息長一族とは?
古事記の中で「息長*」の文字が現れるのは、開化天皇の御子、日子坐王が娶った近淡海国の天之御影神の比賣、「息長水依比賣」で初めて登場する。この比賣の母親は不詳である。がしかしこれ以降随所に現れ、天皇家との密接な繋がりを示すが、全く補足の説明は見当たらなく、推測することさえ難しい有様である。
草創期の「葛城」、「丸邇」及び古事記最終章の「宗賀」に勝るとも劣らないくらいの関係を持ちながら「息長」の地が語られることは殆どないようである。勿論この指摘は従来よりなされていて様々な説が提案されている。「息長」名を冠する名前を持つ登場人物の居場所を求めて来たがより正確に時系列も含めて整理してみようかと思う。
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息長*
「息」=「自+心」であるが、「自=鼻」と解説されている。確かに息をするのは鼻と心であろう。「鼻」↔「端」↔「花」である。端っこで突き出ているところを指し示すところと解釈される。丹波比古多多須美知能宇斯王の「多多須美知」(真直ぐな州の道)=「鼻」=「息」と表現したのである。
息長=鼻(端)が長い
…地のことを表していたのである。(2018.04.28)
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息長水依比賣
又娶近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女・息長水依比賣、生子、丹波比古多多須美知能宇斯王此王名以音、次水之穗眞若王、次神大根王・亦名八瓜入日子王、次水穗五百依比賣、次御井津比賣。五柱。
上記したように天之御影神の比賣である。開化天皇の御子、日子坐王の複数の娶りの一つとして記述される。この比賣の居場所は推測の中にある。天之御影神のところに居たならば近淡海国の御上となろうが、不明の母親の居場所とも考えられる。前者の場所の可能性は低く、おそらくは母親のところであろう。
その場所は御子の名前に潜められていると推測される。父親関連の近淡海国を除くと長男の「丹波比古多多須美知能宇斯王」の可能性が最も高いと思われる。先ずはこの仮定の下に紐解きを進めてみることにする。では、この王は何処に居たのか?…「丹波比古」→「丹波国」を示しているのであろう。それ以下の読み解きとなる。
「多多須美知能宇斯王」初見では「多多須美知」=「多くある州(の傍)の道」程度で理解した心算になったが、これでは特定には至らない。丹波は「州」だらけの地、既に登場した氷羽州比賣などから「州」が大地を覆っている国と解釈した。この解釈では「丹波比古」の表記と重なるだけで付加される情報は皆無である。
多多須美知=多多(直、立)|須(州)|美知(道)
…と紐解くと「真っすぐな州の道」を表している。少し後の記述に「宇志」とも表現されている。
宇斯(志)=宇(山麓)|斯(志:之、蛇行した川)
…上記の「州」が山裾にある「志賀」に接する地形であることを示していると解釈される。当初は通説に倣って「宇斯王」=「大(主:ヌシ)王」としたが、明確に場所を示す文字列と判った。結果は下図を参照願う。
<多多須美知能宇斯王> |
「半島」の西側の大半は現在の標高で5m以下で当時は海面下にあったと思われる。実に特徴的な地形を示し、これを捉えて記述したのであろう。その「州」が北端で「志賀」に接することも正確に表現されている。これに従って母親の「息長水依比賣」は「水に寄り添う」とすると現在の山田池の近隣と比定できる。「息長」の地は現在の行橋市長井辺りと結論される。
日子坐王は崇神天皇の命を受けて「又日子坐王者、遣旦波國、令殺玖賀耳之御笠」を実行した将軍である。「多多須美知能宇斯王」の誕生とこの派遣との時系列は明確ではないが。「玖賀耳之御笠」は上図北部の山稜と既に紐解いた。征伐した対象者の名前(地名)を記述するのは極めて異例である。何かを伝えようとしていると思われる。
息長宿禰王・息長帶比賣命・息長日子王
次山代之大筒木眞若王、娶同母弟伊理泥王之女・丹波能阿治佐波毘賣、生子、迦邇米雷王。迦邇米三字以音。此王、娶丹波之遠津臣之女・名高材比賣、生子、息長宿禰王。此王、娶葛城之高額比賣、生子、息長帶比賣命、次虛空津比賣命、次息長日子王。
次に登場するのは同じく日子坐王の御子、山代之大筒木眞若王が丹波の比賣を娶って誕生したのが迦邇米雷王で、この王が「丹波之遠津臣之女・名高材比賣」を娶って「息長宿禰王」が生まれる。更にこの王が葛城之高額比賣を娶って生まれたのが「息長帶比賣命」虛空津比賣命「息長日子王」と記載される。
即ち「丹波之遠津臣之女・名高材比賣」から「息長」の名前が頻発するようになる。「丹波之遠津」は既に登場して紐解いた。上記「半島」の付け根付近、現在の行橋市稲童の稲童下にある奥津神社辺りである(上図の下方⛩)。今回読み解いた「息長水依比賣」の近隣と判った。これはこの地に「息長」を名乗る一族が住まっていたと伝えているのである。
直ぐ東側には石並古墳がある。古くから人々が住まう地域であったのであろう。その繁栄を担ったのが「息長」を名乗る人々だったと思われる。そしておそらくはこの人々は朝鮮半島から渡来した一族ではなかろうか。阿加流比賣の説話はこの地が新羅との古くからの繋がりを伝えたものであろう。
息長田別王
又一妻之子、息長田別王。
後になるが倭建命が「一妻」を娶って誕生した御子に「息長田別王」が居る。何とも簡単に、しかも妻の名前がない。上記に関連する地に居たとして居場所を紐解いた。当時として水田とすることができた谷間の「茨田(松田)」と推定されるところである。現地名は行橋市長井と変わらずである。纏めて下図に示す。
息長眞手王
<継体天皇>又娶息長眞手王之女・麻組郎女、生御子、佐佐宜郎女。
<敏達天皇>又娶息長眞手王之女・比呂比賣命、生御子、忍坂日子人太子・亦名麻呂古王、次坂騰王、次宇遲王。
全く同様に何の修飾も無く登場する。初登場で先ずはこの「眞手王」の坐したところを突止めてみよう。「眞手」は何を意味しているのであろうか?…「手」=「手の形」であろう。「御眞木」「御眞津」の「眞」=「ものが満ちている様」を表すとすると…、
眞(満ちている)|手(手の地形)
…「手の地形で満ちている」と紐解ける。下図を参照願うと、覗山山塊の形が該当し、当時この山塊は海と川とに囲まれていたと推定される。即ち「手の地形の島」であったと推定される。
覗山を中心として五本の指が東、北に延びていると見ることができそうである。これを「手」と表現したのではなかろうか。眞手王はその「中央」の覗山山塊西麓、現地名行橋市高瀬辺りに坐していたと推測される。
先ず「息長田別王」は当時唯一「茨田」形成可能な場所として選択したところである。また「杙俣長日子王」は山稜の真っすぐ延びた形状を「棒」としてその根元が二つに分かれて「俣」を示しているところを模したものと思われる。「息長眞若中比賣」はそこに住んでいたと推定した。「比婆須比賣」「若沼毛二俣王」は既述した通りである。丹波国の「州」「沼」が多くある地に住んでいた御子達である。
「息長水依比賣」が産んだ「美知能宇志王」の居場所は「多多須」の支配領域を南北に移動したようである。ただこの王の末裔がこの地に住まうほど決して広くはなく、南部の「州」に移る。その地に垂仁天皇が来て、景行天皇が誕生する。その御子、倭建命の一人の御子が「州」の西側の山麓に住まい、応神天皇が絡む子孫が開拓するがやはり南部の「州」に移る。
ここから意富富杼王が生まれ、継体天皇に繋がっていく。五人の天皇が関係し、日子坐王、倭建命という英雄が登場する。天皇家の草創期に深く関わった一族であったのである。古事記が「息長」の詳細を語らない、のではなく、読み解けていなかった、のである。
次いで息長宿禰王等が登場する場面を図にしてみよう…、
この系統も日子坐王が口火を切る。「山代之大筒木眞若王」「迦邇米雷王」と二世代進んで「丹波之遠津臣之女・名高材比賣」の御子「息長宿禰王」が登場する。この御子が「葛城之高額比賣」を娶って「息長帯比賣」(神功皇后)が誕生し、応神天皇へと繋がる。
応神天皇は倭建命の曾孫「息長眞若中比賣」を娶るわけだから「息長」スパイラルは途切れることなく続いていると言えよう。「息長水依比賣」「遠津高材比賣」が居た場所、現在の行橋市稲童にある奥津神社周辺が息長一族の中心の地であったと推定される。
「葛城之高額比賣」の出自を上図に示した。古事記は実に丁寧に記述する。新羅王の王子、天之日矛の末裔に当たると言う。現在の沓尾山に逃げた「阿加流比賣」に拒絶されて多遲麻国に向かった王子は多くの子孫を残した。既に紐解いたが城井川の上流から河口付近までに分布した子孫、故郷の新羅国に類似した地形は彼らが居つくには全く障害がなかったのだろう<追記>。
その子孫の一人「淸日子」が「當摩」の郎女を娶ることから葛城へと天之日矛の系統が拡散する。そこで誕生したのが「葛城之高額比賣」である。當摩の地の詳細を下図に示すと(詳細はこちら)…、
修験道の山「求菩提山」「福智山」の膝元に位置する地の繋がりは何かを意味しているようでもあるが、不詳である。「淸日子」が居た場所を現在の築上郡築上町寒田としたが、「淸」=「穢れが無い様」とすれば「當麻」に繋がる意味を持つ。日本人、いや日本人を形成した人々の山岳信仰の原点を示しているようでもある。
時代が進んで継体天皇が登場する。「息長」一族を遠祖に持つこの天皇が歴史の表舞台に「息長」を引っ張り出すのである。「息長眞手王」上図に示したように覗山山麓の西側に拠点を持ったと推測された。祓川河口付近の地形的変化もあろうが、徐々に西方へと領域を広めて行ったのだろう。更に敏達天皇もその比賣を娶る。しかしながら天皇を輩出することにはならなかった。時代が変わっていたのである。
「熊曾国」と極めて類似した国と記述しているようである。「阿多」と表現された出雲の近隣(下図参照)、そこは熊曾の人々と同根であったろう。熊曾の中で天皇家に関わった地域だったと推測される。神武天皇との関わりが終わると古事記の中での活動は終わりを告げる。勿論そんなこととは無縁に人々はその地で日々の営みに邁進していたのだが…。
新羅の王子、天之日矛と阿加流比賣の難波之比賣碁曾社(沓尾山麓と比定)の説話を述べ、息長帯比賣との繋がりを書き、新羅凱旋まで記述する。安萬侶くんの伝えたかったことは「息長」一族、それは新羅から渡来した人々であった、ということであろう。彼らが如何に深く天皇家に関わったか、漸くにして紐解けたと思われる。
最後に古事記「息長」検索でヒットする箇所を…
意富富杼王者、三國君、波多君、息長坂君、酒人君、山道君、筑紫之末多君、布勢君等之祖也。
意富富杼王が出雲国で祖となった表記から求めた地名である。出雲の「斗」の国境に隈なく配置されていると紐解いた。この地理的理解を抜きにして行って来た従来の解釈は不毛であろう。写本の誤写に求めるしか残された道は無いようである。それはともかく葦原中国としての重要な国であることを示しているようでもある。
「息長坂」これはその文字通り「深呼吸をする坂」であろう。「都夫良」に向かう長い急坂、筑紫嶋(企救半島)の尾根を越える峠道である。この地から以後「息長」の名前は出現しない。この文字が古事記に頻出することだけに捉われた解釈は余計な混乱を招くのみである。
<追記>
2018.03.02
新羅国の詳細。大国主命の後裔が向かった先である。「阿加流比賣」の故郷「阿具奴摩」も併せて比定した結果も参照願う。洛東江下流域との密接な繋がりを古事記が記述しているのである。
<上図中央の沼(池)>