日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(5)
養老元年(西暦717年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
五月辛丑日。制諸國織綾。以六丁成疋。丁未。令上総信濃二國始貢絁調。丙辰。詔曰。率土百姓。浮浪四方。規避課役。遂仕王臣。或望資人。或求得度。王臣不經本属。私自駈使。囑請國郡。遂成其志。因茲。流宕天下。不歸郷里。若有斯輩。輙私容止者。揆状科罪。並如律令。又依令。僧尼取年十六已下不輸庸調者聽爲童子。而非經國郡。不得輙取。又少丁已上。不須聽之。辛酉。以大計帳。四季帳。六年見丁帳。青苗簿。輸租帳等式。頒下於七道諸國。乙丑。以從四位下大伴宿祢男人爲長門守。
五月二日に諸國は綾を織るに当たって六人の正丁(二十一~六十歳の男子)が納める調の分を一疋と定めている。八日に上総・信濃の二國に命じて、初めて絁の調を納めさている。
十七日に以下のように詔されている。概略は、人民は四方に浮浪して課役を逃れ、挙句には何処かの王臣に仕えて資人になることを望んだり、得度(正式な僧)することを求めている。王臣の方は、本籍の役所を通さずに密かに使役し思い通りにしようとする。天下を流離って彼らを匿うならば律令の従って罰せよ、と述べている。また僧尼令によれば十六歳以下で庸・調を出さない者を童子(僧尼の従者)にすることが許されているが、國郡司の許可を得ずに行ってはならない。少丁(十七~二十歳の男子)以上にこのようなことを許してはならない、と述べている。
二十二日に大計帳(國別の戸数・口数などの帳簿)、四季帳(官人となって課役免除となった者の名簿、年四回)、六年見丁(正丁・次丁・少丁など課役対象者の名簿)、青苗簿(戸別の耕作状況の帳簿)、輸租帳(田租徴収帳)等の書式を七道諸國に頒布している。二十六日、大伴宿祢男人を長門守に任じている。
六月己巳朔。右京職言。素性仁斯一産三女。賜衣粮并乳母一人。自四月不雨。至于是月。
秋七月己未。加左右京職史生各四員。庚申。以沙門辨正爲少僧都。神叡爲律師。賜從五位下紀朝臣清人穀一百斛。優學士也。
八月庚午。正三位安倍朝臣宿奈麻呂言。正七位上他田臣萬呂。本系同族。實非異姓。追尋親道。理須改正。請賜安倍他田朝臣姓許之。甲戌。遣從五位下多治比眞人廣足於美濃國。造行宮。
六月一日に右京職が「素性仁斯」が三つ子の女子を産み、衣服・食料・乳母一人を与えている。四月より雨が降らず、この月まで続いている。
七月二十二日に左右京職に史生をそれぞれ四人加えている。二十三日、沙門辨正を少僧都に、神叡を律師に任じている。また紀朝臣清人に穀一百石を与えているが、學士として優れていたことによる、と記載している。
八月三日に安倍朝臣宿奈麻呂(阿倍、少麻呂)が「他田臣萬呂」は本来は同族であり、姓を元に戻されるべき、と言上し、許されて「安倍他田朝臣姓」を賜っている。七日、多治比眞人廣足(廣成に併記)を美濃國に遣わし、行宮を造らせている。
● 素性仁斯
「右京」の地で、この四文字の地形を求めることになるが、前記の支半于刀と同様な出自かと思われる。暈繝色の染色物を献上していた。そして一文字一文字が示す地形が合わさったものであろう。
「素」とくれば稲羽の素菟を思い浮かばせるが、やはりこの文字が示す地形を確認しておこう。「素」の文字解釈は簡単ではないようだが、「素」=「垂+糸」と分解するのが適切なようである。
地形象形的には「垂」=「山稜が谷間に挟まれて長く延びる様」と読み解ける。「性」=「心+生」=「中心で生え出た様」、既出の「仁」=「人+二」=「谷間が二つ並んでいる様」、「斯」=「其+斤」=「切り分けられた様」と解釈した。
これらを纏めると素性仁斯=谷間に挟まれた山稜(素)が中心に延びて(性)谷間が二つ並んでいる地(仁)を切り分けた(斯)ところと読み解ける。図に示したように四つの谷間が並んでいる場所であり、その中央にある山稜の端が出自と述べている。やはり「支半于刀」と同じように居場所の地形を忠実に表記していることが解る。
● 他田臣萬呂
和銅五年(712年)十一月の記事に「阿倍朝臣宿奈麻呂が引田朝臣邇閇・引田朝臣東人・引田朝臣船人・久努朝臣御田次・長田朝臣太麻呂・長田朝臣多祁留の六人を同じ理由で”阿倍朝臣”姓に戻すように言上し、許された」と記載されていた。
その延長であろうが、今回賜ったのは「安倍他田朝臣」姓であって、微妙な関係が伺われる。かつても少し述べたように故あって分れていたのであろうから、時が解決していなければ、なかなか元の鞘に戻るのにも障害はあったであろう。「宿奈麻呂」の強引さが見え隠れするところであろう。
ともあれ、この人物の出自の場所は、かなり明確で、図に示した谷間と推定される。名前が「萬呂」であり、蠍の形をした山稜の麓辺りと思われる。西海の脅威が大きくならず、『壬申の乱』以後、皇位継承の小規模の波乱はあったとしても、安泰な雰囲気の中で、特に派閥抗争の布石が敷かれつつあったのであろう。
九月癸夘。從五位上臺忌寸少麻呂言。因居命氏。從來恒例。是以河内忌寸因邑被氏。其類不一。請少麻呂率諸子弟。改換臺氏。蒙賜岡本姓。許之。丁未。天皇行幸美濃國。戊申。行至近江國。觀望淡海。山陰道伯耆以來。山陽道備後以來。南海道讃岐以來。諸國司等詣行在所。奏土風歌舞。甲寅。至美濃國。東海道相摸以來。東山道信濃以來。北陸道越中以來。諸國司等詣行在所。奏風俗之雜伎。丙辰。幸當耆郡。覽多度山美泉。賜從駕五位已上物。各有差。戊午。賜從駕主典已上。及美濃國司等物有差。郡領已下。雜色卌一人。進位一階。又免不破當耆二郡今年田租。及方縣。務義二郡百姓供行宮者租。癸亥。還至近江國。賜從駕五位已上及近江國司等物各有差。郡領已下。雜色卌餘人。進位一階。又免志我。依智二郡今年田租。及供行宮百姓之租。甲子。車駕還宮。
九月七日に臺忌寸少麻呂(宿奈麻呂)が以下のように言上している。居住地に基づいて氏名を付けることは従来からの恒例となっている。例えば河内忌寸は村の名によって氏名を貰っている。そのような例は一つではなく、そこで私の子弟と共に「臺」の氏を改めて「岡本」の姓を賜りたい、と述べ、許されている。
十一日に美濃國に行幸されている。十二日に近江國に至り、淡海を觀望(景色などを遠く広く見渡すこと)されている。「山陰道伯耆」・山陽道備後・南海道讃岐が”以來(集団で来て)”、諸國司等が行在所(仮の住居)に参上し、その地の歌や舞いを奏上している。
十八日に美濃國に至っている。東海道相摸・東山道信濃・北陸道越中が”集団で来て”、諸國司等が行在所に参上し、それぞれの演技を奏上している。二十日、「當耆郡」に行幸し、「多度山美泉」を天覧されている。従者の五位以上の者にそれぞれ物を与えている。
二十二日に従者の主典以上、及び美濃國司等にそれぞれ物を与えている。郡領以下、雑色四十一人を進位一階している。また不破・當耆の二郡の今年の田租を免じ、「方縣」・「務義」の二郡の百姓で行宮に供奉した者の租を免じている。
二十七日に帰還する途中に近江國に至り、従者の五位以上の者及び近江國司等にそれぞれ物を与えている。郡領以下、雑色四十余人を進位一階している。また「志我」・「依智」の二郡の今年の田租、百姓で行宮に供奉した者の租を免じている。二十八日に帰還されている。
山陰道伯耆國
また筑紫七國の一國であり、日向國、筑前國・筑後國など「西海道」に属すると解釈して来た。
それがここでは「山陰道」に属すると記載されている。この道が出雲國に繋がる道である・・・その通りであって何の矛盾もない・・・ではなかろう。結論から言えば、伯耆國と表記される地が二つあったのである。
出雲國の西側に隣接する國の図を示した通り、これらの地の地形的類似は見事である。更に付け加えれば、書紀の天武天皇紀に伯耆造が登場する。現地名京都郡みやこ町犀川崎山辺りと推定した場所もある。固有の名称と解釈しては、混乱するだけ、いや、そうなるように記載されているのである。
古事記では伯伎國と記載されていた。筑紫國の別名表記である。「筑紫國謂白日別」に通じる表現であり、「山陰道伯耆國」が本家本元の伯耆國だったのである。古事記以外の編者達にとって出雲と筑紫が隣接することに最も神経を尖らせたわけである。
前出の大隅國、伊豫國に続く複数の地に付けられた名称と思われる。繰り返すが、固有の地名ではなく、類似の地形の場所であることを示している。嘘は書かないが、それによって曖昧な表現となることを目論んだ結果であろう。尚、この段で「以来」の表記が用いられている。何となくその地からこちらに向かう全てを含むように読んでしまうが、上記したような解釈とした。
<美濃國:當耆郡・多度山> |
美濃國:當耆郡・多度山
前出の多伎郡の別名であろう。多伎=山稜の端が谷間で岐れている様から現在の北九州市小倉南区朽網東辺りと推定した。
當=向+八+田=同じように分かれて広がる様、耆=老+日=海老のように曲がって炎の形をしている様と読み解いた。
確かに「多伎」の単純な表現ではなく、より詳細に地形を表していることが解る。特に「耆」が示す地形が重要な意味を持っているのである。
「多度」は如何に解釈されるであろうか?…「多伎」にあるのだから”多伎山”で良さそうなのだが、そうは言わず、「度」に置き換えている。
「度」=「广+廿+又」に分解される。皮革を敷物にするため寸法を測る様を表すと文字と知られる。「度」は、「廿」に注目して「皮を広げた様」を表す解釈されるが、本来は「広げたものを測る様」であり、地形象形的には「広がった地を跨いで渡る様」と解釈される。
すると、多度山=山稜の広がった端を跨ぐように延びた山稜がある山と読み解ける。「耆」の片割れがその役割を果たしていることが解る。他の情報からこの場所であることが推定されているから読み解けるが、少々骨の折れる表記かと思われる。古事記では若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の孫、神大根王が祖となった長幡部連の場所と記載されていた地である。由緒ある地だったわけである。
美泉
美泉があったと言う。山の中腹ある御祖神社の近くに二つの泉が地図に記載されている。Google Mapと言えども林道の奥にある場所まではViewがないようで、確認できないが、美泉=谷間に広がる泉、いや、本当に美しかったのであろう。そして、これが元号「養老」の所以となるようである。一目で地形象形していることが解るが、ご登場の際としよう。
大寶二年(702年)に「美濃國多伎郡」の民七百十六人を近江國蒲生郡に遷したと記載されている。それ以前にも百濟からの帰化人を大挙入植させてもいる。古い地から新しい地の開拓を積極的に行ったのであろう。”淡海”に面する過酷な地を公地にすることは極めて重要な課題だったと思われる。
美濃國:方縣郡・務義郡
「身毛」及び「牟宜」の別名表記であろう。務=敄+力=矛のような山稜が太く延びる様、義=羊+我=谷間の山稜がギザギザと突き出ている様と解釈される。
記紀の表現よりも更に詳細を表したものと思われるが、「義」はそれなりに認められるが、「務」は些か地形の変化が大きく、定かではない。間違いはないとして、図に示した場所としておこう。
方縣=四角く区切られた地が山稜にぶら下っているような様と読み解ける。大野郡の山稜から延びた場所と推定される。現在の行政区分はこの辺りから京都郡苅田町に属している。ともかくも古代の美濃國は広大であったようである。『壬申の乱』では、和蹔と記載された地があった場所である。
近江國:志我郡・依智郡
淡海に面した場所であろう。既に蒲生郡が登場していて現在の京都郡苅田町新津辺りと推定した。ならばあまり選択の余地はなく、この二郡はその北側に隣接していたのであろう。
依智郡の依=人+衣=谷間にある山稜の端の三角の地、及び頻出の智=矢+口+日=鏃と炎の地形がある様と解釈して来た。「鏃」は難なく見出せるが、「日(炎)」は何処を示しているのか、暫し彷徨ったが、結果は図に示したような解釈となった。
現在の標高10m以下を青く表示するとこの地の海岸線が如何に複雑に入り組んでいたかを推測することができる。故に”淡海”(水が炎ような様)と言うのである。そしてこの地の「智」に重ねられていることが解る。何度も述べたように”淡水の海”のような矛盾する表記は、決して行われていないのである。
志我郡に含まれる頻出の志=蛇行する川であり、記紀・續紀を通じて用いられている文字である。我=ギザギザとした様であるが、それは互いに向きの異なるものが交差して生じる様である。「我」=「吾(五+口)」であり、「五」=「交差する様」そのものを表す文字である。
和銅六年(713年)十一月の記事に近江國が木連理十二株を献上したと記載されていた。山稜に十二の枝山稜(谷間は十一)が並んでいる様を表していると読み解いた。再度眺めると山稜が弓なりに曲がっていることが判る。即ち谷間から流れる川は幾重にも交差するように海に注ぐのである。示した図では一部にその様相が伺えるが、より詳細に眺めると全域に亘ってその様子が確認される。「木連理十二株」の谷間の特徴を見事に表現していると思われる。
ところで、行きも帰りも平城宮から近江國の行程は一日だ、と記載している。帰りならば、「近江國志我郡」の海辺で乗船し、近江大津で上陸後(半日)、前記の竹原井頓宮のルート(半日)を通れば宮に帰り着く。もしくは山背國まで川を遡って上陸するルートもあり得るであろう。総距離約30km、若い天皇にとっては苦にならなかった、かもしれない。いずれにしても一日の行程であることが分かる。独身で美人の天皇、何とも艶やかな道行き、だったのであろう。