天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(25)
天平十一年(西暦739年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
十一年春正月甲午朔。出雲國獻赤烏。越中國獻白烏。丙午。天皇御中宮。授正三位橘宿祢諸兄從二位。從四位上大石王正四位下。從五位下黄文王。无位大市王並從四位下。无位茨田王從五位下。從四位下藤原朝臣豊成正四位下。正五位下縣犬養宿祢石次從四位下。從五位上賀茂朝臣助正五位上。從五位上多治比眞人占部正五位下。從五位下石川朝臣加美。紀朝臣宇美。藤原朝臣仲麻呂並從五位上。外從五位下小治田朝臣廣耳。大伴宿祢祜信備。佐伯宿祢常人並從五位下。外從五位下坂上伊美伎犬養外從五位上。正六位上倭武助。麻呂田連陽春。塩屋連古麻呂。物部依羅朝臣人會。紀朝臣豊川。村國連子虫並外從五位下。正四位下竹野女王。從四位下無漏女王並從三位。正四位下多伎女王正四位上。從四位下大和女王。廣湍女王。日置女王。粟田女王。河内女王。丹生女王並從四位上。從五位下春日女王。无位小長谷女王。坂合部女王。高橋女王。茨田女王。陽胡女王。從五位下藤原朝臣吉日。正五位下大宅朝臣諸姉並從四位下。從五位下宇遲女王。无位中臣殖栗連豊日並從五位上。无位紀朝臣意美奈。采女朝臣首名。采女朝臣若。岡連君子並從五位下。
正月一日に出雲國が「赤烏」を、越中國が「白烏」を献上している。いつもの調子でそんな地形を探すことになる。下記参照。十三日に天皇が中宮に出御されて以下の叙位を行っている。橘宿祢諸兄(葛木王)に從二位、大石王に正四位下、黄文王(長屋王の子)・大市王に從四位下、「茨田王」に從五位下、藤原朝臣豊成に正四位下、縣犬養宿祢石次(橘三千代に併記)に從四位下、賀茂朝臣助(鴨朝臣助)に正五位上、多治比眞人占部に正五位下、石川朝臣加美(枚夫に併記)・紀朝臣宇美・藤原朝臣仲麻呂に從五位上、小治田朝臣廣耳(當麻に併記)・大伴宿祢祜信備(祖父麻呂の子。小室に併記)・佐伯宿祢常人(豐人に併記)に從五位下、「坂上伊美伎犬養」に外從五位上、「倭武助」・麻呂田連陽春(荅本陽春、麻田連)・塩屋連古麻呂(吉麻呂)・物部依羅朝臣人會・「紀朝臣豊川」・「村國連子虫」に外從五位下、「竹野女王」・「無漏女王」に從三位、多伎女王に正四位上、大和女王(額田部王に併記)・廣湍女王(廣背女王。栗栖王に併記)・「日置女王」・粟田女王・河内女王・「丹生女王」に從四位上、「春日女王」・「小長谷女王」・坂合部女王(施基皇子の子。海上女王に併記)・高橋女王(酒部王に併記)・「茨田女王」・陽胡女王(鹽燒王に併記、臣籍降下後は氷上眞人陽侯)・藤原朝臣吉日・大宅朝臣諸姉(金弓に併記)に從四位下、「宇遲女王」・「中臣殖栗連豊日」に從五位上、紀朝臣意美奈(雜物に併記)・「采女朝臣首名」・「采女朝臣若」・「岡連君子」に從五位下を授けている。
出雲國:赤烏・越中國:白烏
正月恒例の献上物語が復活したのであろうか・・・赤と白の烏、既に多くの献上があった”瑞兆(鳥)”である。勿論、実在する鳥ではない。
<出雲國:赤烏・越中國:白烏> |
出雲國に直近では出雲國々造の「出雲臣果安」が登場し、その後も息子の「廣嶋」や「弟山」が”神賀詞”の神事を行ったと記載されていた(出自の場所はこちら参照)。推定された場所から古事記が述べる大年神の後裔と推測される。
図に示したように、その地で赤烏=炎ような山稜に挟まれた地にある烏の形の山稜が延びているところと解釈した場所が見出される。「弟山」の谷間の奥に当たる場所と推定される。標高およそ200m付近まで耕地に開拓したのであろう。
越中國の白烏=烏のような山稜がくっ付いているところは、そもそも越後國に大半の地域を分割されたことにより、とても存在し得ないように思われたが、男勝村の由来である男勝=[男]のような地が盛り上がっているところが、実は二つの山が寄り集まったように見ることができる。その寄り集まった山を、それぞれ「烏」と見做したのではなかろうか。その間にある谷間を開拓したのであろう。
● 茨田王 出自は全くの不詳のようである。古事記の上宮之厩戸豐聰耳命の弟である茨田王に関連するのかもしれない。古事記の表記からでは、広い出自の場所となるが、長皇子の子等の配置からすると、多分谷間の南側が該当する地だったように思われる。いずれにせよ、これ以上の詮索は止めることにする。
● 坂上伊美伎犬養
既に多くの人物が登場している東漢一族と思われる。更に調べると「首名」→「老」→「大國」の子であったことが分った。現在の行政区分では、京都郡みやこ町豊津・犀川続命院・犀川久富が入組んだ地域である。
犬養=平らな頂の麓にある谷間がなだらかに延びているところを探すと、父親の北側に、小ぶりだが、その地形を見出すことができる。
「犬養」の表記は、実に便利な地形象形表記であり、それ故に頻度高く、氏にも名にも、用いられているのであろう。「大國」のやや漠然とした表現に対して、極めて明瞭に出自の場所を特定することができると思われる。
「犬養」の子の坂上忌寸苅田麻呂は、最終従三位左京大夫となる。征夷大将軍坂上田村麻呂の父親でもある。「犬養」の北側に接する場所が出自と推定される。苅田=山稜に切れ目を入れるような田があるところと解釈する。
後(孝謙天皇紀)に坂上忌寸老人が渤海客の消息を調べるために派遣される役目を仰せつかっている。上記の系譜ではないようであるが、図に示した場所が出自と思われる。「國麻呂」の系列だったのかもしれない。頻出の老人=海老のように谷間が曲がっているところと解釈される。
● 倭武助
後に内位の従五位下を授けられて典薬頭に任じられる。医薬に長けた人物だったとのことである。関連する情報を調べると、この人物の子孫が皇統に絡むことになったようである。
息子の「乙繼」の娘である「高野新笠」が「施基皇子」の子、白壁王(後の光仁天皇)に娶られて、山部王(後の桓武天皇)を誕生させたのである。
ずっと後になるので、詳細はその時として、「武助」の出自場所を越前國(現地名北九州市門司区伊川)に求めることにする。
既出の倭=人+禾+女=谷間で山稜が嫋やかに曲がって延びている様であり、武=戈+止=山稜が矛のような様、助=且+力=段々に積み上げられた様と解釈したが、それらを組合わせたような地形が見出せる。
古事記の高志國之沼河比賣が坐した谷間の場所となる。上記したが、後に典薬頭を任じられたりして、内位の従五位下に昇進されている。
●紀朝臣豊川
相変わらず途切れずに「紀朝臣」一族が登場するが、出自が全く不詳の人物のようである。この「豊川」も同じくであり、系譜で繋がる系列が蔓延った地以外を探索することになろう。
豊(豐)=丰+丰+山+豆=多くの段差がある高台と解釈したが、これでは「紀朝臣」の地の至る所に存在する地形である。なかなに難物の様相である。
敢えて「河」の文字を使わずに「川」としたのに、ヒントがあるのかもしれない。と言うことで、川=水が真っ直ぐに流れている様とすると、図に示した谷間の地形を表していると思われる。
前出の馬主・犬養親子の北側の谷間辺りが、その地形を示している。既出の「紀朝臣」とは異なる地域の人物が登場しているように思われる。とは言え、名前の地形象形のみからの推定であり、また他の情報が得られたところで再度考察する。
● 村國連子虫
「村國連」は、元正天皇紀に「男(小)依」の子、志我麻呂が登場して以来である。頻度は高くないが、途切れることなく、この地から登用されていたようである。
系譜は不詳であるが、名前が示す地形から、その出自の場所を求めてみよう。頻出の「子」=「山稜が生え出た様」、「蟲」=「三つに細かく岐れた山稜が延びている様」と解釈した。
子蟲=生え出た山稜の端が三つに細かく岐れているところと読み解ける。図に示した「村國」の先端部の地形を表していることが解る。現在の松尾神社辺りと推定される。
後に村國連子老が登場する。態度が不遜で解職されたと記載されるのであるが、後に復活したり、なかなかに波乱な生涯であったようである。「老」=「海老のように曲がっている様」であり、子老=生え出た山稜の端が海老のように曲がっているところと読み解ける。現在の荘八幡神社の東側の谷間辺りと思われる。
更に後(淳仁天皇紀)に村國連虫麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。「子虫」の南側の山稜がその地形を示していると思われる。武志麻呂とも記載されたようであり、武志=戈のような山稜が蛇行する川辺に延びているところと解釈すると、「蟲」の三つの山稜の一つが大きく突き出ている様子を表したものであろう。
● 竹野女王
最終従二位まで昇叙されていることから、その出自は主要人物の子、あるいはその人物の配偶者かと推測されているが、定かではないようである。一説に長屋王に関わる人物と言われている。
図に示したように現在の呉川の畔は、正に「竹野」の様相であり、山稜の麓ではなく、水辺に出自を持つ女王だったのではなかろうか。
確かに位置的には長屋王の近辺の地であり、既に正四位下の爵位を持ち、初登場従三位の高位であるには単なる関り方ではなかったであろう。事変に絡んで消失あるいは抹消された履歴と推察される。
古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)紀に登場する旦波之大縣主(この時点では丹後國)由碁理の比賣、竹野比賣の出自場所の地形に類似するところと思われる。
● 無漏女王
久々に系譜の明確な女王の登場である。父親が美努王、母親が橘宿祢三千代であり、葛木王(橘宿祢諸兄)、佐爲王(橘宿祢佐爲)の妹になる。
更に藤原朝臣房前(北家)に嫁ぎ、「永手」を産んでいる(こちら参照)。夫が亡くなってからは”北の大家”と称されたとのことである。
兄の橘宿祢諸兄は、藤原四家が相次いで亡くなった後で右大臣になっていて、取り巻く環境は頗る恵まれたものであったことが伺える。正真正銘の”大物女王”であったようである。
さて、葛木王・佐爲王の近隣に無漏の地形は存在するのであろうか?…「無」は初登場である。通常「无」が用いられるのであるが、敢えて「無」としたのは、勿論、この文字が示す地形を表すためであろう。「無」=「人が飾りを持って舞う様を象る」、「舞」の原字と解説されている(こちら参照)。その古文字形を地形象形表記としたと思われる。
ところが、この地は大きく変形していることが分る。国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、枝分かれした山稜がぶら下がったように延びている場所が見出せる。既出の「漏」=「氵+尸+雨」=「水辺で小高い地が点々と連ねっている様」と解釈した。
纏めると無漏=小高い地が点々と連なって[牟]の古文字形ようになった山稜が水辺で延びているところと読み解ける。別表記と知られる牟漏女王の牟=囗+牛=谷間が牛の角のようになっている様であり、中央の谷間を表していることが解る。紀伊國牟漏郡の地形に極めて相似することが解る。
直ぐ後に橘宿祢諸兄(葛木王)の子、橘宿祢奈良麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。通常の叙位ではなく、酒宴の席で、気分良くなった天皇が授けたと記載される。流石、右大臣の蔭位であろう。奈良=山稜が高台のようになってなだらかに延びているところと解釈されるが、父親の南側にその地形を見出すことができる。
● 日置女王・小長谷女王
日置女王の出自は不詳のようであるが、初出で従四位上から、皇孫のように思われる。と言うことで飛鳥近辺の地域で探索してみよう。
既出の文字列である日置の日=山稜の端が炎のような様、置=网+直=真っ直ぐに延びる谷間を塞ぐような様と解釈した。
すると金辺峠に向かう谷間の奥で炎のような分岐した山稜が塞ぐように延びている場所が見出せる。この地は、古事記の大山守命が祖となった弊岐君の地に重なる場所である。巷間で伝えられる”日置=弊岐(ヘキ)”は、この地の地形を表す別表記だったことが解る。
小長谷女王は、忍壁皇子の子と知られている。「日置女王」も多分に、その可能性が高いのだが・・・「小長谷」の文字列は古事記の小長谷若雀命(武烈天皇)にも用いられている。一方、大長谷若建命(雄略天皇)では「大長谷」の文字列もある(長谷朝倉宮)。幾度か述べたように、古事記、多分續紀も、大=平らな頂の山稜(の麓)であり、小=三角形の山稜(の麓)である。
図に示したように竜ヶ鼻を頭とする三角形の谷間(小)が長谷となっていることに由来する名前であることが解る。この女王の出自の場所は、谷間の出口辺りと推定される。最終は従三位とのことである。
● 丹生女王・茨田女王
それぞれ従四位上・下の叙位であることから、皇孫のように思われるが、出自は不詳のようである。残念ながら王、女王の出自については大半が記録された資料が欠落している。
例によって飛鳥近辺で、名前を頼りに探索してみよう。丹生=山稜が谷間から生え出て延びているところと解釈される。書紀の斉明天皇紀に、田身(大務)嶺が登場していた。大務=平らな頂(大)から[矛]のような太い山稜(攴-力)が延びているところと解釈したが、その山稜を表していると思われる。
出自の場所は、延びた先の麓辺りと推定される。六人部王の東側に当たる。そう言えば、この王の系譜は不詳であったが、配置からすると高市皇子に関わるかもしれない、と憶測したが・・・根拠は希薄である。
茨田女王も同じく、名前が表す地形で探すと、前出の長田王(六人部王に併記)を挟んだ東側の谷間が茨田=谷間の棚田の地形であることが解る。長皇子の子、智努王(文室淨三)の室だったと言われている。上記の従五位下の「茨田王」は、皇孫ではないことから飛鳥近辺には配置しなかったわけである。
後に奈良王が従四位下に叙爵されて登場する。多分、皇孫であろうが、出自は不詳のようである。奈良=山稜が高台となってなだらかに延びているところと解釈すると、図に示した場所がその地形となっている。一つの候補地として可能なように思われる。
● 春日女王
「春日」は前出の春日王は施基皇子の子と知られているが、この女王の系譜は定かではないようである。従四位下に叙爵されていることから、皇孫には違いない。
そんな背景で飛鳥近辺で「春日」の地形を求めると、図に示した場所が見出せる。頻出の春日=[太陽]のような山稜から延び出た端が[炎]のようになっているところであり、上記の「春日王」も、その地形の場所を出自と推定した。
近接したところに天武天皇の田形皇女の出自の場所とした地があった。六人部王に嫁いだと知られているが、春日女王は、彼等に関連する系譜の持ち主だったのかもしれない。尚、この地を「日」と表記するのは、古事記の男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)紀に記載された味白檮之言八十禍津日前に含まれる「日」と思われる。
少し後に秦女王が無位から従四位下に叙爵されて登場する。やはり皇孫であったことは間違いないであろう。秦=艸+屯+禾=山稜が並んでしなやかに延びている様であり、その地形は、穂積皇子の出自の場所に見られる。図に示したように日下女王も含めて父親だったように思われる。
● 宇遲女王
従五位上に叙爵されて登場である。皇孫ではないが、それに近しい系譜の持ち主と思われる。それにしても出自に関しては、全く不詳であり、飛鳥近辺も少し範囲を広げて探索することになろう。
関連する記述として、前記で宇治王が登場していた。この人物の出自の場所を古事記の宇遲王…沼名倉太玉敷命(敏達天皇)の子…の場所と推定した。
ならば、隣合わせの場所が出自か?…となるが、續紀が「遲」と「治」を書き分けているとしたら、これら二つの文字が示す地形の相違を反映しているようにも思われる。遲=辶+犀=角のような形であり、一方、治=氵+台=耜のような形である。即ち前者は先が尖り、後者は先が広がっている様を表している。
すると、同じ宇=谷間に山稜が延びている様の地に先端の形が異なる山稜が見出せる。宇遲女王は、宇治王の北側にある山稜の麓を居処としていたと思われる。
後に配流されたが、大赦でも免じられなかったという小野王が登場する。全く出自は不詳であり、頻出の小野=山稜の端が三角に尖った地にある野原と読み解けるが、それらしき場所が、宇遲女王の東側、宇治王の北側に見出せる。古事記の木梨之輕王の出自に関わる地と思われる。特定が難しく、一提案である。
<中臣殖栗連豐日> |
● 中臣殖栗連豊日
「殖栗」の文字列は、殖栗物部名代で用いられていた。殖栗=栗のような地から真っ直ぐに山稜が延びて尽きるところと解釈される。
その地形を図に示した場所に見出すことができる。「物部」の地形に類似して、多くの山稜が重なり合うように延びている地であることが解る。
豐日=段差がある高台が炎のような形をしているところと読み解ける。「殖」の南麓の場所を示していると思われる。東側は「中臣熊凝連」、西側は「中臣宮處連」の場所と推定した。複雑に入り組んだ「中臣」の谷間の地形を忠実に反映した名前であろう。また、”複姓”にしなければ、とてもその出自の場所を特定できなかった、と思われる。
● 采女朝臣首名・采女朝臣若
「采女朝臣」は、采女朝臣枚夫(比良夫)が元明天皇紀に登場して以来となる。実に断続的であるが、途切れることはないようでもある。
「比良夫」の時に述べたが、この台地は大きく変形していて、とりわけ台地の上部は広大な住宅地となっている。「比良夫」は、その真っ只中だったのであるが、今回の登場人物は、山稜の縁で、些か手が掛からないように思われる。
頻出の首名=山稜の端の三角の地にある首の付け根のようなところと読むと、図に示した辺りが出自と推定される。これも頻出の若=叒+囗=多くの山稜が延び出ている様であり、「首名」の西側のギザギザとした麓辺りが出自と思われる。前記で求めた眞木山に集まる多くの山稜から枝が延びている様を示している。
後(称徳天皇紀)に采女臣家麻呂・采女臣家足等が朝臣姓を賜っている。「攝津職嶋下郡人」と記載され、出自は「采女」だが、嶋下郡が居処だったと伝えている。おそらく、それが理由で朝臣姓ではなかったのであろう。家=宀+豕=谷間で山稜の端が豚の口のようになっている様と解釈すると、図に示した場所が家麻呂、その隣の足=足のように二つに岐れた山稜が延びている様のところが家足の出自場所と推定される。
更に後(桓武天皇紀)に采女臣阿古女が外従五位下を叙爵されて登場する。阿古=台地にある丸く小高いところと解釈する。「古」は眞木山を表していると思われる。續紀中「采女臣」と記される最後の人物のようである。
● 岡連君子
「岡連」は、神龜四(727)年十二月の記事に、僧正の義淵法師が仏法の奥義を究め、かつそれを広めた功績で「賜岡連姓。傳其兄弟。」と記載されていた。
十年余りが過ぎて兄弟の中から登用(従五位下)したのであろう。系譜は不詳だが、これだけ素性が明確ならば、出自の場所を見出せるであろう。
既出の君子=区切られた山稜から生え出たところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。義淵法師の出自に近接したところと推定される。残念ながら、その後の登場を續紀は記載しないようである。
後に市往泉麻呂が「岡連」の氏姓を賜ったと記載される。上記したように「岡連」は「傳其兄弟」とされていたのが、時が経って「市往」の氏名を持つ人物にも拡張したのであろう。泉=囟+水=窪んだ地から水が流れ出ている様であり、谷間の奥に当たる場所に、その地形を見出せる。麻呂=萬呂と解釈される。
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漸く全ての登場人物の出自場所を、それなりに、並べ挙げることができた。地形の詳細に入り込むようになり、特定にかなりの時間を要するようになって来た。それを覚悟の上で、更なる前進を試みてみよう・・・。
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