天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅳ)
息長足日廣額天皇(舒明天皇)の葬儀そして埋葬の様子が伝えられた。その場所が「滑谷岡」、古事記で使われた文字「禍」が示す場所であることが解った。これらの文字は「冎」を構成要素とする。「記紀」は共通の地形象形表記を行っていることが明らかとなりつつある。
それに意を強くして先に進んで行こう。原文引用は青字で示す。引続き即位元年(西暦642年)の物語である。日本語訳は、こちら、こちらなどを参照。
是歲、蘇我大臣蝦夷、立己祖廟於葛城高宮、而爲八佾之儛。遂作歌曰、
野麻騰能、飫斯能毗稜栖鳴、倭柁羅務騰、阿庸比陀豆矩梨、舉始豆矩羅符母。
又盡發舉國之民、幷百八十部曲、預造雙墓於今來。一曰大陵、爲大臣墓。一曰小陵、爲入鹿臣墓。望死之後、勿使勞人。更悉聚上宮乳部之民、(乳部、此云美父。)役使塋垗所。於是、上宮大娘姬王、發憤而歎曰、蘇我臣、專擅國政、多行無禮。天無二日、國無二王。何由任意悉役封民。自茲結恨、遂取倶亡。是年也、太歲壬寅。
蝦夷大臣は蘇我氏(己)の祖先を祀る宮(祖廟)を造り、中国の天子のみ許される舞(八佾之儛)を催し、更に歌まで作ったと記載されている。歌の内容は「大和の忍の広瀬を渡らむと足結手作り腰作らふも」と訳されている。参照したサイトでは、正にシーザーがルビコン川を渡る心境か、と述べてられる。一度の大敗ぐらいではビクともしない財力・人脈の保有者だったのであろう。
天皇(王)のような振る舞いが目立ったと続けている「多行無禮」。何と自分と息子の墓(大陵・小陵)を勝手に民を動員して造ってしまった。これでは滅んで当然と結んでいる。クライマックスに向かう前説であろう。蘇我氏の祖廟「葛城高宮」、「今來」に造った「大陵・小陵」、また使役を調達した場所「上宮乳部」の場所を求めてみよう。
<葛城高宮> |
葛城高宮
「葛城」は固有の地名では決してない。葛城=渇いた(葛)なだらかに盛り上がった地(城)を表す場所である。急傾斜の山裾に位置するところである。
沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が豐御食炊屋比賣命(後の推古天皇)を娶って誕生した御子に葛城王が居た。その地にあった宮と推定される。
高=皺が寄ったような凹凸のある様を表し、「葛城高宮」は現在の京都郡苅田町葛川にある菅原神社辺りと思われる。蘇我馬子、蝦夷、入鹿の三代の居場所に囲まれた位置にあり、祖廟とするに相応しい場所であろう。
古事記の大雀命(仁徳天皇)紀に大后石之日賣命が嫉妬に狂って実家に帰りそうになる説話が記載されている。その時に詠った歌中に「迦豆良紀多迦美夜」(葛城高宮)と読める文字列が見出せる。通説は、これだ!…の解釈であろう。
彼らの祖先、蘇賀石河宿禰の兄弟に葛城長江曾都毘古が居た。同祖故に蘇我一族も葛城が出自の場所と思われているようである。彼ら兄弟の父親は建内宿禰、木國が出自の場所である。遠祖にまで求めるのなら、その地こそ宮を造る地であろう。「葛城」とくれば一点絞りの解釈では「記紀」は読み解けなかったことを曝している。
<今來(郡)・大陵/小陵> |
今來
「今來」の「今」は何処を表しているのであろうか?…古事記に「今」の文字は多数出現するが、地形を表す表現は見当たらないようである。
唯一これを要素に含む文字を使った例がある。品陀和氣命(応神天皇)の御子、若野毛二俣王が其母弟・百師木伊呂辨を娶って誕生した藤原之琴節郎女に「琴」が含まれている。
「琴」=「今+珡」と分解され、今=山稜に閉じ込められたようなところを表していると読み解いた。現地名は田川郡福智町弁城の葛原辺りと推定した。
來=山稜が長く延びて広がる様を示すと読み解き、天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった馬來田國造の在処を示す文字とした。
すると「今」の地で山稜が延びた地形を示すところと推定される。現地名は福智町弁城の南側、福智町伊方辺りと推定される。この地に「雙墓の大陵・小陵」を造ったと言うのである。その中央付近に二羽の鳥(隹)が並んでいるように見える場所が見出せる。
「大陵」の地は開発されて些か見辛いが、鳥の首の形が残っており、「小陵」は正に小鳥が飛ぶ様と見做せる地形が「雙」=「隹+隹+又(腕:山稜)」していることが解る。書紀編者の実に見事な筆さばき、のようである。
「今來郡」として、天國排開廣庭天皇(欽明天皇)紀に登場する。抜粋すると「七年秋七月、倭國今來郡言「於五年春、川原民直宮宮名登樓騁望、乃見良駒紀伊國漁者負贄草馬之子也、睨影高鳴、輕超母脊、就而買取。襲養兼年、及壯、鴻驚龍翥、別輩越群、服御隨心、馳驟合度、超渡大內丘之壑十八丈焉。」川原民直宮、檜隈邑人也」であり、「檜隈」の地は、「今來」の彦山川を挟んで対岸の地である。繋がった表記である。
尚、通説ではここだ!…という場所があったようであるが、年代が合わず、現在では「雙墓の大陵・小陵」は不詳となっているとWikipediaに記載されている。天皇陵も不確か有様である以上、さもありなんであろう。それにしても「記紀」に記載されたところが未だに全くこれだ!の地が見出せないのは、怪しいとは思い直せないのだろうか?…不思議な世界である。いや、税金の無駄遣いと言わせてもらおう。
「今來」は「葛城長江曾都毘古」が祖となった「阿藝那臣」の地、その中心の東隣に位置することになる。古事記の表舞台には登場することはなく、広い範囲での活躍は果たせなかったのかもしれない。そこに目を付けた蝦夷大臣だったのであろう。古墳の少ない地域なのだが、伊方古墳が近隣にある。水田稲作に適した場所のように伺えるが、人材輩出はなかったのかもしれない。
<上宮乳部> |
上宮乳部
「乳部」は、註記で「美父(ミブ)」と記載され、通説では「壬生部(ミブベ)」に置換えられている。「乳」を真面に解釈した例を見出すことは不可のようである。何故そうなったのかは、読み解く中で明らかとなるであろう。
上宮之厩戸豐聰耳命(聖徳太子)に関わるところ、その上宮そのものの地であろう。頻出の「美」=「谷間に広がる地」として、「父」=「交差する様」を表すと読むと・・・。
美父=谷間に広がる地が交差するところと紐解ける。谷間の奥で谷間が交わるところを示していると解釈される。
地図に記載されているっように、この谷間は多くの鍾乳洞がある場所であって、穴穗命(安康天皇)の石上穴穂宮があった場所と推定した。即ち「乳」→「鍾乳洞」を表す文字であったと気付かされる。乳部=鍾乳洞のある地(別)となる。
「乳部」も固有の名称ではなく、鍾乳洞のある場所に名付けられたものと思われる。名代・子代(皇子の養育料を負担)を示すとされる「壬生部」とは本来異なる名称である。「上宮」が鍾乳洞に囲まれた地であることを記述しているのである。「石上穴穂宮」、「上宮」そんな地に比定されているのであろうか?・・・まさか・・・。
「上宮乳部」と「大陵」との直線距離は、2.5km弱である。日雇いで賄える近さと思われる。それにしてもこの地「間人」の住人達にとっては余りいい気はしなかったであろう。上宮之厩戸豐聰耳命の御子である山背大兄王を天皇にしなかった蝦夷大臣の言うことなんか・・・だったのかもしれない。
二年春正月壬子朔旦、五色大雲、滿覆於天、而闕於寅。一色靑霧、周起於地。辛酉、大風。二月辛巳朔庚子、桃花始見。乙巳、雹傷草木花葉。是月、風雷雨氷。行冬令。國內巫覡等、折取枝葉、懸掛木綿、伺候大臣渡橋之時、爭陳神語入微之說。其巫甚多、不可悉聽。三月辛亥朔癸亥、災難波百濟客館堂與民家室。乙亥、霜傷草木花葉。是月、風雷雨氷。行冬令。夏四月庚辰朔丙戌、大風而雨。丁亥、風起天寒。己亥、西風而雹。天寒、人著綿袍三領。庚子、筑紫大宰、馳驛奏曰、百濟國主兒翹岐・弟王子、共調使來。丁未、自權宮移幸飛鳥板蓋新宮。甲辰、近江國言、雹下、其大徑一寸。
即位二年(西暦643年)一月二日からの天候も穏やかではないが、またそれほど異常な気象でもない、と言った記述である。冬の政(令)がしめやかに行われたとのことである。四月に入っていつになく寒い気候だったが、筑紫大宰が馳せ参じて百濟の翹岐が税(調)を収めに来たと伝える・・・非日常ではなく、静かな佇まいを示しているようである。そんな中で四月二十八日に飛鳥板蓋新宮に移ったと伝えている。近江では大きな雹が降ったとのことである。
<筑紫大宰・三輪君逆・三輪文屋君> |
筑紫大宰
「筑紫大宰」は推古天皇紀に初登場する。三韓などの海外から来客は、この地で入国することになったのであろう。
その職務担当のことを「大宰」という呼称とし、併せてその地形を表していると思われる。
「宰」=「宀+辛」と分解される。頻出の「宀」=「山麓」であり、「辛」=「断ち切る」刃物形を象った文字とされている。
大宰=平らな頂の山の麓で山稜が断ち切られたところと紐解ける。
図に示した通り足立山(古事記では美和山)の西麓の山稜が一旦途切れ、その先で一段高くなった地が認められる。「筑紫大宰」の場所は、現在の北九州市小倉北区足原の足原小学校近隣の凹凸のある高台ではなかろうか。
舒明天皇紀に登場した三輪君小鷦鷯に加えて、後に「三輪文屋君」、「三輪君逆」が登場する。併せて図に居場所を記載した。文屋=山稜の末端(屋)が交差する(文)ところと読み解ける。「逆」=「大の逆さ文字」と解説される。逆=[大]が逆様になったところと解釈される。神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が一時坐していた筑紫之岡田宮(図中東林院辺り)があった場所に引き続き君が居たことを伝えている。
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少々余談になるが七世紀後半、筑前國に「大宰府」と言う地方行政機関が設置されたと言われている。現在の福岡市太宰府市辺りであろう。この地も、より明確に、山稜が断ち切られたところを示している(宝満山西麓の地図参照)。担当職務を当初はその担当の居場所の地形に基づいて名付け、そして後に職務名称として定着させて行ったのであろう。臣、連、君、宿禰、縣、直、國造なども後に官位となって行ったのと同じ経緯と思われる。こんなところも調べると興味深い謎が解けてくるかもしれない。
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飛鳥板蓋新宮
Wikipediaによると…、
板蓋宮(いたぶきのみや)は、7世紀半ばに皇極天皇が営んだ皇居。一般には飛鳥板蓋宮と呼称される。奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったと伝えられている。・・・<中略>・・・
名称「板蓋宮」は、文字どおり屋根に板(豪華な厚い板)を葺いていたことに由来するといわれている。このことにより、当時の屋根のほとんどは檜皮葺・草葺き・茅葺き・藁葺きであり、板葺きの屋根の珍しかったことが判る。実際にも檜皮葺や茅葺きの建築物は現代に至るも遺っているものが多いが、板葺きの建築物が遺っている例は少ない。
…と記載されている。驚きの解説である。勿論他の辞典類も同じような記述であるが、日本大百科全書「板蓋宮(いたぶきのみや)」には比較的詳細に述べられている。奈良県高市郡明日香村大字岡の地にあり、1959年(昭和34年)以来発掘調査が継続されているようであるが、未だに結論付ける段階には至っていないとのことである。
<飛鳥板蓋新宮> |
図に示した古事記の飛鳥淸原大宮(書紀では飛鳥浄御原宮)も、地名ではなく「一種の嘉号」だとされている。
田中宮は現在の橿原市田中という地名があるとし、残存地名が見出せる時には地名由来とする。真に得手勝手な解釈である。
飛鳥浄御原宮の所在も、上記の飛鳥板蓋宮の場所、奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡ではないかと言い出す始末のようである。
考古学的資料が見つかる度にフラフラと彷徨う有様。永遠のロマンを生み出す所以、いやロマンであることにロマンを求めるのが現状であろう。真に悲しい、貧弱なロマンである。
乙巳の変から大化の改新へと時代が移り変わる、その舞台の一つとなった宮、その宮の場所も闇の中に放置している。悲劇である。
「板」=「木+反」と分解する。「木」=「山稜」である。更に「反」=「厂+又(手、腕)」から板=腕のように曲がって延びる崖下の山稜と読み解ける。「坂」=「土+反」と分解した時と全く同様にして示す地形を求めることができる。蓋=蓋のようなところ、そのままである。
香春一ノ岳の西麓、延びた山稜がくるりと山裾を取巻いているように見える場所である。その中心にある現在の田川四国東部第38番札所があるところと推定される。古事記、中国史書そして書紀の記述に用いられている地形象形表記が必然的に導く結果と思われる。
邪馬壹國の「壹」=「吉+壺」であり、更に「吉」=「蓋+口」と分解される。ここにおいても「蓋」はそのままの象形を表していたことが思い起こされる。彼らは漢字を自在に使って場所を表していたのである。
なかなかクライマックスに届かないが、今回はここまでで・・・。