2018年3月11日日曜日

多藝志之小濱の再訪 〔184〕

多藝志之小濱の再訪


「多藝志」という文字列は幾度か古事記に登場する。大国主命が隠遁生活に入ったところであり、出雲関連の説話の終わりに深く関わる。また神武天皇の日向時代の御子「多藝志美美」にも含まれ、天皇亡き後の皇位継承争いを起こす人物である。

通説に目をやると、出雲(現島根)、日向(現宮崎)そして奈良大和を股にかけた壮大な物語と読まれているようである。ただ、余りにも壮大過ぎてしまうためかどうか不明だが「多藝志」の場所は不詳、類似名称で現島根県のとある場所が提案された例を見るのみである。逆に言うと、例の如く、不詳にすることが目的のような記述になっているのである。

本ブログでは…、


多藝志=多(出雲の)|藝(果の)|志(之:蛇行する川)

…と解釈して、出雲の東北の端、現地名の北九州市門司区二夕松・風師町辺りと推定した。前後の古事記記述はこちらを参照願う。

この地に関連する記述を掘り起こすことができたので、再度訪問してみようかと思う・・

古事記原文[武田祐吉訳]…、

故、更且還來、問其大國主神「汝子等、事代主神・建御名方神二神者、隨天神御子之命、勿違白訖。故、汝心奈何。」爾答白之「僕子等二神隨白、僕之不違。此葦原中國者、隨命既獻也。唯僕住所者、如天神御子之天津日繼所知之登陀流此三字以音、下效此天之御巢而、於底津石根宮柱布斗斯理此四字以音、於高天原氷木多迦斯理多迦斯理四字以音而、治賜者、僕者於百不足八十坰手隱而侍。亦僕子等百八十神者、卽八重事代主神爲神之御尾前而仕奉者、違神者非也。」
如此之白而、於出雲國之多藝志之小濱、造天之御舍多藝志三字以音而、水戸神之孫・櫛八玉神、爲膳夫、獻天御饗之時、禱白而、櫛八玉神、化鵜入海底、咋出底之波邇此二字以音、作天八十毘良迦此三字以音而、鎌海布之柄、作燧臼、以海蓴之柄、作燧杵而、鑽出火云、
是我所燧火者、於高天原者、神巢日御祖命之、登陀流天之新巢之凝烟訓凝姻云州須之、八拳垂摩弖燒擧麻弖二字以音、地下者、於底津石根燒凝而、𣑥繩之、千尋繩打延、爲釣海人之、口大之尾翼鱸訓鱸云須受岐、佐和佐和邇此五字以音、控依騰而、打竹之、登遠遠登遠遠邇此七字以音、獻天之眞魚咋也。 故、建御雷神、返參上、復奏言向和平葦原中國之狀。
[そこで更に還つて來てその大國主の命に問われたことには、「あなたの子どもコトシロヌシの神・タケミナカタの神お二方は、天の神の御子の仰せに背きませんと申しました。あなたの心はどうですか」と問いました。そこでお答え申しますには、「わたくしの子ども二人の申した通りにわたくしも違いません。この葦原の中心の國は仰せの通り獻上致しましよう。ただわたくしの住所を天の御子の帝位にお登りになる壯大な御殿の通りに、大磐石に柱を太く立て大空に棟木を高くあげてお作り下さるならば、わたくしは所々の隅に隱れておりましよう。またわたくしの子どもの多くの神はコトシロヌシの神を導きとしてお仕え申しましたなら、背く神はございますまい」と、かように申して出雲の國のタギシの小濱にりつぱな宮殿を造つて、水戸の神の子孫のクシヤタマの神を料理役として御馳走をさし上げた時に、咒言を唱えてクシヤタマの神が鵜になつて海底に入つて、底の埴土を咋わえ出て澤山の神聖なお皿を作つて、また海草の幹を刈り取つて來て燧臼と燧杵を作つて、これを擦つて火をつくり出して唱言を申したことは、
「今わたくしの作る火は大空高くカムムスビの命の富み榮える新しい宮居の煤の長く垂れ下るように燒き上げ、地の下は底の巖に堅く燒き固まらして、コウゾの長い綱を延ばして釣をする海人の釣り上げた大きな鱸をさらさらと引き寄せあげて、机もたわむまでにりつぱなお料理を獻上致しましよう」と申しました。かくしてタケミカヅチの神が天に還つて上つて葦原の中心の國を平定した有樣を申し上げました]

大国主命は天神が送り込んだ「刺客」である。出雲の居た「八十神」(速須佐之男命の御子、大年神の後裔と推定)との壮絶な闘いを勝ち抜けることができず、国作りに頭を悩ます日々を送っていたのである。複数の支援者を送り込んでも役立たず、天神としての落とし所が建御雷之男神を派遣しての「言向和」であった。

大国主命を排除するのではなく、大国の主としての面目を立て、かつ出雲は天神の地であることを周知せしめる戦略であったと思われる。こんなことを背景に上記の記述を読むと、大国主命の安堵感みたいなものが伝わって来て、出雲に送り込まれて以来、八十神の戦い、速須佐之男命のシゴキに耐え抜いた彼を少しは見直す気分にもなりそうである。

が、それ以上に悲惨な状況に追い込まれた大年神一族の思いも感じられる。その思いを具象化したのが「大物主大神」であろうと前記で紐解いた。古事記はこの思いを初国の崇神天皇紀まで持ち越すのである。あたかも皇統が継続して、倭国の中心に坐することができたのは大年神一族が礎となっていることを示しているかのようである。

さて、出雲國之多藝志之小濱に作った大国主命隠居のための天之御舎で行われる天御饗の膳夫となった「櫛八玉神」の話に移ろう。その前に「多藝志」の位置をあらためて見直すと…地図を参照願う。

出雲國之多藝志之小濱


「多藝志」=「多(出雲の)|藝(果ての)|志(之:蛇行した川)」は地図から容易に見出せる場所である。「斗」の形が閉じるところ、もう一方は「筑紫之末多」と表現される。両端は重要な拠点なのである。また表現しやすく度々登場することになる。「末多」もそうであるが、この地も大年神の子、羽山戸神の子孫が切り開いたところなのである。

正に出雲の果てにあった地であろう。出雲国に居て、かつ、表向きには活動しない、邪魔にならない場所の候補は他にあり得なかった、と解釈される。尚且つ、自分が大国の主であるとの権威を保てるように、と…立派な宮殿が必要であった。天神達の戦略変更の布石の記述でもある。


「多藝志」は正に出雲の外れである。饗応のレシピが興味深い。

①「鎌海布之柄、作燧臼、以海蓴之柄、作燧杵而、鑽出火」これは現在に残る「和布刈神事」に繋がるのではなかろうか。こんな海草が採れるところは「淡海」高速海流に鍛え上げられた昆布である。鳴門ワカメが有名である。

「夜都米佐須 伊豆毛・・・」倭建命が出雲建を言向和した時に詠った歌にある。「夜久毛多都」ではない。「大きな昆布(メ)が繁る」そこが出雲と言っているのである。雲が立ち、そして昆布も繁るところ、と伝えている。

②「口大之尾翼鱸訓鱸云須受岐」正にスズキの様相。何と古事記の時代からそう呼ばれていた。由緒ある名前と、食する機会にスズキ君に伝えてあげよう。机が撓む…実に生々しい表現…確かに生物・・・。


こんな冗長な記述の時には要注意、である。重要なヒントが潜められている筈である。それは・・・そこに水戸神の孫として「櫛八玉神」が登場する。「多藝志」の地理的環境を示すには適切な配役であろう。実に特徴的な地形を象形した命名の神である。下図を参照願う。


櫛(櫛の山稜)|八(谷)|玉(玉の形)

…と紐解ける。「櫛状に連なった山稜の谷にある玉の形」を示している。左図から分かるように「多藝志」の眼前である。

多くの谷から流れ出る川が「之」の蛇行を繰り返していたのであろう。現在の宅地開発したところからはそれを伺うのは難しいようであるが…。

これで「多藝志」の場所は決定か、と思いきや、更に強烈な記述があった。


賦登麻和訶比賣命・亦名飯日比賣命

時代は飛んで大倭日子鉏友命(第四代懿徳天皇)の娶りの記述である。「輕之境岡宮」現在の直方市上境の岡の上と比定した。「鉏友」の解釈が決定的であった。詳細はこちらを参照。僅か数行の記述なのだが、ブログのタイトルに「冒険」と付けた。開拓意欲に長けた命と直感する。

古事記原文…、

大倭日子鉏友命(懿徳天皇)、坐輕之境岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命・亦名飯日比賣命、生御子、御眞津日子訶惠志泥命自訶下四字以音、次多藝志比古命。二柱。故、御眞津日子訶惠志泥命者、治天下也。次當藝志比古命者、血沼之別、多遲麻之竹別、葦井之稻置之祖。天皇御年、肆拾伍、御陵在畝火山之眞名子谷上也。

師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命を娶り二人の御子を儲ける。次男が「多藝志比古命」と言う。何故、出雲?…唐突な出雲の出現は何を意味するのであろうか。前後の記述には一見して出雲と関連する言葉は見当たらない。

が、母親の名前に隠されていた。少々通説に引き摺られて「賦登(肥or太)|麻和訶(真若)|比賣命」などと紐解き、気にはなったが、これでは地形象形とは無縁の表現となってしまう。しっかり文字解釈をしてみると…、

賦登(登りがある)|麻(摩:近い)|和訶(輪の形)比賣命

…と読み解ける。「輪の形の近くを登って行ったところ」の比賣命と解釈できる。「比賣」=「田畑を並べて生み出す女」の解釈を付加しても良い。これではまだ不十分…別名が「飯日比賣命」と記される。

伊邪那岐・伊邪那美が生んだ「讚岐國謂飯依比古」の「飯」と同様に「飯」=「食+反(麓)」、更に「食」=「山+良」と分解する。「良」=「なだらかな(緩慢な)」として…、


飯=なだらかな山麓

…と読み解ける。「日」=「火:三つの火頭」とすると…同じような大きさの山が三つ並んでいるところ…「畝火山」の表現と同じと解釈できる。「飯日比賣命」は…、


飯(なだらかな山麓)|日(三つの山)|比賣命

…と紐解ける。下図を参照願う。最も西側にある山は上記の「櫛八玉神」で登場した山である。

上記二つの名前を紐解いた結果を合せると「賦登麻和訶比賣命」は玉の山の麓で輪になったところの近くを登った場所に坐していたと読み解ける。現在の貴布祢神社がある辺りではなかろうか。

現在の地形との差があるのは重々承知の上としても、この地は間違いなく「出雲=大斗」の端に当たるところと思われる。

淡海に面したこの地は早期に人々が住み着き、また渡来人達の多くが寄り集まった地であったろうことは容易に推測できるところである。現地名にその名残があることはよく知られていることでもある。多藝志の「畝火」から倭の「畝火」へと軸足が移って行くのである。


それを古事記の記述の中から、なかなか抽出できなかったが、漸く果たせることができたようである。

古事記の中では宗賀稲目が娶った「意富藝多志比賣」が最後の登場であろうか。決して忘れ去られた地ではない。

上記の「多藝志美美」は右図の左端のところと紐解いた。「美美」=「耳=縁」である。真に当を得た表現とあらためて納得させられる。

人名に潜められた地形、その捻れた表現に今尚戸惑いは隠せない有様である。が、これこそ古事記というものであろう。

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八重事代主神と建御名方神 


()|重(奥深い)|事(祭事)|代(田地)|主神

…「奥深い谷で祭事に関わる田地」の主の神。

御(司る)|名(神に肉を捧げて祭祀する)|方(ところ)

…神となる。八重事代主神が穀物なら建御名方神は肉類を捧げる役目を持っていたと告げているようである。この二人を持ってして食が充当されていたのであろう。だから、両方の意見を求めた、と推測される。ある意味よくできた話し、それにしても名付け方は尋常ではない・・・。(2018.06.21)


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