2017年11月13日月曜日

再びの難波之高津宮 〔122〕

再びの難波之高津宮


古事記が描く壮大な物語りの舞台が何処にあったか、それを示す重要なキーワードの一つ「難波之高津宮」がある。あからさまに語られない故に様々な憶測が生まれて来た。本ブログも九州豊前平野を見下ろす御所ヶ岳・馬ヶ岳山塊の北麓辺りとして読み下して来たが、そろそろその詳細を述べる時になったように感じる。

既に記述したものも含めて纏めると、また何か新しい発見があるかもしれない…と期待しつつ・・・。

古事記原文…大雀命、坐難波之高津宮、治天下也。

先の応神天皇は「軽嶋之明宮」に坐した。師木の西方に当たり、彦山川と中元寺川が合流する地域の開拓を目指したのであろう。現在も残る広大な水田地帯であることが伺える。紆余曲折があったものの皇位を引継いだ大雀命は迷うことなく東方を目指したのである。彼らにとって残された唯一と言って良い地である近淡海国の広大な平野を開拓することであった。


神武天皇から始まる天皇一家の遷宮は明確な目的・意味を示していると解釈した。第二代から九代の天皇の諡号が意味するところは極めて重要な天皇家の戦略を表現しているのである。大雀命の難波への進出はその戦略の最終段階であったと思われる。

さて、大雀命が坐した「難波之高津宮」の詳細を紐解いてみよう。いつもことながら「ここです!」とは教えてくれない。この宮が登場する二つの説話にその場所の情報が潜められていることは想像が付くのであるが、そうは簡単には読み解けない。大阪難波も含めて諸説入り混じった状態が今も継続中である。

関連する説話を纏めてみると…


・嫉妬で血が上った(実際は冷静な后であることが判る)石之日賣命大后が木国から帰りに宮には戻らず脇を通り抜けて実家に帰ろうとする場面。結局は戻らず知人の家に落着くという話。脇を通り抜ける時の大后が詠う言葉が注目される。詳細はこちら


・仁徳天皇亡き後の跡目相続争いで墨江之中津王が仕掛けた放火事件の際、伊邪本和氣命(後の履中天皇)が事件を察知して逃亡しながら詠う言葉が注目される。詳細はこちら


いずにしても極めて間接的であり、大后と長男の挙動をしっかりと解析しない限りその粗々の場所さえ見失ってしまい兼ねない有様である。初見で行ったこれらの解析を思い出しながら、あらためて纏め直してみよう。当然、高津宮の「高津」これは重要なヒントであるし、これに合致しない場所は除外される。



石之日賣命大后

吉備の「黒日売」との密会が終わったかと思うと、自分がいない間に、なんと宮に女を連れ込んで日夜…なんてヒドイひと、許せません、あんたのお仕事のためにわざわざ出掛けて取って来たのに…大事なものをかなぐり捨てて、実家へ・・・その行程記述が始まる。

古事記原文[通訳(武田祐吉)は…

於是大后大恨怒、載其御船之御綱柏者、悉投棄於海、故號其地謂御津前也。卽不入坐宮而、引避其御船、泝於堀江、隨河而上幸山代。此時歌曰、
[そこで皇后樣が非常に恨み、お怒りになつて、御船に載せた柏かしわの葉を悉く海に投げ棄てられました。それで其處を御津の埼と言うのです。そうして皇居におはいりにならないで、船を曲げて堀江に溯らせて、河のままに山城に上っておいでになりました。この時にお歌いになつた歌は、]

行程の第一歩、大切です。「引避其御船」=「船を曲げて」と解釈されている。「引避」=「後ろに向かって避ける」であろう。Uターンしたのである。しかも「皇居」はかなり近いところにある。見えるところと言ってもいいかもしれない状況である。通訳が「曲げる」としたこと、これは極めて重要な意味を持つ。

難波之堀江」後に事績の中で述べることになるが、河川の蛇行が激しく、氾濫を繰り返した場所の大港湾整備事業と推察される。縄文海進の退行と沖積の進行で船舶の通行が難しくなってきたのであろう。下流域、特に河口付近の平野部の土地開発に手を付け始めた記録として貴重なものと思われる。

都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 迦波能煩理 和賀能煩禮婆 迦波能倍邇 淤斐陀弖流 佐斯夫袁 佐斯夫能紀 斯賀斯多邇 淤斐陀弖流 波毘呂 由都麻都婆岐 斯賀波那能 弖理伊麻斯 芝賀波能 比呂理伊麻須波 淤富岐美呂迦母
[山また山の山城川を上流へとわたしが溯れば、河のほとりに生い立つているサシブの木、 そのサシブの木のその下に生い立つている葉の廣い椿の大樹、その椿の花のように輝いており その椿の葉のように廣らかにおいでになるわが陛下です]

「堀江」から「夜麻志呂賀波」=「山代(背)川」=「山の背(うしろ)を流れる川」に入ると述べる。これが行程の第一段階。既に登場の木国から難波津に戻って来たのだから船旅で「南方」から帰途する際に起った事件であることが判る。となると、上記の「Uターン」のような表現に合致する。

通説は「南」から難波津で東北方向に「曲がった」と言う。淀川沿いに進めばその通りである。「車線変更」であり、「右折」でもない。ましてや「山城」に向かうなら「Uターン」して何処に行く?…である。通説の木国、難波津、山代、葛城の四地点の位置関係に誤謬があるのは明らかであろう。

「后」の船は難波津(御津)で左方向「Uターン」し、「山代川」の先にある堀江に入った。そして前方に見える「御所宮」を見て詠った。紛うことなく「山代川」=「犀川(今川[])」である。今川から御所ヶ谷神籠石跡及びその麓まで、直線距離で2~3kmである。

「避」けるようにすり抜けて、御所ヶ岳山塊の「背後を流れる川」を遡った。詠われた場所及びその内容からして「宮」の場所は御所ヶ岳山塊の北麓にあったことを示唆していると思われる。


芝賀波能 比呂理伊麻須波 淤富岐美呂迦母
=その(椿の)葉が広がっているのは大君の呂(露台:宮殿の屋根のない所)かも

と解釈される。山代川に浮かぶ船上から高津宮を眺めながら椿が茂る場所を示していると思われる。宮殿の在処を知らない筈のない大后である。離れて見る椿の咲くところは「呂」と表現している。

この歌の持つ現実感が漸くにして紐解けたようである。今川(山代川)を遡りながら前方に見える光景から「難波之高津宮」は御所ヶ岳山塊北麓以外にはあり得ないと結論付けられる。

卽自山代廻、到坐那良山口歌曰、
都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 美夜能煩理 和賀能煩禮婆 阿袁邇余志 那良袁須疑 袁陀弖 夜麻登袁須疑 和賀美賀本斯久邇波 迦豆良紀多迦美夜 和藝幣能阿多理
[それから山城から廻って、奈良の山口においでになつてお歌いになつた歌、
山また山の山城川を御殿の方へとわたしが溯れば、うるわしの奈良山を過ぎ 青山の圍んでいる大和を過ぎわたしの見たいと思う處は、葛城の高臺の御殿、 故郷の家のあたりです]

「山口」=「那良山口」=「平山口」である。彦山川と中元寺川に挟まれる「平原」である。現在の赤村辺りで犀川が大きく曲がる所で下船したのであろう。続くは、枕詞「あおによし」、現在の「田川市奈良」を素通りし、枕詞「小楯」=「青山の囲んでいる」そうでしょう…「倭」=「田川市香春町周辺」を横目で見て、特に「山口」もなく進めば「我が故郷」、と詠っておられる。

大后の父親は建内宿禰の子、葛城長江曾都毘古である。彼が居た場所は「葛城の玉手」現在の田川郡福智町常福辺りと比定した。
「我が故郷」の「葛城高台御殿」は玉手の岡と呼ばれた高台にあったと推定される。上記の歌は「那良山口」から眺めた景色を写実していると思われる。

大后は歌を詠った後、また「Uターン」して筒木韓人の奴理能美の家に入ると述べている。山代の大筒木にあったと推定される。現在の京都郡みやこ町犀川木山辺りである。行ったり来たりの行動で大后の心の内を表現したのであろうか・・・。


纏めて図示すると(参考:通訳ルート)


<参考>

伊邪本和氣命(履中天皇)

もう一つの説話、伊邪本和氣命が命辛々の逃亡劇に関する。

本坐難波宮之時、坐大嘗而爲豐明之時、於大御酒宇良宜而大御寢也。爾其弟墨江中王、欲取天皇、以火著大殿。於是、倭漢直之祖・阿知直、盜出而乘御馬令幸於倭。故到于多遲比野而寤、詔「此間者何處。」爾阿知直白「墨江中王、火著大殿。故率逃於倭。」爾天皇歌曰、
多遲比怒邇 泥牟登斯理勢婆 多都碁母母 母知弖許麻志母能 泥牟登斯理勢婆
到於波邇賦坂、望見難波宮、其火猶炳。爾天皇亦歌曰、

波邇布邪迦 和賀多知美禮婆 迦藝漏肥能 毛由流伊幣牟良 都麻賀伊幣能阿多
[はじめ難波の宮においでになった時に、大嘗の祭を遊ばされて、御酒にお浮かれになて、お寢
なさいました。ここにスミノエノナカツ王が惡い心を起して、大殿に火をつけました。この時に大和のの直の祖先のアチの直が、天皇をひそかに盜み出して、お馬にお乘せ申し上げて大和にお連れ申し上げました。そこで河内のタヂヒ野においでになて、目がお寤めになて「此處は何處だ」と仰せられましたから、アチの直が申しますには、「スミノエノナカツ王が大殿に火をつけましたのでお連れ申して大和に逃げて行くのです」と申しました。そこで天皇がお歌いになた御歌、 
タヂヒ野で寢ようと知たなら屏風をも持て來たものを。寢ようと知たなら。 
 ハニフ坂においでになて、難波の宮を遠望なさいましたところ、火がまだ燃えておりました。そこでお歌いになた御歌、 
ハニフ坂にわたしが立て見れば、盛んに燃える家々は妻が家のあたりだ]

墨江中王の策略に嵌りかけた伊邪本和氣命が部下の機転で逃げ延びようとした時の説話である。この中で最も重要な言葉は歌中に含まれている。「迦藝漏肥=カゲロヒ=曙光」である。陽炎と訳されるが(武田氏は「盛んに」である)、「毛由流=燃ゆる」に掛かる言葉として、東の空に見える明け方の光の赤々とした情景の描写と解釈される。

ならば、伊邪本和氣命一党は「西に逃げた」と推測される。既に解読したように「多遲比野」を経て「波邇賦坂」に至り、そこで詠んだ歌である。下図に示すように難波之高津宮を御所ヶ岳北麓に置いたとしてその位置を示すと見事に当て嵌まる場所を示すことができる。

多遲比野」=「田が治水されて並べられた野」波邇賦坂」<追記❶>=「埴生坂」垂仁天皇紀で述べた山代大國之淵之女・苅羽田刀辨の苅羽田」=「草を刈った埴田」に通じる道である。<追記❷>では、「高津宮」の在処は何処であろうか?…


高津=高い所にある津(川の合流地)

現在の御所ヶ谷住吉池公園の近隣にある住吉神社辺り(図中+上の⛩)と推定される。漸くにして辿り着いた宮の場所、墨江中王によって放火されたところであり、後代の天皇達もここに宮を造ることはなかったようである。近淡海国に広がる平野を眺めながら国の繁栄に努めた天皇であった。

纏めて図示すると下記のようになる。峠から燃え上がる家々までの距離は約1.5km、十分に目視できる距離と思われる。



途中でも述べたように従来よりの解釈では上記の説話の理解は不可能である。方位もさることながら実距離としての現実味が浮かんで来ない。地名ありきで古事記を解釈して来たのが実態であろう。あたかも地図の概念の欠片もないような、いやあったがその理解が不能な後代の人々が様々な古書から引っ張り出して地名比定を行ったことから抜け出せていないのが現状と理解すべきであろう・・・。

…全体を通しては「古事記新釈」の仁徳天皇【后・子】を参照願う


<追記>

❶2017.11.26 「蝮の反正天皇 〔129〕」より抜粋。


波邇賦坂

「多治比之柴垣宮」の在処が解けたからこそ辿り着いた納得の解釈、そんな大袈裟なものではないが、本当のところ、かもである。「波邇」=「波(端)|邇(近隣)」を意味することまでは容易であったが、何?の端、近隣かが不詳であった。これでは解けない・・・「何?」は「多治比之柴垣宮」と気付いた。また…、

賦=貝(財)+武(武器)

…財(必要なもの)と武器を持って戦いに行く時を表した文字と解釈される。古事記のこの段の徹底した「説文解字」に準じると…ならば「波邇賦坂」は…、

波邇賦坂=柴垣宮の傍近くで戦闘に向かう時の坂

と紐解くことができる。勿論この時は真面に戦う気持ちであった筈で「弾碁」戦法に気付くのはこの坂を下りてからである。曙光を見て愕然としメラメラと湧き上がって来る怒りを抑えて大坂山口で出会った女人の言葉で初めて気付く戦法であったと古事記は記述する。

全てが生き生きと蘇って来る。そのドラマチックな記述を読取れなかったのを後代の識者の所為にばかりできないであろう。漢字というものの原点、というか使う漢字を自由に分解して、古代であっても、通常の解釈に拘泥することなく文字が伝える意味を作り上げていく、驚嘆の文字使いである。間違いなく…、

古事記は世界に誇るべき史書

であることを確信した。

❷2017.12.06
古事記は「苅+羽田」ではなく「苅羽+田」という文字区切りをしていると判った。文字解釈の根本からの見直しである。では「苅羽田」とは?…、


苅羽・田=苅(刈取る)|羽(羽の形状)・田

「羽の形をした地の一部を刈(切)り取った」ところを意味すると紐解ける。現在の犀川大村及び谷口が含まれる丘陵地帯を「羽のような地形」と表現したものと思われる。苅羽田」は羽の端に当たる現在の犀川谷口辺りと推定される。既に比定した場所そのものに大きな狂いはない。

また意祁王・袁祁王の二人が逃亡する際に登場する「苅羽井」は何と紐解けるであろうか?…


苅羽・井=苅(刈取る)|羽(羽の形状)・井(井形の水源)

…「羽の形をした地の端を切り取った四角い池(沼)」と解釈される。現在の犀川谷口大無田の近隣にある池を示していると思われる。




思い起こせば「苅+羽田」=「草を刈取った埴田」では埴田は草を刈取ってあるのは当然で、何とも釈然としない解釈と思われる。古事記はこのような無意味な修飾語を使わない。より明確に場所を示していたと漸くにして気付かされた。