日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(6)
養老元年(西暦717年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
冬十月戊寅。正三位阿倍朝臣宿奈麻呂。正四位下安八萬王。從四位下酒部王。坂合部王。智努王。御原王。百濟王良虞。中臣朝臣人足等。益封各有差。丁亥。以從四位下藤原朝臣房前參議朝政。
十月十二日に阿倍朝臣宿奈麻呂(少麻呂)・安八萬王・酒部王・坂合部王・智努王・御原王・百濟王良虞(①-郎虞❸)・中臣朝臣人足等の封戸をそれぞれ増やしている。二十一日、藤原朝臣房前を朝政に參議させている。
十一月丁酉朔。日有蝕之。甲辰。高麗百濟二國士卒。遭本國乱。投於聖化。朝庭憐其絶域。給復終身。」又遣唐使水手已上一房徭役咸免。」又九等戸以賎多少勿長。准財爲定矣。丙午。賜故左大臣從一位石上朝臣麻呂第。絁一百疋。絲四百絢。白綿一千斤。布二百端。癸丑。天皇臨軒。詔曰。朕以今年九月。到美濃國不破行宮。留連數日。因覽當耆郡多度山美泉。自盥手面。皮膚如滑。亦洗痛處。無不除愈。在朕之躬。甚有其驗。又就而飮浴之者。或白髪反黒。或頽髪更生。或闇目如明。自餘痼疾。咸皆平愈。昔聞。後漢光武時。醴泉出。飮之者。痼疾皆愈。符瑞書曰。醴泉者美泉。可以養老。盖水之精也。寔惟。美泉即合大瑞。朕雖庸虚。何違天貺。可大赦天下。改靈龜三年。爲養老元年。天下老人年八十已上。授位一階。若至五位。不在授限。百歳已上者。賜絁三疋。綿三屯。布四端。粟二石。九十已上者。絁二疋。綿二屯。布三端。粟一斛五斗。八十已上者。絁一疋。綿一屯。布二端。粟一石。僧尼亦准此例。孝子順孫。義夫節婦。表其門閭。終身勿事。鰥寡惸獨疾病之徒。不能自存者。量加賑恤。仍令長官親自慰問。加給湯藥。亡命山澤。挾藏兵器。百日不首。復罪如初。又美濃國司及當耆郡司等。加位一階。又復當耆郡來年調庸。餘郡庸。賜百官人物各有差。女官亦同。癸丑。授美濃守從四位下笠朝臣麻呂從四位上。介正六位下藤原朝臣麻呂從五位下。戊午。詔曰。國輸絹絁。貴賎有差。長短不等。或輸絹一丈九尺。或輸絁一丈一尺。長者直貴。短者直賎。事須安穩。理應均輸。絲有精麁。賦無貴賎。不可以一概。強貴賎之理。布雖有端。稍有不便。宜隨便用更定端限。所司宜量一丁輸物。作安穩條例。自今以後。宜蠲百姓副物及中男正調。其應供官主用料等物。所司宜支度年別用度。並隨郷土所出付國。役中男進。若中男不足者。即以折役雜徭。於是。太政官議奏精麁絹絁長短廣闊之法。語在格中。丁巳。車駕幸和泉離宮。免河内國今年調。賜國司祿有差。
十一月一日に日蝕があったと記している。八日に高麗・百濟の二國の士卒が祖国の戦乱に遭って天皇の德化に帰服している。朝廷は遠く離れていることを憐れんで租税を終身免除している。『白村江の敗戦』(663年)に関わる混乱期からおよそ半世紀を経ているが、十年間免除を終身にしたのであろう。
また遣唐使の水手以上の者の房戸(郷戸の下に設置された戸の単位、715~40年間)の徭役を減免している。また九等戸の賎民(奴婢)の多少と幼長を家財の場合に準じて定めている。十日に故石上朝臣麻呂の邸宅に絹・綿・麻など織物を授けている。
十七日に天皇は宮殿の庇近くに出御して以下のように詔されている。概略は、九月に美濃國不破の行宮に行き、逗留すること数日、當耆郡の多度山の美泉を観て、自ら手や顔を洗ったら皮膚が滑らかになった。また痛いところを洗うと全て除かれて癒えた。またこれを飲んだり浴びたりすると白髪が元のように黒くなったり、禿げた髪が生えたり、見えない者が見えるようになったり、不治の病が癒えたりしている。中国では光武帝の時代に「醴泉」を飲むと病気が治ったと言う故事もある。書によれば、醴泉は美泉であり、老人を養うことができる。水の精霊であろう、と記されている。考えれば美泉は大瑞に叶っている。故に靈龜三年を養老元年とする。
天下の老人で八十歳以上の者を進位一階とするが、五位未満とせよ。百歳以上、九十歳以上、八十歳以上に分けて、それぞれ絹・綿・麻・粟を与える。僧尼もまたこれに準じる。「孝子順孫、義夫節婦」は終身租税を免じる。「鰥寡惸獨疾病之徒」にはその状態に応じて物を与える。但し、山や沢に逃亡し、禁じられている兵器を持ち自首しない者は元通りに罰せよ、と述べている。
また、美濃國司及び當耆郡(多伎郡)の郡司等を進位一階とする。当郡の来年の調・庸を免除する。男女を問わず官人に、それぞれ物を授ける。美濃守の従四位下笠朝臣麻呂(尾張國守兼任)は従四位上を、介の正六位下藤原朝臣麻呂(萬里、藤原四家の京家)に従五位下を授ける。
二十二日に以下のように詔されている。概略は、諸國からの税である絹・絁は高価であったり、安値なものがあり、長短も様々である。賦課に高い安いの区別がない。布には端の規格があるが、他に転用するには不便であり、それを改定する条例を作成せよ、と述べている。今後は調の副物と中男(十七~二十歳の男子)の免除する。官と封戸の主に供する品物は、所管の官司があらかじめ年別に入用の物の予算を立てて、それぞれ郷土が産出する物に割り振り、それを中男を使役して進上するようにするが、中男の不足については雑徭(年六十日以下の力役)を流用せよ、と述べている。太政官が絹・絁それぞれの長さ・広さの規格を奏上している。
二十一日に和泉離宮(前出の珍努宮)に行幸されている。河内國の今年の調を免除し、國司に身分に応じて禄を授けている。
美濃國當耆郡多度山美泉
勿論関連者に進位と調役の免除(関連の地と人物はこちら)も同様に行われていた。これらの二つの場所は現在の貫山・水晶山山系の北と南に位置し、清水の湧き出る地であったと推測される。
「多度山美泉」の場所は既に求めたが、図を拡大して詳細を眺めると、窪んで広がった地の泉であることが確認される。地図では二つの池らしきところが見られるが、湧水の場所は御祖神社の南側と思われる。
養老
頻出の「養」=「羊+良」=「谷間がなだらかな様」と解釈する。養老=谷間がなだらかに海老のように曲がっているところと読み解ける。この泉から流れ出す川の流れがそれを示している。この山稜は美濃國と信濃國の境にあって概ね急峻な地形であるが、この場所のみに見られる穏やかな勾配の場所と思われる。
勿論「養老」は「老人を養う」と読み取れるが、「老いを養う」とすると、老いることは必然としても衰えないようにすると解釈される。言い換えれば若さを保つとも読み取れる。何とも奥ゆかしい表現となろう。元正天皇、才色兼備かも、である。”靈龜”のような即物的な元号は趣向に合わなかったようである。下記の、”若水”、”豊若権現”に掛かる表記でもある。
ところでこの段の初めに「到美濃國不破行宮。留連數日」と記載されている。不破行宮(現在の朽網西にある朽網小学校辺りと推定)を拠点にして當耆郡多度山に出向いた、と読み取れる。地図上での距離を見積もると片道2km強であり、山道であること、醴泉をしっかりと堪能したとしても半日の行動であったと推測される。現在の不破と多度山とは40kmほど離れているが・・・。
十二月壬申。太政官處分。始授五位。及從外任遷京官者。會賜祿日。仍入賜例。丁亥。令美濃國。立春曉挹醴泉而貢於京都。爲醴酒也。
十二月七日に太政官処分が発令されている。初めて五位を授けられた者や、地方官で京官に遷任した者が禄を賜う日に出会ったならば、そのまま支給すること、とされている。二十二日、美濃國に命じて、立春の暁に醴泉を汲み、京都に貢進させている。醴酒(甘酒)を作るためである。
少し調べると最後の貢進は恒例化されて、”立春若水奉献”と呼ばれるようになったようである。また「美泉」は山から湧き出る清水だったとも記載されている(廣岡義隆「多度山美泉と田跡河の瀧」pdf_file)。辞書に依れば、”若水”とは、往古、立春の日に宮中の主水司から天皇に奉じた水と記載されている。
上図に示した地の情報は極めて少ないが、現在ではトレッキングルートの一つのようで、御祖神社の狛犬が有名とのことである。とあるブログに貫山林道を経て宇土林道に入り、御祖神社へ向かった時の写真の中に”豊若権現”と名付けられた大岩と清水が載せられている。多分、豊若=ゆたかな若水なのであろう。かつては、ひょっとしたら、近江國益須郡都賀山の醴泉のように賑わっていたのかもしれない。
ところで、「多度山美泉」であって「多度山醴泉」とは表記しない。都賀山醴泉は、見事な地形象形表記だったからである。同様に「美泉」も、立派に地形を表しているのである。きめ細かな記述であろう。もう少し、他にも気配って頂ければ・・・些か短くなったが、切が良いので・・・最後に、”養老”と”滝”とは、全く相容れない表現である。
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全くの余談であるが、通常の「多度山美泉」の解釈は、現在の岐阜県養老郡養老町にある渓谷にあったとされている。文化十一年(1814年)頃から「美泉」は”養老の滝”か”菊水泉”(現在の養老神社近隣)かの大論争が繰り広げられたそうである(養老町の歴史文化資源、また養老町教育委員会編の養老美泉を参照)。上記の廣岡氏の論説によれば湧水の”菊水泉”のようであるが、氏はそうとは断定していない。
勿論、養老町の資料は元正天皇紀の續紀の記述に基づいた論考なのであるが、いつの間にやら”多度山美泉”が”養老美泉”にすり替わっている。”醴泉”を、慎重に言葉を選んで”美泉”とした續紀も苦笑いかも、である。續紀には”養老美泉”の文字列は存在しない(前記の[521]参照)。
図に現在の養老山脈の地図を示した。濃尾平野の西に聳える山脈で鈴鹿山脈の北部と並行して延びる、なかなかユニークな独立した山塊である。
濃尾平野は、勿論当時は海面下であって、実に広大な入江になっていたと推測される。即ちこの山脈の東麓は海に面した急峻な地形をしていたことが解る。
この山脈の北側に「養老山」があり、ぐんと離れた南端に「多度山」が鎮座している。續紀の記述は、この二地点は同じ場所であることを、より正確には「多度山」の山腹に「美泉」があり、それから湧き出る清水を大瑞の”醴泉”と見做して、”老いを養う(養老)”の元号とした、と記載している。
”若さを保つ”と読むことができる”養老”とその「美泉」が出る地形とを重ねた、お見事な表記だと、上記で述べた。図に示した”養老”は、全く違った地形であり、ましてや大滝のある川が流れる渓谷ではあり得ない。”菊水泉”の場所もしかりであろう。
ならば「養老山」を何故「多度山」と命名しなかったのか?…上記の養老町の資料によれば、昔は「養老山」から南は全て「多度山」と呼んでいた、との言い伝えがあったとか…養老山脈の四分の三が多度山?…これもあり得ない話であろう。
更に興味深いのが、養老山脈が県境になっているかと単純に思いがちだが、現在の「養老山」は岐阜県(美濃國)、そして「多度山」は三重県(伊勢國)に属していることである。これでは”伊勢國多度山美泉”となってしまうのである。續紀はあくまで美濃國と主張している。大混乱なのだが、歴史学は黙しているだけであろう。もう少し、こましな地名割り振りができなかったのか?…と他人事ながら心配する有様である。
何故を繰り返していると、実に面白いことに気付かされた。現在の多度山の麓が、本貫の多度山(北九州市小倉南区朽網東、前記[521]参照)の山容と極めて類似した地形を示し、多度=山稜の広がった端を跨ぐように延びた山稜があるところが確認される。この地も記紀・續紀を通じての表記で、”立派な多度山”なのである。
現在の多度山周辺のかつての住人は、多度大社として大切にする全山御神体の山の名前を譲ることなど毛頭考えず、この山から以南は、美濃國から離脱し、伊勢國に属した、と憶測される。上記以上のバトルがあったのかもしれない。結局、元正天皇の「美濃國多度山美泉」を放棄したことになる。そして地形に基づく名称が残る、極めて希少な場所になったと思われる。
Wikipediaには元正天皇の段のことが記載されているが、全くの無神経さであろう。不破↔多度山美泉の距離が約40kmとなっては、あり得ないのである(不破↔養老の滝:約15km、これでも往復一泊二日所要)。宗像の邊津宮とは全く違った意味で、日本の”不動点”かもしれない。”多度”が地形象形しているなんて、わかりっこない、とお上もお許し下さったのであろう。
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『續日本紀』巻七巻尾