2020年4月3日金曜日

天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅰ) 〔401〕

天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅰ)


息長足日廣額天皇(舒明天皇)の皇后であった天豐財重日足姬(寶皇女)が即位したと伝えられる。その皇后の出自が簡単に記述されることから皇極天皇紀が始まる。それにしても蘇我一族による皇位継承への口出しは凄まじく、舒明天皇を取巻く環境は一触即発の不穏な雰囲気を醸し出していたのであろう。

天皇が何度も有間温湯やら伊豫温湯に出向いたのは、決してのんびりと湯治に行ったわけではない。「湯」=「温泉」と解釈している以上、古代は見えて来ないのである。古事記が輕太子の説話を残し、暗示した意味を読み取れていない、ぬるま湯に浸かっている日本の歴史学である。

舒明天皇が亡くなられると、復もや群臣達が東奔西走の騒動かと思いきや、間髪を入れずに皇后が引き継いだ。そこに蘇我一族に介入する隙間を与えなかった。蝦夷大臣の大敗が布石であろう。がしかし失脚するまでには至っていなかったようである。物語はいよいよ核心に迫るのであるが、道のりは遠く険しい、かもしれない。原文引用は青字で示す。

天豐財重日(重日、此云伊柯之比。)足姬天皇、渟中倉太珠敷天皇曾孫、押坂彥人大兄皇子孫、茅渟王女也。母曰吉備姬王。天皇順考古道、而爲政也。息長足日廣額天皇二年、立爲皇后。十三年十月、息長足日廣額天皇崩。

天豐財重日足姬(寶皇女)の出自の場所は既に紐解いた。また重日伊柯之比(イカシヒ)の解釈も行ったが、古事記と全く同様に漢字を用いた地形象形表現であることが確信された。とりわけ「之(シ)」=「蛇行する川」の解釈は、書紀及び中国史書も含めて、当時の”常識”であったことが解った。古事記に登場する「志」、「士」、「時()」は、全て「之」を要素に含む文字である。

この姫は渟中倉太珠敷天皇(古事記の沼名倉太玉敷命:敏達天皇)の曾孫であり、押坂彥人大兄皇子(同左忍坂日子人太子)の孫であり、そして茅渟王(同左智奴王)の娘だと述べている。用いる漢字は異なっているが、その訓からして該当する人物であることは間違いないであろう。
 
<渟中倉太珠敷天皇(沼名倉太玉敷命)>
古事記の「沼名」→「渟中」に置換えられている。「渟」=「氵(水)+亭」と分解される。

更に「亭」=「丁+高」となり、渟=高く盛り上げられたところで水が堰き止められた様(水溜り)を表す文字と読み解ける。

「中」=「真ん中を突き通る」だから「渟中倉」=「水溜りが谷間を突き通ているところ」と解釈される。

「玉」→「珠」となっているが、「珠」=「朱+玉」と分解され、「朱」=「木+ノ」である。即ち山稜(木)に切り込み(ノ)がある様と読み取れる。

図を再掲したが、確かに「玉のような山稜の端に切り込み」があることが判る。こう見て来ると書紀の表記がよりソフィスティケートされているように伺える。

全く違和感のない表記であろう。いや、むしろ書紀表記の方が分り易い、かもしれない。本ブログの文字解釈も書紀と共に洗練されたものになる、かもしれない・・・「茅渟王」は、どうであろうか?・・・。
 
<茅渟王>
「茅」=「艹+矛」と分解され、茅=矛が並んだ様と読み解け、それが渟=水溜りの傍らにある地形を表していると解釈される。

一方、古事記の「智」=「知(鏃)+日(炎)」と分解して読み解くと、「鏃」→「矛」の置換えであることが解る。

しかしながら、「渟」に該当する場所は見当たらず、地形的には「渟中倉」に類似した場所で、水溜りがあっても不思議ではないが、現在は水田になっているようである。

丸味を帯びた田の形状からしても、おそらく、かつては池であったように思われる。後に「茅渟道」が出現する。その時に地形の類似性を考察してみよう。

いずれにしても天豐財重日足姬天皇(皇極天皇)の出自の場所は、息長、忍坂、春日(邇藝速日命、登美能那賀須泥毘古が関わる地)、そして吉備と広範囲に関わり、蘇我(蘇賀・宗賀)に優るとも劣らない古くから天皇家が切り開き、有意の人材を供給した来た地域が並んでいることが伺える。「蘇我」は、孝元天皇・建内宿禰を遠祖とするとは言え、長い空白の時を過ごして来たことを思い合せると、矜持とするに値する地縁血縁の持主であったであろう。

元年春正月丁巳朔辛未、皇后卽天皇位。以蘇我臣蝦夷爲大臣如故。大臣兒入鹿(更名鞍作。)自執國政。威勝於父。由是、盜賊恐懾、路不拾遺。乙酉、百濟使人大仁阿曇連比羅夫、從筑紫國、乘驛馬來言、百濟國、聞天皇崩、奉遣弔使。臣隨弔使、共到筑紫。而臣望仕於葬。故先獨來也。然其國者、今大亂矣。

皇極天皇元年(西暦642年)春正月丁巳朔辛未(一月十五日)の出来事から、この紀は始まる。蘇我蝦夷は、やはり大敗の後も変わらず大臣であった。この一言からでも宮廷内の騒々しさを伺い知れるであろう。そして大臣の子、「蘇我入鹿」の登場である。
 
蘇我入鹿(鞍作)臣
 
「蘇我入鹿臣」は「蘇我馬子宿禰」の北側にある山麓が「入」(谷間)の形に凹(窪)んだところに居たと推定した。その入鹿臣に別名があったと記されている。いや、それが本来の名前かもしれない。まるで鞍を作ることに秀でた職人のような名前である。
 
<蘇我入鹿(鞍作)・林臣>
渡来系の優れた技術を持った人のと解釈されているようであるが、「威勝於父。由是、盜賊恐懾、路不拾遺」と言われる内容には繋がらないであろう。

勿論、きっちりと地形象形している筈である。「鞍」=「革+安」と分解される。「革」に含まれる「廿」=「動物の角」を象った文字と知られる。

この頭の部分が「谷の奥が二俣に分かれた様」を表している戸と読み解ける。「安」=「宀+女」=「山麓が嫋やかに曲がる様」と読む。古事記に幾度か登場する文字である。

「作」=「人+乍」と分解すると「谷間がギザギザになっている様」を示すと思われる。纏めると鞍作=嫋やかに曲がる山麓にある谷間の奥が二俣になってギザギザの段差があるところと紐解ける。「入鹿」の表記は概略の場所を示し、「鞍作」はその詳細を述べていることが解る。確かに本来の名前かもしれない。

後に登場する更なる別名「林臣」の「林」=「木+木」と分解して、林=山稜(木)と山稜(木)に挟まれたところと読める。上記の谷の両脇が揃って小高くなっている光景を表したものであろう。例によって「臣」=「凹(窪)んだところ」を表すと解釈される。
 
● 阿曇連比羅夫

天皇崩御を知って百済が使者を送ったとのことで、それに随伴した「阿曇連比羅夫」が先に「駅馬(エキバ/ハユマ/ハイバ)」を使って筑紫國から馳せ参じたと言う。何だか百濟國内が乱れていることも併せて伝えて来たようである。筑紫から奈良大和まで馬を乗り継いで来た?…既に推古天皇紀に出現したことのようで、この時代に筑紫との間には「駅馬」の制度が確立していたという認識である。後日の考察の対象としよう。
 
<阿曇連比羅夫・阿曇山背連比良夫・津守連大海>
「阿曇連」は古事記で伊邪那岐の禊祓で誕生した三柱綿津見神の子、
宇都志日金拆命が祖となったと記述されている。

墨江之三前大神とも呼ばれて、現地名は遠賀郡岡垣町黒山辺りに坐していたと推定した(こちら参照)。

「比羅夫」の文字列は、既出の解釈で行うと、「比」=「並ぶ」、「羅」=「連なる」、「夫」=「二つが合わさる、くっ付く」となる。

すると比羅夫=二つに岐れた山稜が並んで連なっているところと読み解ける。図に示した、些か団地開発が進んで見辛くなっているが、その先端、現在の厳嶋神社の麓辺りと思われる。

尚、図には後に登場する「阿曇山背連比良夫」及び「津守連大海」の居場所も併せて示したが、詳細は登場場面で述べることにする。古事記の解釈の中でも述べたが、現在にその足跡が残る一族であるが、決して詳細は解っていないようである。彼らの動向は極めて重要かと思われるが、記録に残されていない。国防上の極秘扱いかもしれない。

通説では彼らの発祥の地は、現在の筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)とされている。そんな地は拠点の一つであったかもしれないが、発祥の地ではない。古事記から続く書紀の解読結果が示すところは全く異なるところを示しているのである。

二月丁亥朔戊子、遣阿曇山背連比良夫・草壁吉士磐金・倭漢書直縣、遣百濟弔使所、問彼消息。弔使報言、百濟國主謂臣言、塞上恆作惡之。請付還使、天朝不許。百濟弔使傔人等言、去年十一月、大佐平智積卒。又百濟使人、擲崐崘使於海裏。今年正月、國主母薨。又弟王子兒翹岐及其母妹女子四人、內佐平岐味、有高名之人卌餘、被放於嶋。壬辰、高麗使人、泊難波津。丁未、遣諸大夫於難波郡、檢高麗國所貢金銀等、幷其獻物。使人貢獻既訖、而諮云、去年六月、弟王子薨。秋九月、大臣伊梨柯須彌弑大王、幷殺伊梨渠世斯等百八十餘人。仍以弟王子兒爲王。以己同姓都須流金流爲大臣。戊申、饗高麗・百濟於難波郡。詔大臣曰、以津守連大海可使於高麗。以國勝吉士水鶏可使於百濟。(水鶏、此云倶毗那。)以草壁吉士眞跡可使於新羅。以坂本吉士長兄可使於任那。庚戌、召翹岐、安置於安曇山背連家。辛亥、饗高麗・百濟客。癸丑、高麗使人・百濟使人、並罷歸。

百濟が大乱とは如何なる有様か、早々に弔使を問い質すために「阿曇山背連比良夫・草壁吉士磐金・倭漢書直縣」の三名を派遣したと記している。百濟國主(義慈王)は、日本に預けた「塞上」(王の弟?)を返して欲しいが、無理かな?…と思案している様子のみで詳しいことが聞き取れず、弔使の従者(弔使傔人)から、義慈王の母親が亡くなったこと、異母兄弟(翹岐ゲウキ)の一族を島流しにしたことなどが分かった、と伝えている。

続いて高麗の使者から、大臣が大王などを大量に殺し、王が代わってしまったことが聞き取れた。それで高麗と百濟の使者併せて難波郡で持て成した、と述べている。新羅が抜けているのは、当然で、唐と結託して百濟・高麗を攻略しつつある状況であったことが知られている。新羅による朝鮮半島統一の夜明け前の時期であろう。

これは一大事と察して、高麗へ「津守連大海」、百濟へ「國勝吉士水鶏」、新羅へ「草壁吉士眞跡」そして任那へ「坂本吉士長兄」を派遣することにしたと伝えている。上記も含めて登場人物の出自の場所を求めてみよう。順不同である。
 
● 阿曇山背連比良夫・津守連大海・倭漢書直縣

「阿曇山背連比良夫」は「阿曇」の山背(山が背後にあるところ)の地と読んで、阿曇のような山稜の末端の地に山があるのか?…一瞬の不安も解消である。現地名の遠賀郡岡垣町にあった汽水湖、それが作り出す地形を示している。古事記に記載された品陀和氣命(応神天皇)が日向之泉長比賣を娶って誕生した大羽江王・小羽江王の地である。詳細には小羽江王の場所に該当すると思われる。

上図<阿曇連比羅夫・阿曇山背連比良夫・津守連大海>を参照すると、なだらかな山頂ではあるが、現在も黒山の地名が名残となっているようである。比良夫=並んでいる(比)なだらかな地(良)が合わさっている(夫)ところと読み解ける。現在は開発されて地表面の形状の大まかなところしか確認できないようだが・・・。

高麗に派遣された「津守連大海」の「津」は「上/中/底津綿津見神」に由来すると思われる。その津の守りのような名前であるが、「守」=「宀+寸」と分解され、守=山稜に囲まれた麓(宀)に蛇行する川がある(寸)ところと読み解く。応神天皇の御子、大山守命で出現した文字である。「海」=「氵+毎」であり、更に「毎」=「母+屮(草)」と分解される。「母」=「次々に生み出す」のイメージであろう。

地形象形的には母=両腕で子を抱える様を象ったと文字である。古事記にかなりの頻度で登場する文字である。例えば黄泉國の豫母都志許賣、大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)紀の夜麻登登母母曾毘賣命などがある。これらを満たす地を見出すことができる。現地名は遠賀郡岡垣町吉木である。

「倭漢書直縣」は既に舒明天皇紀に登場した人物であろう。百濟大宮・百濟大寺の建立に関わったと伝えられている。「倭漢」は応神天皇紀に出現するが、ここで読み解いておこう。「倭」=「嫋やかにしなやかに曲がる様」を表す。「漢」=「水(川)+𦰩」と分解される。更に「𦰩」=「革+火」から成る文字である。革を乾燥させて皺を寄せた様、即ち大きく波打つ様を示している。

倭漢=嫋やかにしなやかに川が大きく曲がるところと紐解ける。百濟川が大きく蛇行している地を表していることが解る。「倭地にある漢」とも読めるが、地形象形表記の解釈に徹しておこう(前図<百濟川・百濟宮(寺)・書直縣>参照)。
 
● 草壁吉士磐金・草壁吉士眞跡

草壁=日下部(クサカベ)と読む。古事記の大長谷若建命(雄略天皇)が坐した長谷朝倉宮があったところと思われる。吉士=谷間を蓋するように突き出た山稜が延びているところから、古事記で登場する「味白檮」の場所と推定される。現在の田川郡香春町採銅所の長光である。

「磐金」の金=[ハ]の字形に広がる台地と読み解いた。古事記に多数出現するが、近接では天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)が坐した磯城嶋金刺宮がある。これに類似する地形を探すと、香春三ノ岳北麓の谷間から台地が延びている場所がある。

更に「磐」=「般+石」と分解され、般=平たく広がる(般)山麓の盛り上がった地(石)と読み解ける。金辺川の西岸近くにまで広がった台地であることが伺える。その台地の真ん中を川が蛇行しているが、残念ながら川名は不詳である。
 
<草壁吉士磐金・草壁吉士眞跡>
「眞跡」の「跡」=「足+亦」と分解される。「亦(エキ)」=「人体の両脇」を象った文字と解説されていることから、地形象形的には「山稜に挟まれた谷間」と紐解いた。


古事記に頻出の「夜」=「亦+夕」に含まれる要素であり、夜=山稜の端の三角州がある谷間と読み解いた。夜麻登迦具夜比賣命などキーとなる文字列に含まれている。

跡=山稜に挟まれた谷間の端と読み解ける。眞=一杯詰まった、寄せ集めた様を表す文字と解説される。古事記に最初に登場するのが天之眞名井である。

要するに「眞跡」は、谷間が寄り集まった場所であり、そこを流れる川が合流することになる。「吉士」を形成する源であろう。この地形は金辺川を挟んで「磐金」の対岸の場所、現地名は採銅所須川辺りと推定される。

この地は古事記の男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)紀に登場した味白檮之言八十禍津日が示す場所である。諸氏の氏姓を定めるために盟神探湯を行ったところと伝えられている。「八十」=「谷が十字に交差する様」を表すと読み解いた。また「草壁吉士磐金」は神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の畝火山之北方白檮尾上陵があった場所でもある。
 
● 國勝吉士水鶏・坂本吉士長兄

「國勝吉士水鶏」は、何処の「國勝」かと思いきや後に「難波吉士國勝等」と表記されている(斉明天皇紀)。取り敢えず「難波」の地で探索すると、國勝=大地(國)が盛り上がったところ(勝)の地形が見出せる。現地名の行橋市矢留・南泉辺りの山稜の端で高くなった場所である。前記の難波吉士八牛吉士雄摩呂・黑摩呂の居場所であった。

「勝」は古事記の正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命に盛り沢山に含まれた文字で、この長ったらしい名前が示す意味が読み解けて来なかった。その息子の天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命も含めて、それらが出自の場所の地形表記であることが解読されたのである。
 
<國勝吉士水鶏(倶毗那)>
「水鶏」は何を表しているのであろうか?…どうやら池の形の特徴を捉えた表記のように思われる。
図に示したように鶏の鶏冠の部分と見做せるところが見出せる。

現在の松田池は当時は存在しなかったか、あっても極小さかったのであろう。国土地理院航空写真1961~9年を図の左隅に載せたが、鶏の頭部と見做せる地形であったことが確認される。

訓として「倶毗那(クヒナ)」と読めと記されている。古事記の記述方法と同様にこれが具体的な地形を表す文字列なのである。

「俱」=「人+具」と分解される。「具」=「鼎+廾」とから成る文字であり、地形象形的には「両手のような山稜に囲まれた窪んだ様」と解釈される。上記の迦具夜比賣命に含まれていた。「人」が付いて、それが谷間にあることを表わそうとしている。「毗」=毘」=「囟+比」=「凹んだ地がくっ付いて並んでいる様」、古事記に頻出の文字である。

同様に「那」=「なだらかな、ゆったりとした様」と読むと、倶毗那=凹んだ地がくっ付いてなだらかになった前で山稜に囲まれて窪んでいるところと読み解ける。二つの表現から「國勝吉士水鶏」の居場所は図に示した矢留山の東南麓辺りと推定される。
 
<坂本吉士長兄>
この地は、前記でも引用した若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が葛城之垂見宿禰之女・鸇比賣を娶って誕生した建豐波豆羅和氣が祖となった地(道守臣)と推定した。


松田池周辺の利水が整備されて豊かな水田地帯となりつつあったのではなかろうか。それにしても実に的確な地形象形表現がなされていると思われる。

「倶毗那(クヒナ)」は、古典文学にしばしば登場するようであるが、「ヤンバルクイナ」(沖縄本島北部の山原[やんばる]地域のみに生息する固有種)に現在もその名称を残している。

但し、それらは”鶏冠”を持たない鳥である。「鶏」=「奚(爪+糸)+鳥」の文字が示す形態とは異なっている。もう少し掘り下げたいところだが、後日としよう。

坂本吉士長兄の唐突に出現する「坂本」は、古事記の建内宿禰の子、木角宿禰が祖となった地と思われる。現地名は築上郡築上町椎田の近隣である。吉士=谷間を蓋するように突き出た山稜が延びているところと解釈した。長兄=谷間の奥が細長く広がったところと読み解ける。頻出の「〇兄」である。図に示した場所が出自と推定される。

古事記で針間國と記載された地である。その針のような谷間が開拓されて行ったのであろう。着実に「天神族」が財源となる水田稲作の面積を増やしているのである。物語は「召翹岐、安置於安曇山背連家」と記し、また「饗高麗・百濟客」と頻度高く情報交換をしたと伝えている。「翹岐」を厚遇した様子が引き続き記載されるが、次回としよう・・・。