2020年4月16日木曜日

天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅴ) 〔405〕

天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅴ)


蘇我入鹿(鞍作)臣は、かなり出来が良かったようで、蝦夷大臣にとっては自慢の跡取りだったのかもしれない。それに気を良くして葛城に宮を造って宴を開催したり、また自分と息子の墓所まで造ったと伝えている。傍若無人の態度のように記載されているが、真偽のほどは定かではない。彼ら蘇我一族が我が世の春を過ごしていたことには間違いがないようである。

天皇も種々の儀式を行い終えて念願の飛鳥板蓋宮を新造している。通説に捉われることなく香春一ノ岳の西麓の地に求めることができた。板葺きの屋根であったかどうかは不詳だが、「板蓋」の名称はその宮の在処を示していることが解った。現在は静かな佇まいの様相の地、かつては筑豊炭田の田川の街、いや、古代の日本の中心、「飛鳥」が聳える麓の地であったと読み解いて来た。

さて、いよいよ歴史が動き始める時が近付いたようである。引続き即位二年(西暦643年)五月以降の物語である。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

五月庚戌朔乙丑、月有蝕之。六月己卯朔辛卯、筑紫大宰、馳譯奏曰、高麗遣使來朝。群卿聞而、相謂之曰、高麗、自己亥年不朝、而今年朝也。辛丑、百濟進調船、泊于難波津。秋七月己酉朔辛亥、遣數大夫於難波郡、檢百濟國調與獻物。於是、大夫問調使曰、所進國調、欠少前例。送大臣物、不改去年所還之色。送群卿物、亦全不將來。皆違前例、其狀何也。大使達率自斯・副使恩率軍善、倶答諮曰、卽今可備。自斯、質達率武子之子也。是月、茨田池水大臭、小蟲覆水、其蟲口黑而身白。

八月戊申朔壬戌、茨田池水、變如藍汁、死蟲覆水。溝瀆之流、亦復凝結、厚三四寸。大小魚臭、如夏爛死。由是、不中喫焉。九月丁丑朔壬午、葬息長足日廣額天皇于押坂陵。(或本云、呼廣額天皇、爲高市天皇也。)丁亥、吉備嶋皇祖母命薨。癸巳、詔土師娑婆連猪手、視皇祖母命喪。天皇、自皇祖母命臥病、及至發喪、不避床側、視養無倦。乙未、葬皇祖母命于檀弓岡。是日、大雨而雹。丙午、罷造皇祖母命墓役。仍賜臣連伴造帛布、各有差。是月、茨田池水漸々變成白色。亦無臭氣。


六月になって筑紫大宰が高麗から使者が朝貢して来たと早馬で知らせたと述べている。賓客で訪れても貢ぎ物持参したのは久しぶりだったのかもしれない。同月には百濟も朝貢するのであるが、七月になって不足であったことが発覚したらしい。群卿への付け届けみたいなものも含まれる筈がなかったとのことで、百濟國の乱れを暗示しているのであろう。

この月に茨田池に虫が湧いて悪臭が漂ったようである。無臭になる九月まで二ヶ月間掛かったようである。原因は?…未記載である。皇極天皇の母親である吉備嶋皇祖母命が亡くなって、土師娑婆連猪手に命じて檀弓岡に埋葬したと伝える。

 
茨田池

「茨田」の名称を少し整理してみようかと思う。古事記で初めてこの名称が登場するのは、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、日子八井命が祖となった茨田連である。現地名は田川郡みやこ町勝山大久保とした。次いで大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の御子、櫛角別王が祖となった茨田下連であり、現地名は同町勝山松田の下田とした。

続いて大雀命(仁徳天皇)紀に茨田堤・茨田三宅が登場する。とりわけ前者は淀川の築堤と考えられて有名である。勿論未だにその痕跡も見出せていないものを当てにするわけには行かず、現地名行橋市前田辺りの長峡川の西岸を示すと解釈した。天皇の四男坊、男淺津間若子宿禰命(後の允恭天皇)の名前に刻まれていると読み取った。

最後は橘豐日命(用明天皇)の御子の茨田王、上宮之厩戸豐聰耳命の弟、山背大兄皇子の叔父に当たり、後の事件に巻き込まれたと伝えられているようである。現地名は田川市夏吉の西端の地(葛城:現田川郡福智町との境)である。

 
<茨田池>
即ち、茨田=揃って並んだ田=棚田であり、谷間の形を松葉に象った「松田(マツタ)」と呼び変えられたと推察した。


「茨田(マッタ)」は「マンダ」と訓されるが、むしろ「松田(マツタ→マッタ)」が訛った呼び名であろう。故に様々な場所に出現するのである。

「茨田池」に関する通説は、相変わらずに「茨田堤」に関わる場所にあったと推定されている。まるで何かの呪縛に引っ掛かったような有様であろう。

「茨田」の表記は、日本における水田稲作の原風景であり、中国江南の倭人の創意と工夫によって切り開いた産業革命だったことを見逃してしまっているのである。

先記に登場した國勝吉士水鶏の別称「俱毗那」は「茨田」を示唆する表記であることを述べた。すると、その下にある「水鶏」の池を「茨田池」と称していたと推定される。現名称は矢留貯水池となっているが、国土地理院地図には「松田池」と記載されている。勿論、当時は今よりもかなり小ぶりであったと推測されるが。池の悪臭事件をわざわざ記載し、来客が着岸(難波津江口)する近隣の池であったことを示しているのではなかろうか。

ずっと後の天武天皇紀に槻本村主勝麻呂が登場する。『八色之姓』で「連」姓を授かったとの記事である。既出の「槻」=「山稜が丸く小高くなった様」であり、山腹で丸く盛り上がったところを表す文字と読み解いた。図に示した場所がそれを示し、その麓(本)の地が出自と推定される。

「押坂陵」及び「高市天皇」については、前記で述べたので割愛することにして、天皇の母親「吉備嶋皇祖母命」についての記述を読んでみよう。

 
吉備嶋皇祖母命:檀弓岡

既に母親の「吉備嶋皇祖母命」、即ち吉備姫王の出自の場所を求めたが、「吉備嶋」の名称は重要な情報であった。伊邪那岐・伊邪那美が生んだ「吉備兒嶋」ではない。立派な島状の地である。勿論現在の海水位ではなく、当時における状態を想定して、である。

古事記はこの地を神櫛王の地としたが、今から思うと何とも捻くれた表記のように感じられる。当然ながら櫛角別王の地が寶皇女の出自の場所に該当する。吉備姫王に関する史料が少ないせいかWikipediaの記述も簡単である。出自の場所もなく、専ら「檀弓岡」が主になっている。

とは言うものの、書紀の記述だけからではこの岡を求めることは不可で、少々関連情報を集めると、祖父の天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)、いや実は、古事記ではこの天皇の墓所は銘記されていない。あらためて書紀風に天國排開廣庭天皇(欽明天皇)として、その場所は「檜隈坂合陵」と記載され、そこに吉備嶋皇祖母命」が合葬されたと言われている。

 
<檀弓岡・檜隈舍人造
「檜隈坂合陵」の「
檜」の文字は、古事記の建小廣國押楯命(宣化天皇)が坐した檜坰之廬入野宮に含まれている。

「檜」=「木(山稜)+會」と分解して、「會」の文字形が示す地形を三角州の先端部と推定した。文字解釈をすれば「會」=「亼+曾」と分解され、「三角の形に寄り集まる(積重なる)」と解説される。

坰」=「境」であり、「會」の形の三角州近傍の地を表す。現在の彦山川と中元寺川の合流地と推定した。

因みに、下流域の彦山川と遠賀川の合流地は「輕」で表されている。何故「會」を使ったかは、その文字に「日」が含まれているからである。即ち品陀和氣命(応神天皇)が坐した輕嶋之明宮がある三角州だからと推察した。

ここまで読み解けると檜隈=「會」の形の三角州の隅を表していることが解る。何と、段丘になったところが中元寺川の畔にある。檀弓(ダンキュウ)=山稜が弓状に盛り上がった平らなところと読める。「檀(マユミ)」と訓されるが、古代に弓の材料だったからだそうである。そしてこの隅の地は見事に川の流れに沿って「弓状」の形を示している。


現在は整地されて地形の詳細が判り辛いが、「檜隈坂合陵」は二つの山稜が寄り集まった場所を表していると思われる。中元寺川が丘陵に挟まれた地形である。
現在も林になって残された場所ではなかろうか。吉備嶋皇祖母命」が埋葬されたのは少し西側かと推測される。

古事記は天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)陵を記述しないが、川の氾濫で流されたのかもしれない。書紀は、お構いなしに記載、であろう、所詮大きく蛇行する川岸などに当てるつもりがない、と勘繰ってみたが、確かではない。

ずっと後の天武天皇紀に檜隈舍人造が登場する。「連」姓を授かったのであるが、併せて図に記載した。墓所の近隣で大河の中流域を開拓した人々だったと思われる。
 
● 土師娑婆連

「土師」は、書紀では早期に登場し、天穂日命が祖となった「出雲臣、土師連等」と記載されている。一方古事記では天之菩卑能命(天菩比命)の祖となった記述は無く、代わって息子の建比良鳥命が祖となった出雲國造、菟上國造、遠江國造などの記述が見られるが、「土師連」の名称は出現しない。

いずれにせよ「記紀」の記述から「土師」は出雲の地に関わるところと思われる。古事記の「菟上」、「遠江」の記述が都合が悪く、両書併せて曖昧な表現にした(させられた?)のではなかろうか。「出雲」に関連する記述は、実に”怪しい”もののように伺える。兎も角もその場所を探してみよう。


古事記の「土師」は、伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀の「橘(タチバナ)」=「登岐士玖能迦玖能木實」を述べる段で天皇埋葬の際に「人柱」を添える風習を大后比婆須比賣命が止め、その代わりに埴輪を用いるようになったことを伝えるところで「土師部」として登場する。同時に「定石祝作」(石室・石棺作りの役目?)と記され、出雲之石𥑎之曾宮に絡めた表現と解釈した。

 
<土師娑婆連猪手>
これで漸く「土師」の場所が推定されることになった。
「石𥑎之曾宮」の近隣の場所が「土師部」であり、現地名は北九州市門司区松崎町辺りと推定した。

書紀の推古天皇紀に「土師連猪手」が登場するが、その孫を「娑婆連」と言う謂れが記されている。取って付けたような記述のようで、それはそれとして文字列を読み解いてみよう。

娑婆=水辺で嫋やかに曲がって三角に尖った山稜(娑)が覆い被さるように広がっている(婆)ところと読める。古事記の雄略天皇紀に登場する引田部赤猪子に含まれている。「猪」=「犬+者」と分解し、猪=平らな頂の山稜が交差するように寄り集まっている様と読み解いた。


些か見分け辛いが、図の場所がその地形を示していることが解る。盛り上がった台地を手=山稜の端が手の形と見るのも良し、また、手=周囲をぐるりと取り巻く様と解釈することもできる。「手が物を掴んでいる様」を表すと解説されている。「連」は麓が緩やかに延びた地形を表す。孫は麓から更に水辺の方に移って行ったのであろう。上記の謂れに関わりなく自然の成り行きで理解できる命名である。


冬十月丁未朔己酉、饗賜群臣伴造於朝堂庭、而議授位之事。遂詔國司。如前所勅、更無改換、宜之厥任、愼爾所治。壬子、蘇我大臣蝦夷、緣病不朝。私授紫冠於子入鹿、擬大臣位。復呼其弟、曰物部大臣。大臣之祖母、物部弓削大連之妹。故因母財、取威於世。戊午、蘇我臣入鹿、獨謀、將廢上宮王等、而立古人大兄爲天皇。于時、有童謠曰、
伊波能杯儞、古佐屢渠梅野倶、渠梅多儞母、多礙底騰裒囉栖、歌麻之々能烏膩。
(蘇我臣入鹿、深忌上宮王等威名振於天下、獨謨僭立。)是月、茨田池水還淸。

蘇我大臣蝦夷は子の入鹿臣に「紫冠」を”私的”に授けた(私授)と述べている。またその弟を物部大臣と言わせたのだが、祖母が「物部弓削大連」の妹であって、財力が頗る豊かであったと伝えている。「物部」は邇藝速日命一族であり、皇統には関わらなかったのであるが、豪族間では繋がっていたことが伺える。元を質せば彼らも立派な天神一族の末裔である。

 
<物部弓削大連>
そんな背景で入鹿臣は、「上宮王」を廃して従兄妹を「古人大兄爲天皇」とする策謀を企てていたと述べる。
法提郎媛と蝦夷大臣の謀(大臣保有の地を古人皇子に譲渡)を踏まえた入鹿臣の戦略であろう。推古天皇で途切れた後の蘇我一族復権である。

それにしても法提郎媛は、なかなか強かな媛であって、天豐財重日足姬が最も恐れた相手だったのかもしれない。

「物部弓削大連」は「物部」の地であろう。弓=弓なり状頻出している。「削」=「肖+刀」と分解される。更に「肖」=「小+月」と分解すると、削=小さく切った(小・刀)ような山稜の端の三角州(月)と紐解ける。

図に示したように弓なりに広がった山稜が更に細かく分かれている場所と思われる。「大連」は「広く延びた山稜の端」と読める。現在の北九州市小倉南区木下辺り、かつては東谷村と呼ばれたところで川沿いに水田が広がる地である。邇藝速日命が渡って来て、早期に開拓された地でもある。神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が来る以前に兄・弟宇迦斯が住まって居たと古事記が伝えている。

挿入された童歌は、参考のサイトの訳は、「岩の上に 小猿米焼く 米だにも 食げて通らせ 山羊の老翁」となっている。入鹿臣がせっせと企みを画している様を詠ったものであろう。「茨田池」は、すっかり元通りになったようである。

十一月丙子朔、蘇我臣入鹿、遣小德巨勢德太臣・大仁土師娑婆連、掩山背大兄王等於斑鳩。(或本云、以巨勢德太臣・倭馬飼首爲將軍。)於是、奴三成、與數十舍人、出而拒戰。土師娑婆連、中箭而死。軍衆恐退。軍中之人、相謂之曰、一人當千、謂三成歟。山背大兄、仍取馬骨、投置內寢。遂率其妃、幷子弟等、得間逃出、隱膽駒山。三輪文屋君・舍人田目連及其女・菟田諸石・伊勢阿部堅經、從焉。巨勢德太臣等、燒斑鳩宮、灰中見骨、誤謂王死、解圍退去。由是、山背大兄王等、四五日間、淹留於山、不得喫飲。三輪文屋君、進而勸曰、請、移向於深草屯倉、從茲乘馬、詣東國、以乳部爲本、興師還戰、其勝必矣。山背大兄王等對曰、如卿所噵、其勝必然。但吾情冀、十年不役百姓。以一身之故、豈煩勞萬民。又於後世、不欲民言由吾之故喪己父母。豈其戰勝之後、方言丈夫哉。夫損身固國、不亦丈夫者歟。 

即位二年十一月一日、いよいよ戦いの火蓋が切って落とされた。蘇我臣入鹿は巨勢德太臣・土師娑婆連(一説では倭馬飼首)を派遣して斑鳩に居る山背大兄王等をふいに襲わせた()と述べている。長い記述ではあるが、登場人物名とその会話が載せられている。その他に地名として、膽駒山、深草屯倉が登場する。斑鳩の地を中心にして読み解いてみよう。

山背大兄王に王たる者のあるべき姿を語らせている。「万民のための一人たるべき」何とも持ち上げた表現であろう。当然下げるのは襲い掛かった蘇我臣入鹿となろう。ところで山背大兄王の軍勢が応戦した時に「奴三成」が獅子奮迅の戦いを行い、攻め手の大仁土師娑婆連が戦死するなど、挙句に王は山に逃げ延びることができたと記されている。

 
<倭馬飼首=大伴連馬飼>
余談だが・・・「石田三成」の旗印は「大一大万大吉」(天下のもとで、一人が万人のために、万民が一人のために命を注げば、すべての人間の人生は吉となり、太平の世が訪れる)だとか。何か関連があるのであろうか・・・。
 
● 倭馬飼首

蘇我臣入鹿に山背大兄王討伐を命じられた二人の内、巨勢德太臣は舒明天皇の葬儀に登場していた。もう一人については、一説によると土師娑婆連ではなく「倭馬飼首」だったとされる。

土師娑婆連は戦死するので、倭馬飼首もそうであったのか、詳細はここでは不明である。先ずは、この人物の出自の場所を求めてみよう。

「馬飼」の文字は「大伴連馬飼」に含まれていた。彼らの出自の場所の地形をよく見ると、倭=嫋やかに曲がりくねる地であり、そして谷間に大きく段差があって首=凹(窪)んだ地形であることが解る。これは間違いなく同一人物の別表記と見做せるであろう。

 
膽駒山

ふいに襲われた山背大兄王及びその従者達が落ち延びたのが「膽駒山(イコマヤマ)」と記載されている。先ずは文字を読み解いてみよう。「膽」=「月+詹」と分解される。「詹」の分解は簡単ではないが「詹」=「人+厂+ハ+言」を参考にしてみる。「人が崖の上から言葉を発する様」を表している。地形象形的には、頂上から大きく広がった山稜が多く連なっている様を示す文字と読み解ける。
 
<膽駒山>
膽」は「胆」の旧字体であって、重くずっしりとしたものがぶら下がった中心を表す「胆(キモ)」の意味を持つ。

同様に「担」(旧字体は「擔」)がある。解釈は上記のように合理的である。と言うことで…、

膽=三日月の形をした山稜(月)の傍らで頂上から多くの山稜が連なり広がっている(詹)

…と紐解ける。駒=馬の背の頂上である。図に示した通りにこの山から多くの大きな枝稜線が延び、主稜線の末端部にある峰を示している。

古事記の大雀命(仁徳天皇)紀の説話に速總別王・女鳥王とが駆落ちして逃亡する物語に記載された倉椅山に該当するところと思われる。当時の逃亡ルートとしてはメジャーなところだったのかもしれない。少々年代がことなるが・・・山背大兄王一行のルートを推測してみたが、上宮の崖下を迂回して乳部に至り、急勾配の山道を登ったのではなかろうか。

「膽駒山」は書紀では、神日本磐余彥天皇(神武天皇)が難波之碕から更に越えて行こうとした山として登場する。通説では、現在の生駒山とされているが、とても「膽」の状況ではないようである。詳細は、後日に・・・。

 
● 舍人田目連及其女

引続き従者達の出自の場所を求めてみよう。更に東國へ逃げましょうと進言した三輪文屋君三輪君小鷦鷯の子とのことである。彼らは美和山(現足立山、企救半島)の西麓に居た。前記の結果を参照。次に登場するのが「舍人田目連」である。「數十舍人」の中の一人であるが、一応名前が付加されている。

Wikipediaによると、「舎人(とねり/しゃじん)とは、皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた者。その役職」と記載されている。古事記の大長谷若建命(雄略天皇)紀で舎人=谷間にある山稜の端が延びて残ったところの地形象形表記と読み解いた。そして後に警備や雑用の役職を表すようになったと推察した。前記の筑紫大宰で述べたことに類似する。

 
<舎人田目連>
では何の修飾もなく「舎人」と記されるのは一体何処を指すのであろうか?…古事記の本文ではないが、序文に登場する舎人稗田阿禮と関連すると思われる。

現地名の行橋市上・下稗田がある大きな「舎人」を表していると推定される。田目=田と田の隙間と読み取れる。

大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の御子、大碓命が祖となった「大田君」、「嶋田君」の居場所に”隙間”があることに気付かされる。

「舍人田目連」はこの端境に居たと思われる。古事記の雄略天皇紀でも述べたが、宮廷に奉仕させる「舎人」の食い扶持を提供する地が不可欠であって、また、そうでない者もいたかもしれないが、きちんと出自を有していたことになる。

更に二人の娘も奉仕させていたとのことである。「菟田諸石・伊勢阿部堅經」と記載された娘達の居場所を求めてみよう。「菟田諸石」の「菟田」は古事記に登場した菟田首等・大魚の場所と思われる。現地名は田川郡川崎町池尻である。

 
<菟田諸石・菟田郡人押坂直・菟田山>
「諸」=「言+者」=「耕地が交差するように延びている様」、「石」=「厂+囗」=「山麓の小高い地」と解釈する。

諸石=山麓の小高い地の前で耕地が交差するようなところと解釈される。図に示した「菟田」出入口辺りの場所を表していることが解る。

また図には後に登場する「菟田郡人押坂直」及び「菟田山」の場所も併せて示した。郡=整えられた台地が集まったところと読み解いた。難波大郡などの例がある。

押坂=山稜が押し拡げられた甲羅のようになっているところと解釈される。闕名なのでそれらしき場所を図に示した。また「菟田山」はその北側にある、決して高くはない山であろう。

これらの登場人物、地名は「菟田」の地に見事に適合していることが解ったのであるが、書紀に登場する「菟田」は少々複雑である。初登場は神日本磐余彥天皇(神武天皇)の東行に際して兄猾及弟猾(古事記では兄/弟宇迦斯)と遭遇する地を「菟田縣」(古事記では「宇陀」)と表記している。

上記「膽駒山」でも述べたように書紀編者による恣意的な書換えのように見える。「菟(呉音:ズ、ツ)、漢音:ト」であって「ウ」の発音はない。「ウサギ」の「ウ」、あり得ない。古事記は「ト」の音を示していると思われる。書紀編者による、このワザとらしい書換えは、それを暗示するためであったと推測される。現地名では奈良県[宇陀]市[菟田]野となっている。「記紀」丸写(移)しの様相であろう。

 
<伊勢阿部堅經>
「伊勢阿部堅經」を伊勢の地で求めることになる。だが「阿部」の地形は簡単には見出せなかった。

漸く辿り着いたのが現地名の北九州市小倉南区辻三という場所である。かなり山深く立ち入ったところ、紫川の上流部で合流する合間川の、その上流域にある地である。

確かに古事記に登場の「阿倍」も山深いところである。書紀中でもここでの登場が唯一である。山間部であるが山稜の端が寄り集まっている地形であり、出雲近隣の阿多に類似するところと思われる。

例によって文字を紐解くと、阿倍=花の子房(倍)のような台地(阿)として、「堅」=「臣+又+土」と分解すると堅=谷間に延びた山稜の端が手のようなところと読み解ける。

經」=「糸+坙」と分解すると、經=山稜が真っ直ぐに延びている様を表している。文字が示す通りの場所を図に示した。「舎人田目連」はなかなかの精力的に活動して、各地で誕生させた娘を天皇の傍に奉仕させていたようである。それぞれの地は食い扶持を十分に供給できるところであったことが伺える。いや、それくらいの目先が利かなくては、天皇の傍にはおられなかったのかもしれない。古事記では語られない側面であろう。

 
深草屯倉

「三輪文屋君」の進言は、「先ずは深草屯倉に移り、乳部を元手にして東國で準備して戦いましょう」である。この箇所の表現も微妙である。「從茲乘馬、詣東國」(深草から馬に乗って東国に詣でる)遠いところで詳細は記さず、なのである。

古事記での「東國」の出現は倭建命(書紀では日本武尊)が東方十二道へ遠征時に「走水海」で遭難しそうになり、后の弟橘比賣命が身を挺してこれを収めた。その後この海を見下ろして「阿豆麻(吾妻)!」と叫んだことから「東國」と名付けたと記載されている。叫んだところが「足柄」であって、現在の静岡・神奈川県境とされている。「深草屯倉」は現在の京都市伏見区、直線距離でも300kmを越える。「從茲乘馬」あり得ないが、間違ってはいない?…の記述である。

「深草屯倉」は天國排開廣庭天皇(欽明天皇)紀冒頭の記述…「天皇、寵愛秦大津父者、及壯大必有天下。」寐驚、遣使普求、得自山背國紀郡深草里、姓字果如所夢。…で出現している。この屯倉は山背國(古事記では山代國)にあった。では「深草」とは?…文字解釈に入る。

 
<深草屯倉・秦大津父>
「深」=「水+罙」と分解される。更に「罙」=「穴+又(手)+火」から成る文字である。

見慣れた文字ではあるが、その字源は簡単ではないようである。胎内から赤子を取り出す様から導かれたとも言われる。

地形象形的には深=川が流れる(水)谷間(穴)に[]のように山稜が延びている(手)ところと紐解ける。

「草」=「艸+皁」と分解される。「艸」の文字形から草=山稜が並んでいる様を表していると読み取れる。

既出の屯倉=谷間を集めたところである。これも当初は地形から名付けられて、後にその役割を表す名称となったものであろう。「三宅」、「三家」なども類似する。

図に示した場所に屯倉があったと推定される。実に地形要件を満たしたところと思われる。この地は古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)紀及び伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に登場する大筒木垂根王及びその比賣である迦具夜比賣命の居場所と推定した地である。急斜面の山麓に池(沼)を造り治水されていた。

「秦大津父」を大切にすると天下を治めることができる…と夢のお告げ聞いた。それほど豊かな土地であったと伝えている。秦=稲穂のような山稜が並んで集まっている様であり、大津=平らな頂の山麓にある津であり、父=交差するように寄り集まる様を表している。御所ヶ岳・馬ヶ岳山系の麓にある犀川(現今川)、高屋川、松坂川が一ヶ所に集中する、特徴的な場所を表記した名前と思われる。「人=地」であろう。

天下を治めることができる「深草」を抑えることが東國を、そして更に天下を手中にできることなのだと「三輪文屋君」が述べているのである。直線距離300kmを越えて離れている地のことでは、全くあり得ない。真に合理的な進言だったのだが、それではちょっと拙い・・・と言うことであろう。「斑鳩」から見て「山背(山代)」を含めた「東國」だ、と述べている。

古事記と書紀との齟齬が一気に噴き出したようである。書紀の記述に於いて素直に表現された部分とそうでない部分、後者に矛盾を曝け出すことが本著の目的になりそうである。今のところ、何となく可能なような気分である・・・長いので、次回へ・・・。