2020年7月21日火曜日

天命開別天皇:天智天皇(Ⅶ) 〔435〕

天命開別天皇:天智天皇(Ⅶ)


天智天皇は多くの御子を誕生させたが、皇子の数は極僅か、大半が皇女であった。長男に当たる建皇子が夭折したこと、祖母の斉明天皇が深く嘆かれたのも頷けることだった。また、それが天皇の弟の存在が皇統に関わって来ることを暗示している。幾度も繰り返される皇位継承の課題を抱えつつ物語は進んで行くようである。

即位七年(西暦668年)四月から、朝鮮半島内も歴史的な時を迎えていた。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

夏四月乙卯朔庚申、百濟遣末都師父等進調。庚午、末都師父等罷歸。五月五日、天皇縱獵於蒲生野。于時、大皇弟・諸王・內臣及群臣、皆悉從焉。六月、伊勢王與其弟王、接日而薨。(未詳官位。)
 
<蒲生野>
四月に入って百濟が使者を送って進調した来たと記載している。唐・新羅の支配下にあっても百濟の地は変わることなく、とりわけ南部は、高麗攻略に忙しく未だ新羅による統治が浸透していなかったように思われる。

錦江から熊津辺りでの状況と東津江以南、扶安郡辺りの状況は大きく異なっていたと推測される。使者名「末都師父」はいつの日か読み解いてみよう。いずれにしても十日ばかりで帰ったと述べている。
 
蒲生野

五月に一族郎党で「蒲生野」で狩猟をしたとのこと。六月に「伊勢王」とその弟王が相次いで亡くなったと記しているが、伊勢王の人物特定は難しいようである。

ここの記述も、「蒲生」と言えば、そうそう伊勢王が・・・の気分の記述であろう。同じ登場させるなら、もう少し丁寧な記述を、お願いしたいところである。

おそらく、「長門國」の城、そして少し足を延ばして「水城」の視察を兼ねていたと思われる。「蒲生」はれっきとした残存地名であえる。「伊勢」は、影も形も残されていないが・・・。

秋七月、高麗、從越之路遣使進調。風浪高、故不得歸。以栗前王、拜筑紫率。于時、近江國講武、又多置牧而放馬。又越國獻燃土與燃水。又於濱臺之下諸魚覆水而至、又饗蝦夷、又命舍人等爲宴於所々。時人曰、天皇天命將及乎。

七月に高麗が「越之路」で「進調」に来たのだが、海上は「風浪高」で帰りは使わなかったと述べている。これは前記で想定した唐・新羅侵攻ルートの一つで、関門海峡に入り、上陸して「越」を経由するルートであろう。関門海峡の海は、不慣れな者にとって決して簡単に航行できる海峡ではないことを確認したことになろう。多分にこのルートへ誘導したように感じられる。

「栗前王」(出自は後に述べる)が筑紫率(筑紫大宰)に赴任した。その時「近江國」は武術の対策を講じ、馬の牧場を多く設置したと記載している。騎馬戦闘の備えであろう。更に越國に「燃土與燃水」(石炭、石油か?)を準備させたとのことである。大将同士が矢を放って当てた方が勝ち、なんて言う気楽な気楽な戦いではなくなったのである。おそらく「火器」の使用は「白村江」での敗戦が根底にあると思われる。

「於濱臺」(後に述べる)のこと、また蝦夷の饗応は上記の関門海峡の奥からの侵攻に備えての布石であろう。何としても「肅愼・蝦夷」を抑えておく必要があったのである。味方に引き入れるにはあの手この手で、ある。その饗応の凄まじさに、いよいよ天皇交替の時が来たか、と人々は受け取った、と記している。

「越之路」から始まるこの段が伝えることは、関門海峡侵攻ルートに対する防衛策であろう。決して「越」、「筑紫」、「近江」そして「蝦夷(エゾ)」の各地の事柄を羅列したのではない。遠賀川・紫川からの侵攻は、築城も含めて自然の地形を活かした防衛策を施して来たが、この方面には「肅愼・蝦夷」上陸に加えて、もう一つ重要な、いや最も危険なルートが存在することに気付かされる。

それは葦原中國上陸ルートである。そもそも「天神族」が侵攻したのがこのルートであった。そして、書紀編者が最も頭を悩ませなければならない事態となる。そこで登場したのが「近江國」となってしまった、と思われる。即ち、「葦原中國」(出雲國)が面する「淡道」(淡道之狹之穂別嶋)の「淡」を「近江」に置換えたと読み解ける。「出雲國」がこんなところにあっては不都合なのである。

天皇家の祖先が出雲に上陸しても、山に囲まれた地から這い出るには狭い谷間を通って「高志(越)」に抜けるルートが残されているのみであった。それは変わらずであり、「越」を固めることと、上陸地点での戦闘防御が避けられないと考えたのであろう。逆に、出雲の地で上陸させ包囲する戦略と思われる。この戦闘に「蝦夷」の協力を得る思惑もあっただろう。
 
<栗前王・高坂王・石川王・稚狹王・大宅王>
● 栗前王

唐突にご登場なので、少々調べて出自の概略を求めてみた。これは既述の欠落としか思いようがない有様で、Wikipedia(別名栗隈王)に記載された内容を信じて出自の場所を求めてみようかと思う。

それによると敏達天皇の御子、難波皇子の子(孫?)とある。難波皇子は、古事記にも同様の人物名、難波王が登場する。「春日中若子之女・老女子郎女」が生んだ御子の一人で、「漢王」とも表記される。

母親が不明なのだが、その「難波王」の子、もしくは一代挟んで孫と言われることから、先ずはその地の周辺を当たってみると、それらしき場所が見出せる。

「栗」=「栗の穂が長く延びた様」と読み解いて来た。例えば上記の栗隈首德萬など多くの例がある。栗前(隅)=栗の穂が長く延びた地の先(隅)のところと読み解ける。長いだけではなく、広がっている様から「隅」と別表記されたのであろう。書紀は「漢王」との繋がりが発生することを回避したかったのかもしれない。後に登場する兄弟「高坂王」、「石川王」、「稚狹王」、「大宅王」を併記した。
 
<於濱臺>
於濱臺

この臺に至っては全く不詳で、一般的な「浜にある高台」ような解釈で終わっているようである。実に勿体ない有様であろう。

「於」の文字は、古事記の国(島)生みの段の淤能碁呂嶋に含まれている。直近では出雲國於友郡の解釈も全く同様とした。

「於」=「㫃(旗)+二(くっ付く、重なる)」と分解されて、於=旗がなびくような地がくっ付いた様と読み解ける。

於濱臺=旗がなびくような地がくっ付いた浜にある高台と読み解ける。すると齶田郡の齶田浦辺りの高台を表していると思われる。現在の地形は大きく変形していると思われるが、辛うじて当時の姿が伺える状況のように思われる。

魚が水面を覆うほど集まるとは、なかなかの盛況の饗応だった、かもしれない。兎も角もこの地を越えて侵攻されることは絶対に防ぐ必要があったと思われる。蝦夷への対応は、正に深謀遠慮の戦略の一環であったと推測される。

秋九月壬午朔癸巳、新羅、遣沙㖨級飡金東嚴等進調。丁未、中臣內臣、使沙門法辨・秦筆、賜新羅上臣大角干庾信船一隻、付東嚴等。庚戌、使布勢臣耳麻呂、賜新羅王輸御調船一隻、付東嚴等。

冬十月、大唐大將軍英公、打滅高麗。高麗仲牟王初建國時、欲治千歲也、母夫人云「若善治國、不可得也、但當有七百年之治也。」今此國亡者當在七百年之末也。

十一月辛巳朔、賜新羅王絹五十匹・綿五百斤・韋一百枚、付金東嚴等。賜東嚴等物、各有差。乙酉、遣小山下道守臣麻呂吉士小鮪於新羅、是日金東嚴等罷歸。是歲、沙門道行、盜草薙劒逃向新羅、而中路風雨荒迷而歸。

九月半ばに新羅が進調して来た。中臣鎌足は船を一隻進呈し、引き続いて使者を派遣して進調用の船を一隻進呈したと伝えている。表現は下賜であるが、新羅との関係を良好に保つための遣り取りであろう。十月、高麗が滅んだ。仲牟王が建国してちょうど七百年後のことであったと記載している。

十一月には新羅に絹、綿、皮革などを下賜し、使者も派遣している。新羅は背後を突かれては困るし、日本にしてみれば来るとしても唐だけにするのが目的である。いや、唐との関係は決して悪くはない故に、敵対的な態度は無用であっただろう。

<布勢臣耳麻呂・布勢朝臣御主人-色布智>
● 布勢臣耳麻呂

「布勢臣」も初登場である。調べると、阿倍内麻呂(倉梯)大臣の弟と記載されている。この地に関連する場所であろう。

古事記の品陀和氣命(応神天皇)の孫、意富富杼王が祖となった記述に布勢君が登場する。現地名は北九州市門司区寺内にある高台である。

母親の名前が不詳で、阿倍大臣の父親(阿倍鳥)が出向いて誕生し、母親の許で育てられてのであろう。それにしても、栗前王やら、やたら年寄り(多分?)を活用している。時代の変動期、歴史の表舞台に立つ機会も様々に揺れ動いていたように思われる。

耳麻呂の耳の地形は、若干変形しているように見えるが、図に示した辺りかと推定される。国土地理院の年代別写真(1961~9年)を参照して求めた場所である(こちら参照)。現在の住宅地になる前の地形を知る上に於いて貴重な情報かと思われる。

後の天武天皇紀の最後、弔辞を述べる役目で布勢朝臣御主人が登場する。何とも変わった名前であるが、御主人=谷間で真っ直ぐに延びる山稜を束ねたところと読み解ける。現在は開発されて、当時の地形を再現しているかは不明であるが、図に示した高台の付け根辺りと思われる。

更に後の持統天皇紀に布勢朝臣色布智が登場する。何度も用いられている色=渦巻くような様であり、「勢」の高台を模した表記と思われる。頻出の布=平らに広がった様智=矢+口+日=鏃と炎に形がある様と読み解いて来た。「色」の尻尾に当たる場所に、その地形を見出すことができる。現在は中央を高速道路が通り、居場所を特定するには至らないようである。「布勢」の登場機会は少なく、纏めた図とした。

<道守臣麻呂・吉士小鮪>
● 道守臣麻呂・吉士小鮪
 
またまた「吉士」の登場である。「道守臣」は、書紀では初出なのであるが、古事記では若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の御子、建豐波豆羅和氣が祖となった道守臣が登場している。

そのままの名称であり、場所も変更する要がないと思われる。確かに書紀の「吉士」の地に含まれる、あるいは近隣であるが、どうやら「吉士」の表記の地形ではないことを拘ったのかもしれない。

既出の文字列であるから、道守=首の付け根のような地がある肘を曲げたような山稜に囲まれたところと読み解ける。現地名は行橋市矢留である。

一方、素直に「吉士」を付けた「小鮪」は「鮪」=「魚+有」と分解される。幾度も登場している「魚」は「灬」の四つの小さな山稜が並んで連なっている様であろう。「有」=「しなやかに曲がる山稜の麓に三角州がある様」と読み解いた。「小」=「三角形の様」として、小鮪=しなやかに曲がる山稜の麓に三角州があって四つの小さな山稜が突き出ているところと読み解ける。現地名は行橋市彦徳、松田池の南に隣接する場所である。

八年春正月庚辰朔戊子、以蘇我赤兄臣拜筑紫率。三月己卯朔己丑、耽羅、遣王子久麻伎等貢獻。丙申、賜耽羅王五穀種、是日、王子久麻伎等罷歸。夏五月戊寅朔壬午、天皇、縱獵於山科野。大皇弟・藤原內大臣及群臣皆悉從焉。

即位八年(西暦669年)正月に蘇我赤兄臣が筑紫大宰を拝命したと記している。三月には耽羅の王子がやって来て朝貢、五穀の種を下賜した。僅か一週間ばかりで帰ったと述べている。五月に天皇は「山科野」に狩猟に出向き、「藤原内大臣」(少しフライングか?)以下が随行したと伝えている。

耽羅の接触はかなり頻度高くなって来たようであるが、その関係性の変化は語られていない。王子名が来る度に変わっている。耽羅も地形象形表記であることは、ほぼ間違いないと思われるが、今後の課題としよう。雲隠れしていた「蘇我赤兄臣」が顔を出している。
 
<山科野>
山科野

「科野」は前記で登場した。駿河國の西側にある海辺の国であった。古事記の記述をそのまま使った表記と解釈した。

「山」が付けば如何なる地形を表わそうとしたのであろうか?…「山科」と区切って読むと「山が科のところ」である。山科=山稜が段々になっているところと読み解ける。

その地形を探すと、近江大津宮の南、御所ヶ岳・馬ヶ岳山系の裏側に見出せる。現地名は京都郡みやこ町犀川花熊である。

通説は、勿論現地名の京都市山科区であろう。何とも位置関係の類似性は、見事である。更に勿論「山科」の地形は見当たらないようである。

秋八月丁未朔己酉、天皇、登高安嶺、議欲修城、仍恤民疲、止而不作。時人感而歎曰、寔乃仁愛之德、不亦寛乎、云々。是秋、霹礰於藤原內大臣家。九月丁丑朔丁亥、新羅、遣沙飡督儒等進調。

八月には入って、天皇は「高安嶺」に登って、城を造ろうとしたが、民のことを考えて止めた。それを「仁愛」と時の人が言ったと伝えている。「嶺」は連山の中で最も高いところを示す。前記したように、高安城はその少し下側の平らになったところに造ったと述べた。

より高いところに城を造って見通しを良くしようと企んだが、やはり狭過ぎたのであろう。「高安」の地形及び城を造る目的を物語っているのである。高安城は、間違いなく情報伝達のために築城されたことを伝えていることが解る記述であろう。

藤原内大臣の家に「霹礰」(落雷)があったと言う。予兆なのであろうか?…それとも何かの祟りとでも?…九月には新羅が進調して来たと述べている。

冬十月丙午朔乙卯、天皇、幸藤原內大臣家、親問所患、而憂悴極甚、乃詔曰「天道輔仁、何乃虛說。積善餘慶、猶是无徵。若有所須、便可以聞。」對曰「臣既不敏、當復何言。但其葬事、宜用輕易。生則無務於軍國、死則何敢重難」云々。時賢聞而歎曰「此之一言、竊比於往哲之善言矣。大樹將軍之辭賞、詎可同年而語哉。」

十月十日に天皇は藤原内大臣を見舞った。”盟友”が最後の時を迎えようとしている時の会話である。先逝くものの達成感を聞き取ることになる。真偽は別として、物語の一人の主人公であろう。

庚申、天皇、遣東宮大皇弟於藤原內大臣家、授大織冠與大臣位、仍賜姓爲藤原氏。自此以後、通曰藤原內大臣。辛酉、藤原內大臣薨。(日本世記曰「內大臣、春秋五十薨于私第、遷殯於山南。天、何不淑不憖遺耆、鳴呼哀哉。」碑曰「春秋五十有六而薨。」)甲子、天皇、幸藤原內大臣家、命大錦上蘇我赤兄臣奉宣恩詔、仍賜金香鑪。

十月十五日に「東宮大皇弟」(大海人皇子)が訪問して「授大織冠與大臣位、仍賜姓爲藤原氏」と正式に記述されている。翌日逝かれた。碑(勿論、見つかってはいない?)によると五十六歳とのことである。十九日には”大錦上”の蘇我赤兄臣を遣わして金の香炉を与えたと記されている。「赤兄」は後に大臣となる。

十二月、災大藏。是冬、修高安城、收畿內之田税。于時、災斑鳩寺。是歲、遣小錦中河內直鯨等、使於大唐。又以佐平餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百餘人、遷居近江國蒲生郡。又大唐遣郭務悰等二千餘人。

十二月に「大藏」が火災に遭い、「高安城」を手直しして畿内の田税を収めたと述べている。落雷等のリスクがあるが、やはり失火による延焼回避が目的だったのかもしれない。斑鳩寺も同じ目に遭ったと伝えている。

この年、唐に「河內直鯨」等を遣わしている。近況報告だったか?…唐は郭務悰等二千人を送って来たと記している。百濟から移り住んだ「餘自信」、「鬼室集斯」等を「近江國蒲生郡」に転居させている。入植時は約四百人で、三百人ぐらいが増えている。後続の入植があったのかもしれない。
 
<河内直鯨・田邊小隅>
● 河內直鯨


「河内」もそれなりに出現である。既出の「鯨」=「魚+京」と分解して、「魚」の「灬」=「四つの小ぶりな山稜が並んでいる様」と解釈した。

頻出の「直」=「真っ直ぐに凹んだ様」とすると、それらの地形要素が集まったところが見出せる。

直鯨=高く聳える(京)麓の四つの小ぶりな山稜が並んでいる(魚)傍らの真っ直ぐに凹んだ(直)ところと読み解ける。

現地名は京都郡みやこ町勝山黒田である。後の天武天皇紀に田邊小隅が登場する。全くのお隣さんの様子で図に併記した。「小」の文字形の「隅」=「阝+禺」=「二つの山稜が出会った様」が出自の場所と思われる。

ところで『新唐書』に「咸亨元年(西暦670年)、遣使賀平高麗」と記述されている(詳細はこちら)。おそらく、これに該当する遣唐使だったと思われる。適切な外交と思われるが、一つ間違えば、命を落とす役目でもあったと推測される。無事にご帰還なされたのであろうか・・・餘自信鬼室集斯、及び近江國蒲生郡については、それぞれのリンクを参照。

九年春正月乙亥朔辛巳、詔士大夫等、大射宮門內。戊子、宣朝庭之禮儀與行路之相避。復禁斷誣妄・妖偽。

即位九年(西暦670年)正月。「白村江」以来、早六年以上が経っている。正月定例の行事が行われている。「朝廷」の儀礼として行き逢ったら互いに避けるのだが、勿論下位者が道を譲ることになる。妖しげなことは禁断である。

二月、造戸籍、斷盜賊與浮浪。于時、天皇、幸蒲生郡匱迮野而觀宮地。又修高安城積穀與鹽、又築長門城一・筑紫城二。三月甲戌朔壬午、於山御井傍、敷諸神座而班幣帛、中臣金連宣祝詞。

二月に戸籍を作り、盗賊、浮浪者を断てるようにしている。天皇は「蒲生郡匱迮野」に出向いて宮にする地を視察されている。また「高安城」を手直しして穀物と塩を格納したと、述べている。この城は緊急時の避難場所のような位置付けになりつつある。「倭國」の境にあった拠点として機能させる算段かと思われる。

また、長門城と筑紫城を造っているのだが、前記の城が完成したことなのか、あるいは新たに追加したのかは定かではないようである。「山御井」の傍で神事を行ったのだが、「中臣金連」が執り行ったと記載している。「忌部」は次第に主要な神事から外されて行ったのであろう。
 
<蒲生郡匱迮野>
蒲生郡匱迮野

「蒲生」だから上記の「蒲生野」辺りを散策してみることにする。「匱」=「米櫃」、「迮」=「迫る」の意味とすると、「匱迮野」=「米櫃に迫る野原」となるが、意味不明である。

ところが、「蒲生野」の北方に、何と米櫃のような山稜の端が鎮座していることが分る。そして、その「米櫃」に蓋をするように迫っている山稜が見出せる。

この山稜、現在は広大な住宅地に開発されていて、地表の状態は確認できないが、高い山稜ではなく、凹凸のある野原の様相であったのではなかろうか。現地名は北九州市小倉北区熊谷・篠崎辺りである。

「匱迮野」は、水城が延びた先の紫川対岸の丘陵地帯である。「水城」の東端には「筑紫大宰」があり、西端には宮を造って東西から見守る必要があったと思われる。天皇は、あっちこっちと彷徨されているのではなく、国防戦略上の重要拠点を更に強化しようと現地視察されたのである。
 
<山御井>
山御井

神事を執り行うとは、極めて珍しい出来事のように思われる。国政に関することは概ね仏事と記述されて来たようであり、これは天皇家の私事であろう。

すると多数の御子が養育されている谷間中大兄皇太子(葛城皇子)の出自の場所であろう。「山御井」の文字列を紐解いてみよう。

頻出の文字故に、山御井=山が束ねる(御)四角く取り囲まれたところと読める。「山」は真ん中を貫く山稜である。これは、とりもなさず、「中大兄」の地形を表していることが解る。

その傍らと記載されているが、詳細を求めることは難しいようである。御している「山(筆)」の中央部辺りと推定した。如何なる神事であったのか、不明であるが、十名に及ぶ御子達の健やかなる成育祈願だったのかもしれない。
 
<中臣金連>
● 中臣金連

「中臣」の地からも凄まじいばかりの登場である。また、何とも簡明な名前である。「金」は「金」の文字形の地形象形表記と読み解いて来た。直近では對馬國金田城がある。

心配無用で、中臣の谷間の入口が「金」の地形を示していた。藤原鎌足の従兄弟であるが、実に並んでいる地である。父親が「中臣糠手子」と言われる。

同じくその場所を求めると、対岸の山麓辺りと推定される。「糠」=「米+广+隶」と分解され、糠=崖の麓で追い付いた様=寄集った山稜の僅かな隙間で並んでいる様と読み解ける。それなりに古事記で登場する文字である。

極めて狭く押し迫った谷間の表記に用いられている。「手子」=「腕のように延びた山稜の先」と読める。どちらに向かっても峡谷であることには変わりはないようである。出自の地形とその人物の人となり、実に興味深いところであるが、勿論それが全てではない。

尚、この人物は、鎌足亡き後、重用されて行く。同時に「忌部一族」は主たる神事から遠のくことになる。歴史の裏舞台でも、また様々な出来事が生じていたのであろう。

夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震。五月、童謠曰、

于知波志能 都梅能阿素弭爾 伊提麻栖古 多麻提能伊鞞能 野鞞古能度珥
伊提麻志能 倶伊播阿羅珥茹 伊提麻西古 多麻提能鞞能 野鞞古能度珥

四月三十日の未明に法隆寺が火災し、全勝したと伝えている。大雨で雷がなった。五月に童が謡った(参考資料を引用)・・・、

打ち橋の 集落の遊に 出でませ子 玉手の家の 八重子の刀自 出でましの 悔はあらじぞ 出でませ子 玉手の家の 八重子の刀自
(板をかけただけの簡易的な「打ち橋」の詰所まで出てきた子。その子は玉手(=立派な人)の家の八重子の刀自(=中年の婦人)さん。出てきても後悔はありませんよ。出てきた子は玉手の家の八重子の刀自さん)
 
<蘇我刀自古郎女>
挿入歌の解釈は超難解なのだが、訳された文字列が目に止まった。山背大兄王の出自を求めた時の併せて母親の蘇我刀自古郎女についても少々言及した。書紀も古事記も、この王の出自を語ず、調べた結果に基づいている。


母親は「刀自古郎女」(蘇我馬子宿禰の娘)と言われ、出自の場所を図に示したところと推定した。刀自古=[刀]の地形の端(自)にある丸く小高い(古)ところと読み解いた。

玉手家=勾玉のような手の形をして山稜に囲まれ突き出た(家)ところと読み解く。「馬子」を「玉手」と表現している古事記に登場する葛城の玉手岡に類似する。

八重子=谷(八)が重なる地から生え出た(子)ところと読む(こちら参照)。「玉手の家の八重子の刀自」=「刀自古郎女」と読み解ける。原文「多麻提能伊鞞能」も同様に読み解けるが、省略する(「鞞」に注目あれ)。

思わぬところで「刀自古郎女」の場所の傍証が得られたようである。巷間に伝えられる”固有名詞”は、当時の地形象形表記である可能性が極めて高い、と思われる。引用した上田恣さんの直観は的を得ていたようである。「刀自」=「中年のおばさん」と一体誰が解釈したのか・・・もう一人、聖武天皇の夫人、犬養広刀自と知られる。開けっ広げな”中年のおばさん”では済まされないのでは?・・・。

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<法隆寺>
法隆寺

「法隆寺」の名称が史書に出現した最初である。別称である「斑鳩寺」、また、出土した土器に記されている「鵤寺」から確信的に斑鳩の地に建立された寺と言われている(こちら参照)。

「斑鳩(イカルガ)」の読みについて考察されているこちらを参照しても、何とも漠とした状況のようである。「鵤(イカル)」は、漢語ではなく国字とされている。音読みはなく、訓読みのみである。

既に述べたように「鵤」=「角+鳥」=「鳥のような形をした山稜が角にある様」と解釈され、実に明瞭な地形象形表記なのである。従って書紀は「斑鳩」の文字を当てて、その所在を曖昧にしたのである。

さて、法隆寺の名称は、地形象形表記であろうか?…当然、詳細な場所を表している筈である。「斑鳩」で暈せば、後はそのままの表記を用いているのであろう。

「法」=「氵+去」=「水辺で四角く囲まれた窪んでいる様」、「隆」=「阝+夅+生」=「小高く盛り上がっている様」と解釈される。纏めると法隆=水辺で四角く囲まれた窪んでいる地の先で小高く盛り上がっているところと読み解ける。

図に示した「斑鳩宮」の場所に隣接する小高い地に「法隆寺」が建立されていたことを表していると思われる。この地が「斑鳩寺・鵤寺・法隆寺」の”本貫”の地と推定される。

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