2020年3月31日火曜日

品陀和氣命(応神天皇):渡来の文化・技術 〔400〕

品陀和氣命(応神天皇):渡来の文化・技術


中国史書やら日本書紀、やはり読んでみるものである。簡明な古事記の記述では、なかなか読み取れなかったところが見えて来たようである。品陀和氣命(応神天皇)紀に渡来の文化・技術の記述がった。それに伴って人名が記載されていた。渡来人なのに何故倭名が付く?…と思いながらも手付かずであった。既稿の部分を引用しながら見直してみようかと思う。

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神功皇后の功績大である。人も文化も技術も多方面に渉って渡来してくる。倭国が大変貌する時期に差し掛かったと思われる。古事記原文[武田祐吉訳]…、

此之御世、定賜海部・山部・山守部・伊勢部也。亦作劒池。亦新羅人參渡來、是以、建內宿禰命引率、爲役之堤池而、作百濟池。亦百濟國主照古王、以牡馬壹疋・牝馬壹疋、付阿知吉師以貢上。此阿知吉師者、阿直史等之祖。亦貢上横刀及大鏡。又科賜百濟國「若有賢人者、貢上。」故受命以貢上人・名和邇吉師、卽論語十卷・千字文一卷幷十一卷、付是人卽貢進。此和邇吉師者文首等祖。又貢上手人韓鍛・名卓素、亦吳服西素二人也。
又秦造之祖、漢直之祖、及知釀酒人・名仁番、亦名須須許理等、參渡來也。故是須須許理、釀大御酒以獻。於是天皇、宇羅宜是所獻之大御酒而宇羅下三字以音御歌曰、
須須許理賀 迦美斯美岐邇 和禮惠比邇祁理 許登那具志 惠具志爾 和禮惠比邇祁理
如此歌、幸行時、以御杖打大坂道中之大石者、其石走避。故、諺曰「堅石避醉人也。」

[秦の造、漢の直の祖先、それから酒を造ることを知つているニホ、またの名をススコリという者等も渡つて參りました。このススコリはお酒を造つて獻りました。天皇がこの獻つたお酒に浮かれてお詠みになつた歌は、
ススコリの釀したお酒にわたしは醉いましたよ。平和なお酒、樂しいお酒にわたしは醉いましたよ。
かようにお歌いになつておいでになつた時に、御杖で大坂の道の中にある大石をお打ちになつたから、その石が逃げ走りました。それで諺に「堅い石でも醉人に遇うと逃げる」というのです]
 
劔池・百濟池

<劔池>
建内宿禰が「新羅人」を率いて「百濟池」を作らせた…皮肉なことを・・・。

「劔池」は大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の墓所、劒池之中岡上陵で既に登場していたのであるが、これは当時既にあった池、上記は新しく作ったのであろう。
同様の形の池を探索しても見当たらず、単なる古刀を象った表記ではないと思われる。故に改めて文字解釈を行うことにする。

「劔」=「僉+刃」と分解される。「僉」=「一ヶ所に寄せ集める」という意味を表す文字と解説される。即ち「先端が∧の形をなす様」であり、刀の刃の形を示している。

図に示した現在の二重ヶ池の形が刀の刃を示していると思われる。幾度か述べたように現存する池の形は多くの変遷を経ているかと思われるが、輕嶋之明宮を中心とした地域にあった池と推測される。彦山川流域を開墾する上で必要不可欠な溜池であっただろう。

 
<百濟池(堤池)>
「劔」の形も大きく進化したことを暗示しているような感じである。まだまだ直刀だったであろうか?・・・。


次いで「百濟池」を新羅人に作らせるのであるが、この池は「堤池」の形をしていたと記している。

「堤」=「土+是(匙)」と分解される。要するに「匙の形をした池」と読み解ける。

古事記中での「百濟」の出現は4回のみ、上記とその内の3回が当該のところである。実に付加的説明のない扱いとなっている。

上記の「古波陀」が「百濟國」を示すと読み解いたように、朝鮮半島南部の西側の地形との類似で「紐解いてみよう(こちら参照)。

「百」=「一+白」と分解される。五百津五百木に含まれる文字である。「百」=「一様に連なる丸く小高いところ」と読む。「濟」=「水+齊」=「水のように等しく並び揃う」と解説される。すると「百濟」は…、

 
丸く小高いところが一様に連なって並び揃っているところ

…と読み解ける。これは「師木」に類似する地形を表していることが解る。些か広い「師木」の中で輕嶋に近いところから抽出すると「匙」の形をした池が見出せる。現地名は田川市夏吉の東町辺りである。古事記の範疇から逸脱するが、日本書紀の舒明天皇紀に「百濟川・百濟宮・百濟寺」が登場する。上記の「百濟池」の近隣であると推定した。「百濟池」から流れ出た水は「百濟川」の注ぐようようである。
 
阿知吉師・阿直史等・和邇吉師

百濟王より送られた馬やら論語に人を付けたと記載されている。先生が伴って来たのである。そしてその名前が倭名である。即ち先生達に「別」を付与したことを示していると思われる。同時に彼らの居場所をも表していることになる。
 
<阿知吉師・阿直史等・和邇吉師>
「吉師」は帶中津日子命(仲哀天皇)紀の忍熊王の謀反を征伐する役目の難波吉師部之祖・伊佐比宿禰爲將軍に登場する。

先生達は本来の使命に加えて「吉師」の開拓も併せて担うことになったのであろう。それでも与えられた土地から十分な財が得られたと推測される。

山稜の端の凹凸が少ない地を散策することになる。何とかそれらしき場所を求めることができたようである。

「阿」=「台地」と言ってもかなり低いところではある。「知」=「矢+口」で幾度も登場した文字である。「鏃」の形を表す。「阿知吉師」は難波津に向かって長く、低く延びた地形を示していると読み解ける。現地名の行橋市泉中央辺りである。

その地は後に大きく発展したのであろう。「阿直史等」の「直」=「|+目」で、真っ直ぐな谷間を表す。古いところでは天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天菩比命の子、建比良鳥命が祖となった津嶋縣直で出現した。

「史」=「中+手」で「真ん中を突き通すような山稜」と読み解ける。「等」=「竹+寺」と分解する。「竹(丘陵)」として「寺」=「之:蛇行する川」と読む。伊邪那岐命の禊祓で誕生した時量師神に含まれている。全ての文字が要求する要件を谷間の西側の地形が満たしていることが解る。

「和邇吉師」は蛇行する祓川に隣接する地、現在の行橋市東泉辺りと推定される。頻出の「和邇」=「しなやかに曲がる地に近いところ」で読み解ける。決して「丸邇」でも「鰐」でもない。

 
秦造之祖・漢直之祖・釀酒人仁番(須須許理等)

名前は記されないが「秦造」、「漢直」の祖及び漢名、倭名まである「釀酒人」が渡来したと告げている。

とりわけ「秦」については詳細を記述することを避けたような感じである。中国史書、隋書俀國伝の中で極めて重要な地名に関わるのである。即ち「日本國」と名乗る「俀國」の場所が詳らかになる表記となる。これは許されなかったのであろう。別稿<魏書・隋書・後漢書・唐書東夷伝新釈>を参照。

とは言え、この場所の特定は決して易しくはない。図に示したように「秦」の古文字が示す形そのままが地形を象形すると解釈した。嫋やかに曲がる二つの山稜が延びているところを表す。現地名は北九州市八幡西区穴生・鷹の巣辺りと推定される。

この地は中国の秦人が住まっていた拠点として知られている。彼らのシンボルが「鷹」であり、「鷹(高)見神社」が数多く集中する地域である。図の山稜が延びる権現山の山頂に鷹見神社奥宮が鎮座している。詳細は地元の方のブログで推論されている程度であろう。

<葛野秦造河勝>
奈良大和の地名を残存地名として、いや、それを唯一の根拠に地名比定されるが、日本の歴史学は根本的に見直さなければならないようである。

以上が「秦」に関する考察であるが、この地との交流は殆ど古事記でも日本書紀でも登場しないようである。天皇家の支配外の地だったのであろう。

書紀には日本に定着した「秦造」が登場する。例を挙げれば葛野秦造河勝であり、「秦」の地形をした場所に住まった一族と記載されている。

おそらく古事記が述べる「秦造」はこの地に関連すると思われる。「天神族」も、勿論渡来人であるが、その後も多くの渡来があったのである。その人々を巧みに活用したことが語られている。
 
<漢直>
「漢直」も全くの唐突に記載される。上記と異なり、関連する記述が後に登場する。が、これも決して単純ではない。

沼名倉太玉敷命(敏達天皇)紀の娶りの記述に漢王が現れる。その出自は未記載かと思いきや、「漢王=難波王」と推定しなければ辻褄が合わない記述なのである。

文字を紐解くと、実に「漢」と「難」とは同根であることが解る。既に一部は述べたが、「漢」=「水+𦰩」であり、「難」=「𦰩+隹」と分解される。

更に共通する「𦰩」=「革+火」と分解され、「革を火で炙って乾かす」意味を表す文字である。「漢」=「革の水分が無くなった様」、「難」=「鳥が焦げて縮こまった様」を意味する。地形象形的には共に皺が寄ったような曲りくねった様を表すと読み解ける。

実に自在な文字使いなのであるが、決して単純に文字面を眺めていただけでは読み取ることは困難な表記であろう。そこに編者達の狙いが潜んでいると思われる。

とは言うものの、上記の「秦」と異なり「漢王=難波王」と読ませて「漢」の場所を示唆していると考えられる。「漢直」は、図に示した通り、犀川(現今川)の曲がり角にある真っ直ぐな谷間の場所を示している。

 
<須須許理等>
渡来人最後の釀酒人、仁番(須須許理等)は漢名も記されている。倭名がその居場所を表すのであるが、関連する既出の人物名から類推することになる。

神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が娶った三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣の御子に富登多多良伊須須岐比賣命が居た。後に改名して比賣多多良伊須氣余理比賣と呼ばれた。

特徴ある「須須」の地形に関わる場所と推定される。その「須須」の傍(許)で区分けされ(理)蛇行する川(等)の傍らにあるところと読み解ける。

この地は早期に米作りが行われていたところと思われる。「三嶋湟咋」の名前が表すように治水され谷間の奥深く迄棚田(茨田)が作られていた。

勿論そこに目を付けたのが神倭伊波禮毘古命、その前に出雲の大物主大神であって、天皇家の豊かな財源となったと推察される。豊かな米…勿論良質の…釀酒人が必要とするものであったろう。

「呉服」の文字もあり、物作りの技術が渡来してきたと述べている。実に貴重な記述として後世に伝えるべき事柄であろう。色々懸念事項はあるものの倭国は栄え、大国へと歩んでいることを表している。飛鳥を落とす、ではなく大岩をも動かす勢い、と言っているのではなかろうか・・・。