2020年6月22日月曜日

皇祖母尊:斉明天皇(Ⅵ) 〔426〕

皇祖母尊:斉明天皇(Ⅵ)


有間皇子の謀反という事件、それは旧態然たる豪族の台頭の芽摘む出来事だったように思われた。「公地公民」制の浸透は、決して簡単なことではなく、それは現在にも通じる課題でもあろう。「格差」、「分断」と簡単に言われるが、人が生きる上において、他者との差別化を求める以上発生する課題と思われる。「古事記」、「日本書紀」の記述は、あらためて貴重であることを思い知った感じである。

「粛愼(國)」が登場した。これは古事記の「熊曾國」があった場所を示す。書紀は「熊襲國」として、類似の訓と意味を重ねた表記ではあるが、全く異なる地に置こうとした国である。故に名称を変えたのであるが、これがまた実に素晴らしい地形象形表現であることも判った。

さて、年が変わって即位五年(西暦659年)正月からである。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

五年春正月己卯朔辛巳、天皇至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野而肆宴焉。庚辰、天皇幸近江之平浦(平、此云毗羅)。丁亥、吐火羅人共妻舍衞婦人來。甲午、甘檮丘東之川上、造須彌山而饗陸奧與越蝦夷。(檮此云柯之、川上此云箇播羅。)是月、遣阿倍臣闕名率船師一百八十艘討蝦夷國。阿倍臣簡集

年が明けての正月、天皇は紀温湯から戻り、三月一日には吉野、二日後には「近江之平浦」に行かれている。「平浦」の通説は滋賀県滋賀郡志賀町辺り、とても移動できるような距離ではないが、疑われてはいないようである。吐火羅人達が訪問して来たりしたと述べている。また陸奥・越の蝦夷を饗応して須彌山を造った記載されている。後に詳しく述べる。

阿倍臣(闕名)が軍船を率いて「蝦夷國」を討伐に向い、飽田・渟代・津輕・膽振鉏の蝦夷を集めて饗応して祿を与えたと伝えている。総勢ざっと四百名ぐらいである。津輕蝦夷の詳細が語られ、「蝦夷國」は、ほぼ平定されたと思われるが、さてこの後如何なる事件が待ち受けているのであろうか。
 
近江之平浦

「吉野」に行かれて「肆宴」をしたと記載されている。この宴は「祭祀、直会(なおらひ)、肆宴の三段階の三段目、直会では歌、肆宴では舞いや身ぶりが、主になる」とのことである。読みは「とよのあかり」で、古事記の大嘗祭の後の「豐明」とされているようである。伊邪本和氣命(後の履中天皇)が難波之高津宮を焼け出された時の宴会、明け方近くまで続いた会と推定した(詳しくは
 
<近江之平浦>
さて久々に登場の「近江」、「律令制」が施行された後の名称であろう。即ち古事記の近淡海國に該当する。書紀が行った最大(多)の改竄の文字である。

では「近淡海國」にあった「平浦」とは何処であろうか?…「平」=「毗羅」と読めと訓されている。「平」の原字は「萍(浮草)」と知られる。水草が水面に広がった様を象った文字である。

簡単な、何処にでもありそうな地形ではなく、当時の海水準を想定すると、難無く求められる場所である。

「長江」の入口、「河内惠賀」にある大きく広がった地、現地名は行橋市二塚辺りである。「平浦」の後方、小高いところを倭建命の白鳥御陵近隣の場所と推定した。

正に浦(海が入り込んだ様)の形を示している。そして現在は住宅地に変わっているが、当時は「毗羅」=「田が並んで連なった様」、緩やかな棚田の様子であったことが伺える。この地の古事記における登場は、建小廣國押楯命(宣化天皇)の御子、惠波王が坐した場所である。

吉野宮(三月三日)の早朝に立てば二時間程度で平浦に到着である。さりげなく記載された箇所において、通説が全く成立しないことを示しているのである。吉野から滋賀県滋賀郡志賀町まで150kmを越える距離であろう。「天磐舟」でもない限り現実的ではないようである。
 
須彌山
 
<須彌山(甘檮丘東之川上)>
今回作られた場所が詳しく記述され、何かを伝えようとしていることが伺える。「甘檮丘東之川上」であり、「檮此云柯之、川上此云箇播羅」と訓されている。

「柯之」の訓が付記されているが、「之(蛇行する川)」を挟む丘陵地を示す表記である。これもきめ細かい記述であろう。蘇我親子が建てた宮は南側の地にあったことを述べている。

その「東之川上」は、現在の金辺川の少し上流側を示すと思われる。そこを「箇播羅」と訓すると記載している。

「箇」=「竹+固」と分解される。「竹」=「真っ直ぐな山稜」、「固」=「囗+古」と分解すると、「囲まれたて丸く小高い様」となる。「箇」=「真っ直ぐな山稜に囲まれた丸く小高い様」と読み解ける。

「播」=「手+番」と分解され、「散らばらせる、広げる様」の意味を表す。既出の「羅」=「連なる様」である。纏めると、箇播羅=真っすぐな山稜に囲まれた丸く小高い地が広がり連なったところと読み解ける。

そして、この須彌山を中心にして、背後に九つの小高い地が配置された構図となっていることが解る。即ち仏教の世界観の中心にある須彌山とその背後の山から成る「九山八海」を模しているのである。須彌山の像を造るだけなら所かまわずにであろう。重要なことはその背景(地形)であることを述べているのである。
 
<須彌山(石上池)>
仏教の理解、その奥深い世界、理想の世界とも言える地が、眼前に広がっている、どうだ!…と「蝦夷」達に示した、と伝えているのである。

すぐ後の記述(即位六年五月)に「愼人」を饗応し、「石上池」の近くに須彌山を造った。まるで「廟塔」のような高いものであったと記載されている。

「石上」(金辺川下流)でその地を求めると、山稜の端が、「九山八海」に奇麗に並んでいるところが見出せる。更に解りやすい地形であろう。

「八海」の西側辺りは、実際に見られるかのような見事さであろう。居合わせた三十七人の蝦夷達にとっては、極楽浄土を垣間見たような気分に陥ったのではなかろうか。日本のせせこましい地形を巧みに利用した、ちょっとした遊びであろう。現在の日本庭園に残る美しさの原点である。
 
<須彌山(飛鳥寺西)>
香春一ノ岳の南麓を使った「須彌山」である。山肌の稜線を「九山八海」に見立てた配置で、何だか虚を突かれた感あるが、これも地形観察のきめ細やかさと思われる。

香春神社(当時の石上神社)を含む配置であり、正に神仏融合の様相なのであるが、仏法の深く遠大な教えを示唆する行為だったのかもしれない。

覩貨邏人」に見せたのは、自分達の仏法への理解と信仰を「西域」の人達に知らしめるためであったと思われる。

須彌山の麓は「四天王」で固められ、天辺は「有頂天」なんだそうで、今でも日常の言葉の中に残されている。それを模した日本庭園の形式、これも各所の寺で見られるが、日本人らしい造作の感じである。

それらは現在に伝わる事なのだが、「地形象形表記」が消滅してしまったことに愕然たる思いが沸き上がって来る。「記紀」及び中国史書に登場する倭國の人・地名表記に全て用いられている”事実”は、やはり、何らかの強制手段によってかき消されたものと推察される。

またまた、蝦夷國を討伐したと書くが、中身は饗応して禄を与えた、である。率いた阿倍臣の名前が欠落と、少々原資料が怪しいところも示唆しているのであるが、何と言っても蝦夷國の詳細が語られている。想像以上の企救半島島北部の”詳細地図”である。それにしても採石場で崩れかかっているが、何とか持ち堪えた有様であろう。
 
飽田郡・渟代郡・津輕郡

これら三郡の蝦夷については、その詳細も含めて前記で読み解いた。「渟代郡」及び「津輕郡」などについては、こちらを参照。また「飽田郡」(渟代郡と併記)についてはこちらを参照。

「蝦夷」を現在の東北地方に散らばせる作業を行ったとしら、秋田県(飽田)にある能代市(渟代)であろう。「齶田蝦夷」は「越蝦夷」に隣接するほど近かったから初めに登場しただけである。どうしても散らばらせる作業をするのなら山形県鶴岡市辺りが該当する、かもしれない。読みの類似性がないから受け付けて貰えない、であろう。
 
問菟蝦夷

今回は津輕郡の詳細である。その周辺と言える場所に、なかなか骨のある連中が居たようである。登場が後先になるが、「問菟蝦夷」について読み解いてみよう。尚、登場する場所の現地名は全て北九州市門司区白野江である。
 
<問菟蝦夷・膽振鉏蝦夷>
津輕郡と言う名称の由来である「輕」東麓の谷間に生息していた蝦夷と思われる。これに含まれる「菟」は「宇(ウ)」と読めと、重ねて訓されている。


古事記を意識した記述であろう。すると罷り間違っても「菟(ト)」とは読めず、更に解釈が異なっていることの警鐘と思われる。

あらためて「菟」の文字を考察する。「菟」=「艸+兔」と分解される。「免」=「女性のお産の様」を象った文字と知られる。

「(分)娩」の原字である。「狭いところを通り抜ける様」であり、それから展開した用法が一般に用いられている。地形象形的には、そのままの形(姿)を当て嵌めていると思われる。

「問」=「門+口(クチ)」と分解する。「門」は出入口に立っているものだが、「戸」と異なるのは「中にある物を隠す」と言う意味が込められている。すると「問」=「見えない奥にある口」と解釈する。

「塗毗宇」と訓される。「塗」=「長く延ばす様」、「毗」=「田を並べた様」、「宇」=「山稜に囲まれた麓」であるから、塗毗宇=山稜に囲まれた麓(宇)が長く延びて(塗)田が並んでいる(毗)ところと読み解ける。

二名の登場人物が記載されている。「菟穂名」の「名」=「夕+囗」と分解する。「夕」=「山稜の端の三角州」と読む。古事記頻出の文字である。菟穂名=[菟]の地で稲穂のような山稜の端に三角州があるところと読み解ける。

訓の「宇保那」の「保」=「人+呆(子+八)」と分解される。「保」=「谷間に生え出て広がる様」を表している。山稜に囲まれた谷間(宇・人)でなだらかに(那)生え出て広がった()ところと読み解ける。同一地形の異なる表記であることが解る。書紀のこの段の編者は、真に丁寧である。

もう一人の「膽鹿嶋」の「膽」は既出(膽=頂上から大きく広がった山稜が多く連なり(詹)その端に三角州(月)がある地形と読み解いた。すると谷間の東側に「膽」の山があることが分かる。「鹿」=「山麓」、「嶋」=「山+鳥」と分解され、「山稜が鳥の形」と読める。これらは頻出の文字である。膽鹿嶋=[膽]の山麓にある山稜が鳥の形をしたところと読み解ける。
 
膽振鉏蝦夷

最北の「蝦夷」である。上記の「膽」の山系の東側の海辺に面した場所となる。「振」=「手+辰」と分解される。「辰」=「二枚貝が舌を出した様」と解釈して来た。

伊浮梨娑陛」と訓されている。「浮」=「水+孚(爪+子)」と分解される。「浮」=「水辺で持ち上げられたような様」、「陛」=「阝+比+土」と分解すると「段差が並んでいる様」と解釈する。谷間で区切られた(伊)持ち上げられた(浮)ような山稜が水辺(娑)で並んでいる段差(陛)と切り離された(梨)ところところと読み解ける。この地、現在の青浜海岸の特徴を捉えた表記であろう。
 
<肉入籠・後方羊蹄>
肉入籠

遂に行き着くところまで来た感じである。大宴会を行った後に「肉入籠」に至り、そこに「問菟蝦夷」の二人「膽鹿嶋・菟穗名」が進言して来たと伝えている。

政所」の場所は、何となく津輕の大領「馬武」の場所ように読めるが、そこではない場所を申し出て来た、のである。

何とも生々しい表記の「肉入籠」の「肉」は何と解釈するか?…少し特殊な意味に「縁の盛り上がった様」がある。入江の両端の山稜を表していると思われる。

するとこの地形が「籠」=「箙の形」即ち円筒形の断面のように見えて来る。

訓が記されていて「之々梨姑(シシリコ)」と読むとある。「之」=「蛇行する川」、「姑」=「女+古」とすると「嫋やかに曲がる小高い様」であろう。之々梨姑=二つの蛇行する川で切り離された嫋やかに曲がる小高いところと読み解ける。

「政所」を「後方羊蹄」に置け、と述べている。「蹄」=「足+帝」と分解される。古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に山邊之大鶙が登場する。これに含まれる「鶙」の解釈として「帝」の古文字形を山稜が示す模様に当て嵌めた。その形を谷間の奥の、更に奥に見出すことができる。

場所は図に示したところと推定される。訓が付加されていて「斯梨蔽之(シリヘシ)」と言う。古事記で多用される「斯」(切り分けられた様)であるが、「斯」=「其+斤」と分解するまでは同様であるが、少し解釈が異なるようである。書紀はより具体的で「斯」=「箕の形に刻まれた様」と読む。斯梨蔽之=箕の形に刻まれて(斯)切り離された山稜(梨)が蛇行する川(之)を蔽うところと読み解ける。

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蝦夷関連の記述を読むと、書紀は実に正直な記述を行っていることが解る。初めは磐舟柵に近い「齶田郡」の「恩荷」を頼りにし、「津輕郡」に入ったら「馬武」宜敷く、として来たわけである。その地は「肉入籠」の正面である。そんなところに「宮」(政所と解釈)は造らないであろう。

”人が良い征服者”の演出を書紀がしたのなら、何をか況や、であろう。「これが蝦夷の郡か?」とまで記載している。古事記の伝える「言向和」の戦略を踏襲させたのかもしれない。いや、事実だったかもしれない。ならば、実に讃えるべき天皇家となろう。

蝦夷自ら申し出たと記載している。事実ならば、彼らは二度と歯向かうことはないように思われる。「之々梨姑(シシリコ)」、「斯梨蔽之(シリヘシ)」はアイヌ語に通じると言う解釈まである。書紀編者の博識振りに惑わされては、古代史の「門」は開かないであろう。

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秋七月丙子朔戊寅、遣小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥、使於唐國。仍以道奧蝦夷男女二人示唐天子。(伊吉連博德書曰「同天皇之世、小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連等二船、奉使吳唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦、八月十一日發自筑紫大津之浦。九月十三日行到百濟南畔之嶋、嶋名毋分明。以十四日寅時、二船相從放出大海。十五日日入之時、石布連船、横遭逆風漂到南海之嶋、嶋名爾加委。仍爲嶋人所滅、便東漢長直阿利麻・坂合部連稻積等五人、盜乘嶋人之船、逃到括州。州縣官人、送到洛陽之京。十六日夜半之時、吉祥連船、行到越州會稽縣須岸山。東北風、風太急。廿二日行到餘姚縣、所乘大船及諸調度之物、留着彼處。潤十月一日行到越州之底。十五日乘驛入京。廿九日馳到東京、天子在東京。卅日、天子相見問訊之、日本國天皇平安以不。使人謹答、天地合德、自得平安。天子問曰、執事卿等好在以不。使人謹答、天皇憐重亦得好在。天子問曰、國內平不。使人謹答、治稱天地萬民無事。天子問曰、此等蝦夷國有何方。使人謹答、國有東北。天子問曰、蝦夷幾種。使人謹答、類有三種。遠者名都加留、次者麁蝦夷、近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷毎歲入貢本國之朝。天子問曰、其國有五穀。使人謹答、無之。食肉存活。天子問曰、國有屋舍。使人謹答、無之。深山之中、止住樹本。天子重曰、朕見蝦夷身面之異極理喜怪、使人遠來辛苦、退在館裏、後更相見。十一月一日朝有冬至之會。會日亦覲、所朝諸蕃之中倭客最勝、後由出火之亂棄而不復檢。十二月三日、韓智興傔人西漢大麻呂、枉讒我客。客等、獲罪唐朝已決流罪、前流智興於三千里之外、客中有伊吉連博德奏、因卽免罪。事了之後、勅旨、國家來年必有海東之政、汝等倭客不得東歸。遂匿西京幽置別處、閉戸防禁、不許東西、困苦經年。」難波吉士男人書曰「向大唐大使觸嶋而覆、副使親覲天子奉示蝦夷。於是、蝦夷以白鹿皮一・弓三・箭八十獻于天子。」)
庚寅、詔群臣、於京內諸寺、勸講盂蘭盆經使報七世父母。

七月に坂合部連石布津守連吉祥を唐に遣わしたと記載している。これに関しては伊吉博德の書が引用されている。その書によると、二船に分かれて(石布連と吉祥連)、一方の吉祥連の船は、越州之底(浙江省紹興)到着。閏10/15の日の入時に石布連の船が遭難して南海に流され、「嶋名爾加委」に漂着、「東漢長直阿利麻坂合部連稻積等五人」、何とか洛陽に辿り着いたと記載されている。

一方の吉祥連の船は餘姚縣、越州之底を経て東京に到着し、天子に拝謁したと述べている。その問答の中で「蝦夷」の関する質疑があり、「遠者名都加留、次者麁蝦夷、近者名熟蝦夷」と答えている。「蝦夷」の生業についても答えているが、あながち嘘でもないような感じである。現在から見た解釈ではない・・・「蝦夷」達に水田稲作の技術は持ち合わせておらず・・・憶測の領域だが・・・。

いずれにしても、高麗討伐の計画が水面下で進行中の時、東からの訪問者をそのまま放置するわけには行かなかったであろう。彼等は幽閉されることになったようである。
  
難波三津之浦

古事記及び書紀編者以外の「難波津」の表記であり、これまでも「御津」の表現と関連して興味深い。「三つの津」としてその場所を突止めてみようかと思う。難波の着船場所として表記は、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の豐國宇沙などがある。
 
<難波三津之浦>
すると「三つの津」はもっと下流域、海に近付いた場所と思われる。「難波荒陵」辺りの詳細を当たると、図に示した、些か票差が少なく見極め辛くはなっているが、「三つの津」と推定される場所が見出せる。

大雀命(仁徳天皇)が造った難波之堀江の場所であり、おそらく現在の今川が真っ直ぐに流れているが、東に曲がっていたところと思われる。

山稜の端の凹凸が不規則であり、「三つの津」に岐れた地形となったようである。今川が真っ直ぐに流れる場所は、当時は既に海面下であって、犀川は荒陵の隙間を縫いながら流れていたと思われる。

この地形故に「堀江」が必要であったと推測される。想像以上に起伏があって、船の走行には極めて危険な入江であっただろう。だが、少し手を加えれば、奥まった天然の良港となったと思われる。

四天王寺別称に「御津寺」があったと伝えられている。前記で「堀江寺」の別称は簡単に思い付けたが、「御津」は「三つの津」の場所が特定されて漸く読み解くことができたのである。即ち束ねる()ところ現在の西法寺の東隣の高台としたが、「荒陵」(段差のある台地が途切れた様)の文字通りの結果となったようである。

「四天王寺」があったと推定した小高いところは、新しい川(今川)によって分断されたのであろう。現在も対岸の標高が高く、当時も海面上にあったと思われる。その地の名称は「寺畔」であり、「寺の地が二つに切り分けられた様」を表しているのかもしれない。行橋市は、古事記・書紀の主要舞台の一つである。
 
筑紫大津之浦

「難波三津之浦」から向かったのが「筑紫大津之浦」と記載されている。現在では延命寺川の河口以外は陸で埋まっている地形となっているが、当時は広い浜辺、と言うか磯の地形と推定される。
 
<筑紫大津之浦・娜大津・磐瀬行宮>
古事記では筑紫末羅縣玉嶋里と記載され、出雲國に隣接する場所でもある。「玉嶋」が表すように小さな島が浮かぶ入江だったと思われる。

図には現在の標高約10mの海岸線を描いた。当時の位置だと推定される。

更に図には、後に登場する「娜大津」、「長津」の名称も記載したが、詳細はその段にて、併せて磐瀬行宮の場所も、記述することにする。

さて、引用原文では難波津から筑紫までおよそ一ヶ月、そこから百濟の南の島まで、同じく約一月の所要月数が記載されている。

遭難せず順調に航海した一隻は三日間程度で百濟の南の島から中国越州に届いている。一月の航海ならば無寄港での航海は難しいであろう。当然のことながら難波津から百濟の南に至るまでの距離(航海日数)に関する改竄を行った結果と思われる。

伊吉博德が行ったのか、書紀編者かは不明だが(おそらく後者)、朝鮮半島以西の記述の精緻さとのギャップが伺える。「難波三津之浦」を大阪難波津に見せ掛けた記述であると推測される。後に斉明天皇が「朝倉橘廣庭宮」まで行幸(この地で崩御)するのであるが、上記の記述との関連でもう少し詳しく述べる。新規に登場の人物の出自の場所を求めておこう。

<西漢大麻呂>
● 西漢大麻呂

「東漢」に比べて殆どこの人物以外の登場は見られない。密告者なので、正義感が強かったのか、単に性格上の問題があったのか、であろうが、出自の場所は、極めてクリヤーである。

長峡川が大きく曲がる「漢」の場所に「麻呂」が見出せる。かつ「大」=「平らな頂の麓」となっている。この地は古事記を通して、全くの初登場である。

この南側の対岸は意富多多泥古が住まって居た場所と推定した

やはり山間の谷間の地で、多くの人材が輩出するには至らなかった…粟田臣などはもっと狭い地かも…のかもしれないが、土地柄だけではないようである。

尚、ずっとずっと後になるが、西=笊(ザル)の地形象形であることが解読された。図に示したように、その地形を表していると思われる。麻呂=萬呂の解釈も併せて、貴重な情報提供がなされていたようである。また、「東漢」に対する”西の漢”ではないことも解る。勿論、「東漢」も”東の漢”ではないのである。

● 難波吉士男人

「男人」=「谷間にある男の様」なのであるが、見出したところは海辺に近付き、地図上での判別は難しいようである。

最後になるが、漂流した一隻が辿り着いた島名「爾加委」については「横遭逆風」とあり、押し戻されて黄海側に振れたとして可居島の可能性があるように思われる。これもリンクの地図を参照。