仁徳天皇:難波高津宮
判り易いようでなかなか正体を見せないこの宮「難波高津宮」、それでも何とか迫りたい、そんなところである。やはり古事記仁徳紀を丁寧に読み解すことからであろう。
古事記を開くとなかなかの分量で、きっと手掛かりが、なんて錯覚しそうだが、通訳を見ると情けなくなるような記述。仁徳さんが若い女の子に手を出すものだから古女房が嫉妬の塊、挙句の果てに実家に遁ずらしてしまうような話を延々と、である。解説文など、なんでこんな話を入れるか、理解に苦しむ、とか、例によってどこかから引っ張ってきた逸話、など惨めなものである。
そうかも、と思いながら、丁寧に、あの安万侶君の気持ちを忖度しながら読み始めることに。どうやら大きく分けると、「三年免税」の話に続いて、①吉備姫との密会 ②怒りの后遁走 ③懲りない仁徳 ④あっぱれ仁徳 のような感じである。
いやいや、仁徳天皇こそ国造りに必要なことを「身を挺して」成し上げた偉大な天皇と歌い上げてる、と解釈される。国を作った偉人をその女好きを比喩にして書き上げる、こんな「歴史書」あるのだろうか…暇が取り柄の老いぼれのごとき浅学には知り得ない“感動の物語”である。
それでやはり「難波高津宮」が本題なので、②から解き解してみようかと思う。「后=石之日売命」の実家への遁走記である。
吉備の「黒日売」との密会が終わったかと思うと、自分がいない間に、なんと宮に女を連れ込んで日夜…なんてヒドイひと、許せません、あんたのお仕事のためにわざわざ出掛けて取って来たのに…大事なものをかなぐり捨てて、実家へ・・・その行程記述が始まる。
古事記原文[通訳(武田祐吉)]は…
於是大后大恨怒、載其御船之御綱柏者、悉投棄於海、故號其地謂御津前也。卽不入坐宮而、引避其御船、泝於堀江、隨河而上幸山代。此時歌曰、
[そこで皇后樣が非常に恨み、お怒りになつて、御船に載せた柏かしわの葉を悉く海に投げ棄てられました。それで其處を御津の埼と言うのです。そうして皇居におはいりにならないで、船を曲げて堀江に溯らせて、河のままに山城に上っておいでになりました。この時にお歌いになつた歌は、]
行程の第一歩、大切です。どっちに向かったのか?「二つの飛鳥」です。「引避其御船」=「船を曲げて」と解釈されている。「引避」=「後ろに向かって避ける」であろう。Uターンしたのである。しかも「皇居」はかなり近いところにある。見えるところと言ってもいいかもしれない、そんな状況である。通訳が「曲げる」としたこと、これは極めて重要な意味を持つ。
「堀江」茨田堤の堀江が近接である。河川の蛇行が激しく、氾濫を繰り返した場所である。複数の河川による「之江」の場所である。
都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 迦波能煩理 和賀能煩禮婆 迦波能倍邇 淤斐陀弖流 佐斯夫袁 佐斯夫能紀 斯賀斯多邇 淤斐陀弖流 波毘呂 由都麻都婆岐 斯賀波那能 弖理伊麻斯 芝賀波能 比呂理伊麻須波 淤富岐美呂迦母
[山また山の山城川を上流へとわたしが溯れば、河のほとりに生い立つているサシブの木、 そのサシブの木のその下に生い立つている葉の廣い椿の大樹、その椿の花のように輝いており
その椿の葉のように廣らかにおいでになるわが陛下です]
「夜麻志呂賀波」=「山城川」=「淀川(現)」としているが、「夜麻志呂賀波」=「山背川」=「山の背(うしろ)を流れる川」とすると行程の第一段階が見えてくる。
詳細に入る前に「難波津は豊前平野にあった(豊前難波津)」と最初に唱えられた大芝英雄氏に敬意を表し、氏が2001年に九州古代史の会で報告された内容の一部がこれから記述するものに該当する。氏の根拠は書物等で確認頂きたいが、重要なのは、「后」がどの方向から帰って来たのか、「御綱柏」の入手先は何処であったかは大芝氏、福永晋三氏などの記述(毛[木]の国[現豊前市辺り])に従うものである。
結果的には大阪難波津と同じく、船旅で「南方」から帰途する際に起った事件である。通説は「南」から難波津で東北方向に「曲がった」と言う。淀川沿いに進めばその通りである。「車線変更」であり、「右折」でもない。ましてや「山城」に向かうなら「Uターン」して何処に行く、である。
「山城」が経由地だから致し方ないのであろう、「葛城」が目的地なら、「Uターン」ならずとも「右折」が最短距離であろう。この「山城」経由は致命的である。この短い行程記事の通説解釈が根底から揺らぐのである。
「后」の船は難波津(三(御)津)で左方向「Uターン」し、「山背川」の堀江に入った。そして前方に見える「御所宮」を見て詠った。紛うことなく「山背川」=「犀川(今川[現])」である。今川から御所ヶ谷神籠石跡及びその麓まで、最短だと直線距離で2~3kmである。「避」けるようにすり抜けて、御所ヶ岳山塊の「背後を流れる川」を遡ったのである。
古事記は「山城」という地名を記述しない。「山背川」という「川」である。では、何故「山城川」としなければならなかったのか? 「山城」を読み手に植え付けようとしたのか?
理由は簡単である、後ほど詳細に述べるように、「大和川」などを遡っては、駄目なのである。それでは、先に葛城に着いてしまうからである。西から大阪難波津→葛城→倭(後の遠飛鳥)である。大きく北からの迂回ルートを描く必要があったのである。先に進もう。
卽自山代廻、到坐那良山口歌曰、
都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 美夜能煩理 和賀能煩禮婆 阿袁邇余志 那良袁須疑 袁陀弖 夜麻登袁須疑 和賀美賀本斯久邇波 迦豆良紀多迦美夜 和藝幣能阿多理
[それから山城から廻って、奈良の山口においでになつてお歌いになつた歌、
山また山の山城川を御殿の方へとわたしが溯れば、うるわしの奈良山を過ぎ 青山の圍んでいる大和を過ぎわたしの見たいと思う處は、葛城の高臺の御殿、
故郷の家のあたりです]
出ました「山口」=「那良山口」=「平山口」である。彦山川と中元寺川に挟まれる「平原」である。現在の赤村辺りで犀川が大きく曲がる所で下船したのであろう。続くは、枕詞「あおによし」、現在の「田川市奈良」を素通りし、枕詞「小楯」=「青山の囲んでいる」そうでしょう…「倭」=「田川市香春町周辺」を横目で見て、特に「山口」もなく進めば「我が故郷」、と詠っておられる。
葛城高台御殿
それらしき所は「葛城高台御殿」=「筑豊緑地(現)」近くには「鹿毛馬神籠石跡」もある。「我が故郷」はこの辺りと思われる。彼女の父親「葛城襲津彦」武内宿禰の子、朝鮮外交の伝説あり。古事記の作者は「葛城」の場所を教えたかったのである。「后」の追跡調査は古代歴史の雲間を見せてくれたようである。
大芝氏は「山城」に拘った。古事記解釈の通説に引き摺られ、「山城川」の先、行程の最後まで至らなかったようである。
論旨の整理を含めて図示すると(参考:通訳ルート)…
履中天皇の逃亡劇から「難波高津宮」の所在地は豊前の御所ヶ岳山塊の北側、その山麓であるとした。今回の「后」の行程解釈も矛盾しないことがわかった。通説、大阪難波高津宮とした時、前回と同様に地理的関係が矛盾する、「難波高津宮」と「飛鳥」の位置が東西逆転していることに拠ると思われる。
「国譲り」の際、古代では「地図」という有効な手段がなく、また現在のように地図を描きながら位置情報を処理するまでに至っていなかったことを示している。「禊祓」を完結するには至らなかった、しかし1300年間、持ち堪えたこと自体を深く考え直すことであろう。
何と言っても現実の日本が存在する。最も大切なことは、これからである。これからどうすべきかを考えるためにこそ真実が求められていると思うのである。
<追記>
(古事記新釈:仁徳天皇【后・子】【説話】参照)
2017.08.24
その後のその後に「葛城長江曾都毘古」が祖となる葛城の地名「玉手」が特定できた。高宮の位置は少々東に移動である。現地名は福岡県田川郡福智町上野常福、そこにある岡の上とする。