2021年12月17日金曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(26) 〔563〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(26)


天平十一年(西暦739年)二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

二月戊子。詔曰。皇后寢膳不安。弥益疲勞。朕見此苦情甚惻隱。宜大赦天下救濟病患。自天平十一年二月廿六日戌時以前。大辟罪以下及八虐。常赦所不免者。咸赦除之。其癈疾之徒不能自存者。量加賑恤。仍令長官親自慰問量給湯藥。僧尼亦同。壬辰。勅。二月廿六日赦書云。敢以赦前事告言者以其罪罪之。宜暫可停。若百姓心懷私愁欲披陳者恣聽之。巡察使宜随事問知。具状録奏。勿依赦書罪告人。

二月二十六日に以下のように詔されている・・・皇后の寝食が不調で、疲労がいよいよ深まっている。朕はこの苦しみを見て、心中深く憐れみ悲しんでいる。そのために天下に大赦を行い、病の苦しみを救おうと思う。天平十一年二月二十六日の戌の時以前に発生した犯罪は、死罪以下の罪と八虐など普通の赦では免じられない者も、全て赦免せよ。また、廃疾の人々で、自活できない者には、その程度を量って物を施し救済する。そのため、その対象者を訪問し、程度に応じて煎じ薬を与えよ。僧尼に対しても同様とする・・・。

三十日に次のような勅を下している・・・二月二十六日の赦免の詔書には、「赦が発せられる以前の犯罪を告発する者は、その犯罪に相当する罰に処す」とあるが、暫くはそれを停止せよ。もし人民のうちで心に私的な愁いを懐いて、巡察使に心の中を打ち明けようとする者があったら、希望に任せてその訴えを聞け。巡察使はその事柄に従ってよく聞きただして、その内容を具に記録して、天皇に奏上せよ。赦免の詔書に定めたことだからと言って、申し出た者を処罰しないようにせよ・・・。

三月甲午。天皇行幸甕原離宮。丁酉。車駕還宮。癸丑。詔曰。朕恭膺寳命。君臨區宇。未明求衣。日昃忘膳。即得從四位上治部卿茅野王等奏稱。得大宰少貳從五位下多治比眞人伯等解稱。對馬嶋目正八位上養徳馬飼連乙麻呂所獲神馬。青身白髦尾。謹検符瑞圖曰。青馬白髦尾者神馬也。聖人爲政。資服有制。則神馬出。又曰。王者事百姓徳至丘陵。則澤出神馬。實合大瑞者。斯乃宗廟所祐。社稷所貺。朕以不徳。何堪獨受。天下共悦。理允恒典。宜賑給孝子順孫高年鰥寡惸獨。及不能自存者。其進馬人賜爵五級并物。免出馬郡今年庸調。自餘郡之庸。國司史生以上。亦各賜物。宜體此懷聿遵朕志焉。乙夘。天皇及太上天皇行幸甕原離宮。授外從五位上坂上伊美吉犬養從五位下。戊午。車駕還宮。庚申。石上朝臣乙麻呂坐姦久米連若賣。配流土左國。若賣配下総國焉。

三月二日に甕原離宮に行幸され、五日に戻られている。二十一日、以下のように詔されている・・・朕は天の貴い命を受けて天下に君臨している。それ故日の出前から衣服を着、日が暮れるまで食事のことを忘れるほどである。今、治部卿の茅野王(智努王)等の奏上を得たが、それによると[太宰少弐の多治比眞人伯(多夫勢に併記)等の上申を受けたが、〔對馬島の目の「養德馬飼連乙麻呂」が捕獲した神馬は、身体が青色で、尾とたてがみが白色である〕と言上している。---≪続≫---

謹んで『符瑞図』を検べると、〈青色の馬で、白い尾とたてがみを持つのは神馬である。聖人が政治をとり、財貨や服装に節度がある時には、神馬が出現する〉とある。また、〔王者が人民を大切にして德が丘陵にまで及ぶと神馬が沢の中から出現する〕とある。これは正に大瑞に相当するものである。]と奏上して来た。これはおたまやに祭られた祖先の助けであり、土地の神と五穀の神の贈物である。---≪続≫---

朕は不徳であって、朕一人で受けるのではなく、天下の人々共に悦ぶことが道理として常に変わらぬ掟に叶うのである。よって孝行な子と祖父母によく従う孫と高年齢の鰥・寡・惸・獨の人々、及び自活できない者には物を与えて救済せよ。また馬を進上した当人には位階を五階上げると共に物を与えよ。馬が出現した郡の今年の庸と調は免除せよ。對馬のその他郡は庸のみを免除せよ。國司の史生以上にそれぞれ物を与えよ。この思いをよく理解して身に付け、朕の志に進んで従うようにせよ・・・。

二十三日に天皇及太上天皇は甕原離宮に行幸され、坂上伊美吉犬養(伊美伎)に從五位下の内位を授けている。二十六日、帰還されている。二十八日に石上朝臣乙麻呂は「久米連若賣」(久米連奈保麻呂の娘)を犯した罪に坐して土左國に配流され、「若賣」は下総國に配流されている。

<對馬嶋:神馬(青身白髦尾)>
對馬嶋:神馬(靑身白髦尾)

類似の神馬が既に二頭記載されていた。一頭は甲斐國で”黒身白髦尾”、もう一頭は信濃國で同じく”黒身白髦尾”であった。「胴体が黒色、白色の鬣(たてがみ)と尾がある馬」と通常は解釈されているようだが、全くの誤りと断定した。

「髦」と「鬣」とは、全く異なる文字である。誤写で片付けるのであろうか・・・二度も?…いや、今回を含める
と三度になる。「髦」の意味するところが不明だから「鬣」に書換えたのなら、それらしいのだが、逆である。

今回は”靑身白髦尾”と記載されている。”青い馬”となっては、現実離れし、だから大瑞だ!と記載している。そのまま読んでは、史書ではなくなってしまうのである。

余談だが、多くの動物画を残したドイツのフランツ・マルクの作品に”青い馬”がある。ヒットラーが”青い馬などいるはずがない!”として、その政権下では不遇な立場にあったとか…更に徴兵されて戦死したのだから、短い生涯の間に残された作品は異彩を放っているようである。

その千年以上も前に現れた”青い馬”、聖武天皇は、発見者の五階の昇位とその喜びを民と共に分かち合っている。ところで、マルクは、何を”青”で表現しようとしたのか?…何故”青”で描いたのか?…また機会があれば、述べてみたい。

話を元に戻して・・・既出の靑=生+井(丼)=四角く取り囲まれた地から山稜が生え出ている様と解釈した。図に示した山稜に囲まれた地形を表していると思われる。現地名は対馬市厳原町久田である。そこに横たわっている神馬を見出すことができる。白髦尾=[鱗]のように生え出た尾のような山稜がくっ付いている(白)ところと解釈した。その地形も併せて確認することができる。

●養德馬飼連乙麻呂 前出の養德=谷間がなだらかに延びた地が四角く区切られているところであり、馬飼=馬の形の傍らでなだらかな谷間が狭まっているところと解釈した。これらを併せ持つ地が一族の居処と思われる。

大倭國を「大養德國」に改名したが、類似の地形を表す表記であることが確認される。図に示した谷間の出口辺りを表した表記と思われる。頻出の乙=乙の文字形のように曲がっている様であり、現在の久田小学校辺りが出自の場所と推定される。

「津嶋」と記載されて来た場所を「對馬嶋」に換えている。現在の表記である。「津嶋」は、対馬の上・下島の間にある「津」に着目した表記であるが、「対馬」は、その上・下島を表していると思われる。前記で述べたように、續紀が次第に元の地を拡大解釈しつつあるように感じられる。

<久米連若賣・藤原朝臣雄田麻呂>
● 久米連若賣

何ともスキャンダラスな記述であるが、少し背景を調べてみると、この女性は式家藤原朝臣宇合との間に「百川」(雄田麻呂。贈正一位・太政大臣)を産んでいる。「宇合」が亡くなった後の出来事だったようである。

未亡人を姦して罪に問われるとは、些か腑に落ちない話のようで、石上朝臣乙麻呂を陥れる謀略(橘宿祢諸兄)だったと推測されてもいる。まぁ、発覚したのが「宇合」の死後で、生前の密通とされたのかもしれない。

後に赦されて、最終従四位下まで昇進されたようである。その子、幼少から才能に溢れ度量があった「雄田麻呂」(母親の許で育てられたと推定)の尽力があったと言われているようである。「乙麻呂」も少し時期が遅れるが、赦されて最終従三位・中納言となっている。

さて、「久米連」は、神龜元(724)年に多くの「連」姓を賜った中に久米奈保麻呂が含まれていた。その娘が久米連若賣と知られている。若=叒+囗=多くの山稜が延びている様であり、「奈保麻呂」の西側の山稜の端の地形を示していると思われる。北側は菅生朝臣一族の居処だったと思われる。

夏四月甲子。詔曰。省從四位上高安王等去年十月廿九日表。具知意趣。王等謙沖之情。深懷辞族。忠誠之至。厚在慇懃。顧思所執。志不可奪。今依所請賜大原眞人之姓。子子相承。歴萬代而無絶。孫孫永繼冠千秋以不窮。戊辰。中納言從三位多治比眞人廣成薨。左大臣正二位嶋之第五子也。乙亥。令天下諸國改駄馬一疋所負之重大二百斤。以百五十斤爲限。戊寅。正六位上百濟王敬福授從五位下。正六位上田邊史難波外從五位下。壬午。陸奧國按察使兼鎭守府將軍大養徳守從四位上勳四等大野朝臣東人。民部卿兼春宮大夫從四位下巨勢朝臣奈氐麻呂。攝津大夫從四位下大伴宿祢牛養。式部大輔從四位下縣犬養宿祢石次爲參議。

四月三日に以下のように詔されている・・・高安王が去年の十月二十九日に奉った表を見て、具にその意図していることを知った。王等はへりくだった情により、皇族の地位を辞退しようと深く思っている。これは忠誠の極まりであり、ねんごろな心情は甚だ厚い。王等の思い詰めているところを顧みて考えると、その志すところを止めさせることはできない。今、請のままに「大原眞人」の氏姓を授ける。子が代々継承して、万代を経ても絶えず、孫も次々と永く受け継いで、千年を過ぎても終わりがないように、と願っている・・・。

七日に中納言の「多治比眞人廣成」が亡くなっている。左大臣の「嶋」の第五子であった(こちら参照)。十四日に天下の諸國に命令して、駄馬が背に負う荷物の重さを、大二百斤であったのを改めて百五十斤を限りとしている。十七日に百濟王敬福(①-)に從五位下、田邊史難波(史部虫麻呂に併記)に外從五位下を授けている。

二十一日に陸奧國按察使兼鎭守府將軍で大養徳守の大野朝臣東人、民部卿兼春宮大夫の巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)、攝津大夫の大伴宿祢牛養、式部大輔の縣犬養宿祢石次(橘三千代に併記)を參議に任じている。

五月甲寅。詔曰。諸國郡司。徒多員數。無益任用。侵損百姓爲蠧實深。仍省舊員改定。大郡大領少領主政各一人。主帳二人。上郡大領少領主政主帳各一人。中郡大領少領主帳各一人。下郡亦同。小郡領主帳各一人。辛酉。詔曰。天下諸國。今年出擧正税之利皆免之。諸家封戸之租。依令二分。一分入官。一分給主者。自今以後全賜其主。運送傭食割取其租。

五月二十三日に以下のように詔されている・・・諸國の郡司は必要以上に員数が多いので、任命しても益がなく、逆に人民の生活を侵し損ない、害をなうことが実に多い、そこで、旧来の人数を減じ、次のような定員に改める。大郡は大領・少領・主政が各一人と、主帳が二人。上郡は大領・少領・主政・主帳が各一人。中郡には大領・少領・主帳が各一人。下郡も中郡と同じ。小郡は郡領と主帳が各一人とする・・・。

三十日に以下のように詔されている・・・天下の諸國で、今年の正税出挙の利(稲)は、みな免除せよ。また諸家の封戸の租は令の規定によると、二等分し、一つは官に入り、一つは封戸の主に給していたが、これから以後は、全て封戸の主に与えるようにする。京までの運送の人夫の日当と食糧は、その租から割き取るようにせよ・・・。

六月戊寅。令諸國驛起稻咸悉混合正税。癸未。縁停兵士。國府兵庫點白丁。作番令守之。甲申。賜出雲守從五位下石川朝臣年足。絁卅疋。布六十端。正税三萬束。賞善政也。

六月十七日に諸國の駅起稲を正税の稲と混合して出挙させることにしている。二十二日に軍団の兵士を停止したために國府の兵庫は白丁(位のない一般の人民)から徴発して、当番を作り交替で守らせるようにしている。二十三日に出雲守の石川朝臣年足(石河朝臣)に絁・麻布・正税を賜っている。善政を褒めてのことである。

秋七月乙未。授外從五位下背奈公福信從五位下。正六位上新城連吉足外從五位下。癸夘。渤海使副使雲麾將軍己珎蒙等來朝。甲辰。詔曰。方今孟秋。苗子盛秀。欲令風雨調和年穀成熟。宜令天下諸寺轉讀五穀成熟經。并悔過七日七夜焉。

七月五日に背奈公福信に從五位下、新城連吉足(王吉勝に併記)に外從五位下を授けている。十三日に渤海使副使の雲麾將軍の己珎蒙等が来朝している。十四日に以下のように詔されている・・・今は正に秋の初めの七月で、稲は盛んに茂っている。この後も風や雨が順調で、穀物が成熟するようにありたいと願っている。そこで天下の諸寺に命じ、五穀成就経の転読と悔過(仏前で己の罪を懺悔して許しを乞う儀式)を七日七夜行わせよ・・・。

八月丙子。太政官處分。式部省蔭子孫并位子等不限年之高下。皆下大學一向學問焉。
九月庚寅朔。日有蝕之。
冬十月甲子。從四位下小野朝臣牛養卒。丙子。少僧都行達爲大僧都。丙戌。入唐使判官外從五位下平郡朝臣廣成。并渤海客等入京。

八月十六日に太政官が次のような処分を下している・・・諸司に就任せず、式部省に出仕して任官の機会を待っている蔭子・蔭孫や位子は年齢の上下に関わらず、全て大学に入学させて、ひたすら学問させよ・・・。

九月一日に日蝕があった、と記している。

十月五日に小野朝臣牛養(毛野に併記)が亡くなっている。十七日に少僧都の行達を大僧都としている。二十七日に入唐使判官の平郡朝臣廣成(平羣朝臣)及び渤海客等が入京している。

十一月辛夘。平郡朝臣廣成拜朝。初廣成。天平五年隨大使多治比眞人廣成入唐。六年十月事畢却歸。四船同發從蘇州入海。悪風忽起彼此相失。廣成之船一百一十五人漂着崑崙國。有賊兵來圍遂被拘執。船人或被殺或迸散。自餘九十余人着瘴死亡。廣成等四人。僅免死得見崑崙王。仍給升糧安置悪處。至七年。有唐國欽州熟崑崙到彼。便被偸載。出來既歸唐國。逢本朝學生阿倍仲滿。便奏得入朝。請取渤海路歸朝。天子許之。給船粮發遣。十年三月。從登州入海。五月到渤海界。適遇其王大欽茂差使。欲聘我朝。即時同發。及渡沸海。渤海一船遇浪傾覆。大使胥要徳等卌人沒死。廣成等率遣衆。到著出羽國。

十一月三日に平郡朝臣廣成が朝廷を拝している。詳細な経緯が記載されている・・・「廣成」は天平五年に、大使の多治比眞人廣成に随って入唐し、六年十月に使命を終えて帰国する時に、四つの船が同時に蘇州(蘇州市)を出発し、海に乗り入れたが、悪風が突然起こり、四隻の船は漂流してそれぞれを見失ってしまった。「廣成」の船の百十五人は崑崙國(ベトナム中部沿海地方)に漂着し、そこに賊兵が来て包囲され、ついに虜になった。---≪続≫---

船員は殺される者もあり、逃亡する者もあり、残った者のうち、九十人余りは南方の土地の悪い病(マラリアか?)に罹り死亡した。「廣成」等四人だけが漸く死を免れ、崑崙王に謁見することができ、わずかな食糧を与えられ、よくない場所に置かれた。天平七年になり、唐國欽州(広西壮族自治区)の唐に帰順した崑崙人がその地にやって来て、そこでこっそり助け出されて船に載せられて脱出し、ようやく唐國に帰ることができた。---≪続≫---

そうして日本の留学生の阿倍仲満(阿倍朝臣仲麻呂、船守の子。こちら参照)に逢い、そのとりなしで上奏して唐の朝廷に参入することができた。渤海経由の路を取って日本に帰ることを請願したところ、天子(玄宗皇帝)はこれを許可し、船と食糧を支給して、出発させた。---≪続≫---

十一年三月に登州(山東半島北部)より海に出て、五月に渤海の境域に到着し、たまたま渤海王大欽茂が使を派遣し、我が朝廷を訪れようとしていたので、直ぐにその使節に同行して出発した。「沸海」を渡る途中で、渤海の船の一隻が波にのまれて転覆し、大使の胥要徳等四十人が溺れて死んだが、「廣成」は残りの衆を率いて出羽國に到着した・・・。

およそ十二年前の神龜四(727)年九月の記事に渤海郡王の使者が”出羽國”に来着したのだが、”蝦夷”との境界にある地に上陸したために迎え撃ちされて三分の一ほどの人数となり、身包み剥がれた有様だったと記載されていた。この時に、渤海の船団は、出雲國(現北九州市門司区大里)に上陸し、現在の鹿喰峠を越えて”出羽國”に入ったと推察した(こちら参照)。おそらく今回も同様のルートで上陸を試みたのであろう。

更に今回は不幸な事件が発生し、”沸海”で遭難し、大使が亡くなっている。沸海=淡海と読むことができる。今度は、「廣成」が率いている故に”蝦夷”に襲撃されることはなかった。渤海使の侵入ルートは、即ち、新羅と肅愼國との往来のルートは天皇家が最も神経を尖らせるところであろう。

十二月戊辰。渤海使己珎蒙等拜朝。上其王啓并方物。其詞曰。欽茂啓。山河杳絶。國土夐遥。佇望風猷。唯増傾仰。伏惟。天皇聖叡。至徳遐暢。奕葉重光。澤流萬姓。欽茂忝繼祖業。濫惣如始。義洽情深。毎脩隣好。今彼國使朝臣廣業等。風潮失便。漂落投此。毎加優賞。欲待來春放廻。使等貪前。苦請乃年歸去。訴詞至重。隣義非輕。因備行資。即爲發遣。仍差若忽州都督胥要徳等充使。領廣業等令送彼國。并附大虫皮羆皮各七張。豹皮六張。人參三十斤。密三斛進上。至彼請検領。己夘。外從五位下平郡朝臣廣成授正五位上。自餘水手已上。亦各有級。正六位上祢仁傑外從五位下。

十二月十日に渤海使の己珍蒙等が朝廷を拝し、その王の手紙とその国の産物とを献上している。その手紙の文は以下のようであった・・・欽茂が申し上げる。山河が遥かに隔絶し、国土は遠く離れている。佇んで天皇の気高い人柄や民を導くはかりごとを望むと、仰ぎ見て尊敬の念が増すばかりである。---≪続≫---

慎んで思うに、天皇の尊い考えやこの上ない德は遠くまで広がり、代々立派な君王が現れて、その恩沢は全ての国民に及んでいる。欽茂はありがたいことに、先祖以来の業についで国を治めていることは、初めと変わっていない。義は国内に行き渡り、なさけは深く、常に隣国と友好の関係を保っている。---≪続≫---

いま日本の使者の「広業」(廣成)等が風や潮の状態が悪く、漂流没落して、渤海国に来た。常に丁寧にもてなし、来春を待って帰国させようと思ったが、使は前に進むことだけを欲し、今年中に帰国したいと強く望み請うた。彼等の訴えの言葉は重く、隣国との義理は軽くはない。---≪続≫---

よって旅行に必要の品を準備し、すぐさま出発させることとし、そこで若忽州都督の胥要徳等を指名して使とし、「広業」等を引き連れて日本に送らせた。併せて虎の皮と羆の皮をそれぞれ七張、豹の皮を六張、人参を三十斤、蜂蜜三石を付けて進上する。日本の国に到着したならば、調べて納めて頂きたい・・・。

二十一日に平郡朝臣廣成に正五位上、その他の水手以上にもそれぞれ位を授けている。また「禰仁傑」には外従五位下を授けている。

<禰仁傑>
● 禰仁傑

この人物の素性は全く不詳のようであり、廣成の随員でもない。憶測を逞しくすると、渤海船及び乗員の救助に協力した出雲國の人だったのではなかろうか。

「禰氏」についても情報は少ないが、出雲國風土記に記載されている「神門古禰」一族に関わる人物だった、のかもしれない。勿論、史書であからさまにされることはない國別配置であろう。

そんな背景で敢えて名前が示す地形を求めてみよう。禰=示+爾=高台が大きく広がっている様と解釈した。この地形が見られるのは、出雲國、現在の北九州市門司区大里、門司駅周辺の地域と思われる。

速須佐之男命の孫であり、大年神の子の大山咋神の出自の場所と推定したところである。その地形を、残念ながら現在は住宅地となって地形が判り辛くなってはいるが、陰影地形図を援用すると、何とか山稜の端の起伏を確認することができる。

幾度か登場した仁=人+二=谷間が並んでいる様であり、図に示した場所がその地形を示していることが解る。初登場の「傑」=「人+舛+木」と分解される。「舛」=「人が両足を拡げて立っている様」を象った文字と知られている。纏めると傑=谷間で小高くなって人が足を拡げたような様と読み解ける。

これらの地形要素を満たす場所が図に示した山稜の端に見出せる。現在の標高からして、この山稜の先は、淡海であったと思われる。即ち、この人物の居処からすると、淡海のことを熟知し、多くの手勢を抱える棟梁であり、一隻を除き渤海船団の窮地を救ったのではなかろうか。既に正六位上の爵位を持ち、出雲國の住人として認知されていた、と告げている。

出雲國と出羽國は、現在の鹿喰峠を挟んで背中合わせの配置である(こちら参照)。これは、決してあからさまに記述するわけにはいかなかった。書紀は、さることながら、續紀も、その捻じれを解くことは回避しているのであろう。