2021年12月23日木曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(27) 〔564〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(27)


天平十二年(西暦740年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

春正月戊子朔。天皇御大極殿受朝賀。渤海郡使新羅學語等同亦在列。但奉翳美人更着袍袴。」飛騨國獻白狐白雉。甲午。渤海郡副使雲麾將軍己珎蒙等。授位各有差。即賜宴於朝堂。賜渤海郡王美濃絁卅疋。絹卅疋。絲一百五十絇。調綿三百屯。己珎蒙美濃絁廿疋。絹十疋。絲五十絇。調綿二百屯。自餘各有差。庚子。天皇御中宮。授從四位下塩燒王從四位上。无位奈良王。守部王並從四位下。正五位下多治比眞人廣足正五位上。從五位上紀朝臣麻路。石川朝臣加美。藤原朝臣仲麻呂並正五位下。從五位下石川朝臣年足。佐伯宿祢淨麻呂並從五位上。正六位上藤原朝臣巨勢麻呂。藤原朝臣八束。安倍朝臣嶋麻呂。多治比眞人土作並從五位下。正六位上大伴宿祢三中。宗形朝臣赤麻呂。紀朝臣可比佐。大伴宿祢犬養。車持朝臣國人並外從五位下。」又以外從五位下大伴宿祢犬養爲遣渤海大使。癸夘。天皇御南苑宴侍臣。饗百官及渤海客於朝堂。五位已上賜摺衣。甲辰。天皇御大極殿南門觀大射。五位已上射了。乃命渤海使己珎蒙等射焉。丙辰。遣使就客館。贈渤海大使忠武將軍胥要徳從二位。首領无位己閼棄蒙從五位下。并賻調布一百十五端。庸布六十段。丁巳。天皇御中宮閤門。己珎蒙等奏本國樂。賜帛綿各有差。

正月一日に天皇は大極殿に出御して朝賀を受けている。渤海郡副使と新羅の学語(日本語を学ぶ者)も同じく列席していた。但し翳(舞うときに持つ羽飾り)をささげ持つ美人(高級女官)は、さらに袍(朝服の上衣)・袴を着て男装していた。飛騨國が「白狐」と「白雉」を献上している。

何故男装?・・・疫病による宮中の男性が不足していたのであろう。一般人の死者については、勿論記述されることはなかろうが、夥しい人数が亡くなっていたと推測される。当然、宮中参内の人々の数も激減していたのである。

七日に渤海郡副使等にそれぞれ地位に応じて位を授け、直ぐに朝堂で宴を催している。また渤海郡王に美濃特産の絁や絹糸、調として貢上された真綿を賜り、副使及び他の人々にもそれぞれ賜っている。

十三日、中宮で以下の叙位を行っている。鹽燒王を從四位上、奈良王(丹生女王に併記)・「守部王」を從四位下、多治比眞人廣足(廣成に併記)を正五位上、紀朝臣麻路(古麻呂に併記)石川朝臣加美(枚夫に併記)藤原朝臣仲麻呂を正五位下、石川朝臣年足(石河朝臣)・佐伯宿祢淨麻呂(人足に併記)を從五位上、藤原朝臣巨勢麻呂(仲麻呂に併記)・藤原朝臣八束(眞楯、北家の三男)・安倍朝臣嶋麻呂(廣庭の子。粳虫に併記)・多治比眞人土作(家主に併記)を從五位下、大伴宿祢三中宗形朝臣赤麻呂(胸形朝臣。養老五年、解工[用水工事]の匠として褒賞)・紀朝臣可比佐(古麻呂の子、飯麻呂に併記)・大伴宿祢犬養(三中に併記)・車持朝臣國人(益に併記)を外從五位下としている。また「大伴宿祢犬養」を遣渤海大使に任じている。

十六日に天皇は南苑に出御して侍臣と宴を行い、また朝堂において百官及び渤海からの客と宴を催している。五位以上の者に摺衣(染め草の汁で、草木・花鳥など種々の模様を染め出した衣)を賜っている。十七日に大極殿の南門に出御されて大射を観覧している。五位以上の者が射終わった後に渤海副使にも射させている。

二十九日に使者を客館に遣わして、遭難して亡くなった渤海大使・忠武将軍の胥要徳に従二位を、首領の己閼棄蒙に従五位下を贈位し、調布と庸布を与えている。三十日に中宮閤門に出御され、渤海の使者等が本国の楽を奏でている。また、それぞれに絹布などを賜っている。

<飛騨國:白狐・白雉>
飛騨國:白狐・白雉

飛騨國は、現在の北九州市門司区黒川西辺りにあったと推定した。しかしながら、この地の変形は凄まじく、住宅開発に加えて九州自動車が通り、また都市高速道路との門司ICもあって周辺が大きく変化していることが分る(こちら参照)。

と言うことで国土地理院航空写真を参照しながら、白狐白雉の地形を求めることにする。「狐」と「雉」が寄り添っているのであるが、既出の狐=犬+瓜=平らな頂の山稜が瓜のような形をしている様雉=矢+隹=矢のような鳥の形をしている様と解釈した。

すると、それらしき場所が見出せることが解った。少々見辛いのはご愛嬌として、それぞれ間に挟まれて場所を開拓して献上したものと思われる。山間の地ではあるが、現在広い住宅地になっているのは、早くから耕地とされていたからではなかろうか。

<守部王・大炊王>
● 守部王

舎人親王には多くの子が誕生し、御原王・三嶋王・池田王・船王が既に登場している(こちら参照)。「守部王」も、その一人と知られている。左図に伝えられている名前から求めた各々の出自の場所を示した。

地形が大きく変化した場所でもあり、例によって国土地理院航空写真(1961~9年)を参考に付加した。すると全員の出自場所を明確に求めることができたと思われる。

ここでは、地形図から推定可能な「守部王」と「大炊王」(後の淳仁天皇)の場所について述べることにする。

守部王守=宀+寸(肘)=肘を張ったように曲がる山稜に囲まれている様であり、その近辺()が出自の場所と推定される。後に即位して淳仁天皇となる大炊王炊=火+欠=火を吹くように谷間が延びている様大=平らな頂の山稜とすると、図に示した場所が出自と推定される。

若干、地形の変化の影響を受けているが、何とか判別できるように思われる。60年代の航空写真を参照すると、より確実である。残りの厚見王御浦王室女王飛鳥田女王は、ご登場の際に詳細を述べる。

二月己未。己珎蒙等還國。甲子。行幸難波宮。以知太政官事正三位鈴鹿王。正四位下兵部卿藤原朝臣豊成爲留守。庚午。給攝津國百姓稻籾各有差。丙子。百濟王等奏風俗樂。授從五位下百濟王慈敬從五位上。正六位上百濟王全福從五位下。是日。車駕還宮。辛巳。賜陪從右大臣已下五位已上祿各有差。
三月辛丑。以外從五位下紀朝臣必登爲遣新羅大使。

二月二日に渤海の使者等が帰国している。七日に難波宮(難波長柄豐碕宮跡地)に行幸されている。知太政官事の鈴鹿王と兵部卿の藤原朝臣豊成とを留守官に任じている。十三日に攝津國の人民に稲籾を与えている。量は人によって差があったと記している。

十九日に百濟王等が風俗(百濟の習俗)の音楽を演奏し、百濟王慈敬()に従五位上、百濟王全福()に従五位下を授けている。この日、天皇は平城宮に帰還されている。二十四日に行幸に随った右大臣(橘宿祢諸兄)以下、五位以上の官人に等級に応じて禄を賜っている。

三月十五日に紀朝臣必登を遣新羅大使に任じている。

夏四月戊午。遣新羅使等拜辞。丙子。遣渤海使等辞見。
五月乙未。天皇幸右大臣相樂別業。宴飲酣暢。授大臣男无位奈良麻呂從五位下。丁酉。車駕還宮。

四月二日に遣新羅使等が出発の暇乞いをしている。遣渤海使等が出発の暇乞いをしている。

五月十日に天皇は右大臣(橘宿祢諸兄)の「相樂」(古事記の山代國之相樂)の別荘に行幸し、酒宴を行って、酒がまわり気分がほぐれてよくなった時に、大臣の子、奈良麻呂(無漏女王に併記)に従五位下を授けている。十二日に宮に帰られている。

六月庚午。勅曰。朕君臨八荒。奄有萬姓。履薄馭朽。情深覆育。求衣忘寢。思切納隍。恒念何荅上玄。人民有休平之樂。能稱明命。國家致寧泰之榮者。信是被於寛仁。挂網之徒。保身命而得壽。布於鴻恩。窮乏之類。脱乞微而有息。宜大赦天下。自天平十二年六月十五日戌時以前大辟以下。咸赦除之。兼天平十一年以前公私所負之稻。悉皆原免。其監臨主守自盜。盜所監臨。故殺人謀殺人殺訖。私鑄錢作具既備。強盜竊盜。姦他妻。及中衛舍人。左右兵衛。左右衛士。衛門府衛士。門部。主帥。使部等不在赦限。其流人穗積朝臣老。多治比眞人祖人。名負。東人。久米連若女等五人。召令入京。大原采女勝部鳥女還本郷。小野王。日奉弟日女。石上乙麻呂。牟礼大野。中臣宅守。飽海古良比。不在赦限。甲戌。令天下諸國毎國寫法華經十部。并建七重塔焉。

六月十五日に以下のように勅されている・・・朕は八方の遠い果てまでに君臨し、万姓の人々の主となっている。薄氷を履み、朽ちた手綱で ようであるが、心では人々をおおい育もうと深く思い、早朝より衣を求め、寝ることを忘れて政治を行っているが、城の濠に落ちたように苦しんではいないかと痛切に思っている。また恒にどうして天の命に答えて、人民が休息と平安を楽しむようになるか、天命にかなって国家に安泰の栄をもたらすかを考えている。実際、寛仁の政治をゆきわたらせたならば、法の網にかかって処罰される人々も身命を保って、長生きできるであろう。また大きな恵みを施せば、窮乏の人々も租税などの厳しい徴発を逃れて安らかに暮らせるであろう。そこで天下に大赦を行うことにする。天平十二年六月十五日の戌の時(午後八時)以前の死刑以下の全ての罪を赦免せよ。また天平十一年以前の公私の負債の稲は悉くみな免除せよ。管理・監督下にある品物を管理している首長自身が盗み、また管理の任にある者が盗み、或いは故意に人を殺し、あらかじめ計画して人を殺し終わり、贋金造りの道具を既に用意した者、強盗・窃盗、他人の妻を犯した者、及び中衛舎人、左右兵衛・左右衛士・衛門府に所属する衛士・門部・主帥・使部等は赦の対象とはならない。また流人の穂積朝臣老(養老六年佐渡嶋へ配流)・「多治比眞人祖人・名負・東人」・久米連若女(天平十一年に下総國へ配流)等の五人は召して京に入らせている。「出雲國大原郡」の采女の「勝部鳥女」は故郷に帰らせている。ただし、小野王(宇遲女王に併記)・「日奉弟日賣」・石上乙麻呂(天平十一年に土左國へ配流)・「牟礼大野」・「中臣宅守」・「飽海古良比」は赦の対象としない。

十九日に天下の諸國に、國ごとに法華経を十部写し、併せて七重塔を建てるように命じている。

<多治比眞人祖人・名負・東人>
多治比眞人祖人・名負・東人

「多治比眞人」一族ではあるが、系譜は知られていない。上記の記述からすると、兄弟であろう。その直前に佐渡嶋に流された穂積朝臣老が記載されている。

同じ時、養老六(722)年正月に多治比眞人三宅麻呂が伊豆嶋に配流されている。「三宅麻呂」が續紀に登場するのは、この事件が最後であり、その後の消息、また、彼の子孫についても知られていないようである。

これだけの背景が整えば、祖人名負東人は、共に配流された「三宅麻呂」の家族であったと推測される。十八年の歳月は、子供達を立派に成長させていたのであろう。大臣「嶋」の子供等がわんさと登場する一方で、「三宅麻呂」に関連する人物は皆無であって、その周辺は、すっぽりと空いているのだが、果たして、三兄弟の名前が示す地形は?・・・。

祖人=谷間に段々に積み重なっているところであり、図に示した場所が出自と思われる。山稜の端が一段と高くなっている地形である。名負の「名」=「夕+囗」=「山稜の端」、「負」=「人+貝」=「谷間が二つに岐れている様」と解釈した。将軍吹負などの例がある。纏めると名負=山稜の端にある谷間が二つに岐れているところと読み解ける。図に示した場所と推定される。

頻出の東人=谷間を突き通すようなところであり、図に示した場所と思われる。現在はゴルフ場となっているが、基本の地形が残されて、三兄弟の出自の場所を突き止めることができたように思われる。「名負」は、後に能登守に任じられるなど幾度か續紀に登場する。

<勝部鳥女>
大原采女:勝部鳥女

「大原采女」を調べると、”出雲國の大原郡”を出自とする采女であったことが分った。書紀の斉明天皇紀に出雲國於友郡、文武天皇紀に意宇郡が記載されていたが、大原郡は、初出となろう。

大原=平らに広がった野原と読めることから、おそらく古事記の大年神一族が蔓延った地、前出の禰仁傑の背後の地と思われる。

頻出の文字列である勝部=盛り上がった地の周辺のところと解釈すると、図に示した山稜の端の高台が広がった場所の近隣と推定される。その背後の山腹に「鳥」の地形が見出せる。それらを合わせると勝部鳥女の出自の場所を求めることができたようである。

唐突に登場される采女なのだが、「乙麻呂」と「若賣」との事件に関わった人物と推測される。もしかすると「若賣」と同じく下総國に配流されていたのかもしれない。式家の物語を綴られているサイトがあるが、なかなかに面白い、ご参考まで。

<日奉弟日賣>
日奉弟日賣

書紀の天武天皇紀に財日奉造に「連」姓を授けたと記載されていた。齋宮の名代と言われた一族と知られているようである。

その近隣で弟日賣の地形を求めると、図に示した場所が見出せる。幾度か登場の弟=谷間でギザギザと山稜が延び出ている様と解釈した。

「財」が付かないのは、「財日奉造」の居処の特徴である、谷間を遮るような山稜がある地形ではないからであろう。

同じ流人でありながら、今回の大赦には含まれず、重罪であったのであろうが、詳細は不明である。引き続いて赦免されなかった人物が神祇に関わっていたと推測されるが、神稻(神代)に関する不正を行ったのかもしれない。

<牟礼大野>
● 牟礼大野

「牟禮」は、古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の子、大中津日子命が祖となった牟禮之別に用いられていた。

「牟禮」は、辞書によると古代朝鮮語で「山」を意味して、地名となった例も多いとか?…当て字で解釈しては、日本の古代は支離滅裂、である。

「牟禮」は、修験道の本家、英彦山麓にある高台の地をしめすと解釈した(こちら参照)。現在は英彦山神宮の門前に広がる地となっている。現地名は田川郡添田町英彦山である。

大野=平らに広がった野は、些か漠然とした名前であり、特定するのが難しいが、おそらく牟禮の地の西端辺りではなかろうか。この人物についても、付加的な情報は全く得ることは叶わないが、上記と同様に神祇に関わっていたのではなかろうか。

<中臣宅守・中臣朝臣常>
● 中臣宅守

中納言の「中臣朝臣意美麻呂」の孫、刑部卿の「東人」の子と知られている(こちら参照)。十人以上の男子がいたようだが、その一人である。

罪の詳細は不詳だが、越前國に流されて間もない時期であり、この後の大赦で復活したとのことである。家系からして、この人物も神祇に関わっていた、と知られている。

頻出の宅=宀+乇=谷間に曲がって延びる山稜がある様守=宀+寸=肘を張ったような山稜に囲まれた様であり、図に示した場所が出自と推定される。

残りの息子達も多分この谷間に棲息していたのであろうが、また、ご登場の時に出自の場所を読み解くことにする。藤原朝臣不比等の一族と同様に、狭い谷間を抜け出て行った様子が伺える(吉日は「不比等」の娘)。

後(淳仁天皇紀)に中臣朝臣常が従五位下を叙爵されて登場する。「廣見」の子と知らている。既出の常=向+八+巾=北に向かって山稜が延びている様であり、図に示した場所の地形を表していると思われる。別名の都禰=広がって高台が寄り集まっているところであり、その地形の別表現であることが解る。

<飽海古良比>
飽海古良比

調べると阿曇一族に関わる人物だったようである。既出では和德史のように阿曇宿禰の近隣を本貫とする一族だったのであろう。それを背景に出自の場所を求めることにする。

飽海の「飽」=「食+包」=「なだらかな山稜が取り巻いている様」と解釈した。書紀の斉明天皇紀に記載された飽田郡などの例がある。

纏めると飽海=なだらかな山稜に取り巻かれた海と読み解ける。「和德史」の北側に当たる場所と推定される。現在の標高(約2m)からすると当時は汽水湖の状態だったと推測される。

頻出の文字列である古良比=小高い地がなだらかに広がって並んでいるところと読み解ける。出自の場所は、多分、図に示した辺りと思われる。さて、どんな悪さを行ったのか、不詳のようであるが、この後に登場されることもなく、闇の中である。