2020年7月18日土曜日

天命開別天皇:天智天皇(Ⅵ) 〔434〕

天命開別天皇:天智天皇(Ⅵ)


唐の圧迫は、いよいよ本格化したと感じたのであろう。正使を迎えるに際して、斉明天皇が立てた防衛戦略に従って、「遠賀川・彦山川」及び「紫川・東谷川」の谷間へと使者を導き、この二つのルートの防衛機能が有効か否かの確認を行ったと思われる。更に加えて臨戦に先立つ情報伝達網の構築も着実に行ったと伝えている。

兎にも角にも百濟の地での戦闘は、天皇家にとっては全てを見直さざるを得ない経験だったようである。彼らの遠い祖先達の苦々しい言伝えが蘇ったのではなかろうか。おそらく、その時点で更なる東の地が存在するのかと思い始めていたと推測される。時は流れて即位七年(西暦668年)、長い称制時代を経て、天皇即位となる。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

七年春正月丙戌朔戊子、皇太子卽天皇位。(或本云、六年歲次丁卯三月卽位。)壬辰、宴群臣於內裏。戊申、送使博德等服命。

正月三日に天皇に即位された。前年(西暦667年)三月とも伝えられている。伊吉博德が服命したと記している。

二月丙辰朔戊寅、立古人大兄皇子女倭姬王、爲皇后。遂納四嬪。有蘇我山田石川麻呂大臣女曰遠智娘(或本云美濃津子娘)、生一男二女、其一曰大田皇女、其二曰鸕野皇女、及有天下居于飛鳥淨御原宮後移宮于藤原、其三曰建皇子、唖不能語。(或本云、遠智娘生一男二女、其一曰建皇子、其二曰大田皇女、其三曰鸕野皇女。或本云、蘇我山田麻呂大臣女曰芽淳娘、生大田皇女與娑羅々皇女。)次有遠智娘弟曰姪娘、生御名部皇女阿陪皇女、阿陪皇女及有天下居于藤原宮後移都于乃樂。(或本云名姪娘曰櫻井娘。)次有阿倍倉梯麻呂大臣女曰橘娘、生飛鳥皇女新田部皇女。次有蘇我赤兄大臣女曰常陸娘、生山邊皇女。又有宮人生男女者四人。有忍海造小龍女曰色夫古娘、生一男二女、其一曰大江皇女、其二曰川嶋皇子、其三曰泉皇女。又有栗隈首德萬女曰黑媛娘、生水主皇女。又有越道君伊羅都賣、生施基皇子。又有伊賀采女宅子娘、生伊賀皇子、後字曰大友皇子

二月に古人大兄皇子の娘である「倭姫王」を皇后として、他に四人を娶ったと記載している。「倭姫王」はここのみの登場である。既に読み解いたように「倭」=「人+禾+女」と分解され、倭=谷間で嫋やかに曲がる山稜があるところである。「古人大兄皇子」の出自の場所に居た姫と思われる。

「嬪」の一人目は、遠智娘(別名美濃津子娘、蘇我山田石川麻呂大臣の子)であり、誕生した御子は「大田皇女」、「鸕野皇女」(飛鳥淨御原宮、後移宮于藤原と追記。大海人皇子の后となる)、建皇子と記載されている。異説があって、「建王子」が最初に生まれたする。また同じ大臣の娘、「芽淳娘」(下記「姪娘」の別名)が「大田皇女」と「娑羅々皇女」(「鸕野皇女」の別名)を誕生させたと伝えている。

二人目は遠智娘の妹、姪娘(異説に別名櫻井娘)が「御名部皇女」と「阿陪皇女」(藤原宮後移都于乃樂(ナラ)と追記)を生んでいる。三人目は「橘娘」(阿倍倉梯麻呂大臣の子)が「飛鳥皇女」と「新田部皇女」を生んでいる。四人目が常陸娘(蘇我赤兄大臣の子)が「山邊皇女」を生んでいる。

以下は宮廷人に関連して誕生した御子達が列挙されている。「色夫古娘」(忍海造小龍の子)に「大江皇女」、「川嶋皇子」、「泉皇女」が誕生している。「黑媛娘」(栗隈首德萬の子)に「水主皇女」、「越道君伊羅都賣」に「施基皇子」、「伊賀采女宅子娘」に「伊賀皇子」(後の大友皇子)が誕生したと伝えている。
 
<姪娘(芽渟娘・櫻井娘)>
既に登場するか、併記した出自の場所を求めた人物はリンク参照。その他初登場組は以下で述べ、娶った后にも別名表記があり、再度ご登場願うことになる。

● 姪娘(芽渟娘・櫻井娘)

既に読み解いたが、姪=女+至=嫋やかに曲がって山稜が延び至るところとした。これで山田石川大臣の西側の山稜の端辺りを出自の場所と推定した。

「芽」=「艸+牙」と分解される。「牙」=「牙のように延びた様」として、頻出の「渟」=「水の流れが止まる様」から、芽渟=山稜が牙のように延びた端で水が止まっているところと読み解ける。

残念ながら現在の地図に解像度では水辺を確認することができないようであるが、それらしき地形を見出せる。続く「櫻井」は、古事記で幾度か登場する文字列で、「櫻」=「木+貝+貝+女」と分解すると、櫻井=山稜の傍らで二つの谷間に積み重ねられた田が寄り集まった四角く取り囲まれたところと読み解いた。図に示したように「姪娘」の別名として受け入れられる表記と思われる。
 
<橘娘>
嫁いでその地位が向上するにつれて呼称も変化して行ったようである。ただ、丁寧に出自の地形を引継いでいる。なかなか律義な習慣であったと推測される。

● 橘娘

「阿倍倉梯麻呂大臣」の子と記載されている。すると小足媛とは姉妹となる。何とも狭隘な谷間の地で「橘」の地形を見出せるのであろうか?…少し出雲側に谷を下ると、実に急峻な「橘」が目に止まる。

古事記に登場した建御雷之男神に追い出された建御名方神が坐していたと推定した場所である。阿倍一族の活躍に伴って領地も大きく拡大していたようである。

橘=多くの谷間が寄り集まっているところである。直近では朝倉橘廣庭宮にも用いられていた文字である。古事記、書紀を通じての重要な地形象形表記である。引き続いて、誕生した御子達の出自の場所を求めてみよう。

● 遠智娘:大田皇女・鸕野皇女・建皇子

中大兄皇太子(葛城皇子)の場所で探索する。「建皇子」は既に求めたように「中大兄皇太子」の「中」が示す「建」=「廴+聿」の「聿」の先が出自の場所と推定した。新規に登場の姉(妹?)達の場所を求めてみよう。

長女の大田=平らな頂の麓で田が広がったところと読める。次女の「鸕」=「盧+鳥」と分解される。幾度か登場した「盧」=「虎の縦縞のような山稜がある様」である。すると、鸕野=山稜が鳥の形をしている傍らで虎の縦縞のようになっている麓の野原と読み解ける。図に示した通り、「大田」は「聿」の北側で長く延びた棚田の場所と推定される。

「鸕野」はその西側の「鳥」の地形の麓に「盧」の地形が見出せる。別名があって「娑羅々」と記されている。「娑」=「沙+女」と分解すると、「娑」=「嫋やかに曲がる水辺」と読める。この文字も幾度か出現している。沙羅々=嫋やかに曲がる水辺がくまなく連なっているところと紐解ける。麓にある野に流れる川の様子を象った表現と解る。

「有天下居于飛鳥淨御原宮、後移宮于藤原」と追記されている。「藤原宮」については、天武天皇紀以降の読み解きに進んだところで述べることにする。
 
<皇子・皇女>
● 姪娘:御名部皇女・阿陪皇女


「御名部」の御=束ねる様である。次の「名」=「夕+囗」と分解され、名=山稜の端の三角州と読む。古事記に頻出の文字である。例えば天之眞名井などがある。

御名部=山稜の端の三角州(名)を束ねた(御)区切られた地(部)と読み解ける。幾つかの山稜の端が寄り集まったところを示している。「聿」の東側にその地を見出せる。

「阿部」は上記にも登場したが、この時の「部」=「咅+邑」と分解する。「咅」=「花の子房のような様」を表すと解釈する。

阿部=花の子房ような地(咅)が集まった(邑)台地(阿)と読み解ける。場所は更に東側の台地を示していると推定される。建皇子(建王)は、圧倒的に多数の皇女に囲まれた「聿」の先という配置であったことが解る。希少な皇子、祖母が寵愛し、夭折したことを嘆き悲しんだのも頷けるようである。

● 橘娘:飛鳥皇女・新田部皇女

先に「新田部皇女」の出自の場所を求めてみよう。幾度か出現する「新」=「辛+木+斤」と分解される。新=山稜が刃物の斧で切り裂いたような様と解釈する。「鸕野皇女」の西側の山稜が深い谷間で切り離されている場所がある。新田部=刃物で切り裂かれたような谷間の麓の田が区切られているところと読み解ける。

「飛鳥皇女」については、宮、寺などがひしめく「飛鳥」の地に求めることは極めて難しいようで、さりとて、これ以上の情報は皆無でもある。と言って、書紀編者は「飛鳥」と記述して読み手に通じると思う故に、この表記を採用したのであろう。少し関連情報を調べると、何故か柿本人麻呂が、かなり気合の入った歌を残していることが分かった。そこに「飛鳥河」が登場する.
 
<飛鳥河>
「飛鳥皇女」の「飛鳥河」の「飛鳥」に由来するのではなかろうか。この川は、古事記の袁祁命(後の顕宗天皇)が父親を雄略天皇に殺害されて針間國に向けて逃亡する際、なけなしの食料を奪われてしまう事件が発生する。

後に天皇となってその犯人を捕まえ、飛鳥河之河原で恨みを晴らすと言う説話に登場する。その図を再掲する。即ち、顕宗天皇が坐した「近飛鳥宮」の近隣が「飛鳥皇女」の出自の場所と推定される。

何故にこの地となったのかを含め不明なことが多いが、交通の要所として天皇家が代々引継いで来た地でもあろう。「近飛鳥」が歴史の表舞台に登場する機会が少なく、時を経た時点での共有化が難しい記述と思われる。

柿本人麻呂が歌にするなど、天智天皇の多数の御子の一人に過ぎない、のではなく、特別な存在であったと推測される。いや、むしろ「飛鳥河」の登場もほとんど見られず、こんなところで浮かび上がって来たことに感動する次第である。

● 常陸娘:山邊皇女

山邉=山稜が延びて広がった縁と読み解く。古事記で最初に登場するのが御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の山邊道勾之岡上陵に含まれている。「新田部皇女」の西南に当たる場所がその地形を示していると思われる。もう既に「中大兄皇太子」の谷間は一杯で、その出口になっている。

続いて「宮人」に産ませた御子が羅列される。古事記の時代では、生まれた子は母親の許で養育され、命名も母親の地に因んでいたが、孝徳天皇紀に決められた令によって父親の地形に基づくことになる(父母の身分によって異なるが…)。その母か父かの仕分けが生じることになるが、果たして如何になっていたのであろうか・・・。
 
<忍海造小龍-色夫古娘>
● 色夫古娘:大江皇女・川嶋皇子・泉皇女

「色夫古娘」は「忍海造小龍」の子と記載されている。古事記で「忍海」とくれば、彦山川流域、「葛城」の地が面するところであろう。

「市邊忍齒別王之妹・忍海郎女」が居た葛城忍海之高木角刺宮で登場する。その「市邊忍齒別王」の場所に該当する場所と推定される。

「齒」を「龍」に見立てた表記と思われる。ちょっと小ぶりの…すると娘は、色=巴の形夫=夫の形古=丸く小高い様となって、それらが寄り集まった傍らが出自の場所と推定される。現地名は田川郡福智町市場、赤池中学校辺りであろう。

「川嶋皇子」の「嶋」=「山+鳥」と分解する。川嶋=川の傍にある鳥の形をしたところと読む。上図<皇子・皇女>にある小高いところ、現地名が丸山となって場所を示している。「大江皇女」は、なかなか通常に用いられている表記とは異なるようで、少々伝えんとするところを気付くのに時間を要した。川辺でも海辺でもなく、入江があるわけでもなく、あるのは些か大きめの池が二つ、である。

「江」=「水+工」と分解すると、「工」=「刃物が大地を突き通す様」を象った文字と知られる。地形象形表記は、江=大地が窪んで水が入り込んでいる様と解釈される。そうとすると「大江皇女」はその西側が出自の場所と推定される。関連する文字である池=水+也=水が曲がるくねって流れる様とすると、「江」が通常の「池」や「入江」の窪みに水を湛えた様を表していることになる。漢字の成立ちの原点に立ち返って地形象形に用いていると思われる。

「泉皇女」の「泉」も同様に「泉」=「白+水」と分解して地形象形の表記とすると、泉=くっ付いた地に水があるところと読み解ける。通常の意味も「狭いところから水が湧き出て来る様」を表すわけだが、より地形的な情報を示している。「大江皇女」の東側の狭い谷間が出自の場所と推定される。現地名は、田川市夏吉である。
 
<黑媛娘-水主皇女・伊賀采女宅子娘-大友皇子>
● 黑媛娘:水主皇女
 
「黑媛娘」は「栗隈首德萬」の子と記載されている。「栗隈」の文字列は、舒明天皇紀に「采女」の地を表すと読み解いた。

栗隈采女黑女などが登場している。ほぼ地形を示す文字が共通していることが解る。

父親の名前は「栗隈」は前記と全く同様として、首=首の付け根の形德=真っすぐな様萬=蠍の形と読む。既に幾度か登場した文字の羅列となっている。

すると「隈」の地がこれらの地形要素から成っていることが解る。娘の「黑」=「囗+※+灬(炎)」の地形、黑=炎の形の山稜の端にある稲田になっているところと読み解く。図では判り辛いが、間違いなく山稜の端が細かく岐れている確認できる。

御子の水主皇女の「主」は「炎が垂直に真っ直ぐ延びる様」を表していると解説される。これも古事記を通じて頻出の文字である。多くは谷間が山頂に向かった延びている様を表すと解釈した。

すると、水主=池のある谷間が真っ直ぐに延びているところと読み解ける。「首」の直ぐ北側にある小ぶりな谷間を示していると思われる。現地名は北九州市小倉南区德吉西である。どうやらこの御子は母親の許で育てられたようである。それはそれとしても「身分」に違いが発生することになるのではなかろうか。次の御子も同様である。書紀は語らないが、後に関連する事柄を述べることになろう。

● 伊賀采女宅子娘:伊賀皇子(大友皇子)

図には、先に「伊賀采女宅子娘」と御子の「伊賀皇子」(後の大友皇子)の出自の場所を示した。伊賀=谷間で区切られた山稜が押し開いたような谷間と紐解く。

<伊賀>
「伊」=「人+尹(|+又)」=「谷間(人)で区切られた(|)山稜(手)」であり、「賀」=「加+貝」=「押開かれた谷間」と読み解く。図に示した地形を表していると思われる。尚、後に伊賀國となるが、およその範囲も併せて示した。

宅=囲む山稜が寄り集まる様であり、子=生え出る様である。すると、宅子=囲む山稜が寄り集まった地から生え出たところと読み解ける。

「采女」の地で探すとこれらの地形が並んだ地形を見出すことができる。図に示した場所が出自の場所であり、御子の「伊賀皇子」は母親の名前から、そして「大友」の「大」=「平らな頂の山稜」として、友=又+又=腕のような二つの山稜が並んで寄り添っている様と読み解ける。現地名は小倉南区長行西である。

そこは母親の地を表していることが解る。この皇子も母親にべったりと育てられたような命名と思われる。後に歴史の表舞台に登場するが、短い生涯を閉じられる。出自の場所、それに伴う様々な背景を持っていたのかもしれない。子供の配属は、決まりをしっかり守られているようである。
 
<越道君伊羅都賣-施基皇子>
● 越道君伊羅都賣:施基皇子

ぐんと北に飛んだ地で誕生したようである。「越」は幾度も出現した地域であるが、道=辶+首=首の付け根の形をしたところを探すことになる。

「伊羅都賣」は「郎女」と読んでしまえばそれまでだが、わざわざ地形象形表記を行ってくれているようである。そのまま読み下してみると、伊羅都賣=谷間に区切られながら(伊)連なっている(羅)山稜が交差するように集まった(都)ところの比賣となろう。

図に示した山稜に囲まれたところが出自の場所と推定される。御子の「施基皇子」は「施」=「㫃+也」と分解される。「㫃」=「旗をなびかせる様」であり、施=旗が畝ってなびいているようなところと読み解ける。また「基」=「其+土」と分解される。「其」=「箕の形」を表す。すると施基=旗が畝ってなびいているよう地の後に箕の形の地があるところと紐解ける。

母親の「羅都」を「基」で表現したと思われる。現地名は北九州市門司区伊川である。谷間の対面に越國守阿部引田臣比羅夫が赴任していた場所となる。古事記では、若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の御子の日子坐王、その子の曙立王の出自の場所と推定した。早期に人々が住まった居た地域である。

結局、二男一女が母親の許で暮らしていたことが解った。次女の「鸕野皇女」が「大海人皇子(天武天皇)」に嫁ぎ、更には「持統天皇」となって行く。書紀の最後の天皇である。激動の時代を生き抜いた人々の誕生物語であった。