日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(4)
養老元年(西暦717年)二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
二月壬申朔。遣唐使祠神祇於盖山之南。辛巳。賜大宰帥從三位多治比眞人池守。綾一十疋。絹廿疋。絁卅疋。綿三百屯。布一百端。褒善政也。壬午。天皇幸難波宮。丙戌。自難波至和泉宮。己丑。和泉監正七位上堅部使主石前。進位一階。工匠役夫。賜物有差。庚寅。車駕還。至竹原井頓宮。辛夘。河内攝津二國。并造行宮司及專當郡司大少毅等。賜祿各有差。即日還宮。甲午。遣唐使等拜朝。丙申。制曰。除造宮省之外。令外諸司判官。例無大少。官品宜准令員判官一人之例。又依令。一人帶數官者。祿從多處給。雖高官无上日。若滿卑官上日者。祿從多處。丁酉。以信濃。上野。越前。越後四國百姓各一百戸。配出羽柵戸焉。
二月一日に遣唐使が盖山(蓋のような山)の南で神祇を祭祀している。前記でも述べたがこの祠は平城宮の”艮”の方向にあり、遣唐使が航海の無事を”鬼”に対して祈願したのであろう。図を再掲する。
Wikipediaの解説を引用すると・・・、
日本では、古来から鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としているが、方位の呼び名(門)は、風水と同じく中国から伝来した陰陽道であるが、風水では鬼門を必要以上に恐れることはない。陰陽道が日本に伝わり日本の神仏習合思想と深く関わりをもつことで、日本独自の家相の発展が鬼門を異常に恐れる大きな要因とされる。
陰陽道の最盛期といわれる平安時代中期頃から、病気や疾病、地震、火災、天災など、そのすべてを神の祟りが起こすものと考えられ、祟りを起こす神の存在を鬼に例えて恐れたことが大きな理由とされる。鎌倉時代前期に著された「陰陽道旧記抄」に「竈、門、井、厠、者家神也云々」とあり、竈、門、井戸、厠など、病気に直結する場所を神格化させ、諸々の宅神から祟りをうけぬよう祭祀を行っていた歴史があり、鬼の門と名の付く北東方位を他の方位方角より恐れる方位になった。
・・・と記載されている。奈良大和の平城宮では春日山(別名御蓋山、平城宮の東南東)と言われるが、鬼門方位の祈願とはならない。平安中期以前のことだから?・・・。
十日に大宰帥の多治比眞人池守が善政を褒められて綾・絹などを賜っている。十一日に難波宮(難波長柄豐碕宮)に行幸している。十五日に難波より「和泉宮」(前出の珍努宮)に至っている。十八日、和泉監の正七位上の「堅部使主石前」を進位一階、技術者や労役の人夫にそれぞれ物を与え、翌十九日に「竹原井頓宮」に至っている。二十日、河内・攝津の二國の造行宮司及び行宮造営の郡司と大少毅等にそれぞれ禄を与えている。その日の内に宮に帰っている。二十三日に遣唐使等が拝朝している。
二十五日に以下のように定めている。概略は、造宮省を除く令外の諸司の判官の相当位階は大少の別なく判官を一人を置く場合に準じるべきである。また一人でいくつかの官職を兼ねている者の禄は令に定められているように多い禄の方で給与せよ。高い方の出勤日数が不足しても低い方で満たしていれば多い方で給与せよ、としている。
二十六日に信濃・上野・越前・越後の四國の百姓各百戸を出羽柵(越後國出羽郡に設置)の戸に配置している。和銅七年(西暦714年)十月の記事に尾張・上野・信濃・越後國等の民二百戸を配したと記載されていた。併せると六百戸を送り込んだことになる。蝦夷対策として土地整備が急がれていたのであろう。
前記でこの地は河内國和泉・日根・大鳥の郡を纏めて「和泉監」としたと記載されていた。國として分離独立させたわけではなく、やや中途半端な感じなのである。
その國守の任務に担う人物名が「石前」であったと記載されている。和泉宮(珍努宮)周辺は、田邊史一族が蔓延っていたのだが、何故かその一族からではなく、と言っても、おそらく同族であろうが、異なる氏姓の人物が選定されたようである。
幾度か用いられている堅=臣+又+土=谷間で山稜が手を延ばしたような様、使=人+吏=谷間で山稜が真ん中を突き通すような様、主=真っ直ぐに延びている様と解釈した。すると和泉宮の前方に延びる山稜の地形を表していることが解る。部=近隣として、「石前」の出自の場所は図に示した辺りと推定される。
少し後になるが、「解工」(用水工事)の名人として褒賞されたと記載されている。生業もさることながら、和泉宮造立の仕事があっぱれだったのであろう。また、その後に従五位下を叙爵されている。
竹原井頓宮
難波・和泉を巡って、最後に帰京する際に休まれた行宮と記載されている。行幸に伴う諸事のお世話を行ったのは河内・攝津國だったと述べている。文武天皇が慶雲三年(706年)十月に難波・攝津國等に行幸された時には山背國の面々が褒賞に与っている(こちら参照)。
おそらくこの行宮は難波・河内方面に建てられたと推測される。即ち現在の御所ヶ岳山系の北麓である。即日に帰還される最終日の前泊であり、平城宮との距離も重要である。
難波から山背への峠越えは古事記の伊邪本和氣命(履中天皇)が難波高津宮から遁走した波邇賦坂があった(現在みやこトンネルの上部、こちら参照)。確かにこの北麓は「竹」のような山稜が長く延びる地であって、それらしく思われるが、「井」を特定するには至らない。
この坂から西側の北麓を探すと、ずっと時代は遡って神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、日子八井命の出自の場所に辿り着く。八井=広がる谷間にある四角く区切られたところである。更に行宮(假宮)を示すのに頓宮の表記を行っているのには、必ず何らかの地形を示そうしているのであろう。
「頓」=「屯+頁」と分解される。「屯」=「山稜が小高いところから長く延びている様」、「頁」=「平たく広がった様」と解釈して来たが、それらを合わせると頓=平たく広がった小高い地から山稜が長く延びている様と読み解ける。「八井」の谷間の上に見出せる。
この地が行宮ならば、山背への峠道は、間違いなく、図に示した道程となろう。御所ヶ岳山系では傾斜が少なく、なだらかな峠道と思われる(麓との標高差約110m)。実は、このルートが最適であろうと気付きはしたものの、記紀・續紀を通じてそれを裏付ける記述がなかったのである。文武天皇の慶雲三年の行幸に伴う褒賞者の居場所がそれを暗示していたことに漸く気付かされた有様である。
尚、当時の道とは大きく異なるとは思われるが、頓宮から平城宮までは徒歩で15km前後と見積もれる。山道でもあり、時速3kmとしても5hr程度の距離と推測される。功労者に禄を与えて出発し、余裕で日没前には”即日還宮”だったようである。
思えば伊邪本和氣命(履中天皇)は、何が何でも一早く山背へ逃げ延びる必要があった。東から向かえば、やはり波邇賦坂であっただろう。また曙光のように燃え盛る高津宮を遠望することも物語として欠かせなかった、であろう。この假宮は、引き続き「竹原井行宮・離宮」と名前を変えながら登場する。”行宮”と記載された時点で、續紀の舞台は回転していたのかもしれない。
三月癸夘。左大臣正二位石上朝臣麻呂薨。年七十八。帝深悼惜焉。爲之罷朝。詔遣式部卿正三位長屋王。左大弁從四位上多治比直人三宅麻呂。就第弔賻之。并贈從一位。右少弁從五位上上毛野朝臣廣人爲太政官之誄。式部少輔正五位下穂積朝臣老爲五位已上之誄。兵部大丞正六位上當麻眞人東人爲六位已下之誄。百姓追慕。無不痛惜焉。大臣泊瀬朝倉朝庭大連物部目之後。難波朝衛部大華上宇麻乃之子也。己酉。遣唐押使從四位下多治比眞人縣守賜節刀。乙丑。制。令外諸司史生等。一季賜祿。降當司主典祿一等。是當少初位官祿。自非才伎別勅。一同此例也。
三月三日に左大臣の石上朝臣麻呂が七十八歳で亡くなっている。帝は深く悼み惜しんだと記している。政務も控えている。式部卿の長屋王、左大弁の多治比眞人三宅麻呂(直は誤り)を遣わして弔わせ、併せて從一位を贈っている。右少弁の上毛野朝臣廣人(小足に併記)が太政官として、式部少輔の穗積朝臣老が五位以上の者として、兵部大丞の「當麻眞人東人」が六位以下の者として、それぞれ弔辞を述べている。民も追慕し、悲しみ惜しまない者はいなかった、と記している。
大臣は、泊瀬朝倉朝庭(雄略天皇朝)の「大連物部目」の後裔であり、難波朝(孝徳天皇朝)の衛部大華上(正四位相当)の宇麻乃の子である。兄弟の「廣庭」の出自の場所に併記したが、纏めて図に示す。
九日に遣唐押使の多治比眞人縣守に節刀を授けている。二十五日、以下のように定めている。概略は、令の規定外の諸司の史生等に与える一季(二、八月の年二回の内の一回)の禄は、その官司の主典(第四等官)の禄より一等低い額とせよ。これが少初位の禄に相当しても優れた技能や特別の勅によって使える者以外は全てこのように扱え、と記している。
● 當麻眞人東人
「當麻眞人」の登場人物の系譜が王並みに不明のようである。原資料に記載がないから致し方なしなのであろうが、何か訳でもありそうな感じである。この人物も殆ど情報がなく、名前から出自の場所を推定するしか道はなさそうである。
當麻(摩)の限られた地故にある程度の確度で求められるであろう。東人=谷間を突き通す様は、以前にも述べたようにかなりの頻度で登場する。人気の名前であろう。
少し前に登場した大名の北側、谷間が一旦狭まって、その後広がる、逆言えば狭い谷間の入口の奥が広がっている場所と思われる。
現在は池があり、当時の姿そのものかは知る由もないが、その南側辺りが求める場所ではなかろうか。後に當麻眞人老が登場する。古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の孫、小俣王が祖となった當麻勾君の場所と思われる。彦山川の川辺に広がった後裔達が元の山麓の方に移動している様子が伺える。遠祖の地に舞い戻っている感じである。
後(聖武天皇紀)に當麻眞人廣人・當麻眞人廣名が、時期は異なるが、外従五位下を叙爵されて登場する。「當麻眞人」一族であるが、恒例の叱咤激励を込めた”外”からの昇進とされている。廣人=谷間が広がっているところとして図に示した出自と推定した。また廣名=山稜の端の三角州が広がっているところとして、廣人の西側と推定される。ここに登場した人物は、血縁関係と推測されるが、記録が残っていないようである。
● 大連物部目
石上朝臣麻呂の系譜が記載されている。上記したように父親の「宇麻乃」までは前記で読み解いていたが、遠祖の「目」まで遡っては調べていなかった。
とは言え、上記のように決して整然とした資料があるわけではなく、かなりの虫食い状態のようである。
「目」の父親が「伊莒弗」と知られ、兄弟の「荒山」、この系列から「守屋」が誕生している。結局「目」から「宇麻乃」への系譜は欠落のままである。「目」の活躍した時が雄略天皇紀であり、「守屋」とはおよそ百年前後の隔たり、「麻呂」は更に百年程度の後になったと思われる。
各人の出自の場所は、伊莒弗=谷間で区切られた山稜(伊)にある段々に積み重なって並ぶ二つの山稜(莒)の谷間が広がった(弗)ところと読むと、図に示した場所と推定される。目=目のような地形であろう。多分ヤギの目。父親の北隣である。荒山=水辺で山稜が途切れているところであり、更に北側の山稜の端の地形を表している。
奈洗=高台の麓(奈)にある水辺で山稜の先が突き出ている(洗)ところと読み解ける。谷間の中腹辺りにその地形を見出せる。尾輿=山稜が延びた端に[輿]の地形があるところと読むと「輿」の屋根を示すような地形がある。その麓が出自の場所であろう。守屋は既に読み解いて肘を張ったような山稜に囲まれた場所である。
直ぐ後に物部朝臣堅魚が登場する。「豐庭」が亡くなった後は石上朝臣の氏上となったと伝えられている。堅=臣+又+土=谷間で山稜が手のように延びている様と読み解いて来たが、それが魚のような地形と解釈される。図に示した場所は「磯」に突き出て、小高いところを「魚」に見立てた表記と思われる。別名に勝男と称していたようだが、これもその地形を示していると思われる。「麻呂」の子とも言われるが、不都合はない出自の場所と思われる。さてこの後は如何なることに?…機会あるごとに纏めてみよう。
夏四月乙亥。遣久勢女王侍于伊勢太神宮。從官賜祿各有差。是日發入。百官送至京城外而還。」以從五位下猪名眞人法麻呂。爲齋宮頭。丙戌。祈雨于畿内。癸未。太政官奏。定調庸斤兩及長短之法。語在別式。壬辰。詔曰。置職任能。所以教導愚民。設法立制。由其禁斷姦非。頃者。百姓乖違法律。恣任其情。剪髪髠鬢。輙着道服。貌似桑門。情挾姦盜。詐僞所以生。姦究自斯起。一也。凡僧尼。寂居寺家。受教傳道。准令云。其有乞食者。三綱連署。午前捧鉢告乞。不得因此更乞餘物。方今小僧行基。并弟子等。零疊街衢。妄説罪福。合構朋黨。焚剥指臂。歴門假説。強乞餘物。詐稱聖道。妖惑百姓。道俗擾乱。四民棄業。進違釋教。退犯法令。二也。」僧尼依佛道。持神咒以救溺徒。施湯藥而療痼病。於令聽之。方今僧尼輙向病人之家。詐祷幻恠之情。戻執巫術。逆占吉凶。恐脅耄穉。稍致有求。道俗無別。終生姦乱。三也。」如有重病應救。請淨行者。經告僧綱。三綱連署。期日令赴。不得因茲逗留延日。實由主司不加嚴斷。致有此弊。自今以後。不得更然。布告村里。勤加禁止。甲午。天皇御西朝。大隅薩摩二國隼人等。奏風俗歌舞。授位賜祿各有差。乙未。以從五位上上毛野朝臣廣人。爲大倭守。從四位下賀茂朝臣吉備麻呂爲河内守。
四月六日に「久勢女王」を遣わして伊勢太神宮に仕えさせている。従う官人それぞれに禄を与えている。この日出発し、百官等が見送っている。猪名眞人法麻呂(石前に併記)を齋宮頭に任じている。十七日に畿内で雨乞いをしている。十四日、太政官が調・庸の斤・両及び長短の規格を定めている。詳細は別途の式にある。
二十三日に以下のように詔されている。概略は、一つめは、官職に有能な人物を任命するのは民を教導するためであり、法律により禁制するのは悪事を禁断するためである。近頃は勝手気儘に髪を切り、僧服を着用している。見かけは僧侶だが邪な盗人の気持ちを秘めている。淫らで悪いことはここから生じるものである。二つめは、全て僧尼は寺の中にいて仏の教えを学び、世に伝えること、令によれば「乞食する者があれば三綱(寺の取締りをする役僧)が連著して國郡司に届け、午の刻(午前十一時~午後一時)以前に托鉢して食物を乞え。食物以外の物を乞うことはできない」とされている。今、小僧の「行基」とその弟子達は徒党を組んで濫りに罪業と福徳のことを説き、食物以外の物を乞い、聖の道と偽って人民を惑わしている。行基等は釈迦の教えに背き、同時に法令を犯している。三つめは、僧尼が仏の道に従って人を救い、薬を施すことは令で許されているが、病人の家に赴き偽って怪しげな祈りをし、まじないの術を用い、吉凶を占って老人や幼い者を脅し脅かしている。次第に報酬を求めるようになり、これでは僧侶と俗人の区別がなくなり、世の乱れが生じることになろう。もし救う必要のある重病人がおれば、淨らかに修行している僧尼を、僧綱・三綱を通して、赴かせるようにせよ。ただ僧尼がこれにかこつけて長逗留してはならない。真に監督官が厳しい取締りを行わないために、このような弊害が生じることになったのである。
「行基」はWikipediaによると(抜粋)…、
<668-749年>民衆へ仏教を直接布教することを禁止されていた当時、行基集団を形成し、畿内を中心に広く人々に仏教を説いた。併せて困窮者の救済や社会事業を指導した。当初、朝廷から弾圧や禁圧を受けたが、民衆の圧倒的な支持を得、その後、大僧正(行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の責任者として招聘され、この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。
…出自の地は河内國大鳥郡、師は道昭(道照)他と記載されている。「道昭」は、白雉四年653年四月の記事に遣唐使団一員として唐に渡って「玄弉三藏」に師事し、文武天皇即位四年(700年)三月の記事で亡くなった(火葬)と記載されていた。令の施行前で、仏法布教・社会事業を行ったことを褒め称えていた。仏法は、施政者にとっては両刃の刃・・・と言うことで、畏敬の念を込めて、「道昭」と同じく出自の場所を求めてみよう。
二十五日に西朝に御され、「大隅・薩摩」の二國の隼人等が本国の風俗で歌や舞を奏上し、それぞれ位階や禄を賜っている・・・<「大隅薩摩二國」については、元明天皇紀に「日向國」を分割して設置した大隅國ではなく、後の淳仁天皇紀になって判明する。こちら参照>・・・。 二十六日、上毛野朝臣廣人(小足に併記)を大倭守、賀茂朝臣吉備麻呂(鴨朝臣吉備麻呂)を河内守に任じている。
● 久勢女王
王の出自の省略は、何度も述べるように全く不詳の場合が多い。それぞれ理由があってのことなのであろうが、いずれにしても読み手にとって、その名前だけで充分に伝わると見做したのであろう。
例によって飛鳥の近辺で探索することにする。文字列は頻出であって、久=くの字形に曲がる様、勢=丸く小高くなっている様とすると、日下部(草壁)の地に見出すことができる。山稜の端が丸く小高くなるのは希少である。
図に示した通り、文武天皇(輕皇子)の北側の山稜の端が示す地形である。この地が出自とすると、多分、間違いなく輕皇子の子であったと推測される。元正天皇(氷高皇女)の姪に当たる。これならば従者の官人に禄を与え、百官達がお見送りをしたと記載していることと符号するように感じられるが・・・。
後(聖武天皇紀)に依羅王が無位から従五位下を叙爵されて登場する。皇曽孫の状況かと思われるが、上記と同様に經皇子の子であったのではなかろうか。吉備皇女の西側に当たる谷間と推定される。既出の文字列である依羅=山稜の端の三角州が並び連なっているところと読み解ける。
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余談だが、上記のようなことを書きながら、ネットを調べたら、歌人で斎宮研究で知られる山中智恵子(故人)氏が、久勢女王は文武天皇の子ではないか、と推測されている。後宮の勢力争いの渦中で、文武天皇妃の刀子娘も竈門娘も嬪号を剥奪された。皇位継承の混乱を避けるには端から候補者を失くすことであり、藤原不比等らしい周到さ、と受け取れる。この煽りを食らって史書から抹消された、との推論である。
續紀の嬪号剥奪の記述だけでも、異常な様相が伺える。その時に最も大きな影響を受けるのは、同列に居並ぶ連中であることも容易に推測される。後宮に立ち入ることができる人々が排除されて行ったのであろう。(古代の斎王:第十六代久勢女王参照)
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● 行基
出自は河内國大鳥郡と知られるが、それを信じて求めることにする。ただ鳥の地形が随分と平坦で、拡大して等高線を頼りに確認する。
すると現在の道路が「鳥」を縦に突っ切るように直線的に走っていることが判る。概ねそれに沿って段差があり、この地形を「行」と表記したと思われる。
「基」=「其+土」=「箕の形の台地」と解釈した。「其」は古事記に頻出する文字である。行基=真っ直ぐに延びる山稜の先に箕の形の台地があるところと読み解ける。
僧尼令で咎められようが、「行基」は手を緩めず布教・開拓を行ったようである。上記に詔されているが、監督官の取締り不十分の叱責は、裏返せば百官・國郡司の無能さ・怠慢さを示している。現状に甘んじる施政者がのさばると国は滅びることになろう。後の聖武天皇が「行基」を重用して大僧正にしたと伝えられている。さて、そんな物語にいつ届くことやら・・・。