」であり、「榔」=「木+郎」=「枝がなだらかに曲がっている様」と読める。「檳榔(アジマサ)」の表記である。
地形象形的には、檳榔=山稜(木)がすぐ傍に近付いて(賓)なだらかに曲がっている(郎)ところと読み解ける。四角く狭い地から延びた山稜(連)が「檳榔」と表現していることが解る。古事記の方が、やや、奔放な文字使い、かもしれない。
九月、皇太子、御長津宮、以織冠授於百濟王子豐璋、復以多臣蔣敷之妹妻之焉。乃遣大山下狹井連檳榔・小山下秦造田來津、率軍五千餘衞送於本鄕。於是、豐璋入國之時、福信迎來稽首奉國朝政、皆悉委焉。
<多臣蔣敷> |
「多臣」は出雲國が出自と思われる。「蔣」=「艸+爿+肉(夕)+寸(手)」と徹底的に分解すると地形象形要素がズラリと並んだ構成となっていることが解る。
そのまま訳すと蔣=山稜が並んでいる地(艸)で寝台の形(爿)をした山稜(寸)の端(夕)と読み解ける。敷=平らに広がる様を表している。図に示した淡海に面した場所が求めるところである。
前記で登場した言屋社の北側の山稜の端に当たる。古事記は、この「寝台」の付け根を大入杵命の出自の地と記述した。幾度か述べたように決して触れることのない場所と思いきや、何とその先の地を記述していたのである。言い換えると「杵」の地形はスルーしている。なかなかに注意深く編集されていると思われる。
鬼室福信
ここで百濟が占領された後に、その復興を目指して反転攻勢をかけた「鬼室福信」について、前記の書紀本文をあらためて読み解いてみよう。いよいよ、百濟の地の詳細に入ることになる。
九月己亥朔癸卯、百濟、遣達率闕名・沙彌覺從等來奏曰(或本云逃來告難)「今年七月、新羅恃力作勢、不親於隣。引搆唐人、傾覆百濟。君臣總俘、略無噍類。(或本云、今年七月十日、大唐蘇定方、率船師、軍于尾資之津。新羅王春秋智、率兵馬、軍于怒受利之山。夾擊百濟相戰三日、陷我王城。同月十三日、始破王城。怒受利山百濟之東堺也。)於是、西部恩率鬼室福信、赫然發憤據任射岐山(或本云北任敍利山。)達率餘自進、據中部久麻怒利城(或本云、都々岐留山)。各營一所、誘聚散卒。兵盡前役、故以棓戰。新羅軍破、百濟奪其兵。既而百濟兵翻鋭、唐不敢入。福信等、遂鳩集同國共保王城。國人尊曰、佐平福信、佐平自進。唯福信、起神武之權、興既亡之國。」
斉明天皇即位六年(西暦660年)九月の段を再掲した。唐と新羅が結託して百濟を攻撃した、その詳細が語られている。(或本云)に拠ると、唐の蘇定方が「尾資之津」に軍船を進めた。一方の新羅は「怒受利之山」に軍を進めた。これに対して百濟の西部に居た「鬼室福信」が「任射岐山(又は北任敍利山)」で蜂起し、もう一人「餘自進」が中部の「久麻怒利城(又は都々岐留山)」で立ち上がった。逃げ散った兵を集め、武器も棒しかない有様だったが、新羅を破り、反って士気は高まったと言う。
唐はこの百濟の抵抗には関わらず、高麗の南部方面の兵站地確保を目的とし、おそらくそれまでの戦いで長期戦になることを想定していたのであろう。兵站と新羅の協力があればそれ以上の消耗を望まなかったと思われる。
<尾資之津> |
尾資之津
当時の百濟の王城は、錦江沿いの「泗沘」(現地名忠清南道扶余郡扶余邑)にあったことが知られている。唐軍が海路で向かえば現在の錦江の河口付近であろう。
「尾」=「尾根が延びた様」である。「資」=「次+貝」と分解される。「次々と財貨がある状態」の意味であるが、地形象形的にはそのまま「資」=「貝のような地形が並んでいる様」と解釈する。
尾資=尾根が延びた麓で貝のような地形が並んだところと読み解ける。すると現地名の全羅北道群山市少龍洞の川縁を示していると思われる。正に錦江の河口辺りを表している。
現在はもう少し東側に群山港(内港)があるが、ひょっとしたら、外港と呼ばれていたのかもしれない。Google Mapの地形図の精度で十分に判別可能な地形と思われる。尚、漢字表記は『コネスト韓国地図』を参照。
<怒受利之山> |
怒受利之山
一方の新羅が進軍した場所が「怒受利之山」と記載されている。朝鮮半島東部の新羅から陸路で向かった。その詳細は不明だが、文字を読み解いてみよう。
「怒」=「女+又(手)+心」と分解される。「怒」=「嫋やかに曲がる(女)山稜(又)の中心(心)」と読み解く。「受」=「受け継ぐ、引き継ぐ様」の意味、「利」=「切り離された様」と読む。頻出の文字である。
纏めると怒受利之山=嫋やかに曲がる(女)山稜(又)の中心(心)で引き継がれるところ(受)が切り離されている地(利)にある山と読み解ける。
図に示した現地名の忠清南道論山市連山面にある山稜が途切れた場所と推定される。山稜の端が途切れた場所は幾つか見受けられるが、「怒」に含まれる心(中心)=広がった端の中心を表していると解釈される。上記で「怒受利山百濟之東堺也」と補足され、「黄山城」の麓を示していると思われる。
『三国史記』によると「黄山」で、迎撃の百濟との激しい戦闘があったようである。「泗沘城」の東南の防御は、「熊津口」と呼ばれる狭い谷間と思われる。そこに唐と新羅軍が集中して突破したように推測される(実際は新羅が黄山での戦闘に梃子摺って延着し、唐単独で突破のようなのだが…)。確かにここを破られたら後は手の打ちようがない感じである(図拡大)。
<任射岐山(北任敍利山)> |
任射岐山(北任敍利山)
西部に居た「鬼室福信」が蜂起した場所は何処であろうか?…上記の攻防は百濟王城、唐の上陸地点、新羅の侵入経路などからある程度は想定される場所と思われるが、通説も殆ど候補地さえも挙げ辛い有様のようである。
「任」の文字から「任那」辺りか?…と憶測されている方もおられるが、それでは百済の東~南部になる。
また、戦乱の最中に進調できるのは、百済の西は海であり、新羅の妨害は殆ど考慮しなくてよい筈・・・これで探索の目途が立った。
西部、と言うか扶余郡からすると北部に近いが、「任」=「糸巻の形」の地形が見出せる。前記の任那と同様に中央部が広がって膨らんだような谷間である。現地名は忠清南道礼山郡である。「射」=「身+寸」と分解され、「矢を射る時の様」を象った文字と知られる。
かなり下流域に入って凹凸が少なくなってはいるが、「矢」の地形が目立つところがある。更にその先に辛うじて「身」=「弓なりの様」を示す小高いところが並んでいることが解る。任射岐山=中央が膨らんだ谷間(任)にある矢を射るような地形(射)の山が岐れている(岐)ところと読み解ける。
別資料では「北任敍利山」と記されているようで、「敍」=「余+攴」と分解され、地形象形的には「山稜の端が延びてその先で小高くなった様」を表すと読み解ける。北任敍利山=中央が膨らんだ谷間(任)にある山稜の端が延びて(攴)切り離されて(利)北側の小高くなった(余)ところと読み解ける。蜂起した場所が南側の華厳寺ではなく、北側にあった場所と述べていると推測される。
<鬼室福信・集斯> |
「鬼」=「丸い様」を象った文字である。この文字は古事記よりは魏志倭人伝における重要なキーワードであった(鬼國・鬼奴國)。
頻出の「室」=「宀+至」と分解され、「山稜に囲まれた谷間が奥に延びる様」と解釈した。すると鬼室=丸く取り巻く山稜に囲まれた谷間が奥に延びているところと読み解ける。
上記で求めた「任射岐山」の南西、直線距離でおよそ10kmのところにその地形が見出せる。福信=坂になった(畐)高台(示)の傍で谷間(人)が耕地(言)になっているところと読み解ける。四つの文字構成要素に分解して求められる。図に示した「鬼」の中心地である。
後に登場の「集斯」は「集」=「集める様」、既出の「斯」=「其+斤」=「箕の形に切り込まれた様」とすると、集斯=箕の形に切り込まれた地が集まったところと読み解ける。「鬼」の出口辺りが出自の場所と推定される。同一場所に複数の人物が登場すると極めて確度の高い結果となったようである。
餘自進
中部でも「餘自進」が蜂起したと伝えている。その場所が「久麻怒利城(又は都々岐留山)」と記載されている。勿論通説は不詳である。上記の鬼室集斯等と同様に日本に亡命し、その後天智天皇より大錦下の冠位を授けられている。
<久麻怒利城・餘自進> |
久麻怒利城(都々岐留山)
中部にあったことを念頭に文字を読み解くことにする。「久」=「くの字に曲がる様」、「麻」=「擦り潰された様」、「怒」及び「利」は上記で出現した。
これらを繋げると、久麻怒利城=[く]の字に曲がって擦り潰されたような地で嫋やかに曲がりながら延びた山稜の中心が切り離されているところにある城と読み解ける。
熊津に面した山稜の端を示していることが解る。解像度の限界を超えているので少々判り辛いようであるが、表現された文字列の地形であることは確認できると思われる。時代は遡るが百濟の武寧王陵が発掘された山稜の場所である。
「餘」=「山稜の端が高くなった様」、「自」=「鼻」=「端」、「進」=「辶+隹」と分解される。餘自進=山稜の端が小高くなって鳥の形をしているところと読み解ける。錦江を挟んで「久麻怒利城」の対岸の地にそのものズバリの地形が見つかる。書紀は、朝鮮半島内も、遠慮なく、地形象形表現していると言い切って良いように思われる。
「都」=「者+邑」と分解され、「交差するように寄り集まった様」と読み解く。頻出文字である。「都々岐」で二つの「都」が岐れている様を表している。
纏めると都々岐留山=交差するように寄り集まった山稜が押し拡げれたような谷間にある山と読み解ける。現地名の公州市西安面の長い谷間の先にある小高いところと推定される。「城」と記載されないのは、やや情報に曖昧さが残っていたのかもしれない。
「餘自進」が蜂起した可能性が高い場所として挙げられたようである。後に鬼室福信もこの地を拠点として活動したと伝えている。その段で、もう少し詳しく考察しようかと思う。生き残りを掛けた血みどろの戦いだったのであろう。白村江敗戦、百濟王子の遁走で幕を閉じることになる。
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少々余談になるが、余=山稜の端が高くなっている様の文字が多数登場している。「敍」、「餘」であるが、更に現地名の「扶余郡」にも含まれている。上図<尾資之津>の埋め込んだ全体図を拡大すると、やはり同じような地形であることが解る。「扶」=「手+夫」と分解され、「山稜が交差するようにくっ付く様」を表し、「扶余」は、”立派な”地形象形表記であると思われる。
この山稜末端の特異な地形が盆地のような窪んだ平地を生み出している。それが「泗沘」の地形象形に繋がることが解る。「泗」=「水+四」=「四方から水が流れて来る様」、「沘」=「水+比」=「水がくっ付いて並ぶ様」と読み解ける。泗沘=四方から川が流れて来てくっ付いているところと読み解ける。その川の状態を別地図で確認することができる。
限られた例かもしれないが、恣意的にぐちゃぐちゃにされた日本とは異なり、韓国の地名は本来の地形象形表記として残存しているように思われる。漢字表記の韓国地名、重要な情報を提供してくれることを期待したい。
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と言うことで、些か横道に逸れた感じであるが、本文に戻って・・・やはりこれを「還」とは言はない・・・。