2018年3月12日月曜日

萬幡豐秋津師比賣命:天火明命・日子番能邇邇藝命 〔185〕

萬幡豐秋津師比賣命:天火明命・邇邇藝命


天孫、邇邇芸命を降臨させる前夜は・・・須佐之男命の御子、大年神を放ったらかしにしていたせいですっかり彼らの子孫が葦原中国に蔓延ってしまい、頼みの綱の大国主命には天神達の思惑を成し遂げる力がない。挙句の果てにはその子孫の一部はあろうことか新羅に舞い戻るなんて始末である。

大国主命と大年神後裔との内戦は凄まじかったように…紐解けば紐解くほど…思えて来る。大物主大神の出現、後々までに登場して何かと騒ぎを起こすのもその軋轢の大きさ、深さを示すものと推測される。大国主命の出雲国に対する位置付け、一般に国譲りと解釈されて来た理解は大巾な変更を余儀なくされているのである。

何度も失敗した「刺客」の出雲への投入策を避けて何らかの別の方法を講じる必要性に迫られていたのが実情であろう。と言ってもその適当な場所はあるのか、最適の場所と思われた出雲以外の何処に求めるのか、いずれにしてもご破算で立ち向かうしか方法はないと考えついたのであろう。勿論側面攻撃の作戦で時間を掛けてやり直すわけである。

さて、エースの登場かと思いきや、何かと紆余曲折を経て幕が上がる・・・。

古事記原文[武田祐吉訳]

爾天照大御神・高木神之命以、詔太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命「今平訖葦原中國之白。故、隨言依賜降坐而知者。」爾其太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命答白「僕者將降裝束之間、子生出、名天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命。此子應降也。」此御子者、御合高木神之女・萬幡豐秋津師比賣命、生子、天火明命、次日子番能邇邇藝命二柱也。是以隨白之、科詔日子番能邇邇藝命「此豐葦原水穗國者、汝將知國、言依賜。故、隨命以可天降。」
[そこで天照大神、高木の神のお言葉で、太子オシホミミの命に仰せになるには、「今葦原の中心の國は平定し終ったと申すことである。それ故、申しつけた通りに降って行ってお治めなされるがよい」と仰せになりました。そこで太子オシホミミの命が仰せになるには、「わたくしは降ようとして支度をしております間に子が生まれました。名はアメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギの命と申します。この子を降したいと思います」と申しました。この御子はオシホミミの命が高木の神の女ヨロヅハタトヨアキツシ姫の命と結婚されてお生になった子がアメノホアカリの命・ヒコホノニニギの命のお二方なのでした。かようなわけで申されたままにヒコホノニニギの命に仰せ言があって、「この葦原の水穗の國はあなたの治むべき國であると命令するのである。依って命令の通りにお降りなさい」と仰せられました]

それにしても長い名前である。正勝吾勝勝速日天忍穗耳命」は既に紐解いた。壱岐市新城東触にある「耳」の地形に坐していたと推定した。また「勝」は「常立」に繋がるとして壱岐の勝本町、福岡県京都郡、田川郡に残る「勝山」「赤(=吾勝)」現在に残る地名との繋がりも思い起こされ、その地名の由来の深遠さに驚かされる。

いつの間にやら太子となった天忍穗耳命の子が「天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命」文字数では親に勝る名前を持つと記述され、その生まれたての子にお役譲りすることになった、と言うのである。実はずっと前に生まれていた、のかも?…それにしても何とも長い名前、親子揃ってだから尚更凄い。

葦原中国を平定したと言う。大国主命が退いただけであるが、準備はできたと告げる。葦原中国が今一曖昧なのも「言向和」した国を曖昧に記述しているからであろう。言い換えれば出雲国そのものは「言向和」されていない。ある意味形式的な「言向和」だったのである。

繰り返し命を送り込んでも思うようにならない焦燥感を示しているようである。古事記編者は詳細な記述を控えたということが曖昧さに繋がっていると思われる。捻れた表現では反って拗れるかもしれないが・・・。


天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命

天忍穗耳命の居場所は現在の勝本町新城東触の新城神社付近とした。邇邇芸命」の居場所は二度も登場する「邇岐志」を既に紐解いた。

(近い)|(分岐)|(之:蛇行した川)*

…「近接する分岐がある蛇行した川」から、また「津」も含んでいるので、川が頻繁に合流して一本の川になる場所である現在の壱岐市勝本町片山触、多くの池があるところの下流域に当たると比定した。古事記原文は上記に続いて、降臨に際して「邇邇芸命」が居た場所は「天之八衢」と伝える。現在の地図から求めた交通の要所とした。

壱岐全島を見渡しても分岐の多さと蛇行の様子はこの場所が随一のように見受けられることも傍証として重要であった。解けたのは文字数6/20に過ぎなかったのである。場所を特定するには十分であったが、今回は他の文字を全て紐解いてみよう。

残りの「天津日高日子番」は何を意味しているのであろうか?…名前だから意味など…ではなく、であろう。「邇岐志天津」=「邇岐志にある阿麻の川の合流点」として…、


日(日々)|高(高くなる)|日子(日が生んだ子:稲)|番(見張る)

…「日々高くなるを見張る(役目)」と紐解ける。「邇岐志」の地で稲の成長を見張っている命と述べているのである。そうならそうと簡明に…と言っても致し方なし、である。

「邇邇藝命」はその前に付いている長たらしい部分を省略して「邇邇岐=藝」と愛称したのであろう。「岐」↔「藝」の置き換えは頻出する。「日高」はこの後も幾度か登場する。この紐解きで意味が通じるのか、後日に検討してみよう。

「天之八衢」もあらためて見直してみると…、


八衢=八(谷)|衢(四ツ辻、大通り)

…「谷にある大きな四つ辻」と解釈される。既に比定したところと変わりないが、より原文に忠実な読み解きとなったと思われる。

それに従って邇邇芸命の詳細な居場所は右図のところと比定できるであろう。

ところで高木神にも比賣がいた。まぁ、后がいなかっただけ、ということであろうか…。

天火明命と邇邇芸命の母親「萬幡豐秋津師比賣命」の名前なのだが、何だか怪しいように思われるが・・・虚心坦懐に紐解いてみよう・・・。


萬幡豐秋津師比賣命

「萬幡豊秋津師」の「豊秋津嶋」は伊邪那岐・伊邪那美の生んだ大倭豊秋津嶋として…、


萬(全て)|幡(裏返す)|豊秋津(嶋)|師(諸々の起伏)

…「倭国の地を全て引っくり返す」ように読めるのだが・・・何でこんな名前と言っても、息子が秋津嶋を引っくり返す橋頭堡を作ることになるのだから筋は通るかも・・・。

下図を参照願う。右は大倭豊秋津嶋を左右と上下に二回反転(幡)した図である。驚くべき一致(相似)に開いた口が塞がらない有様である。彼らの地理的認識の高さをあらためて痛感させれる結果である。これでは1,300年間読み解けて来なかったのも頷ける筈である。



<二つの豊秋津>

倭国で皇統ができあがることを暗示するように書き、その比賣の居場所を示し、同時に主役の息子の居場所もあからさまにする、真に神憑りな記述と感嘆させられる。


兄の「天火明命」はここのみの登場である。他の史書では「饒速日尊」としているものもある(天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊)。

「日下(クサカ)」の「ク」=「櫛玉」と解釈した経緯も併せて極めてその可能性は高いと推測される。

古事記は「邇藝速日命」をまともに取り扱わないが、その影を十分に偲ばせる記述をしている。

「天火明命=邇藝速日命」から「日=火」と見做す。また「日(太陽)」と「火(炎)」の「輝き」を同じように捉えているのでは、と思えて来る。彼の居場所は左図を参照願う。「秋」の「火」を示すところである。

古事記の記述という限られた世界、皇統という流れの源流に漸くにして辿り着いた感覚である。古事記を紐解くという作業の一つの到達点でもある。一年余りの悪戦苦闘が些か報われた気分である。

尚、「幡」の文字解釈については既述したこちらのブログも参照されたい。



*中国の浙江省の「浙江」=「之江(シコウ)」川が折れ曲がって流れるさまを象形したもの。
  河口付近の蛇行する川のありさまを巧みに表現。また、中国のこの地にある河姆渡遺跡を
  含む大地は倭人の故郷と知られる。「之」とあからさまに記述しない古事記である。


「天之八衢」


<邇邇藝命②>(2019.05.06)