坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅸ)
さて、いよいよ戦いが始まるのであるが、何とも他愛のない出来事を伝えている。古事記の説話と同じ感覚で読んでは真のことは理解できないのかもしれない。敗軍の将、蝦夷大臣を小ばかにした記述と思われる。即位九年(西暦637年)のことである。原文引用は青字で示す。
是歲、蝦夷叛以不朝。卽拜大仁上毛野君形名爲將軍令討、還爲蝦夷見敗而走入壘、遂爲賊所圍。軍衆悉漏城空之、將軍迷不知所如、時日暮、踰垣欲逃。爰、方名君妻歎曰「慷哉、爲蝦夷將見殺。」則謂夫曰「汝祖等、渡蒼海跨萬里平水表政、以威武傳於後葉。今汝頓屈先祖之名、必爲後世見嗤。」乃酌酒、强之令飲夫、而親佩夫之劒、張十弓、令女人數十俾鳴弦。既而夫更起之、取仗而進之。蝦夷以爲軍衆猶多、而稍引退之。於是、散卒更聚、亦振旅焉。擊蝦夷大敗、以悉虜。
古事記で幾つかの戦闘場面を読み解いて以来、久々なのであるが、流石に書紀の記述は趣を異にするように感じられる。古事記ではそれぞれの戦闘を再現できるほどに正確に記され、その結末に至る。ましてや多数の女人登場などあり得ない。品陀和氣命(応神天皇)紀の謀反人大山守命を弟の宇遲能和紀郎子が訶和羅前で征伐した例がある。蝦夷大臣は大敗するが、その後は如何?…何とも後味の悪い記述であろう。日本語訳などこちらを参照。
<上毛野君形名(方名)> |
征伐の役目を仰せつかったのが「上毛野君形名(方名)」と記載されている。「大仁」だから上位三番目の重臣であったとされている。
「上毛野君」は古事記に登場する。御眞木入日子印惠命(崇神天皇)が木國造・名荒河刀辨之女遠津年魚目目微比賣を娶って生まれた豐木入日子命が祖となったと記されている。
「形」=「幵(木で組合せた枠)+彡(模様)」と分解され、「幵」=「四角い形」を表す文字であると解説される。上記の大山守命が祖となった土形君で用いられている。
「方」も同様に「角のある形」を表す文字と解釈される。すると「荒河刀辨」の場所を示していることが解る。「形名(カタナ)=「刀」の洒落た命名かもしれない。
「名」=「夕(月)+囗(大地)」=「山稜の端の三角州(夕月)」と解釈される。古事記に頻出の文字である。最初に登場する天之眞名井を例として挙げておこう。特徴ある地形は別名表記で更に明確に特定できるようである。
「荒河刀辨」の素性は明らかではないが、大国主命が八十神達による幾多の試練を乗越える時に木國之大屋毘古神が登場する。この地は「天神族」の仲間が住みついていた場所である。間違いなく海を渡って来た祖先を持つ一族なのである。それを妻に言わさせた、と記されている。
十年秋七月丁未朔乙丑、大風之折木發屋。九月霖雨、桃李花。冬十月、幸有間温湯宮。是歲、百濟・新羅・任那並朝貢。
十一年春正月乙巳朔壬子、車駕還自温湯。乙卯、新嘗、蓋因幸有間以闕新嘗歟。丙辰、無雲而雷。丙寅、大風而雨。己巳、長星見西北、時旻師曰「彗星也、見則飢之。」秋七月詔曰、今年、造作大宮及大寺。則以百濟川側爲宮處。是以、西民造宮、東民作寺、便以書直縣爲大匠。秋九月、大唐學問僧惠隱・惠雲、從新羅送使、入京。冬十一月庚子朔、饗新羅客於朝、因給冠位一級。十二月己巳朔壬午、幸于伊豫温湯宮。是月、於百濟川側建九重塔。
蝦夷大臣が大敗した月日は詳らかではなく、その翌年(西暦638年)秋の話に飛んでいる。大臣の要職は誰が?…大敗しても以前のまま?…また百濟などの出迎えは如何に?…などなど、些か雑な記述であろう。秋七月には大風、九月には降り続く長雨(霖雨)があって、桃李の花が咲いたとのこと。狂い咲いたか?…天皇は、また、有間温湯宮に行かれたようである。
翌年の即位十一年(西暦639年)正月に有間から戻られた。おそらく宮廷内は平穏な雰囲気ではなかったのであろう。群臣達の権力争いも生じていたのかもしれない。蘇我一族内の内輪もめも含めて・・・まぁ、色々と妄想は逞しくなる、そんな記述であろう。新嘗祭は、天皇が有間に行っていたからではなく、宮廷内の状況が原因で先送りとなったのであろう。
そして、またまた大風、彗星などの飢饉の予兆、それには事業を起こして気持ちを引き締めようとした、と記載されている。百濟川の畔に百濟宮と百済寺を造ることにしたとのことである。
百濟川・百濟宮・百濟寺
百濟川の東西側に寺と宮を、それぞれ東西の民に造らせたと記されている。「百濟」は朝鮮半島の百濟國を示す筈はなく、田中宮の近隣地域と思われる。古事記に「百濟」は品陀和氣命(応神天皇)紀に登場する。建内宿禰が新羅人を引率して造った百濟池(堤池)である。
百濟=丸く小高いところが一様に連なって(百)並び揃っているところ(濟)と読み解いた。「師木」に重なる表記である。その地に堤池=匙(サジ:堤)の形した池があることを突き止めた。この池から流れ出る水が注ぐ川、それが「百濟川」と推定される。正に百濟(師木)の中央を大きく蛇行しながら流れる川である。
<百濟川・百濟宮(寺)・(倭漢)書直縣> |
伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の師木玉垣宮もこの川の上流域で支流が曲がりながら合流するところの畔にあったと推定した。
おそらくこの池の近隣に宮と寺を川を挟んで東西に造ったと思われるが、なかなか見極め辛いようである。
「大匠」の名前「書直縣」が記載されている。これは場所の情報を兼ねているのではなかろうか。後に「倭漢」が付加される。
「書」=「聿+者」と分解すると、書=[筆]の形(聿)を寄せ集めくっ付けた(者)様を表していると読み解ける。古代は筆で書いた文字が付いた竹簡を寄せ集めくっ付けたものが「書」であったと知られる。図に示したように一方の山稜が筆先のように細かく分かれていて、それがもう一方の山稜に寄り集まってくっ付いた地形を示すところを示していると解釈される。
そこに既出の縣=糸のような隙間(系)に小高いところ(首:県の逆さ文字)がぶら下がった(くっ付いた)様を示すところに直=真っ直ぐな隙間(目)がある、と読み解ける。即ち百濟宮・寺は真っすぐに流れる川の対岸に造られたことを伝えていると思われる。宮と寺は、両岸が小高くなっているところと推定した。九重塔は寺側に建てられたのであろう。
<伊豫温湯宮> |
残念ながらお上の申しつけには逆らえなかった、のであろう。古事記と書紀の表記を併せて解読できることの心証が得られた思いである。
それにしても日本國は、すっかり仏教国になったようで、神様は何処かに雲隠れ、なのであろうか・・・。
天皇はその年の十二月に「伊豫温湯宮」に向かったと伝えている。古事記に登場の伊余湯の場所であろう。「温湯」の解釈は有間温湯と同様とする。
この谷間の出口が「大雀命」の出自の場所となる。現在も小さな頭の鳥が鎮座しているように伺える。有間よりも田中宮から遠く、更に険しい谷間、益々宮中の連中が寄り付きそうもない場所を選んでいる。混迷は収まらず、なのかもしれない。
十二年春二月戊辰朔甲戌、星、入月。夏四月丁卯朔壬午、天皇至自伊豫、便居廐坂宮。五月丁酉朔辛丑、大設齋、因以請惠隱僧令說無量壽經。冬十月乙丑朔乙亥、大唐學問僧淸安・學生高向漢人玄理、傳新羅而至之、仍百濟・新羅朝貢之使共從來之、則各賜爵一級。是月、徙於百濟宮。
十三年冬十月己丑朔丁酉、天皇崩于百濟宮。丙午、殯於宮北、是謂百濟大殯。是時、東宮開別皇子、年十六而誄之。
<厩坂宮> |
「厩」の場所は上宮之厩戸豐聰耳命の場所、上宮(石上廣高宮)がある山稜の麓とを示すと思われる。古事記で幾度か登場する「坂」の解釈が有効であろう。
「坂」=「土+反」と分解される。更に「反」=「厂+又(手)」から成る文字である。これをそのまま地形象形として用いているのである。
坂=崖(厂)にある腕を伸ばしたような山稜(手)と紐解ける。厩坂宮は、図に示した長く延びたところ、その先端部にあった宮と思われる。百濟宮と同じく、現地名は田川市夏吉である。
「無量壽經」を僧に説かせたとある。一心不乱に念仏を唱えれば極楽浄土に往生できる。後の浄土教の根本聖典とのことである。古事記が語る黄泉國は、少々過酷な場所のイメージが強かったのかもしれない。
高向漢人玄理
学生「高向漢人玄理」が新羅を経て帰国したと伝えている。推古天皇十六年(西暦608年)に南淵漢人請安(後に南淵先生として登場する)らと共に「隋」に留学していた。この年は西暦640年であり、三十年以上も留学していて、その間に「隋」から「唐」に変わっている。大化の改新後には「国博士」という称号を拝したとのことである。
<高向漢人玄理> |
「高向」の文字は蘇賀石河宿禰が祖となった中に高向臣が登場するが、これは蘇賀の地であって、「漢人」が入り込む隙間はなかったであろう。
出自を調べた時に彼らは「河内」に関わる場所に住まって居たことが分かった。すると河内にある漢人=谷間で大きく川が蛇行するところを表していると読み解ける。古事記におけるその地は現地名で京都郡みやこ町勝山浦河内と推定した。
「玄」=「弓と弦が作る形」を表すと紐解いた。櫻井皇子(櫻井之玄王)に含まれていた。「理」=「切り分けられたところ」を示し、図に指名した場所の地形を表していると思われる。別名「黑麻呂」と呼ばれたとのことで、頻出の「黑」の「[炎]の地形」を対岸の山肌が示すと思われる。「麻呂」は「半月の地形」に該当する。
ついでながら父親の「高向古足」を紐解くと、「古」=「丸く小高いところ」、「足」=「帶:山稜が長くなだらかに延びたところ」と解釈すると図に示した場所と推定される。残念ながら神社名は不詳。渡来した漢人達は奥深い峡谷を開拓するように仕向けられたのであろう。そんな地から有能な人材が輩出し、国を支える日本の歴史である。
東宮開別皇子
即位十三年(西暦641年)十月九日に百濟宮で崩御された(四十八歳?)。東宮開別皇子(後の天智天皇)は、未だ十六歳だったとのことである。唐突に皇子の年齢を伝えるという中途半端な記述、書紀らしいと言えばそれまでだが、何かの思惑があってのことであろう。後日に述べてみようかと思う。
天智天皇については、皇子名も含めて、葛城皇子、近江大津宮御宇天皇、天命開別天皇などがあり、それに「東宮開別皇子」が加わる。地名に関わるキーワードは「葛城」、「近江大津」、「天命」、「開別」であり、前記でそれらが示す地を特定した(近江→淡海として)。ここで新たに加わっているのが「東宮」と思われる。
ところが、「東」は古代中国の五行説から「皇太子」を示すと辞書に記載され、古典文学大系によると「マウケノキミ」と読むそうである。弔辞(誄)を述べたと言うなら、さもありなんと思わせる記述であるが、「皇太子開別皇子」となって重なった表記である。「東宮開別」あるいは「開別皇太子」であろう。続く「開別」は「近江大津」の地にある特徴的な地形を表していた。
即ち「東宮」=「近江大津宮」を示し、東=近江大津と読み解ける。岡本宮、田中宮、百濟宮など登場する多くの宮がある地(現地名:田川郡香春町・田川市夏吉)の東方にある宮(現地名:行橋市天生田)と記しているのではなかろうか。書紀本文では「皇子」であって「皇太子」とは記述されていないし、実際そうではなかった筈である。
「淡海の津」の近傍にある「開別」の地は東方に位置する。奈良大和から「近江」は北方であろう。書紀編者の良心の欠片が残した「東宮」かと思われる。「東宮開別」の文字列は、書紀中ここでの登場だけである。書紀の「東宮=皇太子」という表現が統一されてないのでは?…と疑問を呈している方もおられる(こちらを参照)。詳細は書紀を読み進める内に明らかとなって来るように思われる。
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古事記における漢字を用いた地形象形表記は、日本書紀でも同様に行われていることが判った。中国史書も含めて倭人達の間では極当たり前のことであったと推測される。白地図のような土地に棲みついた彼らが生み出した文化と言えるかもしれない。
がしかし、その精緻さが仇となってしまう場合も発生したようである。その場所を隠蔽する必要に迫られた支配者は、培われた文化を闇の中に送り込んでしまった。引続き読み解いて行こうかと思う書紀の記述に変化があらわれるのか、楽しみでもある。