2020年7月24日金曜日

天命開別天皇:天智天皇(Ⅷ) 〔436〕

天命開別天皇:天智天皇(Ⅷ)


唐の侵攻に対する備えは、まだまだ安心できる状態ではなく、更なる策はないかと思案に暮れていたことであろう。そんな中で藤原鎌足内大臣が亡くなった。極東の端で国として生き延びる為の礎を築いた、決して表にシャシャリでることがなかった功労者であろう。中央集権体制への移行、それは避けることのできなかった時代の要請であったと思われる。

さて、孤独な天皇は如何に過ごされたのであろうか。既に天命を待つ身であったことは確実である。天智天皇紀最後の段である。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

六月、邑中獲龜、背書申字、上黃下玄、長六寸許。秋九月辛未朔、遣阿曇連頰垂於新羅。是歲、造水碓而冶鐵。

六月に亀の背中に「申」の文字が見られた。この文字の意味は「果実が成熟して固まって行く状態を表わす」と知られる。また、一杯に成熟して逆に「騒がしい様」を示すとも解釈されるようである。予兆であろう。

「水碓」=「水車を動力として穀物をひく時などに用いた臼」とのこと。それを用いて「治鐵」=「鉄に手を加える」と読めるが、ひょっとすると鉄鉱石を細かく砕いたのではなかろうか。かつては新羅から「鉄」を入手して、加工するのが主流だったであろうが、鉄鉱石からの量産化には欠かせない道具となったのであろう。いずれにせよ、古事記もそうだが、武器及びその生産に関する記述は簡明である。阿曇連頬垂の出自はこちら参照。

十年春正月己亥朔庚子、大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣進於殿前、奏賀正事。癸卯、大錦上中臣金連命宣神事。是日、以大友皇子拜太政大臣、以蘇我赤兄臣爲左大臣、以中臣金連爲右大臣、以蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣爲御史大夫。(御史蓋今之大納言乎。)甲辰、東宮太皇弟奉宣(或本云大友皇子宣命)施行冠位法度之事、大赦天下。(法度冠位之名、具載於新律令也。)

即位十年(西暦671年)正月に大々的な人事が告げられている。太政大臣に大友皇子、左右大臣に蘇我赤兄中臣金連となっている。「太政大臣」はこれが最初である。当時の役職を知るわけにはいかないが、朝廷における最高職には違いがないであろう。中臣鎌子連が「内大臣」の職を授けられたが、それよりもより具体的な執行役のように感じられる。

「蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣」を御史大夫(大納言か?…と注記)に任命している。一月六日に東宮太皇弟(大海人皇子)が新しい冠位・法度を施行している(異説では大友皇子)。人心一新の新体制のようである。九日に高麗が使者を遣わして進調。十三日には百濟鎭將が文書が届いている。

<巨勢人(比等・毘登)臣>
● 巨勢人臣

「人」は、既出の文字で「谷間」と解釈して来たが、より三角形に形を強調した表記であろう。とは言え、山稜の端によく見られる形を示していて、特定に至らないようでもある。

調べると別表記があって、「比等」、「毘登」などがあることが判った。それらも含めて地形を探すと、図に示した場所が見出せる。

既出の「比」=「並んでいる様」と解釈した。「等」=「竹+寺」と分解され、「竹簡を綴って揃える」様を表し、その情景から「揃っている、等しい」の意味を表す文字として用いられると解説されている。とすると、比等=山稜が揃って並んでいるところと読み解ける。

また、「毘」=「囟+比」=「窪んだ地で並んでいる」、「登」=「小高いところから山稜が岐れている様」と解釈して来た。毘登=小高いところから山稜が岐れた谷間で揃って並んでいる様と読み解ける。別名表記は「人」の種々の側面を表していることが解る。小ぶりな谷間ではあるが、実に多機能である。現地名は直方市上頓野である。

<紀大人臣・紀朝臣弓張-麻呂・眞人>
● 紀大人臣

今度は「大人」である。「大」=「平らな頂の麓」であるが、これだけではいたるところに見られる地形である。調べると父親が「紀大口」となっている。これで目安ができたようである。

山稜の端が「口を開いたような様」になった台地が見出せる。そしてその脇にある谷間を「人」で表したと思われる。

現地名は豊前市八尾である。当時はこの台地の周囲は海面下にあり、大きな入江に突出た岬のような台地であったと推測される。海進と沖積の影響で現在とは大きく異なる地形であったと思われる。

後の天武天皇紀の最後の段で紀朝臣弓張が登場する。「紀大口」の子と知られる。「弓張」は何と?…そのままの形態を示す場所が見出せる。少々凹凸が少なくなった地であり、陰影を付けて強調した図に切り替えて表示した。尚、「臣」が改姓で「朝臣」となっている。

「大人」の子、紀朝臣麻呂が後の持統天皇紀に登場する。父親の谷間に接する山稜の端の麻呂=萬呂の地が出自の場所と推定される。また天武天皇紀には紀朝臣眞人が登場している。「大口」の次男と知られている。眞人=谷間が寄り集まった窪んだところと解釈すると、図に示した場所ではなかろうか。

この時代になると、下流域での開拓が進んでいたことを伝えている。山間の田が、麓に移り、更に海辺へと扇のように広がって行く様を「記紀」の登場人物が物語ってくれているようである。それにしても「紀」の地は長く延びていたものである。確かに古事記が語る「木」の時代から大きく変わって行ったのであろう。
 
<蘇我果安臣>
● 蘇我果安臣

この人物は、倉山田石川大臣、蘇我赤兄大臣等の兄弟である。父親、蘇我倉麻呂の後ろの谷間を埋め尽くすように子供等が配置されたようである。

相変わらずの山間の場所であるが、現在も道路が通じているように伺える。その先の中腹の棚になった場所と推定される。

既出の「果」=「実がなった様」と読んだ。「安」=「山稜に囲まれた嫋やかに曲がる谷間」である。

果安=丸く小高いところが実がなったように並ぶ山稜に囲まれた嫋やかに曲がる谷間と読み解ける。周囲の地形をそのまま名前にしたら、こうなった、の感じであろう。残念ながら、大臣には届かなかった末っ子である。

是月、以大錦下授佐平余自信・沙宅紹明(法官大輔)、以小錦下授鬼室集斯(學職頭)、以大山下授達率谷那晉首(閑兵法)・木素貴子(閑兵法)・憶禮福留(閑兵法)・答㶱春初(閑兵法)・㶱日比子贊波羅金羅金須(解藥)・鬼室集信(解藥)、以上小山上授達率德頂上(解藥)・吉大尚(解藥)・許率母(明五經)・角福牟(閑於陰陽)、以小山下授餘達率等五十餘人。童謠云、

多致播那播 於能我曳多曳多 那例々騰母 陀麻爾農矩騰岐 於野兒弘儞農倶

余自信、鬼室集斯以下の百濟人に授けた冠位がズラリと挙げられている。「法官大輔」は官人の勤務評定などを行う司法次官、「學職頭」は後の大学寮の長官とも言われる。「沙宅紹明」の文才は高く評価されていたようである。その他、城造りを任された者の名前も挙がっている。

「鬼室集信」と記されているが、出自の場所は、間違いなく、「福信」に近付くことからもひょっとするとこちらが「鬼室福信」の息子だったのかもしれない。童謡である、例によって参考資料を引用して・・・、

橘は 己が枝枝 生れれども 玉に貫く時 同じ緒に貫く

二月戊辰朔庚寅、百濟、遣臺久用善等進調。三月戊戌朔庚子、黃書造本實、獻水臬。甲寅、

二月に百濟から進調あった。三月には「黃書造本實」が「水臬」(水準器らしい)を献上している。この人物も詳細は分からず、調べて出自の場所を求めてみよう。三月十七日に「常陸國」が「中臣部若子」を献上、十六歳で一尺六寸(46cm)と記されている。

<黃書造本實-大伴・蓆集造>
● 黃書造本實

調べると、「黃書」は「黃文」とも表記され、高麗系渡来人を祖として、「山背國」に住まっていたようである。

「本實」以外に「大伴」の名前も登場し、天智天皇以降数代に仕えたと伝えられている。これだけ判れば何とかなる、と思われる。

「黃」=「平たく広がった様」、幾度か登場の「書」=「聿+者」と分解され、「山稜が交差するように集まった様」と読み解いた。

「本」=「麓」として、「實」=「宀+貫」と分解されるが、更に「貫」=「𡇒+貝」と分解され、「一杯に詰まった様」を表すと解説される。

纏めると、黃書造本實=平たく広がった地の麓で山稜が交差するように一杯に集まったところと読み解ける。古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の御子、五十日帶日子王に重なる場所と思われる。水準器の「水臬」を献上したことからも、時代が変わって渡来し、入植したのであろう。後の天武天皇紀に登場する黃書造大伴を併記した。

後の天武天皇紀に東隣の地を蓆集造と記載されている。古事記では伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に山代大國之淵が登場している。早期に拓けた土地であった。逆に言えば、その隣の未開地に入植した(させた)と推測される。併せて図に示した。

<常陸國・中臣部若子>
常陸國

「常陸國」は、既に登場しているものとばかりに思っていたが、これが初登場である。一方「常陸」の文字列は、天智天皇が娶った蘇我赤兄臣の娘、「常陸娘」に登場した。

常陸=北向きの開けた地が広がって谷間が長く延びた(常)段差のある盛り上がった(陸)ところと読み解ける。

すると「常陸國」は、図に示した現地名北九州市門司区吉志にある山稜の麓辺りと推定される。古事記の常道仲國・道奥之石城國の「常道仲國」に該当する場所である。「道奥之石城國」は書紀の陸奥蝦夷(熟蝦夷)國となる。

その後に国譲りされ、拡大された配置との一致は、見事である。更に付け加えれば、「常陸國」と「陸奥國」との間が空いていることに気付く。現在で言えば、茨城県と宮城県の間に福島県が挿入されているが、実はそこは空白の地であった。何故か?…図に示した「吉志新町」に当たる場所は、当時は山稜が延びた端であって、住まうことができる土地ではなかったからである。実に、実に丁寧な国譲りであろう。

● 中臣部若子

ちょっとした話が挿入されている。「小さい」に捉われていると肝心なことを見逃してしまいそうである。「中臣」と言っても、「鎌足」の地に居たわけではなかろう。

夏四月丁卯朔辛卯、置漏剋於新臺、始打候時動鍾鼓、始用漏剋。此漏剋者、天皇爲皇太子時、始親所製造也、云々。是月、筑紫言、八足之鹿生而卽死。五月丁酉朔辛丑、天皇御西小殿、皇太子・群臣侍宴。於是、再奏田儛。六月丙寅朔己巳、宣百濟三部使人所請軍事。庚辰、百濟遣羿眞子等進調。是月、以栗隈王爲筑紫率。新羅、遣使進調、別獻水牛一頭・山鶏一隻。秋七月丙申朔丙午、唐人李守眞等・百濟使人等、並罷歸。

四月の記事である。「漏剋」(水時計)を新しい台に置いている。皇太子時代に作ったものらしい。それで時を告げたようである。筑紫が八足の鹿が生まれたがすぐに死んだと述べている。何かの予兆なのか、不明。五月五日の「田儛」(五穀豊穣を祈願する歌舞)など、穏やかな時が流れている。元来は庶民の行いであったのを宮廷の儀式にした。皇太子(大海人皇子)が主催したことが重要なのである。

六月に入って百濟が「請軍事」に来たと記している。高麗は滅亡したのであるが、やはり百濟の時と同様に反乱軍が百濟方面に侵攻していたようで、決して沈静化したわけではなかったようである。以前にも述べたように百濟南部の連中は、これもかつてと同じく、日本に頼らざるを得なかったのであろう。朝鮮半島内の混乱は、まだまだ続いていたと推測される。

蘇我赤兄臣が大臣就任、それに伴う人事であろう。「栗隈王」(既出の栗前王)が筑紫大宰になっている。

八月乙丑朔丁卯、高麗上部大相可婁等罷歸。壬午、饗賜蝦夷。九月、天皇寢疾不豫。(或本云八月天皇疾病。)冬十月甲子朔庚午、新羅遣沙飡金萬物等、進調。辛未、於內裏、開百佛眼。是月、天皇遣使、奉袈裟・金鉢・象牙・沈水香・栴檀香及諸珍財於法興寺佛。

八月に入って高麗の使者が帰り、また、蝦夷を饗応している。九月に天皇が病気になって寝込んでしまった、異説では八月とも。十月に新羅が進調。仏像開眼。天皇は法興寺に珍財を奉納したと伝えている。病気回復の祈願であろう。

庚辰、天皇疾病彌留。勅喚東宮引入臥內、詔曰、朕疾甚、以後事屬汝、云々。於是、再拜稱疾固辭、不受曰「請奉洪業付屬大后・令大友王奉宣諸政。臣請願奉爲天皇出家修道。」天皇許焉。東宮起而再拜、便向於內裏佛殿之南、踞坐胡床、剃除鬢髮、爲沙門。於是、天皇遣次田生磐、送袈裟。壬午、東宮見天皇請之吉野修行佛道、天皇許焉。東宮、卽入於吉野。大臣等侍送、至菟道而還。

十月半ば、病状悪化して東宮(大海人皇子)に、事後を任せると仰ったと記している。簡単には受けないのが通常、大后(倭姫王)に譲られて、大友王(皇子)に執政するように返答している。そして自らは出家する。天皇は「次田生磐」を遣わして袈裟を送り、大海人皇子は吉野での仏道修業を許され、大臣等に「菟道」まで見送られて(見届けられて?)吉野入ったと伝えられている(詳細は天武天皇紀にて)。

左右大臣が決まり、更に太政大臣に大友皇子が就任した人事が行われた。大海人皇子の息の掛かった人々ではなく、どちらかと言うと皇子は蚊帳の外であった。この情勢下では、間違いなく、謀反人になってしまったであろう。さっさと身を隠すのが賢明、その通りの行動であるが、それでも後追いで濡れ衣を被せられそうである。さて、如何なることになるのであろうか・・・。
 
<次田生磐>
● 次田生磐

この人物の情報は、ほぼ皆無である。古事記・書紀には関連するであろう「茨田」の表記が数多く見られる。文字解釈からすると「茨」=「艸+次」であるから、「次」には「山稜に挟まれた様」が欠落していると思われる。

これを頼りに「記紀」で「茨田」関連の場所を当たってみることにした。すると、

古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、日子八井命(三兄弟の長男)が祖となった手嶋連の地形が浮かび上がって来た。

生磐=生え出た山稜が延びて広がったところと読み解ける。山稜の端が広がった地が出自の場所であろう。現地名は京都郡みやこ町勝山松田の飛松辺りである。

と言うことは、天皇が「次田生磐」を使って送った袈裟を「大海人皇子」は自分の住処で受け取ってから吉野に向かったと思われる。決して「近江」から直接「吉野」に向かったわけではない。この辺り微妙な記述(時間経過)となっていることも重要であろう。これは、かなり重要な記述である。先取りすれば、「近江大津宮・菟道・吉野」の三か所の配置に関わることになる。また、詳細は後日に述べることにする。

十一月甲午朔癸卯、對馬國司、遣使於筑紫大宰府、言「月生二日、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人、從唐來曰『唐國使人郭務悰等六百人・送使沙宅孫登等一千四百人、總合二千人乘船卌七隻、倶泊於比智嶋、相謂之曰、今吾輩人船數衆、忽然到彼、恐彼防人驚駭射戰。乃遣道久等預稍披陳來朝之意。』」

十一月十日に對馬國司が筑紫大宰府に使者を遣わして来て、月初めに「沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人」が唐から来て、唐の使者(正式に)、郭務悰等が訪問の予告をして来たと告げている。日本側の返答もなく、筑紫大宰府との遣り取りも省略されており、何とも中途半端な文言である。

二千人と言う多勢は、百濟の難民も含まれていたかもしれない。日本側の対応記述がないのだが、通説の対馬~奈良大和であれば、半年ぐらい「比智嶋」(地形象形表記とすると「巽竹島」かもしれない)に留め置かれることになる。消化不良の物語であるが、いずれ整理をしてみよう。

<筑紫君薩野馬(薩夜麻)>
● 筑紫君薩野馬

「筑紫」とくれば通説は、博多湾岸(筑前)とするのであるが、「筑紫君磐井」は有明海(筑後)に飛んでいることから、この人物もその辺りの出自と推定されている。

幾度も述べて来たように、「筑前・筑後」であって「筑紫」ではない。「筑紫君磐井」は、古事記の竺紫君石井であろう。

この君は「筑紫」ではなく「竺紫」に居たのである。書紀には「筑前」、「筑後」、「竺紫」の文字は出現しない。そして編者は、「淡海」と同様「竺紫」→「筑紫」として曖昧にしたのである。

「竺紫」は古事記の「竺紫日向」の地である。現地名の遠賀郡岡垣町であり、「竺紫」は宗像市との境に連なる孔大寺山系と推定した。

前記で「薩」=「段丘(阝)が生え出て(產)連なっている(艸)様」を表す文字と読み解いた。その連なった段丘が「馬」の形を示していると解釈される。纏めると、薩野馬=段丘(阝)が生え出て(產)並んでいる(艸)野原に[馬]の形があるところと読み解ける。

また「薩夜麻」とも表記される。薩夜麻=段丘(阝)が生え出て(產)並んでいる(艸)狭い谷間のところと読み解ける。馬の足元は、谷が一段と狭まったところである。「石峠」は、おそらく、いや間違いなく残存地名であろう。

<韓嶋勝娑婆・羽束造>
● 韓嶋勝娑婆

全く情報が欠落している人物である。関連ありそうな文字は「勝」であろう。

頻出の「韓」=「囲まれた様」であり、すると、「韓嶋」=「囲まれた山が鳥の形をしている様」と読み解ける。

既出の「勝」=「朕+力」=「地が盛り上がった様」であり、「娑婆」=「嫋やかに曲がる水辺の端」から、纏めると、韓嶋勝娑婆=嫋やかに曲がる水辺の端で囲まれた山が鳥の形をした地の傍らで盛り上がったところと読み解ける。

「吉士」からの登場は、実に凄まじいが、この裏ノ谷の出口付近からの登場は初めてあった。地形的には十分人が住まうことができる場所と推測されるが、登場人物名には見当たらなかった地である。歴史の表舞台に出るか、否かであろう。地形象形表記としては、申し分なしの感じである。

更に後の天武天皇紀に羽束造が「連」姓を与える記事に登場する。鳥の羽を束ねたような地を表す表記であろう。南側の、現在の裏ノ谷池間近の場所と推定される。併せて図に示した。
 
<布師首磐>
● 布師首磐

この人物は、調べると「河内國」に関係していたことが判った。早速文字解きを行うと、既出の「布」=「布を拡げたように平らな様」、「師」=「諸々とした(小さな凹凸が広がる)様」、「磐」=「般+石」=「麓で広がり渡る様」である。

幾度も登場して、同様に解釈して来た文字である。がしかし、ここで突当たったのが、これも頻出の「首」の解釈、「首の付け根のような様」では、既に山稜の端が平らに広がり、「首」の凹凸を見出すことが叶わない。地形象形表記の一番苦手な地形であろう。

と言いつつも、少し見方を変えて、「付け根」ではなく、「首」そのものを表しているとすると、図に示した場所が浮かび上がって来た。布師首磐=布を拡げたように平らで小さな凹凸が広がった地が縊れて(首)その先が広がり渡ったところと読み解ける。

この地からの登場人物は希少である。広々とした田地が広がっていたように思われるが、やはり下流域の治水は時代が進まないと困難だったのであろう。「白村江」には様々な人々が寄集っていたことが伺える記述である。

丙辰、大友皇子在於內裏西殿織佛像前、左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣侍焉。大友皇子、手執香鑪、先起誓盟曰、六人同心奉天皇詔、若有違者必被天罰、云々。於是、左大臣蘇我赤兄臣等、手執香鑪、隨次而起、泣血誓盟曰、臣等五人隨於殿下奉天皇詔、若有違者四天王打、天神地祇亦復誅罰、卅三天證知此事、子孫當絶家門必亡、云々。

丁巳、災近江宮、從大藏省第三倉出。壬戌、五臣奉大友皇子、盟天皇前。是日、賜新羅王、絹五十匹・絁五十匹・綿一千斤・韋一百枚。

十一月二十三日、いよいよ大友皇子を中心とする体制の固めの儀式である。登場人物の出自の場所は既に読み解いた。「蘇我」、「中臣」、「巨勢」、「紀臣」と言った馴染みの連中の集まりである。翌日、近江宮が被災したのは「大藏省」の第三倉庫の出火が原因と記している。隣接する場所であったことを伝えているようである。また、新羅への下賜を行ったと述べている。

<大藏省>
大藏省

さて近江大津宮の近隣に「大藏省」が示す場所があるのか?・・・「大藏」は斉明天皇紀に大藏衣縫造麻呂が登場し、大藏=平らな頂の麓にある四角く囲まれたところと読み解いた。

すると宮の東隣の谷間がその地形を示すように思われるが、四方を取り囲まれてはいない。該当しないのか?・・・省=削ぎ取られた様を表すと解説される。

即ち、一方の壁が削ぎ取られたような「藏」だと表現しているのである。谷間の出口が開いている様を「省」で表記したと思われる。まるで現在大蔵省を匂わせるような文字使い、これでは解釈が路頭に迷う筈である。

失火は「第三倉」と記載している。不詳だが、宮に最も近いところにあったとしてみたが、果たして的を得ているのであろうか、知る術は持ち合わせていない。

十二月癸亥朔乙丑、天皇崩于近江宮。癸酉、殯于新宮。于時、童謠曰、

美曳之弩能 曳之弩能阿喩 阿喩舉曾播 施麻倍母曳岐 愛倶流之衞 奈疑能母騰 制利能母騰 阿例播倶流之衞
於彌能古能 野陛能比母騰倶 比騰陛多爾 伊麻拕藤柯泥波 美古能比母騰矩
阿箇悟馬能 以喩企波々箇屢 麻矩儒播羅 奈爾能都底舉騰 多拕尼之曳鶏武

十二月三日に天皇が近江宮で亡くなった。「童謠」(例によって参考資料を引用して)があって…、

み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは 島傍も良き え苦しゑ 水葱の下 芹の下 吾は苦しゑ(其の一)
(み吉野の、吉野の鮎、鮎は川の中の岩の側にいる。苦しいよ。水葱(ミズアオイ=水草の一種)や芹(セリ=植物)の下にいるので私は苦しい。)

臣の子の 八重の紐解く 一重だに いまだ解かねは 御子の紐解く(其の二)
(臣下である子が、八重の紐を解く。一重も解かないのに、御子はもう紐を解いてしまった。)

赤駒の い行き憚る 真葛原 何の伝言 直にし良けむ(其の三)
(早く走るという赤い馬が行くのも嫌がる葛の原っぱ。その葛の原っぱでなかなか進まないように、伝言が伝わらない。直接、言ったらいいのに。)

…全て大海人皇子について謡ったものである。吉野での苦悩ぶり、戦う気配、そして「赤駒」に喩えた逡巡の様であろう。「赤駒」は万葉歌に皇子の居場所として読み込まれている。こちらを参照。

己卯、新羅進調使沙飡金萬物等罷歸。是歲、讚岐國山田郡人家有雞子四足者。又大炊有八鼎鳴、或一鼎鳴、或二或三倶鳴、或八倶鳴。

十二月十七日、新羅の使者が帰っている。「讚岐國山田郡」は既出の屋嶋城があった讚吉國山田郡を示すと思われる。四つ足の鶏の子は?…また、「鼎」(竈?)が鳴るとは?…吉兆なのかは不明。後日の課題としておこう。

天智天皇紀、漸くにして終了である。唐・新羅による朝鮮半島内の騒乱に危機を感じた母親と息子の天皇が前例のない策略に奔走した時代であった。何とか、壊滅的な事態には至らずで、その生涯を閉じられたようである。まだまだ、多くの地(人)名が登場するのであろうが、目下のところ、全てすんなりと想定内の地域に収まったようである。