2019年2月17日日曜日

大中津日子命 〔318〕

大中津日子命


伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)旦波比古多多須美知宇斯王之女・氷羽州比賣命を娶って誕生した五人の御子の一人、前記の印色之入日子命及び大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の弟に当たる。

既に本ブログで<「大中津日子命が祖となった地 〔217〕>で紐解いたが、再度の加筆・訂正を加えてみた。重複するところもあるが、その段、全体を示すことにする。

古事記原文…、

伊久米伊理毘古伊佐知命、坐師木玉垣宮、治天下也。此天皇、娶沙本毘古命之妹・佐波遲比賣命、生御子、品牟都和氣命。一柱。又娶旦波比古多多須美知宇斯王之女・氷羽州比賣命、生御子、印色之入日子命印色二字以音、次大帶日子淤斯呂和氣命自淤至氣五字以音、次大中津日子命、次倭比賣命、次若木入日子命。五柱。又娶其氷羽州比賣命之弟・沼羽田之入毘賣命、生御子、沼帶別命、次伊賀帶日子命。二柱。

次期景行天皇の直ぐの弟、大中津日子命の活躍は目を見張るものがある。建国草創期に「言向」だけで領地の拡大をすることができたケースではなかろうか。祖となる記述…「山邊之別、三枝之別、稻木之別、阿太之別、尾張國之三野別、吉備之石无別、許呂母之別、高巢鹿之別、飛鳥君、牟禮之別等祖也」

「中津」が示す地名は何処であろうか? 九州東北部に限っても多くある地名、だが、旦波国の中にある、正確には地名ではなく、それとなく残っている場所であろう。現在の福岡県行橋市稲童にある石堂池近隣、母親の氷羽州比賣命の在所(氷羽州)としたところに仲津小学校、中学校がある。この場所こそ「旦波国」の中心、宮のあったところであろう。

氷羽州」の解釈(地形)、御子の名前に刻まれた中津、現在の地名(学校名)との合致は比定を確信させるものと思われる。間違いなく大中津日子命は現在の行橋市稲童(もしくは道場寺)の石堂池辺りに居た。余談だが小中学校名に旧地名に基づくものが多多見受けられる。真に好ましい限りである。

そこに生を受けた彼は兄の天皇の庇護のもと思い切り羽ばたいたのであろう。既述された順番に別()の場所を当て嵌めてみよう。
 
山邊之別
 
<許呂母・飛鳥・山邊>
何の修飾もなくいきなり地名となる一般的な文字、読む者にとって判り切ってるから記さない、常套手段である。

「師木」から見ての「山辺」であろう。近接するところは一である。

大坂山山塊の西麓、御祓川の北岸の場所と推定される。現地名は田川郡香春町中津原である。

「中津」が残っている。現在の地名が示す領域とは異っていると思われるが…。

近隣と思われる「許呂母」「飛鳥」も併せて示した。
 
三枝之別
 
<三枝之別>
天津日子根命が祖となった「三枝部造」と同じところを示していると思われる。

現地名、京都郡みやこ町犀川喜多良三ツ枝である。生立八幡神社辺りで犀川に合流する喜多良川の川上にある。

当時は大字の喜多良、もう少し川下の大熊も含めての領域だったかもしれない

現地名との類似性からの判断だけでは何とも心もとない、図に示したように三本の稜線が集まったところを意味しているのではなかろうかと推測した。

安萬侶コード「木(山稜)」を用いて「枝」=「木(山稜)+支」と分解すると…、
 
枝=山稜が分かれた
 
…ところとなる。集まる感じではない。更に詳細に地図を眺めると、稜線の端が三つに分かれていることが見出だせ、この特徴的な地形を象形した表現と思われる。

<三枝>
師木から山代国、旦波国へ向かうバイパスルート、少々距離は長くなるが、比較的なだらかな山道と見受けられる。

大坂山南麓のルートは急坂の連続であり、馬による移動でなければかなりの労力を必要としたのではなかろうか。

修験道については古事記は語らないが、英彦山登山道への追分(分岐点)でもあったと推測される。当時は重要な交通要所であったのではなかろうか。

尚、師木へのルートとして要所であったかと思われる「阿太」の場所を示した。詳細は下記に述べる。

以前にも書いたが、天津日子根命と大中津日子命との名前の類似性が興味深い。何らかの繋がりが…と思いつつも、不詳である。
 
稻木之別

<稻木>
そのままの意味は刈取った稲を掛ける木組みの名称である。

一般名称で名付ける筈はないので、地形象形していると推測される。

関連する記述では同じ垂仁紀の説話に沙本毘古王が立て籠もった「稻城」がある。

「城(キ)」=「木(キ)」とすれば、この城を指し示すか、などと思い巡らすことになるが・・・やはり安萬侶コード木(山稜)」であろう。
 

稻木=稲のような山稜
 
…「稲穂が実った形の山稜」と紐解ける。果たしてそんな地形があるのか?…どうやらそれらしきところが図に示したところと推定される。住まったのは穂先に当たる現地名田川郡赤村赤の道目木・常光辺りと思われる。
 
阿太之別
 
<阿太>
阿太の「阿」=「阿()」=「赤」村と解釈し、「太」を探す。現地名は田川郡赤村赤(大原)、近隣は大伊良、岡本、「オ」が付く地名が並んでいる。

彦山川支流の十津川…どこかで聞いたような川の名前…の傍にある。山間の開けたところでもある。
 
阿太=阿(台地)|太(周りが大きい)

…「周囲が大きい台地」と紐解ける。黄色破線で囲ったところが台地形状を示していることが判る。山間にあって極めて特徴的な地形である。

現在は広々とした水田になっているようであるが、古くから開けたところであったろう。

山麓に近づくと棚田になり、それも含めると圧倒される広さを誇っていることが伺える。

当然ながら現在の様相とは大きく異なっていたとは思われるが、原形を留めているのではなかろうか。三枝への行き来をする上において山口となる地点であったと推測される。人々の交流と共に豊かな土地であっただろう。
 
尾張國之三野別
 
<尾張国之三野別>
「三野国」と区別して記述していると考え、尾張国の近辺にある現地名の北九州市小倉南区隠蓑が該当するのでは?…と初見で紐解いた。

「三野」=「蓑」としたわけだが、この地名の由来は戦いに敗れた平家の安徳天皇が蓑に隠れたところとのことである。

それはそれとして地形象形の「三野(箕)」はないのであろうか?…あらためて地図を詳細に調べて見ることにした。

すると通常の地図では判別しかねるが、国土地理院起伏陰影図で見ると明瞭な「箕」が見出だせる。

当時はより鮮明な凹凸を示していたかと推測されるが、山稜の端の端にあるところ、現地名は北九州市小倉南区横代南町である。この地は幾度か古事記に登場する。関連するところを修正する。
 
吉備之石无別
 
<吉備之石无別>
「石」=「石(岩)」として「无」は何と解釈するのか?…「无」=「大+一」と分解される。地形象形的には平らな頂を持つ山稜を横切るところであろう。
 
岩の山稜を横切るところ

…と紐解ける。「吉備」は既に幾度も登場しているが、現地名は山口県下関市吉見、その近隣の大字永田郷石王田辺りを示していると推定される。

「无」=「豊かな」という意味を持つとある。岩が豊富な場所の意味も重ねられているようでもある。現地名石王田、その近隣の石原などに繋げられる表記と推測される。

「吉備」の場所は仁徳天皇紀の説話から求められる。神倭伊波禮毘古命もその地に何年か滞在するところでもある。仁徳天皇が后の嫉妬をものともせず黒比賣を追って向かう説話は真に貴重である。結果的に伊邪那岐・伊邪那美の国生み「吉備兒嶋」の場所もかなりの確度で導き出せるようになる。

どんな処?…近くの遺跡から縄文時代のガラスが出土したとか…。

余談だが・・・吉見、永田郷の考古学的探査、必至かな?…歴史学、考古学分野に携わる若者達へ、これらの場所は「宝」の山ですよ、吉備?…吉見?…君が立ち上がらねば!・・・日の本学び舎の米足部が露呈する現在の日本の忖度社会構造に屈してはならない!!
 
許呂母之別

「許呂母」=「衣」あろう。と、すると「三川之衣」か?…足立山の「襟巻」ではない。「衣」の語源は「襟」の象形である。切立つ山の麓にあって、裾野を流れる川が作るV字の地を「襟」に象形した、見事な表現である。それはそれとして、三川のではないとなると、やはり師木の近く、である。

香春一ノ岳の南西側から見た「襟」、金辺川と五徳川に挟まれた三角州を指す。現地名は田川郡香春町香春長畑・中組である。いやぁ、それにしても多彩な統治領域、獅子奮迅のお働きである。彼の後裔が?…その記述は見当たらない。上図<許呂母・飛鳥・山邊>を参照願う

「許呂母」を紐解いてみよう…、
 
許(下:麓)|呂(積み重なった大地)|母(両腕で抱える姿)

…「積み重なった大地の麓を両腕(二本の川)で抱える地形」と読み解ける。「衣=襟」の地形象形と思われる。凄まじいくらいの当て字の活用であろうか・・・。孝霊天皇の御子、夜麻登登母母曾毘賣命に含まれる「母」の解釈に類似する。

高巢鹿之別

<高巢鹿・牟禮>
一見、難しそうな文字列であるが、なんともトンデモない場所であった。「鷹()巣山」高住神社、鷹巣高原そして英彦山に連なる。

「鹿」=「麓」である。もうこれは国境、現在は県境、である。現在の鷹巣山の北方に山口がある。その辺りが「別」と見做されていたのではなかろうか。

後の世になるが、「お菊」の伝説があると言う。この地は「毛の国」に向かう重要な交通拠点としての役割を果たしていたのであろう。

図<高巢鹿>に鷹ノ巣山及び英彦山の位置を載せた。今に残る修験道の聖地である。「高巣鹿」は盛んに人々が往来したところであったと思われる。

「高巣」=「高いところの住処」と解釈することができる。修験者が住んでいたことに繋がる表現である。高住神社の「高住」はそのまま残存した地名と推察される。

飛鳥

これのみ「君」である。飛鳥は香春一ノ岳周辺で、その領域の確定は難しいが、上述の「許呂母」からすると、現在の香春神社辺りを示すと推測されるが(現地名田川郡香春町の前村・山下町辺り)、その根拠は求められるのであろうか?…古事記の中で「飛鳥」の文字はこれが初出である。逆に言うと、後の「遠飛鳥・近飛鳥」で登場する前に「飛鳥」と名付けられた地名があったことになる。

これを解くヒントは邇藝速日命の「鳥見之白庭山」にあった。「登美」は以音であって本名は「鳥見」と気付いたことに端を発する。ただ、「鳥見」の記述は古事記になく、なおざりな取扱いになっていたのである。あらためて「鳥見」は何と解釈できるのであろうか?…、
 
<戸城山と香春一ノ岳>
鳥見=鳥が見える

…と単純に読み解くと、見晴らしの良い高台のイメージである。確かに大坂山からの枝稜線の端にある戸城山は背後に聳える大坂山の方向を除き見事に視界が開けたところと思われる。

だが、それだけのことで命名したとは思えない。何かを意味していると思われる。

図に示した通り、戸城山の頂上付近以外では香春一ノ岳、その麓までは目視できない地形であることが判る。大坂山山稜が延びて遮っているのである。

とすると、「鳥」=「香春一ノ岳」を意味することになる。何故、鳥?…思い付くのが一ノ岳の山腹の模様を示しているのではなかろうか。残念ながらこの山は図に示した有様であって確認不能であるが、サイトでは元の姿を留める写真などが見出だせる。


<在りし日の香春岳>
驚くべきことにこの山は円錐形とは程遠いかなり歪な形で、岩山に見られるゴツゴツとした山容をしていたことが伺える。更に左の写真は南に伸びる主稜線(香春二ノ岳、三ノ岳を結ぶ)に対して枝稜線が、正に鳥の翼にように広がっている、しかもそれが少し折れ曲がったような形をしているように受け取れる。

主稜線を「鳥」の胴体とし、折れ曲がった枝稜線を二つの翼と見做した「飛ぶ鳥=飛鳥」と名付けていたと気付かされる。更にこれが見える方角は「鳥見之白庭山(戸城山)」からの眺望に一致するのである。上記の写真の視点からは、ほんの少し右(東)よりの方角に当たる。

あらためて見てみると、現在も異様な山容ではあるが、元の姿は自然造形でできたもっと異様な姿をしていたと思われる。即ち「飛鳥」は一に特定できる、間違うことなく辿り着ける場所、香春一ノ岳であったと結論できる。最も古くに正一位を授かったと知られる。何故?…この香春神社が、と誰もが思うところであろう。邇藝速日命が見た山に鎮座する神社である。倭の歴史を目の当たりしてきた神が宿る場所である。飛鳥君の坐した場所は図<許母呂・飛鳥・山邊>を参照願う。

仁徳天皇紀の「遠飛鳥・近飛鳥」の説話と全く矛盾のない記述であり、この「飛鳥」と「隼(人)」を登場させ、更に幾重にも掛け合わせた表現をしていたのである。恐るべし、安萬侶くん、である。「万葉」の意味をあらためて思い知らされた気分である。
 
牟禮之別

最後の「牟禮」はなんとも牧歌的な雰囲気、「牛の鳴き声が時を知らせる」ちょっと飛躍があるかも…。田川郡赤村にある「犢牛岳(コットイタケ)」の近くであろう…初見での解釈であるが、牛との繋がりは到底見出すことはできないようである。また古代朝鮮語では「山」の意味とか、山を「別」にすることはできそうにない、であろう。

やはり「伊波禮」「比布禮」などと類似すると見做すのが適切と思われる。「禮」=「山(神)裾の高台」と解釈すると…、
 
牟([牛]の字の地形)|禮(山裾の高台)

<牟禮>
…「[牛]の字をした山(=神)を祭祀する山裾の高台」と紐解くと、祭祀の山(=神)は現在の英彦山として田川郡添田町英彦山の場所と推定する。

英彦山神宮など祭祀の場所として現在も山裾に広がる集落が見られるところである。

「牟」=「ム+牛」として、三つの頂上(北、中、南岳)を持つ英彦山を地形象形していると思われる。

英彦山はかつては「日子山」と名付けられていたとのことである。「日子」は多く古事記に登場するが、大中津日子命に由来するかも・・・。

主祭神である天忍穂命に「日子(稲)」はまだ付かず、その子邇邇藝命になってからである。邇藝速日命も邇邇藝命も天忍穂命の御子、神として祭祀するのは父親か?…不詳である。「牟禮」の場所は上図<高巢鹿・牟禮>も参照。

<大中津日子命:祖の地>
図を参照すると、出来上がった図が示すものは香春一ノ岳、畝火山を中心として、北限の吉備(更にその北限)と南限の高巣鹿・牟禮に跨る南北ラインを統治したことを表している。

師木に都を敷いた崇神天皇の次期天皇である垂仁天皇は、旦波国出身の大中津日子命に都近隣の土地を抑えさせると共に南限北限を見極めさせたのであろう。

これから拡大膨張する国の将来に向けて、その地の情報、衣食住及び戦闘に不可欠な人材と資源の確保に動いた、と思われる。草創期に打つ手として重要なことに最善を尽くした、というべきであろう。

先に進めば、倭建命の登場となるが、彼が行ったのは「言向」だけで統治へと進められなかった場所の「和平」であった。

大中津日子命などの先達の「言向」地を兵站として軍を進めた、ということであろう。大中津日子命が祖となった地は当時の交通の要所であったことが、この推察を示唆するものと思われる。

当然と言えばそうだが、紐解くと実感として受け入れられる記述である。いずれにしても垂仁天皇は賢帝としての雰囲気を十二分に醸し出している様子である。