天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅱ)
朝鮮半島内の動乱は、少なからず日本國にも影響を及ぼしていたようで、唐の圧迫は益々その勢いを増す状況の中でその動乱に巻き込まれて行ったことを告げている。この外的圧力は国内の論議を否応にも激しくし、また派閥の軋轢が台頭することになったのであろう。国力の充実が、ある意味混乱を増長させたとも言えるかもしれない。
暫くは朝鮮半島からの賓客の対応、それから得られる情報収集に時間を割いたようである。相変わらずその接待役の人物が数多く登場する。丁寧にその出自の場所を求めて行くことにしよう。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちら、こちらなどを参照。
三月丙辰朔戊午、無雲而雨。辛酉、新羅遣賀騰極使與弔喪使。庚午、新羅使人罷歸。是月、霖雨。夏四月丙戌朔癸巳、太使翹岐、將其從者拜朝。乙未、蘇我大臣、於畝傍家、喚百濟翹岐等。親對語話。仍賜良馬一匹・鐵廿鋌。唯不喚塞上。是月、霖雨。
五月乙卯朔己未、於河內國依網屯倉前、召翹岐等、令觀射獵。庚午、百濟國調使船與吉士船、倶泊于難波津。(蓋吉士前奉使於百濟乎。)壬申、百濟使人進調。吉士服命。乙亥、翹岐從者一人死去。丙子、翹岐兒死去。是時、翹岐與妻、畏忌兒死、果不臨喪。凡百濟・新羅風俗、有死亡者、雖父母兄弟夫婦姉妹、永不自看。以此而觀、無慈之甚、豈別禽獸。丁丑、熟稻始見。戊寅、翹岐將其妻子、移於百濟大井家。乃遣人葬兒於石川。六月乙酉朔庚子、微雨。是月、大旱。
皇極天皇元年(西暦642年)三月三日(戊午)に新羅からも、ちゃんと使者が来ていたことを述べているが、あっさりと還っているようで(三月十五日:庚午)、饗宴は記されない。十二日間の滞在で大した情報も入手できなかったのかもしれない。一方の百濟王の弟、「太使翹岐」を蝦夷大臣がしっかりともてなしたと記載されている。
前記の情報では、「翹岐」は一族諸共に島流しにされたとのことであったが、「大使」の扱いとなっている。同じく来日していて、百濟済王が返して欲しいと願った「塞上」には冷たい対応し様子である。「塞上」は人物的に信用できなかったのか、各人から情報の裏を取るために個別対応したのか、したたかな外交を行っているように伺える。
畝傍家
<畝傍家> |
すると「畝傍家」は大臣の住まい、あるいはその近隣にあったと推定される。蝦夷大臣及び古人皇子の図を再掲すると、現在の地形からでも山稜の端が畝っている様が見受けられる。
その「畝の傍らの家」を表す名称と思われる。蝦夷大臣=豐浦大臣であって、多くの段差がある地に住まっていたことと矛盾しない表記であろう。
少々遡るが、あらためてこの図を見ると、蝦夷大臣は統治する地を甥の古人皇子に譲ったように思われる。しかも「大兄王」と別名があることからこの谷間の全てを表す命名であり、実に広大な土地の統治者であることを匂わせている。
実の息子、入鹿臣は北方の狭い地であり、彼からすると皇統の従兄弟に引き継ぐ筈の地を譲ったような感じである。蝦夷大臣と舒明天皇の后となった法提郎媛の兄妹が策謀した深謀遠慮であることが伺える。蘇我一族としての結束かもしれない。入鹿臣は何と感じたのか?…敵役を演じることになる彼の出自であろう。そして皇極天皇の素早い行動の所以を垣間見ることができる。
更に「翹岐」のもてなしが続く。青空の下の「射獵」(ウマユミ:乗馬して射矢)の演武である。何でも喋ってしまいそうな雰囲気を醸しているようである。その場所が「河內國依網屯倉前」と記されている。
河內國依網屯倉
<河內國依網屯倉> |
「屯倉」(ミヤケ)であるが、地形象形的には谷間が寄り集まったところと解釈する。
多くの池があるが、三角州が隠された池は意外と少なく、明確に山稜の端が池に延びた場所は図に示したところと求められる。
ここは倭建命(書紀では日本武尊と表記される)の墓所、河内國之志幾陵、別名白鳥御陵の頭・首に当たるところである。現地名は行橋市長木であり、大首池は残存地名かもしれない。
その屯倉の前で行われた「射獵」を一段高くなった場所から観覧したのであろう。残存地名に重きを置く通説は、この地を特定するには至らず、諸説ありで止まっているようである。摂津から堺まで候補がある有様は、未解明と断言しては如何か?・・・。
「翹岐」の子が亡くなったと言う。その時の妻の行動から百濟・新羅人達の風俗について云々する記述が続いて、結局「翹岐」は「百濟大井」に住まいを移したと伝えている。阿曇山背連に預けられていたことからすると都の近くに転居したことになる。さて、百濟の「大井」は?・・・。
<百濟大井> |
百濟大井家
百濟の地の詳細を示す。既に登場した名称だけでもかなりの数になる。いずれにしても「百濟川」の畔に並んでいることが解る。
大井=平らな頂の麓の泉と解釈すると、小ぶりだが現在もくっきりとした泉がある場所が見出せる。
「百濟川」の川辺の地を食い扶持として与えたのであろう。間違いなく厚遇したことが伺える記述である。
記載された名称から「百濟」の地はほぼ確定したように思われる。現在は名称不詳の川となっているが、「師木」の中央を小刻みに曲がりながら大きく蛇行する川である。
星霜を重ねて開発されて来た地でも古の記録に留める地形を見出せたことに一種の感動を呼び起こされる結果となった。日本書紀も、恣意的な改竄を還元すれば、古事記と同様に貴重な情報を与えてくれそうな感じである。
秋七月甲寅朔壬戌、客星入月。乙亥、饗百濟使人大佐平智積等於朝。(或本云、百濟使人大佐平智積及兒達率 闕名・恩率軍善。)乃命健兒、相撲於翹岐前。智積等、宴畢而退、拜翹岐門。丙子、蘇我臣人鹿豎者、獲白雀子。是日同時、有人、以白雀納籠、而送蘇我大臣。戊寅、群臣相謂之曰、隨村々祝部所教、或殺牛馬、祭諸社神。或頻移市。或禱河伯。既無所效。蘇我大臣報曰、可於寺々轉讀大乘經典。悔過如佛所說、敬而祈雨。庚辰、於大寺南庭、嚴佛菩薩像與四天王像、屈請衆僧、讀大雲經等。于時、蘇我大臣、手執香鑪、燒香發願。辛巳、微雨。壬午、不能祈雨。故停讀經。
八月甲申朔、天皇幸南淵河上、跪拜四方、仰天而祈。卽雷大雨。遂雨五日、溥潤天下。(或本云、五日連雨、九穀登熟。)於是、天下百姓、倶稱萬歲曰、至德天皇。己丑、百濟使參官等罷歸。仍賜大舶與同船三艘。(同船、母慮紀舟。)是日夜半、雷鳴於西南角、而風雨。參官等所乘船舶、觸岸而破。丙申、以小德授百濟質達率長福。中客以下、授位一級。賜物各有差。戊戌、以船賜百濟參官等發遣。己亥、高麗使人罷歸。己酉、百濟・新羅使人罷歸。
秋七月に入って、引き続き百濟からの使者が来朝する。前記で「六月乙酉朔庚子、微雨。是月、大旱」と記されているので、稲の成長に関わる時期の旱魃は重大事件である。神頼みでは効果なく、蝦夷大臣は仏様にすがろうとするが、同様の有様だったようである。
八月になって、天皇が「仰天而祈」すると、何と大雨になった、と伝える。単なる偶然・・・いやいや「至德天皇」のなせる業であろう・・・それはそれとして祈った場所が「南淵河上」と記されている。
南淵河上
雨乞い祈願であり、勿論作法上も「跪拜四方」であると記載されている。山の頂上あるいは視界の開けた尾根にある場所と推測される。ならば山名を述べれば簡単にその場所を伝えることが可能なのに、回りくどい表現である。おそらく諸事情があって記述する訳には行かなかったからであろう。
<南淵河上・南淵先生> |
そのまま読めば、南淵=南の(にある)淵である。即ち東西に川が流れ、山稜の端が崖となっている場所を示していると思われる。
香春岳を中心とする地域で川が東西に流れるところは限られている。金辺川が彦山川と合流する直前がそうなのであるが、ここは「石(磯)」と表現されていた。
すると大坂山(飯岳山)からの源流が一旦北に流れ、大きく曲がって西に向かう川がある。現在名は呉川(雄略天皇紀に渡来した呉人を住まわせた呉原を流れる川)がその要件に合致する流路を示すことが解った。
後に「南淵先生」が登場する。確かに教えを乞うのだから「先生」であろうが、先生=山稜の先から生え出たところと読み取れる。先生の居場所はその先端部だったようである。読み飛ばしては勿体ない、と言ったところであろうか。
「淵」は川が蛇行する時にできる場所であり、山麓を鋭く抉った様を表す文字である。後の天武天皇紀に「禁南淵山・細川山、並莫蒭薪。又畿內山野、元所禁之限、莫妄燒折」の記述がある。この淵にはいくつかの山(山稜が高くなったところ)があることを示している。その地形表現とも矛盾しないと思われる。
大坂山の展望は、四方に広がり、正に「跪拜四方」に相応しいところである。現在も電波塔が林立する頂きである。Wikipediaに詳細が載せられている。書紀編者は大坂山の名前を記載することは叶わず、上記の表記となったのであろうか・・・。
九月癸丑朔乙卯、天皇詔大臣曰、朕思欲起造大寺。宜發近江與越之丁。百濟大寺。復課諸國、使造船舶。辛未、天皇詔大臣曰、起是月限十二月以來、欲營宮室。可於國國取殿屋材。然東限遠江、西限安藝、發造宮丁。癸酉、越邊蝦夷、數千內附。冬十月癸未朔庚寅、地震而雨。辛卯、地震。是夜、地震而風。甲午、饗蝦夷於朝。丁酉、蘇我大臣、設蝦夷於家、而躬慰問。是日、新羅弔使船與賀騰極使船、泊于壹岐嶋。丙午夜中、地震。是月、行夏令。無雲而雨。
気分を良くされた天皇は勢い付いて百濟大寺を完成させようと思われ、更にまた船舶も造ろうと思い立たれたようである。それには人手が必要で「近江」と「越」から作業員(丁)を調達することになった。古事記の表記では「近江=近淡海國(行橋市・京都郡みやこ町/苅田町)」、「越=高志(北九州市門司区伊川・柄杓田・喜多久)」であろうか。
通説における「越」の地域は些か不明瞭で、「北越地方」と訳されている方や、全く無視の場合もある。「越前・越中・越後」と分かれるので、とらえどころがなくなるのかもしれない。この曖昧さが、好まれるようである。あり得ないことではあるが・・・。
東限遠江西限安藝
<東限遠江西限安藝> |
古遠賀湾に面する地である(現地名は北九州市八幡西区)。「東限」と述べることからこの湾の対岸辺りを指し示していると思われる。
「安藝」の文字列は古事記に登場しないが、おそらく「阿岐(アキ)」に該当する地と思われる。
安藝=山麓に嫋やかに曲がる山稜がある地(安)が尽きる(藝)ところと読み解ける。「安」は頻出であり、「藝」は邇邇藝命などに含まれた文字である。これらを纏めると東は遠賀川、西は玄界灘に挟まれた地域を示していると読み解ける。竺紫日向國から阿岐國の範囲に相当する。
書紀原文を大きく書き換えた解釈である故にどこまで還元できたかは不確かである。「安藝」の意味するところは、古事記も書紀も記述の対象となった地域の「西限」であることに違いはないであろう。それを暗示する名称のように思われる。
<越邊蝦夷> |
越邊蝦夷
「越邊蝦夷」が数千人、正に人海戦術であるが、それだけ天皇家に力があったことを告げているのであろう。
蝦夷が蝦夷を接待する?…何だか変な感じと受け取られる向きもあろうが、名前は出自の地形とすれば、各地に蝦夷が居ても不思議ではない。
「蘇我蝦夷」であり、「越邊蝦夷」と修飾されているのである。「越」の地域が不明瞭な通説では、皆目見当も付かない場所となろう。
古事記の高志=皺が寄ったような凹凸の地(高)に蛇行する川(志)があるところから求めれば、「蝦夷」の地形に合致する地が「高志」の縁に見出せる。
「越邊蝦夷」は、ヤマト政権から見た「蝦夷(エミシ、エビス、エゾ)」ではなく、「蘇我蝦夷」と同様に立派な名前であることが解る。
この地は決して辺境ではない。西隣は「阿多」であり、日子番邇邇藝命が娶った神阿多都比賣(木花之佐久夜毘賣)の出自の場所である。「越邊蝦夷」は単なる作業員はなく、饗応に値する人々だったと伝えていると思われる。
旱魃は逃れられても、今度は地震が発生。冷夏となって雲がないのに雨が降るなど、天は一向に落ち着きを取り戻せていない状況であったようである。