2017年3月15日水曜日

當岐麻道は何処?〔010〕

當岐麻道は何処?

前記二つの飛鳥で記載した履中天皇が焼き出されて逃亡する時に出会った「一女人」とのやりとりの中に「當岐麻道」という言葉がある。

要するにメインルートは敵がいるからサブルートで行け、と言われたという、何故この話題が挿入されているのか、いや、古事記にはこの類が多いから取るに足らないもの、なんて思ってしまうところ。また、これに天皇の歌までついて、それがこの上もなく他愛無い、娘の言葉の繰返し。

通説ではメインルートである「穴虫峠」ではなく南方にある「竹之内峠」越えとされ、大きく迂回して石上神宮に到着というシナリオとされている。「當岐麻道」は現在の「竹内街道」に比定されているようである。日本書紀もこの部分はほぼ同じ表現であり「當岐麻道」=「当麻()徑」となっている。

神話の世界を描く古事記、人代の表記も同じ、他愛なく幼稚な記述だ…そうであろうか? 前記した二つの飛鳥の『隼人・曾婆訶理』、万葉集の柿本人麻呂『川楊』のようにほぼ同じ時代に生きた作者達の言葉を、さらりと読み流してしまっては、もったいないのである。彼らの伝えたかったことをもっと真剣に読み解すことであろう。

古事記原文は…

故、到幸大坂山口之時、遇一女人、其女人白之「持兵人等、多塞茲山。自當岐麻道、廻應越幸。」爾天皇歌曰、

淤富佐迦邇 阿布夜袁登賣袁 美知斗閇婆 多陀邇波能良受 當藝麻知袁能流

故、上幸坐石上神宮也。

通訳は…
大坂で逢あつた孃子(おとめ)。道を問えば眞直(まつすぐ)にとはいわないで當麻路(たぎまじ)を教えた。

履中天皇、全く「才能なし」、次回からの出演はお断り、かもです。途轍もなく優秀な太安万侶のフィルターもある。そんな状況の中でこの解釈で良いのだろうか? 極めて素朴な疑問である。

多陀邇波能良受 當藝麻知袁能流

に注目する。

多陀邇波能良受」は通訳のように「多陀邇波」=「直には」であろう。やはり次の「能良受」が解釈のポイントである。「能良受」=「告()らず」=「乗()らず」である。「乗る」=「調子づく、勢いがつく」の意味である。

多陀邇波能良受」=「直(タダ)ちには乗()らず」=「すぐには勢いづかず」

と解釈できる。

「當藝麻知」=「當岐麻道」と解釈したのが通訳である。が、この短い文の中で、同じ文字数の句に変えるのは隠された意味がある。例によって文字の区切りを変えてみる。「當藝麻知」=「當藝麻・知」(通訳)=「當藝・麻知」としてみる。

弾碁とは?


「當藝」とは何であろうか? ネット検索すると容易に次のことが見出された。「當藝(タギ)」=「弾碁(タギ)現在ではほとんど忘れ去られた「遊戯」であるが中国の漢時代に始められて流行ったものという。源氏物語にも記載があり、専用の盤があって当時の大宮人には良く知られたものであったという。

数年前韓国で大流行した「アルカギ」に類似?との記載もあるが、用いる碁盤の形状が異なるようである。記載された「遊戯」から想像すると、四角い盤上に中央が盛り上がったところ()があり、それを挟んで相手方に置かれた碁石めがけて自分の碁石を弾く、「弾いて当てる遊戯」である。

當岐」=「當藝」と置換えられている。まさに石当て遊戯を表している。逆に當岐」は何かの意味を表しているのではなかろうか? 日本書紀では「当麻()徑」に置換えられているが、「岐」が省略されている。後程纏めて述べる。

麻知」=「待ち」と思われる。通してみると「當藝麻知」=「當藝・麻知」=「弾碁待ち」=「石当て遊戯(の開始)待ち」ということになる。

當藝麻知袁能流=當藝・麻知袁・能流=弾碁待ちを宣()
(宣告する=みだりに言うべきでないことを表明する)

多陀邇波能良受 當藝麻知袁能流=すぐには勢いづかず弾碁待ちを宣する

「弾碁」に寓意された「戦闘」は正にこの事件の地理的状況を表している。大坂山を挟んでの攻防である。また難波宮と石上神宮の置かれた状況を示していると思われる。両方とも決して大坂山山塊から離れた距離にはないことが伺える。

「能」=「告」=「乗」=「宣」に掛けている。いや、だからこそ「能」という字を用いたのであろう。それを解釈しなければ歌の真意は読み取れないのである。

さて、地の文にある「
當岐麻道」をあらためて見返してみよう。前半部「當岐」で、歌は「藝」とした。「岐」に意味がある。「岐」=「分岐」と解すれば「當岐」=「分岐(する)に当たって」となる。「麻」=「摩」とすれば「麻道」=「摩道」=「消えかかった道」と解釈される。

當岐麻道=分岐路が消えかかった道=分岐が判りづらい道

ということになろう。記述に登場する地元の一女人」の必然的出番である。そして待伏せする敵には知られていない道であることを伝えている。だから履中天皇は生き延びることができた、そうである。

…偶々()出会った女人から地元人以外にはわからない迂回の脇道を教えられて命拾いをした。そうだ、今は怒りに任せての復讐を急がず、しっかり準備して弾碁のように狙いを絞って戦ってやろう…

ちょっと「乗り」で訳してますが…履中天皇の心中、その歌の伝えるところはこんな感じではなかろうか。そして用いた「弾碁」の石は「水齒別命」と「曾婆訶理」、放った石は一発必中であった。二つの飛鳥の物語、ギャング映画のごとき内容ながら伝えることは豊かである。

當岐麻道」は固有の地名ではなかった。いや、固有の名詞になるわけがないのである。なぜなら分岐路としては判り辛く名も無いのだから。

日本書紀は「当麻()徑」と表記する。最も重要な「岐」を「禊祓」したのである。そして固有の地名として「竹内街道」を示すかのごとくにしたのである。日本書紀の編者が「禊祓」したところに真実が隠されている、またもそれが曝されたのである。「竹内街道」もどうも怪しい名前のようだが・・・。

最後に…とは言うものの、當岐麻道」って何処? そう思うのは人の子である。わからないのが現状。敢えて試みれば・・・今日のところは、止めておきましょう。難波宮は何処?

…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。