天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(41)
天平十七年(西暦745年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
秋七月庚申。遣使祈雨焉。壬申。地震。癸酉。地震。戊寅。典侍從四位上大宅朝臣諸姉卒。
八月己丑。給大宰府管内諸司印十二面。甲午。從五位下中臣熊凝朝臣五百嶋除中臣爲熊凝朝臣。庚子。設無遮大會於大安殿焉。己酉。地震。壬子。正三位山形女王薨。淨廣壹高市皇子之女也。癸丑。行幸難波宮。以中納言從三位巨勢朝臣奈弖麻呂。藤原朝臣豊成爲留守。甲寅。地震。
八月四日に大宰府管内の各役所に印を十二面授けている。中臣熊凝朝臣五百嶋(古麻呂に併記)の中臣を除いて熊凝朝臣としている。十五日に大安殿において無遮大会(五年に一回、貴賤の別なく、一切平等に財施と法施とを行ずる法会)を行っている。二十四日に地震が起こっている。二十七日に山形女王が亡くなっている。高市皇子の娘であった。
九月丙辰。地震。戊午。知太政官事兼式部卿從二位鈴鹿王薨。高市皇子之子也。」以正五位上橘宿祢奈良麻呂爲攝津大夫。正五位下百濟王全福爲尾張守。外從五位下田邊史高額爲參河守。民部卿正四位上藤原朝臣仲麻呂爲兼近江守。從五位下縣犬養宿祢須奈保爲丹後守。從五位下大原眞人麻呂爲美作守。外從五位下井上忌寸麻呂爲紀伊守。正五位下紀朝臣宇美爲讃岐守。外從五位下車持朝臣國人爲伊豫守。外從五位上文忌寸馬養爲筑後守。丁夘。以從五位上巨勢朝臣堺麻呂爲式部少輔。己巳。禁斷三年之内天下殺一切宍。辛未。勅。朕頃者枕席不安。稍延旬日。以爲。治道有失。民多罹罪。宜可大赦天下。常赦所不免咸赦除之。其年八十以上。及鰥寡惸獨。并疹疾之徒不能自存者。量加賑恤。壬申。從五位下藤原朝臣乙麻呂爲兵部少輔。從五位上佐味朝臣虫麻呂爲越前守。癸酉。散位從四位下中臣朝臣名代卒。」天皇不豫。勅平城恭仁留守固守宮中。悉追孫王等詣難波宮。遣使取平城宮鈴印。又令京師畿内諸寺及諸名山淨處行藥師悔過之法。奉幣祈祷賀茂松尾等神社。令諸國所有鷹鵜並以放去。度三千八百人出家。甲戌。令播磨守正五位上阿倍朝臣虫麻呂奉幣帛於八幡神社。令京師及諸國寫大般若經合一百部。又造藥師佛像七躯高六尺三寸。并寫經七卷。丙子。中納言從三位巨勢朝臣奈弖麻呂等言。巨勢朝臣等久時所訴奴婢二百三人。今既停訴。請欲從良。許之。丁丑。平城中宮請僧六百人令讀大般若經。己夘。車駕還平城。是夕。宿宮池驛。庚辰。至平城宮。
九月二日、地震が起こっている。四日に知太政官事兼式部卿の鈴鹿王が亡くなっている。高市皇子の子であった。また、以下の人事を行っている。橘宿祢奈良麻呂を攝津大夫、百濟王全福(①-❾)を尾張守、田邊史高額(史部虫麻呂に併記)を参河守、民部卿の藤原朝臣仲麻呂を兼近江守、縣犬養宿祢須奈保を丹後守、大原眞人麻呂を美作守、井上忌寸麻呂を紀伊守、紀朝臣宇美を讃岐守、車持朝臣國人(益に併記)を伊豫守、文忌寸馬養を筑後守に任じている。
十三日に巨勢朝臣堺麻呂を式部少輔に任じている。十五日に三年間、全国において一切の鳥獣の殺生を禁止している。十七日に以下のように勅されている・・・朕は最近病気がちで。不安な容態が十日以上に及んでいる。思うにこれは天下を治める上で過失があり。人民が多く法にふれ、難儀していることによるのであろう。そこで天下に大赦を行うが、平常の赦では許されない者も悉く赦免することとする。また八十歳以上の高齢者、及び鰥寡惸獨並びに病人で自活してゆくことが困難な人々については、その程度によって物を恵み与えるように・・・。
十八日に藤原朝臣乙麻呂を兵部少輔、佐味朝臣虫麻呂を越前守に任じている。十九日に散位の中臣朝臣名代(人足に併記)が亡くなっている。依然として天皇は病気であるので、平城・恭仁両宮の留守官に「宮中を固く守れ」と勅し、孫王等を召して悉く難波宮に参集させている。難波宮から使者を派遣して、鈴と印とを取り寄せている。
また、都と畿内では諸寺及び諸々の名高い山の浄らかな場所において薬師悔過(薬師如来を本尊として、その仏前で罪過を懺悔して薬師経を講讚する行事)の法会を行わせ、「賀茂・松尾」等の神社には幣帛を奉って祈らせている。諸國に対しては、所有している鷹と鵜を共に放たしめている。三千八百人を得度して出家させている。
二十日に播磨守の阿倍朝臣虫麻呂に命じて幣帛を八幡神社(筑紫八幡社)に奉り、京師(京職)及び諸國司に命じて大般若経を都合一百部写経させ、また、高さ六尺三寸の薬師仏像を七体作らせ、薬師経を七巻書写させている。二十二日に中納言の巨勢朝臣奈氐麻呂等は[巨勢朝臣等は長い間、奴婢二百三人の身分について訴訟を起こしていたが、この度その訴えを取り下げ、良民としたいと請う次第である]と言上したので、許可している。
二十三日に平城宮の中宮に僧六百人を招いて大般若経を読経させている。二十五日に天皇が平城宮に還幸することになり、この夕べ、「宮池駅」に宿泊している。二十六日に平城宮に到着している。
賀茂神社・松尾神社 賀茂神社の賀茂については、文武天皇即位二(698)年三月の記事に山背國賀茂祭が記載されていた。その地にあった神社を中心とした祭だったと思われるが、後に発展して現在の葵祭に繋がると言われている。賀茂(神)社と解釈するのではなく、賀茂の(にある)神社が適切なように思われる。
同様に松尾神社の松尾については、古事記の葛野之松尾(こちら参照)と思われる。その松尾の(にある)神社となろう。大寶元(701)年四月に山背國葛野郡に月讀神・樺井神・木嶋神・波都賀志神があったと述べている。それらの神稻を中臣氏所管としたと記載されている。「松尾」の場所にあったと推定した「樺井神・波都賀志神」を示しているように思われる。
宮池驛
難波宮から平城宮への行程は、古事記に幾度か記載された大坂越であろう。御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に謀反人の建波邇安王を征伐する時に、大毘古命が通過した山代之幣羅坂と記載されている。
この難所の峠を越えるために麓に”驛”が設けられていたのであろう。すると、「近飛鳥宮」(現在の飯嶽神社)の近辺にあったと推測される。宮=近飛鳥宮、池=氵+也=水辺が曲がりくねっている様と解釈すると、図に示した辺りに宮池驛があったと思われる。
難波宮から宮池驛まで、地図上の概算で10km弱、驛から平城宮まで15km前後と求められる。一泊二日の行程であろう。驛からの道筋は、現在の県道204号線ではなく、前出の大友史斐太の谷間を通過して丸邇(現在の田川郡香春町柿下)に抜けたと推測される(山代之幣羅坂参照)。
古事記に記載された”幣羅坂”を漸くにして突き止めることができたようである。山稜の端が幾つも寄り集まった峠の道、それに伴って谷間が曲がりくねった様となる。実に特異な谷間の道となったのであろう。古代の人々の地形認識の確からしさを、あらためて感じさせられたようである。
冬十月戊子。論定諸國出擧正税。毎國有數。但多褹對馬兩嶋者。並不入限。辛亥。河内國司言。右京人尾張王。於部内古市郡古市里田家庭中。得白龜一頭。長九分。闊七分。兩目並赤。
十月五日に諸國が出挙する正税(稲)の額を論定している。その定数は國の等級によって定められるが、多褹・對馬の両島については、この規定を適用しない、としている。二十八日に河内國司が[右京人の「尾張王」が、管内の古市郡古市里に所有している田家(田舎の家)の庭において、「白龜一頭」を捕獲した。長さは九分、横幅は七分で、両目は共に赤色をしている]と言上している。
● 尾張王
この王は二度目のご登場である。前回(天平九[737]年九月)では、全く出自の情報が得られず、書紀で記載された敏達天皇の子、尾張皇子の場所ではないか、と推察した。
そして今回は「右京人」と付加されたことにより、前回の推察通りの場所であったことが解った。かつての皇子の場所に住まっていたわけで、以前にも類似する例があった。
図に示した通り、大安寺があった山稜を表し、既に幾人かの渡来系の人々が住まっていた地でもある(例えば支半于刀)。参考に尾張皇子及びその娘(厩戸皇子の妃)の出自の場所を引用するが(こちら参照)、とりわけ娘の名前は、彼等の出自の場所を確定的にしているように思われる。
大安寺は、厩戸皇子が建立した熊凝精舎を受け継いだと言われる。皇子が活発に動かれた地域だったのであろう。勿論、その当時には”右京”ではなかったのであるが・・・。
田家・白龜一頭
久々に祥瑞の登場である。田家は、「田舎の家」を意味すると辞書に解説されているが、そのままの意味でよいのか?…白龜一頭とは?…龜は”頭”で数えるのか?…などなど腑に落ちない記述であることには違いない。
と言うことは、地形を表すために工夫された表記と思われる。頻出の白龜=龜の形をした地がくっ付いているところと解釈した。龜は二匹いる筈である。
一頭=一つの頭と読むと、二匹の龜がいるが、一匹の頭のような地だけが見える地形を表しているのではなかろうか。田家=谷間に延びた山稜の端が豚の口のようになっている前に田があるところと読み解く。すると、二匹の龜と一つの頭、そして豚口の山稜が寄り集まっている場所が見出せる。
正に古市郡の古市里(丸く小高い地が寄り集まった里)の様相を示す地であることが解る。最も東側の、現在の春日神社がある小高いところは、龜の甲羅にように見えるが、”頭”が見えない。西側の龜は、少々地形が崩れてはいるが、しっかりと”頭”が確認される。
更に極めつけは、その頭が「火」の文字形をしていると見做せることが解り、その文字の両脇の二点が目の位置にあるのを赤=大+火=平らで[火]の形をしている様の目と表記してと解釈される。紛うことなく瑞祥であろう。褒賞は、後に記載されることになるのかもしれない。「長九分。闊七分」は、また、後日に読み解いてみよう。
十一月乙夘。遣玄昉法師造筑紫觀世音寺。己巳。宴五位已上於内裏。賜祿有差。但年七十以上別加賜被。庚午。收僧玄昉封物。庚辰。制。諸國公廨。大國卌万束。上國卅万束。中國廿万束。就中。大隅薩摩兩國各四万束。下國十万束。就中。飛騨。隱伎。淡路三國各三万束。志摩國。壹伎嶋各一万束。若有正税數少。及民不肯擧者。不必滿限。其官物欠負未納之類。以茲令填。不許更申。又令諸國停止仕丁之廝。
十二月戊戌。運恭仁宮兵器於平城。
十一月二日に玄昉法師を派遣して筑紫の觀世音寺の造営に当たらせている。十六日に五位以上の官人を内裏に集めて宴を催し、それぞれに授け物を与えている。但し七十歳以上の者には、それに加えて別に被(夜具)も与えられている。十七日に僧玄昉に与えられていた封戸と財物を没収している。
二十七日に次のように制している・・・諸國における公廨稲に当てるべき稲の限度を、大國は四十万束、上國は三十万束、中國は二十万束、そのうち大隅・薩摩の両國は各々四万束、下國は十万束、そのうち飛騨・隠岐・淡路の三國は各々三万束、志摩國・壹伎嶋は各々一万束と定める。もし正税の数量が少ない場合や民衆が出挙に応じない時には、必ずしもその限度額を満たす必要はない。官物の不足の分が未だ収納されていないような場合は、公廨稲(出挙)の利息をもって補填せしめ、これ以後は申告することは許されない・・・。また諸國に命じて仕丁の廝(身辺の世話をする者)を停止させている。
十二月十五日に恭仁宮の兵器を平城宮に運んでいる。
藤原朝臣廣嗣が叛逆するほどに権勢を振るった「玄昉法師」が失脚したのであろう。当然、主役の橘宿祢諸兄の権勢も急激に衰えたと推測される。後に藤原朝臣仲麻呂が台頭して来ることを思えば、藤原朝臣一族の復活と言えそうである。尚、僧玄昉は、この後半年余り過ぎた翌年の天平十八(746)年六月に亡くなっている。
「觀世音寺」に”筑紫”が冠されている。筑紫を分割して筑前・筑後としたのならば、そのどちらかか?…大宰府に関わるなら、何故筑前と記さないのか?…多くの不確かなことが浮かんで来るが、通説は、スルーである。勿論、大宰府も含めて”筑紫”の地(現地名は北九州市小倉北区足原)にあった寺である。
知太政官事の「鈴鹿王」が亡くなったり、政権の主要人物が様変わりしつつあることを告げているように伺える。世は止まることなく変化して行ったのであろう。