2017年11月7日火曜日

もう一つの當摩:咩斐 〔121〕

もう一つの當摩:咩斐


前記で現在に繋がる「當麻」は正に修験道の世界を示していると紐解いた。それは現在の福智山山塊を修験場とし、山麓に広がる地域であった。英彦山を中心とした古代の修験を示したものとして貴重な記録かと思われる。

その世界と現実の世界とに境があるわけでもなく俗世間の営みをも包含した場所であったろう。そんな思いでみると、やはり古事記は書き残していた。前記「新羅の王子:天之日矛の子孫」に現れる「當摩之咩斐」である。

古事記原文…

故更還泊多遲摩國、卽留其國而、娶多遲摩之俣尾之女・名前津見、生子、多遲摩母呂須玖。此之子、多遲摩斐泥、此之子、多遲摩比那良岐、此之子、多遲麻毛理、次多遲摩比多訶、次淸日子。三柱。此淸日子、娶當摩之咩斐、生子、酢鹿之諸男、次妹菅竈上由良度美。

當摩之咩斐」は天之日矛から五世代目の淸日子が娶った比賣であろう。天之日矛の子孫には命、比賣が付かず、である。名前であるが、例によって地名を示していることには変わりはないと思われる。それから紐解いてみよう。

少しおさらいになるが…、

あれこれと考えて落着いたのは「麻」の文字の解釈であった。上記したように「麻」は「摩」を略したものである。ならば他にも置換えることが可能と思い付いた。

當麻=當(向かい合う)・魔(人を惑わすもの)

修験者及びその場のことを意味していると紐解ける。抜粋で申し訳なしだが「二上山の東麓は当時、役行者さまの私領でした。役行者さまは大和の修験者ですが、その最初の修行地が當麻だったのです」の由緒が當麻寺のサイトに載せてある。




日子坐王が山代の苅幡戸辨を娶って産まれた小俣王は「當麻勾君之祖」と記述される。

當麻勾=當(向かい合う)|魔(人を迷わすもの)|勾(勹の字に曲がった地形)

と解釈すると、

修験場の傍らにある勹の字の地

と紐解ける。現地名直方市上境にある水町池を囲む山稜である。福智山・鷹取山の裾野に当たる。當摩と勾で漸くしてその地を特定することができる。葛城の玉手岡に類する表現と解釈される。共に福智山から延びる稜線が作る特異な地形を象形したものと思われる。

では當摩之咩斐」は何処であろうか?…「咩」=「メエー:羊の鳴き声」と辞書にあるが、咩」=「口+羊」と分解することができるであろう。羊の口の形を象形したのである。

咩斐=咩(羊の口)|斐(挟まれた隙間)

と紐解ける。上図の水町池の東端、おそらくは当時の池は現在よりも小さく、羊の舌先の地も広がっていたであろう。現地名は直方市上境である。

長男、次男には「多遲摩」が付くが淸日子」は少し気色の異なる名前である。「淸」=「清める、心や行いに穢れがない」とされる。「當麻」と通じるものではなかろうか。ならば既にこの地に移り住んでいたとも考えられる。委細は憶測の域を脱せないが「養子」のような制度があったのかもしれない。

さて、當摩之咩斐は「酢鹿之諸男、次妹菅竈上由良度美」の二人を誕生させる。どんな意味を含めているのか紐解いてみよう。「酢鹿」とは?…「酢」=「酒を皿に作って、「す」にする」とある。「酒」がキーワード…上記の水町池は「酒折池」であった。「酒=坂」である。「酢」=「酒(坂)+乍(たちまち、直に)」とすると…

酢鹿=酢(短い坂で直ぐに)|鹿(麓:ふもと)

の地形象形ではなかろうか。「諸男」=「守男」でその地を守護する人を意味すると思われる。上図の水町池に至る二つの坂道、それを取り締まっていたと解釈される。

菅竈上由良度美」は何と解く?…「菅」=「酢鹿」上記の水町池に向かう坂であろう。「竈」は何を示すのであろうか?…竈の形をした山、丘と紐解くと「羊の舌」が該当するのではなかろうか。二つの坂に挟まれた小高い丘を「菅竈」と表現したと推定される。

釡の上方の蒸気が立つようにユラユラとした態度(様子)が美しい…かなり安萬侶くんの戯れの領域に立入るが、どうであろうか?…嫋やかな姿の表現と解いたが・・・。その血筋が葛城の高額比賣命に受け継がれ、更に息長帯比賣命に・・・ちょっとイメージが違うかも?…當麻の血が流れて行ったことは間違いないようである。 


開化天皇紀に日子坐王の子孫が旦波国、多遲摩国などに広がっていく様が語られている。小俣王もその一人で「當摩」に移る。実に盛んな交流である。いずれまた整理をしてみようかと思う。當摩の地「勾」と「咩斐」の二つの修飾語でその比定を確信するに至った。