『和邇』と『菟』
海神の宮に居着いて早三年の月日が過ぎたと言う。火遠理命が大きな溜息を見せたことからこの宮に来た仔細を話し、それに対して海神が色々貴重な助言をする。「鹽盈珠・鹽乾珠」と言う水を自由に扱える珠を授けられ、尚且それの使い方まで事細かに教えられると記述される。前記の「鹽椎神」同様に真に親切な年寄り達なのである。
その説話の中に「魚」が登場する。そもそも兄との諍いは釣り針の紛失に事の発端があったわけで、それさえ取り戻せれば・・・当然魚に問合せるのが一番手っ取り早いという筋書きである。とすると、何と赤海鯽魚(どうやら鯛らしい)が喉に骨を詰まらせて困っているとの情報が得られ、調べるとその通りでその鉤を取り出して、一件落着となった。そんな筋書きで、いよいよご帰還の時を迎えたのである。
古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…、
卽悉召集和邇魚問曰「今、天津日高之御子虛空津日高、爲將出幸上國。誰者幾日送奉而覆奏。」故各隨己身之尋長、限日而白之中、一尋和邇白「僕者、一日送、卽還來。」故爾告其一尋和邇「然者汝送奉。若渡海中時、無令惶畏。」卽載其和邇之頸送出。故如期、一日之內送奉也。其和邇將返之時、解所佩之紐小刀、著其頸而返。故其一尋和邇者、於今謂佐比持神也。
[悉く鰐どもを呼び集め尋ねて言うには、「今天の神の御子の日ひの御子樣みこさまが上の國においでになろうとするのだが、お前たちは幾日にお送り申し上げて御返事するか」と尋ねました。そこでそれぞれに自分の身の長さのままに日數を限つて申す中に、一丈の鰐が「わたくしが一日にお送り申し上げて還つて參りましよう」と申しました。依つてその一丈の鰐に「それならばお前がお送り申し上げよ。海中を渡る時にこわがらせ申すな」と言つて、その鰐の頸にお乘せ申し上げて送り出しました。はたして約束通り一日にお送り申し上げました。その鰐が還ろうとした時に、紐の附いている小刀をお解きになつて、その鰐の頸につけてお返しになりました。そこでその一丈の鰐をば、今でもサヒモチの神と言つております]
「悉召集海之大小魚」魚のことは魚に聞こう…なんだが単なる「魚」ではない。「和邇魚」が登場する。
和邇魚
「和邇」はほぼ揺るぎなく「鰐」もしくは「鮫」と解釈されて来た。説話としてそのように読み取れるように記述されてもいるし、話しの流れはそれで筋は通る、がしかし、それでは納得しかねる内容でもある。鰐、鮫が語る神話の類で片付けるのが最適とされる所以である。過去に誰か一人ぐらいこれは比喩であってこんな人物であろうくらいの解釈があっても良さそうなのだが、ネットで検索した程度では見つからない。
和邇魚=和(輪の形)|邇(近い)|魚(漁:漁夫)
…「輪の形をしたところの近くにいる漁夫」と紐解ける。「和」「邇」の解釈は古事記の文字使用の定番である。「漁(スナドリ)」=「魚や貝を採ること、漁をする人」との意味がある。明らかに「豊玉」の近隣で漁をする人を示している。前記図を再掲すると…、
この説話で用いられている「魚」は「漁夫」の意味を持つと紐解ける。後に登場する「丸邇」一族は「丸に近い」である。
「丸」=「壹比韋」即ち辰砂の取れる場所である。「和」と「丸」が混同して記述されることは全く無い古事記である。
そんなわけでこの「和邇」が「一日」で送った…古事記の「時間」は些かその文字通りには読めないが、「尋」=「両手を左右に伸ばした長さ」又は「至る、及ぶ」の意味もある。「一」に掛けた戯れ表現と解釈できそうである。いずれにしても近いところと告げている。
この段の続きはいよいよ御子が誕生して「神倭伊波禮毘古命」へと繋がって行く。それは後日に述べることとして・・・。
「和邇」の表記で有名なのが大国主命の「稲羽之素菟」(稲羽の白兎)と言われる段である。これも全く疑いもなく「鰐」として解釈され、そう信じてきたのである。だが、上記のような「和邇」の解釈があることを知れば、同様に従来からの解釈以外の意味が含められているのではなかろうか。
海和邇
八十神の後を布袋の大穴牟遲神(後の大国主命)がノコノコと歩いていた時の説話である。関連するところを抜粋して示すと…全体の解釈はこちらを参照願う…、
最後之來大穴牟遲神、見其菟言「何由、汝泣伏。」菟答言「僕在淤岐嶋、雖欲度此地、無度因。故、欺海和邇此二字以音、下效此言『吾與汝競、欲計族之多小。故汝者、隨其族在悉率來、自此嶋至于氣多前、皆列伏度。爾吾蹈其上、走乍讀度。於是知與吾族孰多。』如此言者、見欺而列伏之時、吾蹈其上、讀度來、今將下地時、吾云『汝者、我見欺。』言竟、卽伏最端和邇、捕我悉剥我衣服。
[最後に來た大國主の命がその兎を見て、「何なんだつて泣き伏しているのですか」とお尋ねになつたので、兎が申しますよう、「わたくしは隱岐の島にいてこの國に渡りたいと思つていましたけれども渡るすべがございませんでしたから、海の鰐を欺いて言いましたのは、わたしはあなたとどちらが一族が多いか競べて見ましよう。あなたは一族を悉く連れて來てこの島からケタの埼まで皆竝んで伏していらつしやい。わたしはその上を蹈んで走りながら勘定をして、わたしの一族とどちらが多いかということを知りましようと言いましたから、欺かれて竝んで伏している時に、わたくしはその上を蹈んで渡つて來て、今土におりようとする時に、お前はわたしに欺されたと言うか言わない時に、一番端に伏していた鰐がわたくしを捕えてすつかり着物を剥いでしまいました]
「淤岐嶋」(現在の宗像市地島)在住の「菟」がその島から「氣多前」(現在の鐘ノ岬)へ渡ろうとして「海和邇」を利用する場面である。それを見破られて身包み剥がれて泣いている時に八十神達に出会い、酷い仕打ちをされたのだが、それを最後に来た大国主命が救ったという心優しき主人公の物語なのである。
さて「海和邇」とは何を意味しているのであろうか?…「和邇」は上記と同じ意味かと思われるが・・・「和」=「輪の形」?…「海」は?…何と紐解くのか・・・。
「鐘ノ岬」とは・・・福岡県宗像(むなかた)市鐘崎(かねざき)北方の玄界灘(げんかいなだ)に突出している岬。孔大寺(こだいじ)山系の丘陵が海岸まで伸びて佐屋形(さやがた)山となり、海食崖(がい)を形成、北西2キロメートルの海上にある地島(じのしま)に続いている。岬から皐月(さつき)松原に続く海岸は、風光明媚(めいび)で玄海国定公園に指定されている。岬の根元にある鐘崎は海女(あま)で有名な漁港で、フグ延縄(はえなわ)などの漁業も盛んである・・・と解説されている。
読んでみるものである。これに全てのヒントが含まれていたのである。
「和」=「輪の形」=「佐屋形山」であり、「海」=「海女」を意味していることが判った。
「海」の原義は「氵+毎」=「水の流れ+髪飾りを付けて結髪する女性」と知られる。母なる海なのである。海も大地も母である。「海和邇」は…、
海(海女)|和(輪の形)|邇(近い)
…「輪の形(佐屋形山)の近くに居る海女」と紐解ける。海女の発祥地と言われるこの地、何と古事記が記述していたのである。孔大寺山系の主稜線が延びた地形は豊かな漁場を形成し、山系から流れる川が運ぶ恵みに満たされた「都」であったろう。上記と「和邇」で繋がる古代人達の生業である。
稻羽之素菟
それでは「菟」は何を意味しているのであろうか?…「和邇」が解けると気に掛かる。下図を参照願う。
(俯瞰図はこちら) |
地島に見事な「斗」の地形が見つかる。宗像市地島豊岡の地名かと思われる。
「斗」↔「菟」既に幾度か登場した表記である。
天菩比命の御子、建比良鳥命が祖となった「上菟上國造」「下菟上國造」大斗の山向こう、後に高志国と呼ばれたところである。
淤岐嶋の「菟」とは「斗」の住人を意味していると紐解ける。
古事記原文に記述される「稻羽之素菟」は…「稲羽に居る」…、
素菟=素(本来は)|菟(斗の住人)
秋津、日向、筑紫及び出雲の国は古遠賀湾、洞海湾及び淡海を通じて東西に延びる古代の一大交流圏であったことがあらためて伺える。いずれ彼らの向かう先は大倭豊秋津嶋となるのである。それにしても通説、その根拠を洗い直して見る必要があることを思い知らされた。
今回の紐解きによって、上記に加えて邇邇芸命の降臨地が宗像市と遠賀郡岡垣町の境にある孔大寺山系、これが「竺紫日向之高千穂之久士布流多氣」と導かれることである。古事記の一貫性のある記述に感服する。
少し余談になるが…大国主命の説話に登場する「八上比賣」の居場所について…、
八上=八(谷)|上(畔)
…湯川山頂に繋がる谷筋の畔に坐していたのではなかろうか。現在の地名宗像市「上八(コウジョウ)」という難読地名である。
湯川山の頂上までを含む古くからある地域名ではなかろうか。引っ繰り返したのかも・・・。伝えられる由来は多分に漏れず決定的ではない。
「八俣之遠呂智」しかり、動物を擬人化した表現である。その目的は、神話風にして物語を久遠の過去に遡らせることであろう。併せて場所を示す文字を使って本来の目的を果たそうとしている。複数の意味に解釈されることになる手法は、思いを伝えることが目的に不向きであろう…と言われるが、果たしてそうであろうか?・・・。
複数に解釈されて尚且その解が伝えることの複数の側面を示しているとならば、物事の捉え方がより高次になるのではなかろうか。複数の解が収束せず発散してしまう故にその技法が途絶えてしまっているのであろう。真に残念なことである。
言い過ぎではないと思うが、漢字という文字を使う人々にしか為し得ない優れた表現ではなかろうか。一対一ではなく、一対多の相関で物事を伝えていくこと、決して蔑ろにしてはならないことと思われる。
複数に解釈されて尚且その解が伝えることの複数の側面を示しているとならば、物事の捉え方がより高次になるのではなかろうか。複数の解が収束せず発散してしまう故にその技法が途絶えてしまっているのであろう。真に残念なことである。
言い過ぎではないと思うが、漢字という文字を使う人々にしか為し得ない優れた表現ではなかろうか。一対一ではなく、一対多の相関で物事を伝えていくこと、決して蔑ろにしてはならないことと思われる。