天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(24)
天平十年(西暦738年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
十年春正月庚午朔。天皇御中宮。宴侍臣。饗五位已上於朝堂。信濃國獻神馬。黒身白髦尾。壬午。立阿倍内親王爲皇太子。大赦天下。但謀殺殺訖。私鑄錢。強竊二盜不在赦限。若罪至死降一等。其六位已下進位一階。高年窮乏孝義人等。量加賑恤。又貢瑞人賜爵及物。并免出瑞郡當年之庸。是日。授大納言從三位橘宿祢諸兄正三位。拜右大臣。從三位鈴鹿王授正三位。正五位上大伴宿祢牛養。高橋朝臣安麻呂。石上朝臣乙麻呂並從四位下。丙戌。皇帝幸松林。賜宴於文武官主典已上。賚祿有差。乙未。以從四位下石上朝臣乙麻呂爲左大辨。中納言從三位多治比眞人廣成爲兼式部卿。從四位下巨勢朝臣奈氐麻呂爲民部卿。正月是月。大宰府奏。新羅使級飡金想純等一百卌七人來朝。
二月丁巳。筑紫宗形神主外從五位下宗形朝臣鳥麻呂授外從五位上。出雲國造外正六位上出雲臣廣嶋外從五位下。
正月一日に中宮に出御されて侍臣と宴を行い、五位以上の者を朝堂で饗応している。信濃國が「黒身白髦尾」の「神馬」を献上している。十三日に阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を立てて皇太子としている(初の女性皇太子)。天下に大赦を行っている。但し、殺人を謀議して実行し終わった者、贋金造り、強盗・窃盗は赦の範囲に入れない。もし罪が死刑に相当する場合は罪一等を減じて流罪とせよ、と命じている。六位以下の官人に位を一階ずつ上げている。高齢者で窮乏している人と、孝義ある人には、その程度により物を恵み与えている。また、瑞祥の馬を奉った人には、位階と物を賜り、瑞祥を出した郡には今年の庸を免除している。
十七日に天皇は松林苑に行幸して、文部官の主典以上を招いて宴を行い、それぞれ禄を賜っている。二十六日に石上朝臣乙麻呂を左大辨に、中納言の多治比眞人廣成を兼務で式部卿に、巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)を民部卿に任じている。この月、大宰府が新羅の使者百四十七人が来朝して来たと奏上している。
二月十九日に「筑紫宗形」神主の宗形朝臣鳥麻呂(等抒に併記)に外從五位上を、出雲國造の出雲臣廣嶋(父親果安に併記)に外從五位下を授けている。疫病対策を徹底しているようである。文武天皇紀に「筑紫宗形」は「筑前國宗形郡」と記載されていた(こちら参照)。「筑紫」と「筑前」は厳密に書き分けられていたが、それを承知で敢えて「筑紫」と表記しているのである。天皇統治の天下は、前記の大野朝臣東人の遠征と同様に、徐々に拡大しつつある雰囲気である。
信濃國:神馬(黒身白髦尾)
久々の瑞祥…と言うことは、新たな開拓地の献上があったと記している。その馬が”黒身白髦尾”と述べているが、全く同じ表現が甲斐國献上の神馬でもあった(こちら参照)。
黒身白髦尾=山稜が馬の形した尾根から谷間に[炎]のような延びている山稜と[鱗]のように生え出た尾のような山稜がくっ付いている(白)ところと解釈した。
その麓は熊野之高倉下の後裔と言われる丸子大國の居処と推定した。谷間の奥を切り拓いたのであろう。信濃國と甲斐國、共に狭隘な谷間の地形であり、そこにある「毛(鱗)」のような小高い山稜に着目した表記であろう。
三月辛未。從六位上背奈公福信授外從五位下。丙申。施山階寺食封一千戸。鵤寺食封二百戸。隅院食封一百戸。又限五年施觀世音寺食封一百戸。
三月三日に「背奈公福信」に外從五位下を授けている。「背奈公」は高麗王の後裔とされているが、後に「高倉福信」と名乗り、多くの逸話の持ち主だったようである。活躍されて、最終従三位・弾正尹と伝えられている。
二十八日に山階寺(興福寺)に食封一千戸、鵤寺(斑鳩宮近隣)に食封二百戸、隅院(元興寺・興福寺に併記)に食封一百戸、また五年を限りとして觀世音寺に食封一百戸を施し与えている。正に神仏の総力に寄り縋った様相を呈している。續紀は書紀の表記、”斑鳩”を用いない。鵤=角+鳥=角に鳥の形をした山稜がある様の端的な地形象形表記に忠実なのである。
● 背奈公福信
調べると系譜は、背奈公福德から始まって、その子に福光と行文に二人、福光の子が福信であったことが分った。兄弟に福主と福延がいたことも併せて記録に残っていたのであろう。
既に登場した行文は叔父に当たる(こちら参照)。明經(儒教)第二博士として元正天皇から褒賞されていた。そんな背景で、本人の才覚も存分に発揮されたのではなかろうか。
福德から始まる名前に「福」が含まれている。福=示+畐=高台が酒樽のような形をしている様であり、図に示した山稜を表していることが解る。間違いなく、この山稜の麓に広がった一家だったと推測される。
德=彳+直+心=四角く区切られた様と解釈して、谷間の最奥が福德の居処と推定される。福光は、光=火+儿=炎のような山稜が谷間に延びている様から、福信は、信=人+言=谷間が耕地となっている様から、それぞれ図に示した場所が出自と思われる。他の兄弟も主=山稜が真っ直ぐに延びている様、延=廴+止+ノ=山稜が長く延びた様から図に示した「福」を取り巻く場所が出自と推定される。
高倉=谷間に皺が寄ったような地があるところと読み解ける。「背奈公」の「奈」を「高」で置き換えた表記であろう。勿論、使用許可が下りたものと思われる。「高麗」の名残を含め、流石に手慣れた改名である。
夏四月乙夘。詔。爲令國家隆平宜令京畿内七道諸國三日内轉讀最勝王經。庚申。從五位下佐伯宿祢淨麻呂爲左衛士督。從五位下藤原朝臣廣嗣爲大養徳守。式部少輔如故。從五位下百濟王孝忠爲遠江守。外從五位下佐伯宿祢常人爲丹波守。從五位下大伴宿祢兄麻呂爲美作守。外從五位下柿本朝臣濱名爲備前守。外從五位下大宅朝臣君子爲筑前守。外從五位下田中朝臣三上爲肥後守。外從五位下陽侯史眞身爲豊後守。
四月十七日に詔して、国家を栄え且つ平穏であらせるために京と畿内と七道の諸國に三日間、金光明最勝王経を転読させている。二十二日に佐伯宿祢淨麻呂(人足に併記)を左衛士督に、藤原朝臣廣嗣を式部少輔のままで大養徳守に、百濟王孝忠(①-❼)を遠江守に、佐伯宿祢常人(豐人に併記)を丹波守に、大伴宿祢兄麻呂を美作守に、柿本朝臣濱名(父親佐留に併記)を備前守に、大宅朝臣君子(廣麻呂に併記)を筑前守に、田中朝臣三上(稻敷に併記)を肥後守に、陽侯史眞身(陽胡史)を豊後守に、それぞれ任じている。
五月庚午。停東海。東山。山陰。山陽。西海等道諸國健兒。辛夘。使右大臣正三位橘宿祢諸兄。神祇伯從四位下中臣朝臣名代。右少弁從五位下紀朝臣宇美。陰陽頭外從五位下高麥太。齎神寳奉于伊勢大神宮。
六月戊戌朔。武藏守從四位下粟田朝臣人上卒。辛酉。遣使大宰賜饗於新羅使金想純等。便即放還。
五月三日に東海・東山・山陰・山陽・西海道等の諸國の健兒(選抜された衛士)を停止している。二十四日に右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)、神祇伯の中臣朝臣名代(人足に併記)、右少弁の紀朝臣宇美、陰陽頭の高麥太(背奈公行文に併記)を派遣して、伊勢大神宮に神寳を奉らせている。
秋七月癸酉。天皇御大藏省覽相撲。晩頭轉御西池宮。因指殿前梅樹。勅右衛士督下道朝臣眞備及諸才子曰。人皆有志。所好不同。朕去春欲翫此樹。而未及賞翫。花葉遽落。意甚惜焉。宜各賦春意詠此梅樹。文人卅人奉詔賦之。因賜五位已上絁廿疋。六位已下各六疋。丙子。左兵庫少属從八位下大伴宿祢子虫。以刀斫殺右兵庫頭外從五位下中臣宮處連東人。初子虫事長屋王頗蒙恩遇。至是適与東人任於比寮。政事之隙相共圍碁。語及長屋王。憤發而罵。遂引劔斫而殺之。東人即誣告長屋王事之人也。
七月七日(七夕)に天皇は大藏省に出御して相撲を観覧している。夕暮れに場所を変えて西の池の宮に出向き、そこで宮殿の前の梅の樹を指さし、右衛士督の下道朝臣眞備や諸々の才子に次のような勅を下している・・・人には皆それぞれ志があって、好むところも同じではない。朕は春よりこの樹を賞翫しようとしていたが、未だ至っていない。それと言うのも花も葉も慌ただしく落ちたためで、心中も甚だ惜しく思っている。汝等は各々春の心を詩に詠って、この梅の樹を詠むように・・・三十人の文学に心得のある人が詔を受けて、詩を作っている。これによって、そのうちの五位以上の者、六位以下の者に、それそれ絁を賜っている。
十日に左兵庫少属の大伴宿祢子虫(子君の子、手拍に併記)が刀を振るって、右兵庫頭の中臣宮處連東人を斬り殺している。「子虫」は初め長屋王に仕えて、大変手厚い待遇を受けていた。この時たまたま「東人」と隣合わせの寮の役人に任ぜられていた。政務の間に二人が共に囲碁を打ち、話が長屋王のことに及んだ時、「子虫」は、ひどく腹を立てて「東人」を罵り、遂に剣で斬り殺してしまった。「東人」は事実を偽って告発した人物である(こちら参照)。
閏七月癸夘。以從五位下阿倍朝臣沙弥麻呂爲少納言。從五位下紀朝臣宇美爲右中弁。從五位下多治比眞人牛養爲少弁。從五位下石川朝臣加美爲中務大輔。從五位下阿倍朝臣虫麻呂爲少輔。從五位下大井王爲左大舍人頭。從五位下久世王爲内藏頭。從四位下道祖王爲散位頭。從五位下阿倍朝臣吾人爲治部少輔。從四位下安宿王爲玄蕃頭。從五位下多治比眞人國人爲民部少輔。從五位下石川朝臣牛養爲主計頭。外從五位上文忌寸馬養爲主税頭。從五位上石川朝臣麻呂爲兵部大輔。外從五位下大伴宿祢百世爲少輔。從五位下宇治王爲刑部大輔。外從五位下大養徳宿祢小東人爲少輔。從五位下小田王爲大藏大輔。從五位下路眞人虫麻呂爲少輔。正五位下吉田連宜爲典藥頭。外從五位下大伴宿祢麻呂爲右京亮。從四位下大伴宿祢牛養爲攝津大夫。外從五位下中臣熊凝朝臣五百嶋爲亮。乙巳。以行達法師。榮弁法師。爲少僧都。行信法師爲律師。丁巳。外從五位下引田朝臣虫麻呂爲齋宮長官。外從五位下小野朝臣東人爲左兵衛佐。
閏七月七日に阿倍朝臣沙弥麻呂(佐美麻呂)を少納言、紀朝臣宇美を右中弁、多治比眞人牛養(池守の子の犢養)を右少弁、石川朝臣加美(枚夫に併記)を中務大輔、阿倍朝臣虫麻呂(豐繼に併記)を中務少輔、大井王を左大舍人頭、久世王(久勢王)を内藏頭、道祖王(鹽燒王に併記)を散位頭、阿倍朝臣吾人(豊繼に併記)を治部少輔、安宿王(長屋王の子)を玄蕃頭、多治比眞人國人(家主に併記)を民部少輔、石川朝臣牛養(枚夫に併記)を主計頭、文忌寸馬養を主税頭、石川朝臣麻呂(君子に併記)を兵部大輔、大伴宿祢百世(美濃麻呂に併記)を兵部少輔、宇治王(古事記の宇遲王)を刑部大輔、大養徳宿祢小東人(大倭忌寸小東人)を刑部少輔、小田王を大藏大輔、路眞人虫麻呂(麻呂に併記)を大藏少輔、吉田連宜(吉宜。智首に併記)を典藥頭、大伴宿祢麻呂(兄麻呂に併記)を右京亮、大伴宿祢牛養を攝津大夫、中臣熊凝朝臣五百嶋(古麻呂に併記)を攝津亮に、それぞれ任じている。
八月乙亥。外從五位下中臣熊凝朝臣五百嶋爲皇后宮亮。外從五位下於忌寸人主爲攝津亮。正五位下多治比眞人廣足爲武藏守。從五位下當麻眞人鏡麻呂爲因幡守。從五位下息長眞人名代爲備中守。外從五位下大伴直蜷淵麻呂爲伊豫守。外從五位下小治田朝臣諸人爲豊後守。甲申。停山陽道諸國借貸。大税出擧如舊。辛夘。令天下諸國造國郡圖進。
九月丙申朔。日有蝕之。庚子。内礼司主礼六人。始令把笏。辛丑。地震。甲寅。伊勢國飯高郡人无位伊勢直族大江授外從五位下。
八月十日に中臣熊凝朝臣五百嶋(古麻呂に併記)を皇后宮亮に、於忌寸人主を攝津亮に、多治比眞人廣足(廣成に併記)を武藏守に、當麻眞人鏡麻呂を因幡守に、息長眞人名代(臣足に併記)を備中守に、大伴直蜷淵麻呂(大伴直南淵麻呂、蜷[ミナ])を伊豫守に、小治田朝臣諸人(當麻に併記)を豊後守に、それぞれ任じている。十九日に山陽道の諸國の借貸を停止、但し大税の出挙は元のままとしている。二十六日に天下の諸國郡の図を進上させている。
九月一日に日蝕があった、と記している。五日に内礼司の主礼六人に初めて笏を持たせている。六日に地震があった。十九日に「伊勢國飯高郡」の人、「伊勢直族大江」に外従五位下を授けている。
● 伊勢直族大江
「伊勢國飯高郡」は、初めての登場である。書紀にも記載はなく、續紀で出現し、この後も幾度か登場するようである。関連する記述は、古事記の天帶日子命が祖となった伊勢飯高君であろう。
古事記に於いても、この記述以外に用いられることはなく、歴史の表舞台から全く遠のいていた地域だったと思われる。ただ、藤原朝臣不比等の子、麻呂(京家)や吉日の出自の場所が求められて、近隣が拓けていたことが述べられていたように思われる。
「族」=「㫃+矢」=「旗がたなびいた端が矢のようになっている様」と解釈される。纏めると直族=真っ直ぐに旗がたなびいた端が矢のようになっているところと読み解ける。そのままの地形が、「飯高」の谷間に見出せる。大江=平らな頂の麓にある水辺で窪んだところと読むと、この人物の出自の場所は、図に示した辺りと推定される。
後に伊勢直大津等が中臣伊勢連の氏姓を賜ったと記載されている。「大江」と同一人物かと錯覚しそうだが、「族」が付加されていない。大津=平らな頂の山稜が水辺で筆のような形をして延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
また、後(淳仁天皇紀)に中臣伊勢連老人が従四位下を叙爵されている。「仲麻呂」の謀反に際して功労があった褒賞である。老人=海老のように谷間が曲がっているところと解釈すると、「大江」の谷奥に当たる場所と推定される。褒賞は甚だしくて中臣伊勢朝臣の氏姓を賜っている。
更に後(称徳天皇紀)に中臣伊勢朝臣子老が外従五位下を叙爵されて登場する。谷間の先が「老」の地形を示している場所が出自と思われる。
冬十月丁夘。免京畿内芳野和泉監今年田租。己丑。遣巡察使於七道諸國。採訪國宰政迹黎民勞逸。甲午。大宰大貳正四位下紀朝臣男人卒。
十二月丁夘。從五位下宇治王爲中務大輔。從四位下高橋朝臣安麻呂爲大宰大貳。從五位下藤原朝臣廣嗣爲少貳。戊寅。仕丁役畢還郷。始給程粮。
十月三日に京・畿内・芳野監・和泉監の今年の田租を免じている。二十五日に巡察使を七道諸國に遣わして、國司の政治の成果と人民の暮らしの苦楽について調べさせている。三十日に大宰大貳の紀朝臣男人が亡くなっている。
十二月四日に宇治王(宇遲王)を中務大輔に、高橋朝臣安麻呂(父親笠間に併記)を大宰大貳に、藤原朝臣廣嗣を太宰少貳に、それぞれ任じている。十五日に仕丁の労役が終わって故郷に帰る時、初めて途中の食料を支給するようにしている。