2018年12月27日木曜日

火照命・火須勢理命・火遠理命 〔299〕

火照命・火須勢理命・火遠理命


天津日高日子番能邇邇藝能命が笠紗之御前で見染めた阿多都比賣亦名木花之佐久夜毘賣が三人の御子を誕生させる。火照命・火須勢理命・火遠理命で、共に名前の由来であろうか、火中での誕生と記述される。なるほど、解り易い、と頷いてしまっては古事記の伝えるところは読めない。

この誕生物語の背景も含めて纏め直してみよう。舞台は神阿多都比賣(木花之佐久夜毘賣)が坐していた場所ではなく、竺紫日向である。


竺紫日向之橘小門之阿波岐原

古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…、

是以、伊邪那伎大神詔「吾者到於伊那志許米志許米岐穢國而在祁理。故、吾者爲御身之禊」而、到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而、禊祓也。
[イザナギの命は黄泉の國からお還りになって「わたしは隨分厭な穢ない國に行ったことだった。わたしは禊をしようと思う」と仰せられて、筑紫の日向の橘の小門のアハギ原においでになって禊をなさいました]

伊邪那岐命(ここでは伊邪那伎大神と記される)が黄泉国を脱出して竺紫日向之橘小門之阿波岐原で禊祓を行う。そして多くの神を誕生させる。その場所は、現在広大な水田となっているところであるが、当時は汽水湖として海に繋がっていたと推定された。
 
<竺紫日向之橘小門之阿波岐原>
図に示したように実に特徴的な小高いところが並び、それを橘小門と呼んだのであろう。

その近隣に阿波岐原があったと思われる。まさに汽水湖の水辺に当たる場所である。

竺紫日向之橘小門之阿波岐原が比定されることによりこの地の詳細が見えるようになって来る。

逆に言えばこの地が定まらなければ、竺紫日向の全貌は、いつまで経っても伺い知ることは叶わないであろう。

この地点と後に述べる高千穂宮の場所を起点として、上記の伊邪那岐が生んだ多くの神々の名前が何を示そうとしているのかを解き明かすことへと進んだのである。

誕生した神々の全てを図に纏めた。現在の遠賀郡岡垣町のほぼ全域に渡る地名を表していることが読み解けた。

<禊祓で誕生した神(全)>


安萬侶くんが伝えたかったのは、やはり竺紫日向の地の詳細であったと判る。

実に興味深いことに現在の行政区分と重なるのである。遠賀郡岡垣町の東は遠賀郡遠賀郡であり、南は宗像市となっている。

北の湯川山から始まる孔大寺山系は、南へぐるりと回って東へ向かい、そこから北上する。

竺紫日向の地はこの山塊と響灘・古遠賀湾に囲まれた地域であることを示している。

海面水位に相違はあっても古事記の時代と今も変わらぬ地形なのである。

古事記は、それをあからさまに表現することなく、固有の表記で記述した。

地形に従った耕作のやり方、それぞれに堪能な神を周到するとは筋の通ったことである。ものの捉え方に「上中下」を持って来ることに通じるであろう。

文字解釈の中で「時」=「蛇行する川」、「奥(於伎)」=「離れたところ」などはその後の解釈にとっても極めて重要な位置付けにある。

<竺紫日向>
あらためて「竺紫日向」の由来を図に示す。「竺」の文字があてられているのは、その山稜の形を示しているからである。

古事記の中で「竺紫日向」と記載される。決して「筑紫日向」とは書かれていない。

「筑紫日向」はなかった!…のである。「壹」と「臺」の論争をするなら、同様になされるべきでは?・・・。

これ以上は、別途のところで述べるとして、もう一つ挙げておかなければならない重要なランドマークは「高千穂宮」であろう。

何となくそれらしきところに比定できるのであるが…現在の高倉神社…これも実に手の込んだ方法でその場所のヒントが隠されていたのである。

邇邇藝能命が笠紗之御前で見染めた木花之佐久夜毘賣には石長比賣という姉がいて、この姉を邇邇藝命は娶らなかったと言う件である。比賣達の父親、大山津見神を登場させて、理屈を語らせるのであるが、サラリと読み飛ばすと、肝心なことを見逃してしまうことになる。

爾大山津見神、因返石長比賣而、大恥、白送言「我之女二並立奉由者、使石長比賣者、天神御子之命、雖雨零風吹、恒如石而、常堅不動坐。亦使木花之佐久夜毘賣者、如木花之榮榮坐、宇氣比弖自宇下四字以音貢進。此令返石長比賣而、獨留木花之佐久夜毘賣。故、天神御子之御壽者、木花之阿摩比能微此五字以音坐。」故是以至于今、天皇命等之御命不長也。
[しかるにオホヤマツミの神は石長姫をお返し遊ばされたのによつて、非常に恥じて申し送られたことは、「わたくしが二人を竝べて奉つたわけは、石長姫をお使いになると、天の神の御子みこの御壽命は雪が降り風が吹いても永久に石のように堅實においでになるであろう。また木の花の咲くや姫をお使いになれば、木の花の榮えるように榮えるであろうと誓言をたてて奉りました。しかるに今石長姫を返して木の花の咲くや姫を一人お留めなすつたから、天の神の御子の御壽命は、木の花のようにもろくおいでなさることでしよう」と申しました。こういう次第で、今日に至るまで天皇の御壽命が長くないのです]

天神御子之御壽者、木花之阿摩比能微此五字以音坐。」が教えるところを何と読み解くか?…上記の武田氏訳は、文字解釈ではなく、全体の意を汲んで訳されたものであろう。
 
<高千穂宮>

木花之阿摩比能」は…、

山稜の端にある近接して並ぶ台地の隅

…と解釈した。高倉神社の場所に相当する。初代神武天皇に繋がる天皇家の最初の宮である。

加えて「木」「花」「阿」「摩」「比」「能」が表す意味を安萬侶コードとして紐解いて来た方法の確からしさも得られたようである。

こんな背景の中で木花之佐久夜毘賣が三人の御子を誕生させる…、

故、其火盛燒時、所生之子名、火照命此者隼人阿多君之祖、次生子名、火須勢理命須勢理三字以音、次生子御名、火遠理命、亦名、天津日高日子穗穗手見命。三柱

…と記される。冒頭に述べたように、そのまま読んでしまえば、あ~そうか!…であろう。
 
<火照命・火須勢理命・火遠理命>
「火」の中で産んだ…「火」の地であろう。山稜の端が燃え上がる火ののような場所である。「橘小門」の近隣がそれを示しているように思われる。

火照命は、天照大御神に含まれる「照」の「灬(火)」が「昭」=「日(火)が曲がる」と紐解ける。
 
[灬]が曲がる

…と解釈される。

火須勢理命は「須勢」、須勢理毘売命で登場の「須勢」…、
 
州が丸く高くなったところ

…に区分けされた田があるところと解る。

火遠理命は「遠」=「辶+袁」、「袁」=「ゆったりとした衣(山麓の三角州)」とすると「遠」…遠津待根神の「遠」と同じ解釈として…、
 
山稜の端でゆったりと延びた三角州

…に区分けされた田があるところと紐解ける。「火」の内陸側の山稜の端に座していたと紐解ける。火照命に「理」が付かない。伊邪那岐が生んだ衝立船戸神の場所では田にするところがない地形である。驚きの結果ではなかろうか。

後に火照命は「海佐知毘古」、火遠理命は「山佐知毘古」と名付けられる。火照命が坐していた場所は「橘小門」に重なるところでもある。当時の海面、汽水湖となっていた海辺と推定される。

いや、「海佐知」、「山佐知」の命名は彼等の居場所を告げた表記でもあったと気付かされる。彼らの説話を経て「山佐知(火遠理命)」が後継ぎになったと記載されている。