2020年6月28日日曜日

皇祖母尊:斉明天皇(Ⅷ) 〔428〕

皇祖母尊:斉明天皇(Ⅷ)


ついに粛愼國を討伐することに成功したと記されていた。「粛愼國」=「熊曾國」と読み解いた。古事記の伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みにも登場する”由緒”ある国である。ではあるが、皇統に絡むことはなく、倭建命の謀略で熊曾建を殺害したと伝えるが、決してなびくことのない国として位置付けられている。帶中津日子命(仲哀天皇)が筑紫に居を構えて討伐を企てたのだが、成就できなかった。

その記述は息長帶毘賣命(神功皇后)の三韓遠征と密接に関連付けられていて、支配下に置けなかった地を征伐するのか、それとも融和策を用いるのかの選択であったと推測される。結果的には後者が選ばれ、三韓との交流が一気に活発になって行く。これらの一連の記述は、「熊曾國」が三韓、とりわけ新羅との関係が深いことを物語っているのである。

唐の圧迫による朝鮮半島内の騒乱は、この積年の課題を片付ける必要性をあらためて浮かび上がらせたものと思われる。唐との関係を深めて来た自負があるが故に新羅の日本列島への進出さえ食い止めることができれば、均衡を保てると判断したのであろう。

時は即位六年暮れから、翌七年(西暦661年)である。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

十二月丁卯朔庚寅、天皇幸于難波宮。天皇、方隨福信所乞之意、思幸筑紫、將遣救軍。而初幸斯、備諸軍器。是歲、欲爲百濟將伐新羅、乃勅駿河國造船。已訖、挽至績麻郊之時、其船夜中無故艫舳相反。衆知終敗。科野國言「蠅群向西、飛踰巨坂。大十圍許、高至蒼天。」或知救軍敗績之怪。有童謠曰、

摩比邏矩都能倶例豆例於能幣陀乎邏賦倶能理歌理鵝美和陀騰能理歌美
烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝甲子騰和與騰美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝

年も押し迫った日に天皇は難波宮に行かれた。そこから更に筑紫に行き、「鬼室福信」救助のための軍備を整えようとされたと記載されている。百濟のために新羅を討とうとして、「駿河國」で船を造り、「績麻郊」まで船を曳航した時に艫舳が逆になったと言う。隻数不明で、新羅を討とうとするくらいだから、かなりの隻数で、その内の一隻かもしれない。「科野國」が蠅が西に向かって巨坂を越えて行った噂したと伝えている。

救援軍の船であるとか、敗軍の予兆だとか、後付け風の記述が続くようである。海辺の国で造船するのは理解できるのだが、海のない国、「科野國」の登場は何と解釈するのであろうか。

末尾の童謡は如何ともし難いようで、不詳のようである。これもいつの日か読めるかもしれない。
 
駿河國・績麻郊・巨坂

出現した地名などを読み解いてみよう・・・いや、既にしっかり比定されて揺るぎない有様か?・・・おそらく通説とは全く異なる地を示すことになりそうである。「駿河」は、書紀の日本武尊の遠征時に登場している。古事記では倭建命の東方十二道遠征で、前後の記述から「駿河國」ではなく「相武國」の地名となっている。
 
<駿河國・績麻郊・巨坂>
これだけで場所は、現地名の北九州市小倉南区沼辺りとなるのであるが、古事記には、もう一つ重要なキーワード「走水海」がある。

この海であわや遭難しかけたところを妻の弟橘比賣が身代わりとなって命を助ける説話が挿入されている。

対応する書紀は同じような設定ではあるが、暴風による「馳水」と記している。「暴風卽止、船得著岸。故時人號其海、曰馳水也」

実に巧みに誤魔化した書紀、「水が走ったのは風のせい」、とした。古事記は「走水の傍らの海」である。「駿河(走水)の傍らの海」であり、「駿河國に面した海」となる。

即ち「滝のように流れる川がある国」を示していることになる。書紀は、それでは都合が悪いから、「暴風」を持ち出したのである。ただ彼らは「駿河」の名称を残した。要するに曖昧にすることによって、地形象形表記の”矜持”を保った、のであろう。

因みに「駿河」は、川に着目した表記であり、「相武」(離れて並ぶ山稜が矛の形をしているところ)はその奥の谷間の地形を表したと解釈される。言うまでもないが、古事記、書紀の編者等は自在に地形を漢字で表すことに長けていたことである。

「績麻郊」は、「オミノ」と読むそうなんだが、一文字一文字が表す地形のを総合したものであろう。「績」=「糸+責」と分解される。すると「山稜(糸)が積み重なった(責)ような様」と読み解ける。「責」は更に分解した解釈もあるが、ここでは「積」の一般的な表現を用いる。「麻」=「擦り潰された様」である。「郊」=「交+邑」と分解される。「交差するように集まった様」と読み解ける。

纏めると績麻郊=積み重ねられて擦り潰されたような山稜が交差するように寄り集まったところと読み解ける。「績麻郊」までの経路を示した。現地名では北九州市小倉南区葛原、湯川との境に当たる。

「其船夜中無故艫舳相反」と記載されている。「無故」と余計な文字が付加されているのは、「故」は分るだろう!…を示しているのであって、転覆などと訳しては勿体ないのである。「艫舳が反転」したのは、おそらく渦が巻いていたのであろう。この地も急流が流れ込む入江であり、西側は「巨坂」が延びた山稜の端で塞がれた地形を示している。

そして「科野國」と「豐國」との端境に近い場所であることも判る。その境を「巨坂」と呼んでいたのであろう。「科野國」が蠅の大群が西に向かって天高く舞い上がるのを見た場所である。「大きな坂」と読んで、「国境の長い峠道」と訳しては、全くの誤りである。「巨」、「坂」それぞれの示す意味が伝わっていない。

何度も登場する「坂」=「土+反(厂+又(手))」と分解すると、「崖の麓で山稜が延びている様」である。崖の麓(厂)で大きく広がった(巨)山稜が延びた(又)ところと読み解ける。この坂を東西に真っ二つに分けるのが、現在の北九州市小倉南区葛原と湯川の境界線である。

書紀では「科野國」はここだけの出現である。「蝦夷」に関連して「磐舟柵」を造らせた「信濃之民」が登場する。「磐舟」の近隣に地のイメージを醸し出している記述であった。「信濃」(谷間に耕地がある舌を出した二枚貝のようなところ)であり「科野」(段差がある野原)である。野原は耕作されていない土地の意味である。

これらは全く異なる地の様子を表わす表現である。書紀編者は重々承知の上での文字使いである。それが全く読むことができず、「記紀」も中国史書東夷伝も、谷間に奥で眠ったままという、悲しい現実である。

七年春正月丁酉朔壬寅、御船西征始就于海路。甲辰、御船到于大伯海。時、大田姬皇女産女焉、仍名是女曰大伯皇女。庚戌、御船泊于伊豫熟田津石湯行宮。熟田津、此云儞枳拕豆。三月丙申朔庚申、御船還至于娜大津、居于磐瀬行宮。天皇、改此名曰長津。夏四月、百濟福信遣使上表、乞迎其王子糺解。釋道顯日本世記曰、百濟福信獻書、祈其君糺解於東朝。或本云、四月天皇遷居于朝倉宮。

即位七年(西暦661年)正月十四日に「伊豫熟田津石湯行宮」で停船したと伝える。そして三月二十五日に「御船還至于娜大津、居于磐瀬行宮」と記されている。四月になって「百濟福信」が王子の「糺解」を返して欲しいと使者を寄越したと書かれている。(或本云)ではこの月に天皇は朝倉宮に移っていたと言う。

「狂心」の斉明天皇は、高齢にも拘わらず、何と筑紫まで、その先の朝倉まで出向かれたと信じられている物語である。何せ「伊豫」は登場するし、「娜大津」(博多湾)、挙句に「朝倉」だから間違いようがない、のである。下段で五月に「朝倉橘廣庭宮」へと移られたと記されているので最終到着地を含めて読み解いてみよう。
 
大伯海・伊豫熟田津石湯行宮

さて、この大航海の出発港が明記されていないと言う不思議な航海なのである。昨年の暮れには難波宮に出向いていたことが記されているので、「御船西征始就于海路」の港は、てっきり難波津のように読んでしまうが、ここには「難波津」の文字は見られない。記載しているのは、「海路に始めて就く」である。怪しげな表現がこれから幾つか登場するようである。

と言うことで、どこかの港から「大伯海」に向かったとして読み解くことにする。「大伯海」は既出の文字から成り、更に西に進めば、「伊豫温湯」の場所に届く。そこを「熟田津」と表現している。
 
<大伯海・伊豫熟田津・石湯行宮>
これには「儞枳拕豆(ニキタツ)」の訓が付加されている。「儞」=「人+爾」と分解され、「谷間の近くにある様」と読める。

枳」=「木+只」と分解され、「奥の広がった谷の麓から山稜が広がり出た様」と読める。頻出の「兄」に類似する地形象形である。

拕」=「手+它」と分解され、「崖のように山稜が延びる様」と読める。「豆」=「高台」である。「陀」から「阝(段差)」の表現を除いた表記である。

纏めると儞枳拕豆=谷間の近くにあって()崖のように延びる山稜()が奥の広がった谷の麓から広がり出た()高台(豆)と読み解ける。この地の地形を余すことなく盛り込んだ表現であることが解る。「枳」、「拕」の文字から大きな谷間の崖が背後に迫った港であることを示している。

熟田津と併せて詳細な地形象形表記となっていることが解る。従来より比定されている各所は、この地形要件を満たす必要があることを忘れてはならないであろう。あらためて「大伯海」の意味を読み解いてみよう。

下図に示すように、洞海湾の現在は埋め立てられて当時の地形そのものではないと思われるが、水路は二つに岐れている。その分岐する場所(三角州)は、当時でも島状となっていたと推測される。すると大伯=平らな山稜の傍で谷間がくっ付く様と読み解ける。古事記は勿論、書紀もしっかりと地形象形している、と言うか、当時は当たり前のことだったのであろう。さて、本論に戻って・・・。
 
<大伯海・伊豫熟田津・石湯行宮・娜大津・磐瀬行宮・朝倉橘廣庭宮>

そして十日ばかり後に「御船還至于娜大津、居于磐瀬行宮」と記載されている。怪しげな表現の二つ目である。「御船還至于娜大津」は、従来より「御船は”元の経路に戻って”那大津に至る」のような解釈がなされている。無数に記載される「還」の文字をこれで解釈すると、行宮を往来される天皇は、いつまで経ってもお帰りにならないことになる。

加えて航海日数が不明の記述を行っている。”自由に解釈しろ!”、と言っているのである。正に怪しげな表現である。「還」はその文字が示す通りに”戻る”ことになる。上図に示したところに「娜大津」があったと推定する。既に紐解いた図を再掲する。
 
<筑紫大津之浦・娜大津・磐瀬行宮>

娜大津・磐瀬行宮

「娜大津」は前記で引用された古事記の勝門比賣の場所と推定される。現地名は北九州市小倉北区赤坂である。

これで「娜」の文字が使われている意味を読み解けることになる。単に「那」(なだらか)ではなく、「女」が付加されているのである。

「娜」=「嫋やかになだらかに」を示しつつ、「女」(比賣)の地形を表現していると解釈される。そして女性天皇としては、それを避けるために「長津」と”平凡な”名称に変えられたと告げているのである。

古事記も、書紀も編者達の記述は、真偽は別として、極めて論理的である。彼等は命懸けで職務を果たしていたのである。緊張感の無い後代の歴史家、現在も全く変わらないようであるが、とは雲泥の差があろう。通説は朝倉市周辺と奈良大和の地名が偶然とは思えないほど類似する、と宣う寝惚けた大家がおられるようだが、緊張感は皆無である。
 
朝倉橘廣庭宮

異説があるくらいだから、この行宮での滞在日数は不明であるが、「朝倉橘廣庭宮」を造って移られたと伝える。いよいよ天皇の終の棲家となる宮に到達である。書紀本文でもあるように「朝倉宮」と略される。勿論「朝倉」も重要なのであるが、注目は「橘」の一文字である。古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀で長々と記述された橘(登岐士玖能迦玖能木實)である。
 
<朝倉橘廣庭宮>
「朝倉」は、例えば古事記の大長谷若建命(雄略天皇)が坐した長谷朝倉宮で用いられた表記である。

「朝倉」=「朝が暗いところ」である。そして「橘」=「幾つもの谷(川)が寄り集まったところ」と読み解いた。

「廣」=「四方に広がるところ」であり、「庭」=「山麓の平らなところ」である。

そのまま纏めれば、朝倉橘廣庭宮=朝が暗く幾つもの谷(川)が寄り集まる四方に広がった山麓の平らなところの宮と読み解ける。

現在の行政区分では北九州市小倉北区大畠・足立・寿山辺りと推定される。小文字山の西麓、多くの谷間が麓で寄り集まって平らになった台地が海に突出ている場所である。古事記では帶中津日子命(仲哀天皇)に神功皇后がお腹に品陀和氣命(後の応神天皇)を抱えて彷徨われた「裳」の場所と推定した地である。

上図<大伯海・伊豫熟田津・石湯行宮・娜大津・磐瀬行宮・朝倉橘廣庭宮>に示した位置関係であり、磐瀬行宮とは直線距離でおよそ2.2kmである。中大兄皇太子が行ったり来たりするのに何ら支障のない距離と思われる。

この行幸の目的は何であったのか?…奈良大和からすると、ざっと500km(往復だと1,000kmを遥かに超える)、本著では伊勢・海経由で約50km)を越える長旅であるのだが…最後の段が終了したところで述べることにする。

五月乙未朔癸卯、天皇遷居于朝倉橘廣庭宮。是時、斮除朝倉社木而作此宮之故、神忿壤殿、亦見宮中鬼火。由是、大舍人及諸近侍病死者衆。丁巳、耽羅始遣王子阿波伎等貢獻。(伊吉連博德書云「辛酉年正月廿五日還到越州、四月一日從越州上路東歸、七日行到檉岸山明。以八日鶏鳴之時順西南風、放船大海。海中迷途、漂蕩辛苦。九日八夜僅到耽羅之嶋、便卽招慰嶋人王子阿波伎等九人同載客船、擬獻帝朝。五月廿三日奉進朝倉之朝、耽羅入朝始於此時。又、爲智興傔人東漢草直足嶋所讒、使人等不蒙寵命。使人等怨徹于上天之神、震死足嶋。時人稱曰、大倭天報之近。」)

五月九日に天皇は朝倉橘廣庭宮に移ったと記している。この宮を造るのに「朝倉社」(現在の妙見神社であろう)の木を使って、顰蹙をかったと記載されている。神の祟りかと思わせる不祥事が続いたとのことである。それでも勝手に使えるような状況、即ちその地は既に天皇の支配下にあったことを、何気なく、述べているのであろう。「朝倉」の比定要件の一つである。

伊吉連博德書』からの引用である。前年の九月半ばに西安で解放されて漸く四月八日に出航したのだが、迷走してしまって九日八夜掛かって(現在の済州島)に辿り着いたと記載されている。王子「阿波伎」等を同船して五月二十三日に朝倉宮に招き入れたようである。讒言した人物の名前が「東漢草直足嶋」となっていて、前記(西漢大麻呂説)で異説あり、と注記されていたのは、これが根拠であろう。

王子「阿波伎」も「台地の端の谷間で岐れたところ」と読めて、ほぼ推定される場所(現在の韓国済州島)が見出せるが、割愛する。

六月、伊勢王薨。秋七月甲午朔丁巳、天皇崩于朝倉宮。八月甲子朔、皇太子奉徙天皇喪、還至磐瀬宮。是夕於朝倉山上有鬼、着大笠臨視喪儀、衆皆嗟怪。冬十月癸亥朔己巳、天皇之喪歸就于海。於是、皇太子泊於一所哀慕天皇、乃口號曰、

枳瀰我梅能 姑裒之枳舸羅儞 婆底々威底 舸矩野姑悲武謀 枳瀰我梅弘報梨

乙酉、天皇之喪還泊于難波。

十一月壬辰朔戊戌、以天皇喪殯于飛鳥川原、自此發哀至于九日。(日本世記云「十一月、福信所獲唐人續守言等至于筑紫。」或本云「辛酉年、百濟佐平福信所獻唐俘一百六口、居于近江國墾田。」庚申年既云福信獻唐俘、故今存注、其決焉。)

伊勢王は、古事記で記述される沼名倉太玉敷命(敏達天皇)の御子、寶王(別名糠代比賣王)の場所と推定した。その後の出番もなく、前記と同様とする。それが唐突に記載されるのは、皇祖に関係した上に「伊勢」(神)絡みであることを暗示しているようでもある。

続けて七月二十四日に、天皇が朝倉橘廣庭宮で崩御されたと伝えている。年齢的も当時としては長寿に域であり、寿命が尽きて逝かれたと思われる。出先での出来事であり、皇太子は難波津に亡骸を帰還させることになる。八月一日に喪を行って磐瀬宮に帰って来たと記載している。朝倉山に大笠を着た鬼が現れたとかのことがあって、十月七日に「天皇之喪歸就于海」、そして、とあるところで泊り、詠われた歌が載せられている。

例によって参考資料を引用して・・・、

君が目の 恋しきからに 泊てて居て かくや恋ひむも 君が目を欲り
(あなたの目が恋しいから、ここに泊まっているのです。これほどに恋しいのは、あなたの目が欲しい(あなたに見つめて欲しい)からなのです。)

十月二十三日に難波に帰って来たと記している。皇太子の動きに注目すると、「朝倉橘廣庭宮」から「岩瀬行宮」、そこから船に乗って、直行で「難波津」までの経路であって、所要日数も行きの途中下船分を除けば、ほぼそのような感じと思わせる記述である。

がしかし、「天皇之喪歸就于海」の一文に怪しさが滲んでいるのである。「磐瀬行宮」に行ったと記述してはいるが、「娜大津」は登場しない。出発時は御船西征始就于海路」であって、「難波宮」に行ったと記述しているが、「難波津」は登場しない。と言うことは、やはり「海」は「筑紫海」と思われる。

「天皇之喪歸就于海」=「天皇の喪は海より帰りに就く」と訳す。上図<朝倉橘廣庭宮>に記載した通り、「朝倉橘廣庭宮」の直ぐ北側が「海」である。中大兄皇太子は天皇の亡骸を抱えて「岩瀬行宮」まで運んだわけではなく、「海」から「難波」まで同道したのである。

わざとらしく、途中で泊まって歌まで読ませている。この歌が何とも、ある意味ふざけた内容であろう。わざわざ泊まって読むほどの内容ではない。それは「難波」への帰還の記述が”わざとらしい”ことを暗示している。勿論、読み手にそう読ませるように仕向けた記述であることには変わりはない。

十一月には「天皇喪殯于飛鳥川原」と記載されている。前出の川原寺と思われる。(或本云)で記載されている「近江國墾田」は、古事記の豐御食炊屋比賣命(推古天皇)が坐した 小墾田宮(古事記の小治田宮)の東隣、現在の旭ヶ丘ニュータウン辺りかと思われる。

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さて、最後に斉明天皇の大航海を今一度眺めてみよう。高齢にも拘らず決行した動機、目的は何と考えれば良いのであろうか?…博多湾岸ではなく、少し奥まった有明海に面する山裾で唐・新羅との戦いに備えた、と言われているようなのだが・・・はたまた、「狂心」の天皇の行動は理解し難い、と切り捨てているかのようでもある。
 
<唐・新羅の侵攻予想行程>

図に本天皇紀に登場する地点をプロットし、西方からの想定侵入ルートを示した。葛城嶺から唐人らしき者が顔を覗けた話は、最も南側の遠賀川を遡るルートを表している。これに対しては地形そのもので防御されており、宮の西側の谷に「渠」を造って補強するすることで対処できると考えたのであろう。

「伊豫之二名嶋」(現在の北九州市若松区)は当時は南側を川(現在名江川)で区切られていて、響灘と洞海湾(かつては洞海)を通る二つのルートに分かれる。その後関門海峡入口で合流することになる。そして上陸地点は、彼らの橋頭保である「肅愼國・蝦夷國」であろう。

「伊豫」で分かれた南側のルート上にあるのが「伊豫熟田津」である。しかもそれは江川を抜けた出口であり、相手方の動向を知るには都合良く、威嚇するには最適の場所である。更に戦闘状態に入った時に洞海湾側からの攻撃は極めて有効と思われる。即ちこの津は戦略拠点として最重要であったことが伺える。長い航海の途中、温泉に入って骨休め、では決してなかろう。

北側の響灘直行ルートを抑えるには、関門海峡入口付近、これが「娜大津」に当たる。ここが海路上最終の防御地点である。相手方も関門海峡を突破する一隊と「筑紫」上陸を決行する一隊に分かれることも想定される。「筑紫海裏」(績麻郊)はそれに対応する戦略拠点であったと思われる。そして難波津上陸を許した場合の防御が宮の東側の山麓に積み上げられた「石垣」であった。

重祚された斉明天皇の目的は、何はともあれ「国防強化」であった。唐が国家として強大化すれば、少なからず日本にその影響が及んで来ることは必然であったろう。豪族の寄り合い所帯の国ではとても対応できる状態ではない。「公地公民」制を施行し、国としての力を集中できるならば、何とか西方からの脅威に立ち向かうことが可能と判断したと推測される。

その可能な限りの諸策を打ち終わって、西方の遥かな海の向こうを眺める地で、さぁ、来るなら来い、と朝倉橘廣庭宮で安堵の気持ちを、些かの不安を抱きつつ逝かれたのではなかろうか。書紀編者が苦労して舞台の中心を奈良大和と思わせる記述を行った。それを還元すれば、彼らの深謀遠慮が一気に海面上に浮かび上がって来たように思われる。西方騒乱、なのに東北・北海道へせっせと赴く、何と暢気な天皇…ではなく、暢気なのは読み手であった。

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皇祖母尊(斉明天皇)紀はこれでお終いである。従来より本紀には不明な記述が多く、諸説が多いようである。ご高齢な天皇の数百キロに及ぶ長旅はあり得ないとして、「九州王朝盗用」説まで飛び出す始末である。通説に従って、難波から朝倉宮までの行程を詳細に論じられた論考がある。清原倫子、「斉明天皇の筑紫西下の意義と行程に関する一考察 : 熟田津の船出を中心に」、交通史研究,80)、ご興味のある方はこちらを参照。

論文にするには各地の配置を通説に従わざるを得ないと思われるが、瀬戸内海の航海ルートは興味深い考察と思われる。流について「一島、門、戸」と記載されている。知られていることではあるが、これをお書きになったら、瀬戸内海を唐・新羅が侵攻して来ることはあり得ないとお気付きになられた筈である。

”不動”の奈良大和に国の中心を置くならば、国防視察は山陰(出雲)~北陸(越)への旅路となったであろう(白紙撤回となったイージス・アショアの配置)。本紀に登場する「肅愼國」の解釈は、樺太まで候補に挙げられる。空間認識が全く欠如した現在の古代史学上に論考を重ねても無意味である。

天皇家が九州東北部から奈良大和へ逃げたのは、その日本三大潮流の先なのである。そして益々西方の脅威が高まる時期に即位した次の天智天皇の「近江大津宮」を国防上手薄な「越」に近付けることなど以ての外だった筈である。「蝦夷」、「肅愼」も含め、書紀編者が悪戦苦闘した本紀だと思われる。それが報われての千三百年間とも言えるが、悲しい現実である。