2017年9月26日火曜日

當麻の意味 〔102〕

當麻の意味


この言葉に出会ったのが、履中天皇紀、徳天皇崩御の後の兄弟による跡目争いの説話であった。本ブログの全く初期である。遥かなる遠い昔…なんてことを書くつもりはなく、そこで出くわしたのが當岐麻道」であった。「當麻」と「當岐麻」は異なるのであるが、通説は「當麻路(タギマジ)」とするのである。

次男の墨江中王に焼き出されて逃げた道に當岐麻道」が出てくる。難波宮近辺から倭へ逃げる際に通る道である。通説は「当麻寺」の近くを走る難波との通行に使われた「竹ノ内街道」がそれに該当するとして解釈されている。暇が取り柄の老いぼれ、絶体絶命のピンチを迎えたのである。

三報ぐらい書いてブログも閉鎖になるか・・・なんて思っていた時に気付いたのは、やはり説話の流れであった。履中天皇達が逃げる時に地元の女性に教えて貰ったのが、この「當岐麻道」である。「竹ノ内街道」のような大街道を教えて貰う必要はない筈と思われた。

「當岐麻道」の「岐」を省略すれば確かにピッタシの「當麻道」になるが、やはりおかしいのである。漢字との格闘、これから始まり今日に至る。「岐」を省略せずに何と解釈するか?…


と紐解いた。道の分岐が消えかかっている、よくわからない道だから地元の女性に教えて貰ったのである。そして、追手から逃れることができたと古事記は伝えている。大街道なんて解釈しては逃亡中の彼らの状況は全く伝わらず、まるで行幸のようなものになってしまうのではないだろうか。

こんな背景を持ちながら今日まで多くの文字を紐解いてきた。言えることは文字の省略など勝手な解釈は禁則である。古事記に記載されている文字そのものを解釈するべきであることを示してきた。今後も変わらぬ「ルール」である。

余談だが、天皇、大助かり、喜んで歌を詠われた。その中の文字が「當藝麻知(袁能流)」であった。これを「當()麻道(袁能流)」として全く同意と解釈してきたようであるが、これでは天皇さんの歌の実力、才能なし、である。結果を示せば「弾碁待ちを宣する」と解釈することができた。要は弾碁という遊戯に掛けた歌であった。

そんな日々が過ぎて、ふと思うと「當麻」の意味を解いていなかったことに気付いた。古事記に「當麻勾」という地名が出てたこともあるが、由緒ある當麻寺の名前でもある。逆に當麻寺の謂れなどがヒントになる可能性もある。いろいろ考えてみたが、やはり直接紐解くのが正解であろうと腹を括って挑んだが・・・。

落着いたのは「麻」の文字の解釈であった。上記したように「麻」は「摩」を略したものである。ならば他にも置換えることが可能と思い付いた。

當麻=當(向かい合う)・魔(人を惑わすもの)

修験者及びその場のことを意味していると紐解ける。抜粋で申し訳なしだが「二上山の東麓は当時、役行者さまの私領でした。役行者さまは大和の修験者ですが、その最初の修行地が當麻だったのです」の由緒が當麻寺のサイトに載せてある。

「當麻勾」の在処(九州福智山西麓)については、「古事記新釈」の開化天皇の項を参照願う。通釈なんて無謀な試みに突入したが、なんとも骨が折れる作業になってしまった。が、ボチボチと積み重ねて行こうかと思う。また一つ肩の荷が降りた気分である。