2021年11月30日火曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(23) 〔560〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(23)


天平九年(西暦737年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

五月甲戌朔。日有蝕之。請僧六百人于宮中。令讀大般若經焉。壬辰。詔曰。四月以來。疫旱並行田苗燋萎。由是。祈祷山川。奠祭神祇。未得効驗。至今猶苦。朕以不徳實致茲災。思布寛仁以救民患。宜令國郡審録寃獄。掩骼埋胔。禁酒斷屠。高年之徒。鰥寡惸獨。及京内僧尼男女。臥疾不能自存者。量加賑給。又普賜文武職事以上物。大赦天下。自天平九年五月十九日昧爽以前死罪以下。咸從原免。其八虐劫賊。官人受財枉法。監臨主守自盜。盜所監臨。強盜竊盜。故殺人。私鑄錢。常赦所不免者不在赦例。

五月一日に日蝕があった、と記している。僧侶六百人を宮中に招いて、大般若経を読ませている。十九日に以下のように詔されている・・・四月以来、疫病と日照りが並行して起こって、田の苗は枯れて萎んでしまった。このために山川の神々に祈祷し、天神地祇に供え物を捧げて祭ったが、まだその効果が現れず、現在に至るまで依然として人民は苦しんでいる。朕が不徳なために、真にこのような災難を招いてしまった。それを反省して寛大で慈しみ深い心を世に布いて、人民の患いを救おうと思う。そこで國司・郡司に命令して、無実の罪によって獄に繋がれている者を審らかに記録させ、路上の骨や腐った肉を土中に埋めさせ、飲酒を禁じ、屠殺を止めさせるべきである。また、高齢者、鰥・寡・惸・獨、及び京内の僧尼や男女で病臥して自活できない者には、程度を量って物を恵み与えよ。また、広く文武の職事官以上には物を授ける。更に天下に大赦を行う。天平九年五月十九日の夜明けより以前の死罪以下、全て赦免せよ。但し、八虐や人を脅して盗みをした賊、収賄して法を曲げた者、管理下の官物を盗んだ者、強盗・窃盗、故意に殺人を犯した者、贋金造りなど、通常の恩赦では許されない者については、赦の範囲に入れない・・・。

六月甲辰朔。廢朝。以百官官人患疫也。癸丑。散位從四位下大宅朝臣大國卒。甲寅。大宰大貳從四位下小野朝臣老卒。辛酉。散位正四位下長田王卒。丙寅。中納言正三位多治比眞人縣守薨。左大臣正二位嶋之子也。

六月一日、朝廷での行事を廃止している。諸官司の官人が疫病に患っているからである。十日に散位の大宅朝臣大國(金弓に併記)、十一日には太宰大弐の小野朝臣老(馬養に併記)、十八日には散位の長田王(長皇子の子)、二十三日には中納言の多治比眞人縣守(左大臣嶋の子)が亡くなっている。

秋七月丁丑。賑給大倭。伊豆。若狹三國飢疫百姓。」散位從四位下大野王卒。壬午。賑給伊賀。駿河。長門三國疫飢之民。乙酉。參議兵部卿從三位藤原朝臣麻呂薨。贈太政大臣不比等之第四子也。己丑。散位從四位下百濟王郎虞卒。乙未。大赦天下。詔曰。比來。縁有疫氣多發。祈祭神祇。猶未得可。而今右大臣。身體有勞。寢膳不穩。朕以惻隱。可大赦天下救此病苦。自天平九年七月廿二日昧爽以前大辟罪已下咸赦除之。其犯八虐。私鑄錢。及強竊二盜。常赦所不免者。並不在赦限。丁酉。勅遣左大弁從三位橘宿祢諸兄。右大弁正四位下紀朝臣男人。就右大臣第。授正一位拜左大臣。即日薨。遣從四位下中臣朝臣名代等監護喪事。所須官給。武智麻呂贈太政大臣不比等之第一子也。

七月五日に大倭・伊豆・若狭の三國の、飢饉と疫病で苦しむ人民に物を恵み与えている。散位の「大野王」(天武天皇の忍壁皇子の子)が亡くなっている。十日に伊賀・駿河・長門の三國の飢饉と疫病に苦しむ人民に物を恵み与えている。十三日に参議・兵部卿の藤原朝臣麻呂(萬里)が亡くなっている。贈太政大臣の不比等の第四子であった。十七日に散位の百濟王郎虞()が亡くなっている。

二十三日に天下に大赦し、以下のように詔されている。「此の頃、疫病の気が頻りに起こるために、神祇に祈祭するけれども、まだ事態は改善されていない。しかも現在、右大臣(藤原朝臣武智麻呂)は身体に疲労があり、寝食も平常ではない。朕は憐れみ痛ましく思う。天下に大赦を行い、この病苦を救いたいと思う。天平九年七月二十二日の夜明けより以前の大辟の罪以下、皆悉く赦免する。但し、八虐を犯した者、贋金造り、及び強盗・窃盗、通常の恩赦では許されない者は、並びに赦の範囲に入れない。」

二十五日に勅して、左大弁の「橘宿祢諸兄」(葛木王諸兄:母親三千代の地形)と右大弁の紀朝臣男人を遣わし、右大臣の邸宅に赴かせ、正一位を授け、左大臣に任命している。その日の内に亡くなっている。中臣朝臣名代(人足に併記)等を遣わして、葬儀を監督・護衛させている。用いる品々は官物より支給している。「武智麻呂」は、贈太政大臣不比等の第一子であった。

八月壬寅朔。中宮大夫兼右兵衛率正四位下橘宿祢佐爲卒。癸夘。命四畿内二監及七道諸國。僧尼清淨沐浴。一月之内二三度令讀最勝王經。又月六齋日禁斷殺生。丙午。參議式部卿兼大宰帥正三位藤原朝臣宇合薨。贈太政大臣不比等之第三子也。甲寅。詔曰。朕君臨宇内稍歴多年。而風化尚擁。黎庶未安。通旦忘寐。憂勞在茲。又自春已來災氣遽發。天下百姓死亡實多。百官人等闕卒不少。良由朕之不徳致此災殃。仰天慚惶。不敢寧處。故可優復百姓使得存濟。免天下今年租賦及百姓宿負公私稻。公稻限八年以前。私稻七年以前。其在諸國能起風雨爲國家有驗神未預幣帛者。悉入供幣之例。給大宮主御巫。坐摩御巫。生嶋御巫及諸神祝部等爵。丙辰。爲天下太平國土安寧。於宮中一十五處。請僧七百人。令轉大般若經。最勝王經。度四百人。四畿内七道諸國五百七十八人。庚申。以正四位上多治比眞人廣成爲參議。辛酉。三品水主内親王薨。天智天皇之皇女也。甲子。正五位下巨勢朝臣奈氐麻呂爲造佛像司長官。丁夘。以玄昉法師爲僧正。良敏法師爲大僧都。

八月一日に中宮大夫・右兵衛率の「橘宿祢佐爲」(佐為王)が亡くなっている。二日、畿内四ヶ國・二監、及び七道の諸國に命令を下し、僧尼は沐浴して身を浄め、一ヶ月の内に二、三回、金光明最勝王経を読誦させている。また、月々の六齋日には殺生を禁断させている。五日に参議・式部卿・太宰帥の藤原朝臣宇合が亡くなっている。贈太政大臣不比等の第三子であった。

十三日に以下のように詔されている・・・朕は天下に君主として臨んで、ようやく多くの年を経た。しかし徳によって人民を教え導くことにはまだ障害があって、人民はまが安らかに暮らしていない。夜もすがら寝ることも忘れ、憂い気遣っているのは、このことである。また春以来、災厄の気がしきりに発生し、天下の人民で死亡する者が実に多く、百官人の中にも欠け死亡する者が少なくない。真に朕の不徳によって、この災厄を生じたのである。天を仰いで慚じ恐れ、あえて安んじるところもない。そこで人民に免税の優遇を行い、生活の算定を得させたいと思う。ついては、天下の今年の田租、及び人民が多年にわたり負債として負っている公・私の出挙の稲を免除せよ。公出挙の稲は八年以前、私出挙のそれは七年以前を限って債務を破棄せよ。更に幣帛の頒布に預かっていない神々は、全て奉幣の例に入れよ。神祇官の大宮主、御巫、坐摩、の御坐、生嶋の御坐、及び諸神社の祝部等に位階を授けよ・・・。

十五日に天下太平・国土安寧のため、宮中の十五ヶ所において、僧侶七百人を招いて大般若経・金光明最勝王経を転読させ、四百人を出家させている。畿内四ヶ國・七道の諸國でも五百七十八人を出家させている。十九日に多治比眞人廣成を参議に任じている。二十日、水主内親王が亡くなっている。天智天皇の皇女であった。二十三日に巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)を造仏像司の長官に任じている。二十六日に玄昉法師を僧正に任じ、「良敏」法師を大僧都に任じている。

<良敏法師>
● 良敏法師

「良敏法師」は初見であり、またこの後に登場されることもなく、極めて情報の少ない僧だったようである。そこで他書を含め探索を行うと、尾張國の人であり、父親が熱田神宮に関わる人物だったと伝えられていることが分かった。

熱田神宮も書紀の天武天皇紀に尾張熱田社として登場しているが、決して頻度高くはない状況である。唯一の情報であるこれを頼りに「良敏」が示す地形から出自の場所を求めてみよう。

「敏」=「毎+攴」=「山稜が枝分かれした地に母が子を抱くように山稜が取り囲んでいる様」と解釈される。敏達天皇に用いられているが、これは地形象形表記ではなく、どうやらこの人物に初めて用いられた文字のように思われる。

纏めると良敏=なだらかに延びる山稜から枝分れした傍らで母が子を抱くように山稜が取り囲んでいるところと読み解ける。「敏」に含まれる枝分れした山稜があることが要であろう。

「尾張熱田社」は、残念ながら開発が進行し、当時の地形を知り得ないが、幸運にも1961~9年の国土地理院航空写真を参照することができ、現在の小倉東IC辺りと推定した。續紀の元明天皇紀に、この地は尾張國愛知郡と名付けられいたと記載されていた。その地で「良敏」が表す地形を図に示した場所に確認できることが解った。良敏法師の出自の場所として申し分のない場所であろう。

九月癸巳。詔曰。如聞。臣家之稻貯蓄諸國。出擧百姓。求利交關。無知愚民不顧後害。迷安乞食忘此農務。遂逼乏困逃亡他所。父子流離。夫婦相失。百姓幣窮因斯弥甚。實是國司教喩乖方之所致也。朕甚愍焉。濟民之道豈合如此。自今以後。悉皆禁斷。催課百姓。一赴産業。必使不失地宜。人阜家贍。如有違者。以違勅論。其物沒官。國郡官人。即解見任。是日。停筑紫防人歸于本郷。差筑紫人令戍壹伎對馬。己亥。以從三位鈴鹿王爲知太政官事。從三位橘宿祢諸兄爲大納言。正四位上多治比眞人廣成爲中納言。」廣成及百濟王南典並授從三位。從四位下高安王從四位上。无位諱〈天宗高紹天皇也。〉道祖王並從四位下。无位倉橋王。明石王。宇治王。神前王。久勢王。河内王。尾張王。古市王。大井王。安宿王並從五位下。正五位下巨勢朝臣奈氐麻呂。正五位上藤原朝臣豊成並從四位下。正五位下大伴宿祢牛養。高橋朝臣安麻呂。石上朝臣乙麻呂並正五位上。從五位上縣犬養宿祢石次。吉田連宜並正五位下。從五位下石河朝臣麻呂從五位上。正六位上阿倍朝臣吾人。石川朝臣牛養。多治比眞人牛養。阿倍朝臣佐美麻呂。從六位下巨勢朝臣淨成。從六位上藤原朝臣乙麻呂。藤原朝臣永手。藤原朝臣廣嗣並從五位下。正六位上爲奈眞人馬養。紀朝臣鹿人。賀茂朝臣高麻呂。路眞人宮守。波多朝臣孫足。從六位下佐伯宿祢常人。正六位上平羣朝臣廣成。〈在唐未歸〉大宅朝臣君子。穗積朝臣老人。從六位上大伴宿祢祜信備。正六位上柿本朝臣濱名。太朝臣國吉。正六位下巨勢斐太朝臣嶋村。菅生朝臣古麻呂。正六位上小野朝臣東人。正六位下中臣熊凝朝臣五百嶋。正七位上阿倍朝臣虫麻呂。從七位上縣犬養宿祢大國。正六位上土師宿祢御目。高麥太。民忌寸大梶。於忌寸人主。文忌寸馬養。大津連船人並外從五位下。」因施兩京四畿二監僧正以下沙弥尼已上。惣二千三百七十六人綿并鹽各有差。

九月二十二日に以下のように詔されている・・・聞くところによると、諸臣等は、稲を諸國に貯え、人民に出挙し、また利益を求めて交易しているようである。無知で愚かな人民は、後の被害を顧みず、一時の安楽に迷わされて、出挙稲を植物として乞い、その農業のつとめを忘れて遂に窮乏に陥り、本籍を捨てて他所に逃亡し、父子離散し、夫婦が相手を失ってしまう。人民の困窮は、このためにいよいよ甚だしい。真にこれは、國司が教え諭すのに、方法を誤ったことから起こっているのである。朕は非常にこれを憐れに思う。人民を救済する道は、どうしてこのようであってよいであろうか。今より以降、悉く禁止せよ。そして人民を督励してもっぱら生業に就かせ、土地のよい条件を生かすようにさえすれば、人民は豊かに、家々は賑わうであろう。もし違反する者がおれば、違勅の罪をもって論断し、その物は官に没収せよ。國郡の官人は直ちに現職を解任せよ・・・。この日、筑紫防人を停止して、出身地に帰し、代わって筑紫人を徴発して壹伎・對馬を守備させている。

二十八日に以下の人事・叙位を行っている。鈴鹿王を知太政官事、「橘宿祢諸兄」(葛木王、諸兄:母親三千代の地形)を大納言、多治比眞人廣成を中納言に任じている。「廣成」及び百濟王南典()に從三位、高安王に從四位上、无位諱〈天宗高紹天皇也。〉(白壁王、施基皇子の子。後の光仁天皇)・道祖王(新田部皇子の子、鹽燒王に併記)に從四位下、「倉橋王」・「明石王」・「宇治王」・「神前王」・「久勢王」・「河内王」・「尾張王」・「古市王」・「大井王」・安宿王(長屋王の子)に從五位下、巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)藤原朝臣豊成に從四位下、大伴宿祢牛養高橋朝臣安麻呂(父親笠間に併記)石上朝臣乙麻呂に正五位上、縣犬養宿祢石次(橘三千代に併記)吉田連宜(吉宜。智首に併記)に正五位下、石河朝臣麻呂(君子に併記)に從五位上、阿倍朝臣吾人(豊繼に併記)・石川朝臣牛養(枚夫に併記)・多治比眞人牛養(池守の子の犢養)・「阿倍朝臣佐美麻呂」・「巨勢朝臣淨成」・藤原朝臣乙麻呂(武智麻呂の子)藤原朝臣永手(房前の子)・「藤原朝臣廣嗣」に從五位下、「爲奈眞人馬養」・紀朝臣鹿人(多麻呂に併記)・賀茂朝臣高麻呂(治田に併記)・路眞人宮守(麻呂に併記)・波多朝臣孫足(波多眞人余射に併記)・佐伯宿祢常人(豐人に併記)平羣朝臣廣成〈在唐未歸〉(豊麻呂の子)・大宅朝臣君子(廣麻呂に併記)・「穗積朝臣老人」・大伴宿祢祜信備(祖父麻呂の子。小室に併記)・柿本朝臣濱名(父親佐留に併記)・太朝臣國吉(遠建治に併記)・巨勢斐太朝臣嶋村(大男に併記)・菅生朝臣古麻呂(大麻呂に併記)・小野朝臣東人(馬養に併記)・中臣熊凝朝臣五百嶋(古麻呂に併記)阿倍朝臣虫麻呂(兄の豐繼に併記)縣犬養宿祢大國(筑紫に併記)・土師宿祢御目(百村に併記)・高麥太(背奈公行文に併記)・民忌寸大梶(比良夫に併記)・「於忌寸人主」・文忌寸馬養大津連船人(大津連意毘登[沙門義法]に併記)に外從五位下を授けている。

また、左右両京・畿内四ヶ國・二監の僧正以下、沙弥以上の身分の僧侶、総数二千三百七十六人に、それぞれ真綿・塩を施与している。

● 倉橋王 この王を筆頭に無位の王が列記されている。出自の系譜が知られている王が少なく、関連する情報も得られない有様である。名前と元は宮があった地を頼りに出自の場所を推測してみよう。倉橋王の出自の場所は、書紀の天武天皇紀に齋宮於倉梯河上と記載された齋宮ではなかろうか。慶雲二(705)年に文武天皇が行幸された「倉橋離宮」として登場していた。

<明石王>
● 明石王

系譜は不詳であり、歴代の天皇が坐した宮の場所と探索すると、右図に示した場所が浮かんで来た。古事記の沼名倉太玉敷命(敏達天皇)の他田宮、書紀では譯語田宮御宇天皇(敏達天皇)の幸玉宮近隣の地である。

既出の明=日+月=炎を夕月の地形が並んでいる様石=厂+囗=山麓の区切られた様から、図に示したところが出自の場所と推定される。直近では明石の文字列は、播磨國明石郡で用いられていた。同様の解釈である。

養老五(721)年に、文人と武人を重んじて唱歌師の記多眞玉に褒賞が与えられたと記載されていたが、その人物の出自の場所を幸玉宮の北側と推定した。宮の周辺で文化が育まれていたのであろう。

● 宇治王 別名で宇遲王と記されたと伝えられているようだが、この王も系譜が定かではない。古事記の沼名倉太玉敷命(敏達天皇)の子に宇遲王がいたと知られているが、多分、その地が出自だったのではなかろうか。現在の田川郡香春町のJR採銅所駅の北西に隣接する場所である。

<神前王>
● 神前王

調べると「栗前(隈)王」の子の武家王が父親だったと伝えられている。『壬申の乱』において重要な役割を果たした家族である。

兄の「三野王(美努王)」及びその子等(葛木王・佐爲王)の活躍も多く伝えられている。「栗前王」の孫となると、敏達天皇の後裔となる。

「武家王」の近隣を見ると、神前=長く延びた山稜の前のところであり、漠然とした表記であるが、臣籍降下後の「甘南備眞人」姓が詳細な場所の地形を表していることが解った。

既出の文字である、甘=谷間から山稜が延び出ている様南=勢いよく伸びている様備=箙のような形をした様と解釈すると、父親の北側の谷間を表していると思われる(甘檮岡雙家など参照)。「甘南備」は”神奈備”に重ねて表記であろう。「前」は祖父の「前」を引き継いだのかもしれない。

ところで古事記には沼名倉太玉敷命(敏達天皇)の子に智奴王(書紀では茅渟王)がいたが、全くその場所に重なっていることが解る。更に遡れば伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の子の本牟智和氣命の出自の場所でもある。引き継がれて用いられて来た居処だったのであろう。

<久勢王・三室王・高丘王>
● 久勢王

調べると天智天皇の子、川嶋皇子の系列であったようである。皇子の子、三室王が父親の系図が残っているとのことである。天智天皇の曽孫に当たることになる。

兎も角も川嶋皇子の近辺で、「三室」、「久勢」の地形を求める・・・と書くまでもなく、久勢=くの字形に曲がっている丸く小高いところが見出せる。何とも微妙に折れ曲がっている場所である。

すると、父親の三室=三つの山稜に囲まれて谷間が奥深くに延びているところが、その東側に確認される。「御室王」の別名があったようであるが、確かに束ねている場所を示している。尚、「久勢王」にも久世王の別名表記があったと知られている。久世=くの字形に曲がった地が途切れずに繋がっているところと読み解ける。常世國の表記に類似し、地形象形表記として、かなり明確に確認される例と思われる。

後に高丘王が無位から従五位下に叙爵されて登場する。何だか忘れられたような存在であるが、川嶋皇子の末っ子、三室王の弟、であったと知られている。高丘=皺が寄ったような山稜の麓が丘になっているところと読むと、図に示した場所が出自と思われる。

● 河内王 今回の无位から従五位下に叙爵以降、三十数年間に幾度か登場され、最終正五位下にまで昇進されたと伝えられているが、系譜は全く知られていないようである。多くの同一人物名があり、「河内」という特定し辛い名前でもある。詳細は別途として、前出の河内女王の近隣と推定する。

● 尾張王 出自は不詳であるが、後に「右京人」と修飾されて記載される。少々入組んだ内容なのだが、この王は河内國古市郡に所管する地を保有していたようで、白龜を献上したと述べてる。出自の場所は、書紀で記載された敏達天皇の子、尾張皇子の場所ではなかろうか(こちら参照)。詳細は天平十七(745)年十月の記事で述べることにする。

<古市王・大井王>
● 古市王・大井王

この二人の王も、全く出自が不詳であり、やはり歴代の宮跡で探索すると、古事記の意祁命(仁賢天皇)の「石上廣高宮」及び穴穗命(安康天皇)の「石上穴穗宮」が、どうやらそれらしき場所のように思われる(こちら参照)。

「石上廣高宮」があった高台は、古市=丸く小高い地が寄り集まっているところの地形を示している。また、「石上穴穗宮」があった場所は、この高台の麓にあり、大井=平らな頂の麓にある四角く取り囲まれたところの地形を示していると思われる。

後(孝謙天皇紀)に「大井王」は臣籍降下して奈良眞人姓を賜ったと記載されている。奈良=山稜の高台がなだらかに延びているところと解釈すると、出自の場所の背後にある山稜の形を表していることが解る。併せて図に示した。

出自不詳の皇族の探索は、実に手間暇が掛かる作業なのであるが、解けて来ると実に興味深い結果となる。とりわけ、古事記の記述は簡明で、いや簡単過ぎるきらいがあるが、それが補われることになる。多様な表記に挫けることなく追跡することであろう。

阿倍朝臣佐美麻呂・爲奈眞人馬養
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阿倍朝臣佐美麻呂・
爲奈眞人馬養

「阿倍朝臣」一族なのであるが、調べると、少々不確かな感じであるが、父親が「名足」と知られている。両者の名前から、元は「布勢(朝)臣」と名乗っていた系列と推測される。

名足=山稜の端が足を開いたようなところと解釈される。「佐」=「人+左」=谷間に左手のように山稜が延びている様」から、佐美=谷間に左手のように延びている山稜の傍らで谷間が広がっているところと読み解ける。

図に示したように本来の「布勢」の地から若干外れた場所が居処であった系列のように思われる。別名に沙彌麻呂益麻呂などがあったと知られるが、全てこの場所の地形を表していると思われる。後に参議に任じられたとのことで、阿倍朝臣一族から久々に活躍された人物だったようである。

「爲奈眞人」は初出であるのだが、「眞人」姓である以上かつての”韋那公”、”猪名眞人”の系列に間違いないであろう。先ずは文字が示す地形を求めてみよう。既出の「爲」=「爪+象」=「象のように広く大きな地に腕のような山稜が延びている様」、また「奈」=「木+示」=「山稜が高台となっている様」と解釈した。纏めると爲奈=象のように広く大きな高台に腕のような山稜が延びているところと読み解ける。

図に示したように「韋那」の谷間を表すのではなく、その西側の広々とした丘陵地帯を示していることが解る。馬養=馬の地形の傍の谷間がなだらかに延びているところであり、”象”の一部を”馬”と見做した表記と思われる。

<巨勢朝臣淨成-廣足>
図が込み入って来るので省略しているが、この地は淡海之柴野入杵及びその娘柴野比賣、またその比賣が生んだ迦具漏比賣命の居処と古事記が伝えている(こちら参照)。倭建命の後裔が関わった地なのである。

● 巨勢朝臣淨成

「巨勢朝臣」一族なのだが、残念ながら系譜は不詳のようで、名前が示す地形のみから出自の場所を求めることになる。

頻出の文字列であるが、あらためて淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様成=丁+戊=平たく盛り上げた様と解釈した。

「淨」が表す地形は、意外と少なく、近津川の畔で探すと、図に示した場所が見出せる。大納言「比等」、『壬申の乱』後子孫共々に流罪となったのだが、奈氐麻呂(今回従四位下に昇進)と同じく、その子だったのかもしれない。昇進しつつ地方官を勤めたと伝えられている。

後(淳仁天皇紀)に巨勢朝臣廣足が従五位下を叙爵されて登場する。藤原恵美朝臣押勝(仲麻呂)の家人(田村第)だったようである。系譜は全く不詳で、名前から出自の場所を求めた。廣足=平らに広がった足のように山稜が延びているところと読んで出自の場所を推定した。

<藤原朝臣廣嗣・兄弟>
● 藤原朝臣廣嗣

藤原四家の息子達が一気に叙爵されている。式家「宇合」の長男と知られている。と言うことで、兄弟と言われている人物を全て並べてみようかと思う。

調べると、主だった兄弟は「良継」、「清成」、「綱手」、「田麻呂」、「蔵下麻呂」だったようである。廣嗣の「嗣」=「口+冊+司」と分解される。地形象形的には、「嗣」=「谷間が延び出た山稜に挟まれて狭まった様」と解釈される。

廣嗣=谷間が延び出た山稜に挟まれて狭まった地の前で広がっているところと読み解ける。図に示した場所、北家の淸河の南側に当たるところが出自と推定される。他の兄弟も難なく式家の山稜の麓に配置できることが解った。詳細はご登場の時に述べるとして、対岸の南家の場合と同様に、ほぼ隙間なく各自の居処が求められる。

「廣嗣」は、参議であった父親の後を引き継いで、順風に・・・ではなく、反藤原勢力との抗争に没入し、結果として乱を起こしたが、捕らえられて処刑されることになったと伝えられている。尚、式家の大半は、中臣連彌氣(鎌足の父親)の地であった。

<穂積朝臣老人-小東人>
● 穗積朝臣老人

一説に穂積朝臣老の子と言われている。「老」は「蟲麻呂」の子であり、その地に出自を持つ人物なのであろう。老人=海老のように曲がった谷間と解釈すると、「老」の西側の谷間を示していることが解る。

配置的には、「老」の子として全く差し障りのないように思われる。むしろ、親子関係を積極的に支持していると言えそうである。

また後に登場するが穂積朝臣小東人も「老」の子と言われている。頻出の「東人」に「小」が付加された名前である。図に示したように東人の谷間に三角の形の山稜の端が延びている。これをと見做したのではなかろうか。

<於忌寸人主>
● 於忌寸人主

間違いなく東漢一族であろう。既に多くの人物が登場して来たが、さて、居処が残されているのか、早速に名前が示す地形を読み解いてみよう。

「於」は既出の文字であり、於=㫃+二=旗がたなびくように山稜が延びている様と解釈した。幾つかの例があるが、その一つに山於億良に用いられた文字である。

東漢一族が集められた台地、現在の京都郡みやこ町豊津で探索する。すると、図に示した場所が、すっぽりと空いていることに気付かされた。「於」の地形として申し分のないように思われる。名前が人主=谷間に真っ直ぐに延びる山稜があるところと読み解ける。その端がこの人物の出自の場所と推定される。

冬十月壬寅。令左右京職停收徭錢。丁未。停額外散位輸續勞錢。」贈民部卿正三位藤原朝臣房前正一位左大臣。并賜食封二千戸於其家。限以廿年。己未。地震。庚申。天皇御南苑。授從五位下安宿王從四位下。无位黄文王。從五位下圓方女王。紀女王。忍海部女王並從四位下。甲子。令百官人等貢薪一千荷。從三位鈴鹿王已下。文官番上已上。躬擔進于中宮供養院。丙寅。講金光明最勝王經于大極殿。朝廷之儀一同元日。請律師道慈爲講師。堅藏爲讀師。聽衆一百。沙弥一百。

十月二日に左右京職に命じて徭銭(雑徭の代わりに納める銭)を徴収することを停止させている。七日に定員外の散位の官人が続労銭(勤務を継続していることにする銭)を納めることを停止している。この日、藤原朝臣房前に正一位・左大臣を追贈し、併せて食封二千戸を二十年限りとして賜っている。

十九日に地震があったと記している。二十日に天皇は南苑に出御されて、安宿王(長屋王の子)に從四位下を、黄文王圓方女王・紀女王・忍海部女王(共に長屋王の子)に從四位下を授けている。二十四日に百官人等に命じて薪千荷を貢納させている。鈴鹿王以下文官の番上官以上の者は、自ら薪を担って中宮の供養院に進納している。

二十六日に大極殿で金光明最勝王経を講義させている。朝廷のありさまは、全く元日の朝賀のようであった。律師の道慈(神叡と併記)を招いて講師とし、堅蔵(出自不詳)を読師としている。聴聞の俗人は百人、沙弥も百人であった。

十一月癸酉。遣使于畿内及七道。令造諸神社。甲戌。加置鑄錢司史生六員。通前十六員。己丑。以從四位下石川王爲宮内卿。壬辰。宴群臣中宮。散位正六位上大倭忌寸小東人。大外記從六位下大倭忌寸水守二人。賜姓宿祢。自餘族人連姓。爲有神宣也。又授小東人外從五位下。宴訖五位已上賜物有差。但大倭宿祢小東人。水守。賜絁各廿疋。

十一月三日に畿内と七道に使者を派遣して諸神の社を造営させている。四日、鋳銭司に史生六人を増員し、従前と合わせて十六人としている。十九日に石川王(長皇子の子)を宮内卿に任じている。

二十二日に中宮で群臣と宴を行っている。散位の「大倭忌寸小東人」、大外記の「大倭忌寸水守」の二人に「宿祢」姓を賜っている(こちら参照)。その他の一族の人々には「連」姓を賜っている。神の託宣があったためである(「大倭忌寸」は大倭神社の祭祀を司る一族)。また、「小東人」に外従五位下を授けている。宴の後に五位以上の官人にそれぞれ物を授けているが、「小東人」と「水守」には絁を与えている。

書紀の持統天皇紀に大倭大神が登場するが、決して頻度は高くはない。そこでも述べたが、鎮座の地は、紆余曲折を経て”穴磯邑”に落ち着いたと伝えられている。即ち、ここで登場する「大倭忌寸」一族は、”磯辺”に住まう人々だったことが伺える。「水守」、下記に登場する「淸國」の名前が示す場所と辻褄が合っていることが解る。疫病対策は神仏に頼らざるを得なかった時代、少々蔑ろにしていた大神の復活であったのかもしれない。

十二月辛亥。以兵部卿從四位下藤原朝臣豊成爲參議。壬戌。外從五位下菅生朝臣古麻呂爲神祇大副。外從五位下阿倍朝臣虫麻呂爲皇后宮亮。外從五位下中臣熊凝朝臣五百嶋爲員外亮。從五位下池邊王爲内匠頭。外從五位上秦忌寸朝元爲圖書頭。從五位下宇治王爲内藏頭。外從五位下高麥太爲陰陽頭兼陰陽師。外從五位下小治田朝臣諸人爲散位頭。從五位下神前王爲治部大輔。外從五位下大倭宿祢清國爲玄蕃頭。外從五位下土師宿祢三目爲諸陵頭。從五位下阿倍朝臣吾人爲主計頭。從五位下大伴宿祢兄麻呂爲主税頭。從五位下石川朝臣牛養爲大藏少輔。外從五位下紀朝臣鹿人爲主殿頭。從四位上御原王爲彈正尹。外從五位下穗積朝臣老人爲左京亮。從四位下門部王爲右京大夫。外從五位下太朝臣國吉爲亮。丙寅。改大倭國。爲大養徳國。是日。皇太夫人藤原氏就皇后宮見僧正玄昉法師。天皇亦幸皇后宮。皇太夫人爲沈幽憂久廢人事。自誕天皇未曾相見。法師一看。惠然開晤。至是適与天皇相見。天下莫不慶賀。即施法師絁一千疋。綿一千屯。絲一千絇。布一千端。又賜中宮職官人六人位各有差。亮從五位下下道朝臣眞備授從五位上。少進外從五位下阿倍朝臣虫麻呂從五位下。外從五位下文忌寸馬養外從五位上。是年春。疫瘡大發。初自筑紫來。經夏渉秋。公卿以下天下百姓。相繼没死不可勝計。近代以来未之有也。

十二月十二日に兵部卿の藤原朝臣豊成を参議としている。二十三日に以下の人事を行っている。菅生朝臣古麻呂(大麻呂に併記)を神祇大副、阿倍朝臣虫麻呂(兄の豐繼に併記)を皇后宮亮、中臣熊凝朝臣五百嶋(古麻呂に併記)を員外亮、池邊王(父親の葛野王に併記)を内匠頭、秦忌寸朝元を圖書頭、宇治王(古事記の宇遲王の場所?)を内藏頭、高麥太(既出だが不詳)を陰陽頭兼陰陽師、小治田朝臣諸人(當麻に併記)を散位頭、神前王を治部大輔、大倭宿祢清國(五百足に併記)を玄蕃頭、土師宿祢三目(御目)を諸陵頭、阿倍朝臣吾人(豐繼に併記)を主計頭、大伴宿祢兄麻呂を主税頭、石川朝臣牛養(枚夫に併記)を大藏少輔、紀朝臣鹿人(多麻呂に併記)を主殿頭、御原王を彈正尹、穗積朝臣老人を左京亮、門部王を右京大夫、太朝臣國吉(遠建治に併記)を右京亮にそれぞれ任じている。

二十七日に大倭國を「大養德國」に改めている(後に復している)。この日、皇太夫人の藤原氏(宮子)が皇后宮に赴いて僧正の玄昉を引見している。天皇もまた皇后宮に行幸している。皇太夫人が憂鬱な気分に沈み、永らく人間らしい行動をとっていなかったからである。天皇を出産して以来、まだ会ったことはなかったが、法師が一たび看病するや、穏やかで晴々となった。偶然その時に天皇と面会し、国中がこれを慶び祝している。

そこで法師に絁・真綿・絹糸・麻布を施し与え、また中宮職の官人六人にそれぞれ位階を授けている。中宮亮の下道朝臣眞備に従五位上、少進の阿倍朝臣虫麻呂に従五位下、文忌寸馬養に外従五位上を授けている。この年の春、瘡のできる疫病が大流行した。初め九州より伝染し、夏を経て秋にまでわたって公卿以下、天下の人民が相続いて死亡し、その数は数えることができないほどであった。これは最近までかつてなかったことである。

大養德國の”養德=德を養う”であり、”養老=老いを養う”に類似する表現であろう。地形象形として養老=なだらかな谷間が海老のように曲がっているところと読んだが(こちら参照)、それに準じると養德=なだらかな谷間が四角く区切られているところとなる。大倭國の中心の地形を見ると、そんな感じでもあるが、果たして・・・およそ十年後に大倭國に戻したと記載されている(陰影地形図参照)。

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天然痘によって、藤原四家の重鎮が他界し、その後釜の選定、それに併せて新人の登用が凄まじいばかりに行われた、と伝えている。親王等を、ここぞとばかりに叙爵し、お陰で系譜の定かでない王が羅列されることになった。負けじと出自の場所を求めてみたが、決して確証のあるわけでもなく、後日に符合する出来事と遭遇できることを祈るばかりである。

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『續日本紀』巻十二巻尾