皇祖母尊:斉明天皇(Ⅶ)
「蝦夷國」の全貌が語られた。現在の東方地方の地名がズラリ、では似たような名称であり、全く見出せない地名もあったり、被っていたり、所詮遠い昔の記述であり、細かいところは目を瞑るのが当たり前、のような感じであろう。以前にも述べたが、書紀編者は古事記よりもう少し洗練された文字使いを行っているようである。それによって、使用する文字種が一気に増えた感があるが・・・。
各地の「蝦夷」を招いて「須彌山」を造り、大宴会である。それは彼等の懐柔策の一つに先進の仏教文化を用いていたことを告げている。書紀編者は、奈良大和に「九山八海」を作り出すことが不可能なことを承知しており、故に詳細な説明を省略したのであろう。蝦夷懐柔に須彌山を用いたことは極めて重要な戦略だった筈である。
非敵対的(実際は異なるかもしれないが)な「蝦夷」とは違って、敵対的な反抗を取る輩が存在する。前記で登場の「粛愼國」であり、古事記の「熊曾國」と結論付けた。いよいよその国の征伐の時が訪れる。新羅の倭國に於ける橋頭保、それを手中に収めることができたようである。
時は即位五年~六年(西暦660年)正月である。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちら、こちらなどを参照。
命出雲國造闕名修嚴神之宮。狐嚙斷於友郡役丁所執葛末而去、又狗嚙置死人手臂於言屋社。言屋、此云伊浮瑘。天子崩兆。又、高麗使人、持羆皮一枚稱其價曰、綿六十斤。市司、咲而避去。高麗畫師子麻呂、設同姓賓於私家日、借官羆皮七十枚而爲賓席。客等羞怪而退。
即位五年(西暦659年)に「出雲國」が登場する。勿論古事記で読み解いた北九州市門司区大里、戸ノ上山山系の西麓として読むことにする。「命出雲國造(闕名)修嚴神之宮」と記載され、通常の読み方は「神之宮を修嚴する」となっているようである。「修嚴」の文字列は書紀に登場せず、そもそもの意味も不明である。
文字列の区切りを変更して「修・嚴神之宮」として読む。「嚴神」は神の有様を表しているのであろうが、当然地形象形表記と思われる。「嚴」=「口+口+厂+敢」と分解される。更に「敢」=「甘+爪+丿+又」とバラバラにすることができる。要するに「嚴」=「口+口+厂+甘+爪+丿+又」を構成要素とする文字である。
ズラリと並んだ地形を示す文字である。「口(クチ)」=「谷間の入口」、「厂」=「崖の麓」、「甘」=「舌のように延び出た様」、「爪」=「[爪]の形に延びる様」、「ノ」=「削られた様」、「又」=「腕を伸ばしたような山稜」である。「神」=「示+申」と分解して「山稜が(稲妻のように)延びた麓の高台」と解釈する。頻出の文字である。
何処の場所を表しているかを求める前に「於友郡」を読み解いてみよう。「於」=「㫃+=(途切れる)」と分解される。
「㫃」は「旗」の原字であり、「途切れる様」の表現は「今(來)」の場合に類似する。すると「於」が示す場所の端は、古事記の大國主命が娶った神屋楯比賣命の場所を示していることが解る。
嚴神之宮・於友郡
文字列の区切りを変更して「修・嚴神之宮」として読む。「嚴神」は神の有様を表しているのであろうが、当然地形象形表記と思われる。「嚴」=「口+口+厂+敢」と分解される。更に「敢」=「甘+爪+丿+又」とバラバラにすることができる。要するに「嚴」=「口+口+厂+甘+爪+丿+又」を構成要素とする文字である。
ズラリと並んだ地形を示す文字である。「口(クチ)」=「谷間の入口」、「厂」=「崖の麓」、「甘」=「舌のように延び出た様」、「爪」=「[爪]の形に延びる様」、「ノ」=「削られた様」、「又」=「腕を伸ばしたような山稜」である。「神」=「示+申」と分解して「山稜が(稲妻のように)延びた麓の高台」と解釈する。頻出の文字である。
<出雲國於友郡・嚴神之宮・言屋社> |
「㫃」は「旗」の原字であり、「途切れる様」の表現は「今(來)」の場合に類似する。すると「於」が示す場所の端は、古事記の大國主命が娶った神屋楯比賣命の場所を示していることが解る。
「友」=「又+又」と分解される。「又=手(腕)」とすると、「友」が示す地形は、その西側の長く延びた二つの山稜を表していると思われる。
纏めると「於友郡」は、これら戸ノ上山から延びる山稜に挟まれた地と推定される。これが読み解けると「嚴神之宮」が示す意味、即ち、その場所が浮かんで来る。
嚴神之宮=[爪]の形に延びた山稜(申)の麓(厂)で二つの谷間の入口に挟まれ(口)削られて(ノ)[舌]を出したような(甘)高台(示)にある宮と紐解ける。
不吉な予兆と言える出来事が述べられている。宮の修繕用、おそらく材木の結束とか、運搬に使う葛(カズラ)が狐のために持ち去られたとか、死人の手を犬が「言屋社」に置いたとか…天子が崩御される兆しなんだそうである。
「言」は古事記に登場する「言」の解釈と見做す。即ち「言」=「辛+囗」と分解して、「刃物で耕地にした様」と読み解く。図<出雲國於友郡・嚴神之宮・言屋社>に示した神屋楯比賣命の御子、「八重事(言)代主神」に用いられた「言」の文字である。
これらを繋げば意味として通じるが、「言代主神」に重ねられた表記と解釈される。「耕地が傍らにある尾根が尽きたところ」でも良いが、もう少し言葉を選んで、言屋社=谷間の奥から繋がる山稜の傍らの耕地が尽きるところにある社と読み解ける。現在の御所神社辺りにあったと推定される。現地名は北九州市門司区大里戸ノ上である。
さて、羆の毛皮も綿も、当時としては貴重なものだったのであろう。畫工として既に登場済みである。「設同姓賓於私家」と記され、狛=高麗が確認されるのだが、「高麗」への応対に余裕すら感じさせる記述である。倭國の関心は唐であって、百濟は唐との情報ルート上必要であった、のであろう。皇位継承に絡む諍いはあったとしても甚大な損害が発生する事件は殆どなく、朝鮮半島内とは大きく異なる発展をした様子が伺えるところである。
六年春正月壬寅朔、高麗使人乙相賀取文等一百餘、泊于筑紫。三月、遣阿倍臣闕名率船師二百艘、伐肅愼國。阿倍臣、以陸奧蝦夷令乘己船到大河側。於是、渡嶋蝦夷一千餘屯聚海畔、向河而營。營中二人進而急叫曰「肅愼船師多來將殺我等之故、願欲濟河而仕官矣。」阿倍臣、遣船喚至兩箇蝦夷、問賊隱所與其船數、兩箇蝦夷便指隱所曰「船廿餘艘。」卽遣使喚、而不肯來。阿倍臣、乃積綵帛・兵・鐵等於海畔而令貪嗜。肅愼乃陳船師、繋羽於木舉而爲旗、齊棹近來停於淺處、從一船裏出二老翁、𢌞行熟視所積綵帛等物、便換着單衫各提布一端、乘船還去。俄而老翁更來、脱置換衫幷置提布、乘船而退。阿倍臣遣數船使喚、不肯來、復於弊賂辨嶋。食頃乞和、遂不肯聽弊賂辨、渡嶋之別也據己柵戰。于時、能登臣馬身龍、爲敵被殺。猶戰未倦之間、賊破殺己妻子。
年が明けて即位六年(西暦660年)正月である。「高麗」が百余名の集団で筑紫に来ている。その目的等は語られていない。三月になって「阿倍臣(闕名)」が大船団で肅愼攻めを敢行したと伝えている。
全体を示すために、前記の図を再掲する。「穴戸」に向かって関門海峡を北上する。古事記が伝える熊曾国である。
「渡嶋蝦夷」が討伐の実行部隊なのであるが、彼らは勿論自力・自前でこの地に出向いた筈である。現在で言えば、最強の海兵部隊であろう。既に上陸して「海畔」で川に向かって一千余が集まっていたようである。
至極普通の名称が挙げられている。通常はそのまま読み飛ばしてしまうところであるが、「大河」も「海畔」も地形象形表記と思われる。
ともあれ、関門海峡に面する当時の海水面の有様を推定することから始める。前記の筑紫大津之浦でも行ったように現在の標高およそ10mのところが当時の海岸線であったと思われる。
それぞれの文字の基本に立ち返って文字の示す地形を求めてみよう。「河」=「水+可」と分解される。単に河・川の表現ではなく、「谷間から水が流れ出て来る様」を表すと読める。「側」=「人+則」と分解される。「直ぐ傍にある谷間」を表すと解釈される。繋ぐと大河側=平らな頂の麓にある水が流れ出てくるところの直ぐ傍にある谷間と読み解ける。図に示した山稜が大きく窪んだような谷間の麓に彼らは着岸したと思われる。現地名は門司区庄司町である。
次に登場するのが「渡嶋蝦夷」が駐屯した「海畔」で、川の向こうに面していると述べている。
この辺りは地形がかなり複雑に、当然最下流域であって入江の状態であったと思われる。「海の畔(ホトリ)」と読んで差し支えないのであろうが、それでは場所の特定には至らない。
そこで「畔」=「田+半」と分解する。すると「畔」=「田で二つに分けられた様」と読める。「(大)伴」(谷間で二つに分けられた様)の用法と同じと解釈する。
すると海畔=海の傍らで田で二つに分けられたところと読み解ける。台地が平らな地で区切られた場所が見出せる。即ち「渡嶋蝦夷」等はこの窪んだところを中心に潜んでいた状況が浮かんで来る。正に上陸して戦闘態勢を整える場所として最適な地形と思われる。そして川向こうを見やると(図の❶)「肅愼船師多來將殺我等」を察知できる位置関係であったと述べている。
ところが「渡嶋蝦夷」が「願欲濟河而仕官矣」叫び、あわや寝返りそうな雰囲気になったと伝えている。何とも尻軽な、と言っては失礼な話で、如何に「肅愼」が手強い敵だったかを含めた表現なのである。「阿部臣(闕名)」としては、あらぬ風評で部隊に混乱が生じては、戦う前に敗れたも同然の事態に陥ることになる。そこで・・・。
勿論初登場なのであるが、地元の蝦夷である。「箇」=「竹+囗+古」から成る文字で、前記で登場した須彌山を造った場所、「真っ直ぐな山稜に囲まれた小高いところ」と読み解いた。彼等が着岸した場所は兩箇=真っ直ぐな山稜に取り囲まれた二つ並んだところだったのである。彼等を船に乗せてグルリと回って「肅愼」の隠れた場所を覗かせた(図の❷)と記載されている。
すると十分の一の船師であることが判明、何とも悠長な戦いであるが、命懸けである。献上品のようなものを置いて、それを取りに来る作業を繰り返し、相手の様子を伺いながら勝敗が決するのである。
● 能登臣馬身龍
一応実戦があったのであろう、小競り合いの中で「能登臣馬身龍」が戦死したと記載されている。そして勝ち目無しと判断した粛愼の親玉の自決となる。
追悼を込めて、この臣の出自の場所を示した。能登臣は古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)が尾張連之祖・意富阿麻比賣を娶って誕生した大入杵命が祖となった地である。「淡海」に関わる人物であって、書紀には登場しない。徹底的に「淡海」排除の編集である。
それはまた別途で述べることにして、正にその地の地形をそのまま名前にしたようである。現地名北九州市門司区猿喰である。七ッ峠を越えれば阿倍臣の地である。配下の臣であったと思われる。
何とも奇妙な名称の島が記載されている。「弊賂辨嶋」の「弊」=「敝+廾」と分解され、「二つに切り裂かれる様」を表すと解説される。「賂」=「貝+各」と分解される。「各」=「至る、届く」で「貝(金品)」が届く賄賂となり、確かに金品を遣り取りしようとしている場面なのだが、ちょっと適切ではないようである。「各」=「夂+口」と分解され、「大地に立つ人が足を開いた様」を象った文字と解説される。
「辨」=「辛+辛+刀」で「真ん中に切れ目がある様」を加えて、全体を纏めると、弊賂辨嶋=二つに開かれた貝の足のようなところに真ん中に切れ目がある島と読み解ける。「渡嶋之別」と補足されているように島の端が延びて小高くなった場所である。現在の三光寺がある辺りと推定される。図を拡大すると切れ目が確認される。全く異国風の名称を作り上げて、「肅愼國」の場所を暗示するような表記であるが、これに惑わされているようでは、「記紀」は読み下せないであろう。
積年の課題であった「熊曾國」を手懐けた戦いであった。西海から圧迫に対抗するためには何が何でもこの地を統治下、少なくとも友好関係にしておく必要があったのである。遠い異国を征伐して領土にする余裕など微塵もなかった時代である。そう受け取れるようにも記載した書紀編者であった。
夏五月辛丑朔戊申、高麗使人乙相賀取文等、到難波館。是月、有司、奉勅造一百高座・一百衲袈裟、設仁王般若之會。又、皇太子初造漏剋、使民知時。又、阿倍引田臣(闕名)獻夷五十餘。又、於石上池邊作須彌山、高如廟塔、以饗肅愼卅七人。又、舉國百姓、無故持兵往還於道。(國老言、百濟國失所之相乎。)
正月に筑紫に来た高麗の使者が五月になって難波館に到着したと伝えている。筑紫と難波間の移動に一ヶ月要したとしても遅い動きである。本国の動静を考慮すると、この辺りの日付の記述は些か怪しげな感じであろう。最重要課題はスルーの書紀である。尚、この段については上記の日本語訳参考資料の記述(斉明六年)を参照。
「仁王般若」は、大乗仏教における経典のひとつで、仏教における国王のあり方について述べた経典・・・と記されている。仏法にどっぷり浸かっていたのであろう。阿倍引田臣(闕名)は前記の「肉入籠」に侵出した臣である。
とまれ、要するに・・・、
・・・である。古事記の「熊曾國」を「熊襲國」の表記に変え、九州南部に”誘導”した。そして「蝦夷國」を東北の彼方にあるような錯覚を起こさせる記述を行ったのである。書紀編者は、それらの地が通説に言われる場所とは、全く明言していないのである。
発生した事実を曲げずに、その場所を変更するための落としどころを天皇に求めると言う、官人達の策略、日本の天皇という存在の根源を表しているように伺える。書紀の一局面における精緻な記述を認めると同時に、史書としての価値を自ら放棄した、あるいは放棄せざるを得なかった書物である。しかしながら、実務担当者の「ひょっとしたら読み解いてくれるかも?」思いが伝わっていることも添えておきたい。
秋七月庚子朔乙卯、高麗使人乙相賀取文等罷歸。又覩貨羅人乾豆波斯達阿、欲歸本土求請送使曰、願後朝於大國、所以留妻爲表。乃與數十人入于西海之路。(高麗沙門道顯日本世記曰、七月云々。「春秋智、借大將軍蘇定方之手、使擊百濟亡之。或曰、百濟自亡。由君大夫人妖女之無道擅奪國柄誅殺賢良、故召斯禍矣、可不愼歟、可不愼歟。」其注云「新羅春秋智、不得願於內臣蓋金。故、亦使於唐捨俗衣冠請媚於天子、投禍於隣國而搆斯意行者也。」伊吉連博德書云「庚申年八月百濟已平之後、九月十二日放客本國。十九日發自西京、十月十六日還到東京、始得相見阿利麻等五人。十一月一日、爲將軍蘇定方等、所捉百濟王以下・太子隆等・諸王子十三人・大佐平沙宅千福・國辨成以下卅七人幷五十許人、奉進朝堂、急引趍向天子。天子、恩勅見前放着。十九日賜勞、廿四日發自東京。」)
七月になって漸く高麗の使者帰国したとのことである。相変わらず、滞在中の話題は記載されない。勿論饗応の記述も、である。漂着した「覩貨羅人」(名前の「乾豆波斯達阿」も地形象形表記のような印象だが後日としよう)が帰国を願い出て西海之路に入ったと記している。
「高麗沙門道顯」が著した『日本世記』が引用されている。七月、「春秋智」(新羅武烈王)が唐の大将軍「蘇定方」の手を借りて百濟を滅亡させたのだが、百濟の内政も不穏で、自ら滅んだようにも伺えると記している。また、『伊吉連博德書』では、九月半ばに西安で解放され、十月半ばには東京へ、そこで遭難後に辿り着いていた「阿利麻等五人」に遭遇できたと記している。
唐の関心事は高句麗の攻略であって、その前段での包囲網の確立のため百濟を占領したわけである。それにしても滅亡するまで後八年の月日が過ぎる。なかなかの強者であったことには違いないようである。蚊帳の外から眺めるだけの日本、では済まされない時代が訪れようとしている。
九月己亥朔癸卯、百濟、遣達率闕名・沙彌覺從等來奏曰(或本云逃來告難)「今年七月、新羅恃力作勢、不親於隣。引搆唐人、傾覆百濟。君臣總俘、略無噍類。(或本云、今年七月十日、大唐蘇定方、率船師、軍于尾資之津。新羅王春秋智、率兵馬、軍于怒受利之山。夾擊百濟相戰三日、陷我王城。同月十三日、始破王城。怒受利山百濟之東堺也。)於是、西部恩率鬼室福信、赫然發憤據任射岐山(或本云北任敍利山。)達率餘自進、據中部久麻怒利城(或本云、都々岐留山)。各營一所、誘聚散卒。兵盡前役、故以棓戰。新羅軍破、百濟奪其兵。既而百濟兵翻鋭、唐不敢入。福信等、遂鳩集同國共保王城。國人尊曰、佐平福信、佐平自進。唯福信、起神武之權、興既亡之國。」
九月に入って百濟から使者が来たと伝える。七月に新羅と唐によって滅ぼされたが、「鬼室福信」(出自の場所等は天智天皇紀で述べる)が抵抗して幾つかの城を取り戻したと言う。この反転攻勢に際しては唐は介入せずで、やはり唐の目的は駐留できれば良しとする戦略であろう。朝鮮半島全体を占領するのは、彼らの主眼ではなかったと思われる。
山の名称が多く記載されている。詳細地図があれば、きっと地形象形表記として求めることができそうであるが、いずれの日かにしよう。生々しい報告を耳にして、明日は我が身、と思ったかもしれないし、また新羅に対する見方もほぼ固まったようである。
冬十月、百濟佐平鬼室福信、遣佐平貴智等、來獻唐俘一百餘人、今美濃國不破・片縣二郡唐人等也。又乞師請救、幷乞王子余豐璋曰(或本云、佐平貴智・達率正珍也)「唐人率我蝥賊、來蕩搖我疆埸、覆我社稷、俘我君臣。(百濟王義慈・其妻恩古・其子隆等・其臣佐平千福・國辨成・孫登等凡五十餘、秋於七月十三日、爲蘇將軍所捉而送去於唐國。蓋是、無故持兵之徵乎。)而百濟國遙頼天皇護念、更鳩集以成邦。方今謹願、迎百濟國遣侍天朝王子豐璋、將爲國主。」云々。詔曰「乞師請救聞之古昔、扶危繼絶著自恆典。百濟國窮來歸我、以本邦喪亂靡依靡告。枕戈嘗膽、必存拯救。遠來表啓、志有難奪。可分命將軍百道倶前、雲會雷動倶集沙㖨、翦其鯨鯢紓彼倒懸。宜有司具爲與之、以禮發遣。」云々。(送王子豐璋及妻子與其叔父忠勝等、其正發遣之時見于七年。或本云、天皇、立豐璋爲王・立塞上爲輔、而以禮發遣焉。)
十月になって「鬼室福信」から捕虜の唐人の献上及び「王子豐璋」を王と為すための返還依願があったと伝えている。天皇はそれに応えた。この唐人は、戦での捕虜と言うよりは、ぞれ以前から百濟に居た人々のことであろう。編纂時点で、「美濃國不破・片縣二郡」に住まっていると述べている。
「王子豐璋」は人質として記載されて来たが、ある意味上手い方法であることが解る。万が一国が滅ぼされ、王が不在となった時に、その国を再興するために必要な「王」の確保となっている。勿論両国間での諍いがあれば文字通りに人質となったであろうが。不安定な政情の中で生きた人々の知恵なのかもしれない。
「美濃國不破郡」は既に幾度か登場しているが、その地の詳細が記載された例である。「不破」の「不」も既出であって、その文字形のように山稜の端が広がった様を表すと解釈した。
「破」は「破る」と訓読みされるが、その意味でも通じるかもしれないが、「破」=「石+皮」と分解する。
すると既出の文字要素となる。「石」=「厂+囗」で「麓の区切られた地」であり、「皮」=「傾く様」を表す文字である。不破=「不」の文字形に広がり延びた山稜の麓が崖のようになっているところと読み解ける。
隋書俀國伝に登場する「彼都」は、古事記の帶中津日子命(仲哀天皇)が坐した筑紫訶志比宮の「訶志比(傾い)」と紐解いた例に類似する解釈である。
「片縣」の「片」=「木の文字の半分」を象った文字と知られている。その文字形そのものを表していると思われる。既に紐解いたように、「縣」=「(首の逆文字)+系」=「首のような山稜がぶら下がったような様」である。すると片縣=[木]の左半分の形になった山稜が首をぶら下げたように延び出ているところと読み解ける。
図に示した現在の豊国学園高校がある台地と推定される(現在の戸上神社ではないようである)。この地は倭建命の御子、若建王が娶った「飯野眞黑比賣、生子、須賣伊呂大中日子王。自須至呂以音。此王、娶淡海之柴野入杵之女・柴野比賣」の記述に関わる地である。
要するに「淡海」に関わる地であると古事記は記述しているのである。書紀編者が最も神経を尖らすところ、「淡海」は省略しながら伝えんとした気力に乾杯、であろう。そんな気遣いなく、全く読み取れていないのが現状である。「修嚴」の区切りは、ない。
言屋社
不吉な予兆と言える出来事が述べられている。宮の修繕用、おそらく材木の結束とか、運搬に使う葛(カズラ)が狐のために持ち去られたとか、死人の手を犬が「言屋社」に置いたとか…天子が崩御される兆しなんだそうである。
「言」は古事記に登場する「言」の解釈と見做す。即ち「言」=「辛+囗」と分解して、「刃物で耕地にした様」と読み解く。図<出雲國於友郡・嚴神之宮・言屋社>に示した神屋楯比賣命の御子、「八重事(言)代主神」に用いられた「言」の文字である。
これらを繋げば意味として通じるが、「言代主神」に重ねられた表記と解釈される。「耕地が傍らにある尾根が尽きたところ」でも良いが、もう少し言葉を選んで、言屋社=谷間の奥から繋がる山稜の傍らの耕地が尽きるところにある社と読み解ける。現在の御所神社辺りにあったと推定される。現地名は北九州市門司区大里戸ノ上である。
さて、羆の毛皮も綿も、当時としては貴重なものだったのであろう。畫工として既に登場済みである。「設同姓賓於私家」と記され、狛=高麗が確認されるのだが、「高麗」への応対に余裕すら感じさせる記述である。倭國の関心は唐であって、百濟は唐との情報ルート上必要であった、のであろう。皇位継承に絡む諍いはあったとしても甚大な損害が発生する事件は殆どなく、朝鮮半島内とは大きく異なる発展をした様子が伺えるところである。
六年春正月壬寅朔、高麗使人乙相賀取文等一百餘、泊于筑紫。三月、遣阿倍臣闕名率船師二百艘、伐肅愼國。阿倍臣、以陸奧蝦夷令乘己船到大河側。於是、渡嶋蝦夷一千餘屯聚海畔、向河而營。營中二人進而急叫曰「肅愼船師多來將殺我等之故、願欲濟河而仕官矣。」阿倍臣、遣船喚至兩箇蝦夷、問賊隱所與其船數、兩箇蝦夷便指隱所曰「船廿餘艘。」卽遣使喚、而不肯來。阿倍臣、乃積綵帛・兵・鐵等於海畔而令貪嗜。肅愼乃陳船師、繋羽於木舉而爲旗、齊棹近來停於淺處、從一船裏出二老翁、𢌞行熟視所積綵帛等物、便換着單衫各提布一端、乘船還去。俄而老翁更來、脱置換衫幷置提布、乘船而退。阿倍臣遣數船使喚、不肯來、復於弊賂辨嶋。食頃乞和、遂不肯聽弊賂辨、渡嶋之別也據己柵戰。于時、能登臣馬身龍、爲敵被殺。猶戰未倦之間、賊破殺己妻子。
年が明けて即位六年(西暦660年)正月である。「高麗」が百余名の集団で筑紫に来ている。その目的等は語られていない。三月になって「阿倍臣(闕名)」が大船団で肅愼攻めを敢行したと伝えている。
<肅愼國①> |
「渡嶋蝦夷」が討伐の実行部隊なのであるが、彼らは勿論自力・自前でこの地に出向いた筈である。現在で言えば、最強の海兵部隊であろう。既に上陸して「海畔」で川に向かって一千余が集まっていたようである。
大河側・海畔
至極普通の名称が挙げられている。通常はそのまま読み飛ばしてしまうところであるが、「大河」も「海畔」も地形象形表記と思われる。
ともあれ、関門海峡に面する当時の海水面の有様を推定することから始める。前記の筑紫大津之浦でも行ったように現在の標高およそ10mのところが当時の海岸線であったと思われる。
それぞれの文字の基本に立ち返って文字の示す地形を求めてみよう。「河」=「水+可」と分解される。単に河・川の表現ではなく、「谷間から水が流れ出て来る様」を表すと読める。「側」=「人+則」と分解される。「直ぐ傍にある谷間」を表すと解釈される。繋ぐと大河側=平らな頂の麓にある水が流れ出てくるところの直ぐ傍にある谷間と読み解ける。図に示した山稜が大きく窪んだような谷間の麓に彼らは着岸したと思われる。現地名は門司区庄司町である。
<肅愼國②> |
この辺りは地形がかなり複雑に、当然最下流域であって入江の状態であったと思われる。「海の畔(ホトリ)」と読んで差し支えないのであろうが、それでは場所の特定には至らない。
そこで「畔」=「田+半」と分解する。すると「畔」=「田で二つに分けられた様」と読める。「(大)伴」(谷間で二つに分けられた様)の用法と同じと解釈する。
すると海畔=海の傍らで田で二つに分けられたところと読み解ける。台地が平らな地で区切られた場所が見出せる。即ち「渡嶋蝦夷」等はこの窪んだところを中心に潜んでいた状況が浮かんで来る。正に上陸して戦闘態勢を整える場所として最適な地形と思われる。そして川向こうを見やると(図の❶)「肅愼船師多來將殺我等」を察知できる位置関係であったと述べている。
ところが「渡嶋蝦夷」が「願欲濟河而仕官矣」叫び、あわや寝返りそうな雰囲気になったと伝えている。何とも尻軽な、と言っては失礼な話で、如何に「肅愼」が手強い敵だったかを含めた表現なのである。「阿部臣(闕名)」としては、あらぬ風評で部隊に混乱が生じては、戦う前に敗れたも同然の事態に陥ることになる。そこで・・・。
兩箇蝦夷
勿論初登場なのであるが、地元の蝦夷である。「箇」=「竹+囗+古」から成る文字で、前記で登場した須彌山を造った場所、「真っ直ぐな山稜に囲まれた小高いところ」と読み解いた。彼等が着岸した場所は兩箇=真っ直ぐな山稜に取り囲まれた二つ並んだところだったのである。彼等を船に乗せてグルリと回って「肅愼」の隠れた場所を覗かせた(図の❷)と記載されている。
<能登臣馬身龍> |
● 能登臣馬身龍
一応実戦があったのであろう、小競り合いの中で「能登臣馬身龍」が戦死したと記載されている。そして勝ち目無しと判断した粛愼の親玉の自決となる。
追悼を込めて、この臣の出自の場所を示した。能登臣は古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)が尾張連之祖・意富阿麻比賣を娶って誕生した大入杵命が祖となった地である。「淡海」に関わる人物であって、書紀には登場しない。徹底的に「淡海」排除の編集である。
それはまた別途で述べることにして、正にその地の地形をそのまま名前にしたようである。現地名北九州市門司区猿喰である。七ッ峠を越えれば阿倍臣の地である。配下の臣であったと思われる。
弊賂辨嶋
何とも奇妙な名称の島が記載されている。「弊賂辨嶋」の「弊」=「敝+廾」と分解され、「二つに切り裂かれる様」を表すと解説される。「賂」=「貝+各」と分解される。「各」=「至る、届く」で「貝(金品)」が届く賄賂となり、確かに金品を遣り取りしようとしている場面なのだが、ちょっと適切ではないようである。「各」=「夂+口」と分解され、「大地に立つ人が足を開いた様」を象った文字と解説される。
「辨」=「辛+辛+刀」で「真ん中に切れ目がある様」を加えて、全体を纏めると、弊賂辨嶋=二つに開かれた貝の足のようなところに真ん中に切れ目がある島と読み解ける。「渡嶋之別」と補足されているように島の端が延びて小高くなった場所である。現在の三光寺がある辺りと推定される。図を拡大すると切れ目が確認される。全く異国風の名称を作り上げて、「肅愼國」の場所を暗示するような表記であるが、これに惑わされているようでは、「記紀」は読み下せないであろう。
積年の課題であった「熊曾國」を手懐けた戦いであった。西海から圧迫に対抗するためには何が何でもこの地を統治下、少なくとも友好関係にしておく必要があったのである。遠い異国を征伐して領土にする余裕など微塵もなかった時代である。そう受け取れるようにも記載した書紀編者であった。
夏五月辛丑朔戊申、高麗使人乙相賀取文等、到難波館。是月、有司、奉勅造一百高座・一百衲袈裟、設仁王般若之會。又、皇太子初造漏剋、使民知時。又、阿倍引田臣(闕名)獻夷五十餘。又、於石上池邊作須彌山、高如廟塔、以饗肅愼卅七人。又、舉國百姓、無故持兵往還於道。(國老言、百濟國失所之相乎。)
正月に筑紫に来た高麗の使者が五月になって難波館に到着したと伝えている。筑紫と難波間の移動に一ヶ月要したとしても遅い動きである。本国の動静を考慮すると、この辺りの日付の記述は些か怪しげな感じであろう。最重要課題はスルーの書紀である。尚、この段については上記の日本語訳参考資料の記述(斉明六年)を参照。
「仁王般若」は、大乗仏教における経典のひとつで、仏教における国王のあり方について述べた経典・・・と記されている。仏法にどっぷり浸かっていたのであろう。阿倍引田臣(闕名)は前記の「肉入籠」に侵出した臣である。
とまれ、要するに・・・、
肅愼國=熊曾國
・・・である。古事記の「熊曾國」を「熊襲國」の表記に変え、九州南部に”誘導”した。そして「蝦夷國」を東北の彼方にあるような錯覚を起こさせる記述を行ったのである。書紀編者は、それらの地が通説に言われる場所とは、全く明言していないのである。
発生した事実を曲げずに、その場所を変更するための落としどころを天皇に求めると言う、官人達の策略、日本の天皇という存在の根源を表しているように伺える。書紀の一局面における精緻な記述を認めると同時に、史書としての価値を自ら放棄した、あるいは放棄せざるを得なかった書物である。しかしながら、実務担当者の「ひょっとしたら読み解いてくれるかも?」思いが伝わっていることも添えておきたい。
秋七月庚子朔乙卯、高麗使人乙相賀取文等罷歸。又覩貨羅人乾豆波斯達阿、欲歸本土求請送使曰、願後朝於大國、所以留妻爲表。乃與數十人入于西海之路。(高麗沙門道顯日本世記曰、七月云々。「春秋智、借大將軍蘇定方之手、使擊百濟亡之。或曰、百濟自亡。由君大夫人妖女之無道擅奪國柄誅殺賢良、故召斯禍矣、可不愼歟、可不愼歟。」其注云「新羅春秋智、不得願於內臣蓋金。故、亦使於唐捨俗衣冠請媚於天子、投禍於隣國而搆斯意行者也。」伊吉連博德書云「庚申年八月百濟已平之後、九月十二日放客本國。十九日發自西京、十月十六日還到東京、始得相見阿利麻等五人。十一月一日、爲將軍蘇定方等、所捉百濟王以下・太子隆等・諸王子十三人・大佐平沙宅千福・國辨成以下卅七人幷五十許人、奉進朝堂、急引趍向天子。天子、恩勅見前放着。十九日賜勞、廿四日發自東京。」)
七月になって漸く高麗の使者帰国したとのことである。相変わらず、滞在中の話題は記載されない。勿論饗応の記述も、である。漂着した「覩貨羅人」(名前の「乾豆波斯達阿」も地形象形表記のような印象だが後日としよう)が帰国を願い出て西海之路に入ったと記している。
「高麗沙門道顯」が著した『日本世記』が引用されている。七月、「春秋智」(新羅武烈王)が唐の大将軍「蘇定方」の手を借りて百濟を滅亡させたのだが、百濟の内政も不穏で、自ら滅んだようにも伺えると記している。また、『伊吉連博德書』では、九月半ばに西安で解放され、十月半ばには東京へ、そこで遭難後に辿り着いていた「阿利麻等五人」に遭遇できたと記している。
唐の関心事は高句麗の攻略であって、その前段での包囲網の確立のため百濟を占領したわけである。それにしても滅亡するまで後八年の月日が過ぎる。なかなかの強者であったことには違いないようである。蚊帳の外から眺めるだけの日本、では済まされない時代が訪れようとしている。
九月己亥朔癸卯、百濟、遣達率闕名・沙彌覺從等來奏曰(或本云逃來告難)「今年七月、新羅恃力作勢、不親於隣。引搆唐人、傾覆百濟。君臣總俘、略無噍類。(或本云、今年七月十日、大唐蘇定方、率船師、軍于尾資之津。新羅王春秋智、率兵馬、軍于怒受利之山。夾擊百濟相戰三日、陷我王城。同月十三日、始破王城。怒受利山百濟之東堺也。)於是、西部恩率鬼室福信、赫然發憤據任射岐山(或本云北任敍利山。)達率餘自進、據中部久麻怒利城(或本云、都々岐留山)。各營一所、誘聚散卒。兵盡前役、故以棓戰。新羅軍破、百濟奪其兵。既而百濟兵翻鋭、唐不敢入。福信等、遂鳩集同國共保王城。國人尊曰、佐平福信、佐平自進。唯福信、起神武之權、興既亡之國。」
九月に入って百濟から使者が来たと伝える。七月に新羅と唐によって滅ぼされたが、「鬼室福信」(出自の場所等は天智天皇紀で述べる)が抵抗して幾つかの城を取り戻したと言う。この反転攻勢に際しては唐は介入せずで、やはり唐の目的は駐留できれば良しとする戦略であろう。朝鮮半島全体を占領するのは、彼らの主眼ではなかったと思われる。
山の名称が多く記載されている。詳細地図があれば、きっと地形象形表記として求めることができそうであるが、いずれの日かにしよう。生々しい報告を耳にして、明日は我が身、と思ったかもしれないし、また新羅に対する見方もほぼ固まったようである。
冬十月、百濟佐平鬼室福信、遣佐平貴智等、來獻唐俘一百餘人、今美濃國不破・片縣二郡唐人等也。又乞師請救、幷乞王子余豐璋曰(或本云、佐平貴智・達率正珍也)「唐人率我蝥賊、來蕩搖我疆埸、覆我社稷、俘我君臣。(百濟王義慈・其妻恩古・其子隆等・其臣佐平千福・國辨成・孫登等凡五十餘、秋於七月十三日、爲蘇將軍所捉而送去於唐國。蓋是、無故持兵之徵乎。)而百濟國遙頼天皇護念、更鳩集以成邦。方今謹願、迎百濟國遣侍天朝王子豐璋、將爲國主。」云々。詔曰「乞師請救聞之古昔、扶危繼絶著自恆典。百濟國窮來歸我、以本邦喪亂靡依靡告。枕戈嘗膽、必存拯救。遠來表啓、志有難奪。可分命將軍百道倶前、雲會雷動倶集沙㖨、翦其鯨鯢紓彼倒懸。宜有司具爲與之、以禮發遣。」云々。(送王子豐璋及妻子與其叔父忠勝等、其正發遣之時見于七年。或本云、天皇、立豐璋爲王・立塞上爲輔、而以禮發遣焉。)
十月になって「鬼室福信」から捕虜の唐人の献上及び「王子豐璋」を王と為すための返還依願があったと伝えている。天皇はそれに応えた。この唐人は、戦での捕虜と言うよりは、ぞれ以前から百濟に居た人々のことであろう。編纂時点で、「美濃國不破・片縣二郡」に住まっていると述べている。
「王子豐璋」は人質として記載されて来たが、ある意味上手い方法であることが解る。万が一国が滅ぼされ、王が不在となった時に、その国を再興するために必要な「王」の確保となっている。勿論両国間での諍いがあれば文字通りに人質となったであろうが。不安定な政情の中で生きた人々の知恵なのかもしれない。
<美濃國不破郡・片縣郡> |
美濃國不破郡・片縣郡
「美濃國不破郡」は既に幾度か登場しているが、その地の詳細が記載された例である。「不破」の「不」も既出であって、その文字形のように山稜の端が広がった様を表すと解釈した。
「破」は「破る」と訓読みされるが、その意味でも通じるかもしれないが、「破」=「石+皮」と分解する。
すると既出の文字要素となる。「石」=「厂+囗」で「麓の区切られた地」であり、「皮」=「傾く様」を表す文字である。不破=「不」の文字形に広がり延びた山稜の麓が崖のようになっているところと読み解ける。
隋書俀國伝に登場する「彼都」は、古事記の帶中津日子命(仲哀天皇)が坐した筑紫訶志比宮の「訶志比(傾い)」と紐解いた例に類似する解釈である。
「片縣」の「片」=「木の文字の半分」を象った文字と知られている。その文字形そのものを表していると思われる。既に紐解いたように、「縣」=「(首の逆文字)+系」=「首のような山稜がぶら下がったような様」である。すると片縣=[木]の左半分の形になった山稜が首をぶら下げたように延び出ているところと読み解ける。
両郡隣り合って存在していることが図から判る。この二つの山稜の谷間が人々が住むには適切な場所と思われるが、おそらく唐人等は、最下流域である海辺に面した地あるいは「不」の付け根の山側の未開拓部分が宛がわれたのではなかろうか。