2020年4月10日金曜日

天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅲ) 〔403〕

天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅲ)


舒明天皇即位十三年(西暦641年)で崩御され、百濟及び高麗、また暫くご無沙汰であった新羅の弔問の使者が訪れる。前二者とは饗応するのだが、後者は儀礼的な扱いだったようである。いずれにしても朝鮮半島内もキナ臭い状況になりつつあって、それに否応なしに関わることになる。

天候不順は相変わらずで、読経などを行っても効果はなかったのであるが、天皇自らが雨乞いの儀式を執り行うと、何と大雨に・・・などの逸話が述べられていた。神様、仏様なのだが、仏様派の蝦夷大臣の面目立たずの有様と記している。最後は地震まで発生して、雲行きの怪しさを伝えているようであった。

さて、今回は即位元年(西暦642年)十一月の項から大雨雷の記述で始まる。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

十一月壬子朔癸丑、大雨雷。丙辰夜半、雷一鳴於西北角。己未、雷五鳴於西北角。庚申、天暖如春氣。辛酉、雨下。壬戌、天暖如春氣。甲子、雷一鳴於北方、而風發。丁卯、天皇御新嘗。是曰、皇子・大臣、各自新嘗。十二月壬午朔、天暖如春氣。甲申、雷五鳴於晝、二鳴於夜。甲午、初發息長足日廣額天皇喪。是日、小德巨勢臣德太、代大派皇子而誄。次小德粟田臣細目、代輕皇子而誄。次小德大伴連馬飼、代大臣而誄。乙未、息長山田公、奉誄日嗣。辛丑、雷三鳴於東北角。庚寅、雷二鳴於東、而風雨。壬寅、葬息長足日廣額天皇于滑谷岡。是日、天皇遷移於小墾田宮。(或本云、遷於東宮南庭之權宮。)甲辰、雷一鳴於夜。其聲若裂。辛亥、天暖如春氣。

十一月二日からの天候の不安定さを示すように日替わりの様相を伝えている。そんな中で十一月十六日に新嘗祭(大嘗祭)が執り行われた。十二月に入っても天候は変わらずなのだが、十三日に亡くなった息長足日廣額天皇(舒明天皇)の葬儀が執り行われたと述べている。儀式で弔辞を述べた名前が列挙されている。彼らの出自の場所を求めておこう。

<巨勢臣德太・巨勢德陀臣>
● 巨勢臣德太
 
古事記で登場した建内宿禰の子、許勢小柄宿禰が祖となった地と思われるが、書紀はその事情を語らない。

その理由は明白で、この地は淡海及び境に関わる地であって、近江やら河内に近接するところでは極めて不都合が生じることになる。

いずれにせよ古事記の建内宿禰と書紀の武内宿禰とは全く取扱いが異なっている。

また後日に詳細を述べてみようかと思うが、「許勢」と「巨勢」が示す場所が同じであるかどうかを調べてみることにする。

「許勢小柄」は現在の直方市上頓野辺りにある北の金剛山と南の雲取山を結ぶ稜線が作る地形を示していると紐解いた。「柄」=「木+丙」と分解される「丙」の文字形に模した表記である。同様に「巨勢」の「巨」がその地形を表していることが解る。どちらかと言えば、書紀の記述の方が分り易いように、と言うかスマートに感じられる。

「巨勢臣德太」の「德」=「彳+直+心」と分解される。德=中心にある真っ直ぐに延びたところと読み解ける。通常は「心の中が真っ直ぐな様」を表すとされる。太=ゆったりとした様を表す。図に示した八幡神社がある台地の形状を表していると思われる。正に山麓の中心を延びる山稜が作る地形であろう。

後に「巨勢德陀臣」が登場する。同じく真っ直ぐに延びる山稜であるが、急傾斜の崖を伴っているところが見出せる。この地が陀=崖の麓となっていることが解る。古事記で出現する宇陀の地形、些か小ぶりではあるが。

更に書紀に登場する「巨勢」の住人を列挙すると、継体天皇紀に「巨勢男人大臣」、崇峻天皇紀に「巨勢臣比良夫」が登場する。それぞれの出自の場所を併せて記載したが、すっぽりと収まるようである。「巨勢猿臣」も登場するが、図の都合上割愛した(近津川下流域と推定)。古事記の「許勢」と書紀の「巨勢」は同一場所を表していることが確信されたようである。

● 粟田臣細目

「粟田臣」は御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)が尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命を娶って誕生した天押帶日子命が祖となった地と記載されている。
 
<粟田臣細目・飯蟲・百濟・眞人>
「粟」の姿を谷間に模した地形象形表記と解釈した。現地名は田川郡赤村内田、御祓川上流域の谷間と推定した。

「細」=「糸+囟」と分解される。「囟」=「細い隙間」を表す文字である。細目=細い隙間(細)の谷間(目)があるところと読み解ける。

図に示した広がった谷の奥からの出口に当たる場所を表していると思われる。実に素直な表現であろう。おそらくその出口辺りに住まっていたのではなかろうか。

後の記述に三人の「粟田臣」が登場する。「粟田臣飯蟲」、「粟田臣百濟」及び「粟田臣眞人」である。同様にして読み解くと図に示した出自の場所を求めることができる。

飯蟲=なだらかな山麓(飯)が[蟲]の形をしているところ百濟=丸く小高いところが一様に連なって(百)並び揃っているところ(濟)眞人=谷間(人)が寄り集まった(眞)ところと紐解ける。それぞれの居場所は図に示した通りである。有能な人材を絶えることなく輩出した、狭く短い谷間であったと伝えている。ご登場の場面で、もう少し詳しく述べることにする。
 
<大伴連馬飼>
● 大伴連馬飼

「大伴」の地も上記と同じく狭く短い谷間と推定した。既に幾人かが登場しているのだが、果たして割り当てられる地は見出せるであろうか・・・。

「馬」は大伴連馬養と同様に馬の形の山稜、その傍らであろう。「飼」も「養」も共に「カイ」と読めそうであるが、文字は異なる。

「飼」=「食+司」と分解される。「食」は上記の「飯」(食+反)にも含まれて、更に「食」=「人+良」=「なだらかな山麓」と読み解く。

「司」=「人+口」と分解され、「小さい隙間から出入りする様」を示す文字と解説されている。これで通常に意味が解釈されるのである。「飼」=「隙間(小さな口)から餌を与える様」を表す文字となる。

地形象形的には「司」=「谷間(人)にある隙間(口)」と読み解ける。すると、飼=なだらかな山麓の谷間にある隙間のようなところと読み解ける。図に示した場所、ご本人はその傍らに居たのであろう。居場所は、何とか収まったようである。
 
<息長山田公>
● 息長山田公

迷うことなく「息長」の地に出自を持つ人物である。とは言え、この地は住まうには極めて狭いところであって容易には見出せないかもしれない。

「公」の文字解釈に依存するようで、先ずはこれから読み解いてみる。「公」=「八+ム」と分解される。「八」=「谷間」を表すと思われる。

「ム」の解釈には、「公」に対する「私」の解釈が重要であろう。「私」=「禾+ム」と分解されるが、「稲(禾)を手で囲む様」を表している。即ち「稲を私(ワタクシ)する」と言う意味を示している文字である。

一方の「公」=「八(開く)+ム(私したもの)」=「私したものを開放する」と言う意味となる。「ム」の地形象形は、拘りなく「〇の形をしたところ」と紐解ける。纏めると公=丸く小高いところがある[ハ]形の谷間と読み解ける。現地名は行橋市稲童、長井との境界の場所である。そこに山田池と名付けられた池がある。残存地名かもしれない。
 
滑谷岡

雷が鳴って風が吹き雨の降る天候が続く中で舒明天皇は埋葬され、その場所が「滑谷岡」と記載されている。これだけでは何とも特定するには至らないが、後に「押坂陵」そして舒明天皇のことを人々が「高市天皇」と呼んだと伝えていることが重要な情報をもたらしてくれる。
 
<滑谷岡・押坂陵>
「押坂」は古事記で「忍坂」と記述されたところ、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が土雲八十建を討ち果たした忍坂大室があった場所である。

後には品陀天皇之御子、若野毛二俣王が百師木伊呂辨を娶って誕生した忍坂之大中津比賣命などが居た。

この長い谷間、勿論雄略天皇の長谷朝倉宮がこの坂を見下ろすところにあった。

この地で「滑」の文字が示す場所を求めることになる。「滑」=「氵+骨」と分解される。更に「骨」=「冎+月」と分解される。「冎」=「骨の末端部の形状」を象った文字と解説される。丸くふっくらとした形を表している。

そしてこの要素を含む文字が古事記の男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)紀に味白檮之言八十禍津日に含まれる「禍」であった。皇極天皇紀の最初に草壁吉士磐金・草壁吉士眞跡が登場したが、彼らの出自の場所に向かう谷間の山稜でもあった

滑谷岡=川の傍らに[]の形が並ぶ山稜の端に三角州(月)がある谷間の岡と読み解ける。図に示した三つに分かれた山稜の端を表し、おそらくその中央の岡の上に埋葬されたと思われる。この天皇は「高市天皇」と呼ばれたとのこと。古事記では高=皺が寄ったような凹凸のある地形と紐解く。即ち冎」が作る凹凸が、市=山稜の端に集まる様を捩った命名と推測される。

さて、天皇は小墾田宮に移られたと伝える。推古天皇が坐した宮であり、蘇我一族の中心の場所にあった宮であろう。彼女に蘇我の血が流れていなくはない。様々な思いがあっての行動か?…後に考察してみよう。

ところで小墾田宮ではなくて「東宮南庭之權宮」と記した資料もあるとか、前記の東宮開別皇子に関して「東宮」=「近江大津宮」としてみたが、その宮の南庭かもしれない。「東宮=皇太子」と決めつけた解釈ではとても理解できない記述であろう。

即位の後の儀式の話が続いたが、これは手続きであって、不穏な動きは静かに蠢いているようである。次回としよう・・・。