2017年3月16日木曜日

柿本人麻呂の『吾跡川楊』〔011〕

柿本人麻呂*の『吾跡川楊』


ブログを整理していると、やはり人麻呂君の歌に引っ掛かってしまった。歌の奥の深さをあらためて思い知らされた。少々被るが今一度纏めてみる。何と言っても下記の歌である。

・柿本人麻呂(7-1293)
丸雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅亦生云 余跡川楊
(霰降り 遠つ淡海の吾跡川楊 刈れどもまたも生ふといふ 吾跡川楊)

丸・雪降 遠江 吾・跡・川楊 雖苅・亦・生云 余・跡・川楊

と区切って…

のように遠江 した川楊 雖苅 亦 生云 るよした川楊

歌意を以下のように訳した…

人が空から舞い落ちて来るように集まる遠江に私が残した川楊は刈れどもまたも生ふという、ならば余るほどに川楊を残していこう

「川楊」=「人麻呂の詠った歌」として・・・

…多くの人々が雪の降るように集まってきた遠江、日々時代が移り変わる中で詠ってきた歌、その変化の速さに消えてしまいそうだが、余りある程に詠っていこう…

人麻呂の「遠江」の解釈に彼の身近なところとして豊前(京都)平野の周防灘開口部(入江)を中心に考えたが、その後の考察で以下のことがわかった。

・「淡海」=「玄界灘、響灘」、「近淡海」=「周防灘」を示す。
・「志賀之高穴穂宮」=「平尾台東南麓」(福岡県行橋市)、「志賀」=「之江」
・日本書紀(仁徳天皇紀) 「遠江国」=「福岡県宗像市周辺」(遠賀川左岸~古賀市)

豊前(京都)平野は「近」であり、「志賀」であって「遠江」及び「遠賀」共に合致しないことを示している。日本書紀の記載を信じれば、人麻呂の「遠江」は上記の「遠江国」周辺と解釈するのが適切と思われる。とすると、一歩踏み込んだ解釈が真実味を帯びてくるようである。

…私が詠った歌の中の「丸」、現れては消え、また現れる、まるで雪のよう、そんな激しい時代の流れに私の「川楊のような歌」の中だけでも「丸」を「跡」していこう…

と、そんな人麻呂の気持ちが伝わってくる。「遠江」に「天」から多くの渡来があった。その度に「国譲り」「禊祓」が繰り返された。非情な時の流れを暗示しているのかもしれない。繋がらないのはその大和朝廷成立前である。

「遠江国」その領域を確定することは不可であるが、間違いなく博多湾岸に注ぐ那珂川、御笠川と遠賀川に挟まれた「淡海」に面する土地は多くの渡来人を受け入れ、内陸に拡がりながら古代の国を作り、大和朝廷に繋がった、と理解できる。

願わくは、未来のボケた頭の日本人にもわかるように詠って欲しかった、人麻呂君。君の立場も命懸けで抵抗したことも、わかっているつもりですが・・・。また、君の「川楊」読ませて貰うが、教えて下さい。


柿本人麻呂*
「柿本」の由来は何であろうか?…ほぼ間違いなく現在地名「柿下」であろう。「柿」は消すに消せない重要なキーワードなのであろう。


図は別表示で拡大願いたいが、「柿」=「木+市」=「山稜が市」尾根と山稜が作る地形が「市」を模していると見做したのであろう。

柿本(下)=山稜が作る市の字形の麓

現在に繋がる地名由来であるが、果たして納得頂けるであろうか・・・。