2020年3月26日木曜日

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅷ) 〔398〕

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅷ)


さてさて準備万端整ったところで唐からの使者を迎えることになる。西暦632年以降の出来事である。原文引用は青字で示す。

四年秋八月、大唐遣高表仁送三田耜、共泊于對馬。是時、學問僧靈雲・僧旻・及勝鳥養・新羅送使等、從之。冬十月辛亥朔甲寅、唐國使人高表仁等泊于難波津、則遣大伴連馬養迎於江口、船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整飾、便告高表仁等曰「聞天子所命之使到于天皇朝、迎之。」時、高表仁對曰「風寒之日、飾整船艘以賜迎之、歡愧也。」於是、令難波吉士小槻・大河內直矢伏爲導者、到干館前。乃遣伊岐史乙等・難波吉士八牛、引客等入於館。卽日、給神酒。
五年春正月己卯朔甲辰、大唐客高表仁等歸國。送使吉士雄摩呂・黑摩呂等到對馬而還之。

遣使の犬上君三田耜が唐の高表仁に送られて帰国する。学問僧(その内の僧旻は後に登場する)新羅の送使を伴っていたとのことである。難波津(現行橋市)までの途中の停泊地は対馬のみが記載されている。省略されているかもしれないが、壱岐には寄らず、対馬からの直行ルートが最短であろう。航続距離が少し延びれば容易だったであろう。

言えることは、「日本国」は博多湾岸ではない、ことである。また隋書俀國伝に記載のルート(およそ三十年前)は、既に過去のものになっていたのであろう。勿論関門海峡を通らず、筑紫嶋(現企救半島)の南側を抜けて難波津に向かったと推定される。

そこで迎えの者が数人登場する。大伴連馬養難波吉士小槻③大河內直矢伏伊岐史乙等難波吉士八牛である。そして翌年高表仁の帰国に際しての送使として、吉士雄摩呂吉士黑摩呂の名前が挙げられている。
 
<大伴連馬養>
大伴連馬養は既出の群臣の一人、大伴鯨連の近隣を出自とする名前であろう。蘇賀の北西の谷間である(現地名は京都郡苅田町山口)。

「養」=「羊+食」と分解される。「羊」は、古事記頻出の文字で、「美」にも含まれ、「谷間に広がる大地」と読み解いた。

例示すると神功皇后が三韓から帰国して品陀和氣命(後の応神天皇)を産んだ場所である宇美がある。隋書俀國伝に記載された使者裴世清が辿り着いた海岸(ウミノキシ)があった場所でもある。

「伴」=「二つに分かれたところ」と読んだ、その隙間(谷間)を「羊」が表していると読み解ける。「食」=「∧+良」=「山麓のなだらかな地形」を表す。これも古事記に登場した文字である。例示すると伊豫之二名嶋の讃岐國・別名飯依比古に含まれる「飯」が示す地形である。

ここまでは順調?…なのであるが、肝心の「馬」の象形を見出すことに手間取った。上記の「鯨」も同様に一見では見つかり難いところだったが・・・「馬」の古文字を図に示した。それで漸くにして読み解けたのである。馬養=「馬」の地形の傍らにある谷間の先に延びた山麓のなだらかなところと読み解ける。
 
<難波吉士小槻・難波吉士八牛>
次いで「吉士」の連中を纏めて読み解いてみよう。「吉士」の地が埋まるかも、である。難波吉士についてはこちら及び難波吉士身刺を参照。

難波吉士小槻、の「小」=「三角の形」で頻出である。「槻」=「木+規」と分解される。

「規」=「丸く区切る様」(コンパス)を表す文字と解説される。小槻=丸く区切られた地が三角形に並ぶところと読み解ける。

山稜の端の先になって標高差が少なく判別が難しくなっているが、小高いところが三角に並んでいる場所が見出せる。現地名は行橋市東泉と南泉の境である。

難波吉士八牛の「八」=「谷」であろう。「牛」も「馬」も度々登場するが、押し並べてそれらの古文字の形、特徴を抽出して用いているようである。「牛」の特徴は「角」であり、その地形を求めると、八牛=谷間にある「牛」の形をしたところがあることが解る。
 
<吉士雄摩呂・吉士黑摩呂>
群臣難波吉士身刺と言う極めて特徴的な地形として求めた場所の周辺に位置するところであることが読み取れた。

更に送使の二名が吉士雄摩呂吉士黑摩呂と記されている。「雄」=「厷+隹」と分解される。「厷」=「翼を広げた様」を表し、「オス」と解釈されている。

地形象形的には、そのままの形、雄=翼を広げた鳥のようなところと読み取れる。摩呂=近付いて並ぶ高台と読む。

図に示した矢留山の山容そのものを表していることが解る。黑=炎のような山稜の麓の稲田と読んだ。例示すれば仁徳天皇紀に登場する黑日賣などである。

矢留山の尾根が更に延びたところの地形が表記されたと思われる。原文は「吉士雄摩呂・黑摩呂」と併記している。それも図の位置関係を示していると思われる。

この地は若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が葛城之垂見宿禰之女・鸇比賣を娶って誕生した建豐波豆羅和氣が祖となったと記載されている。また御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀には依網池を整備したという記述もある。かなり早期に開拓され人々が住まった場所である。舒明天皇の時代になって有能な人材が輩出するまでに発展したのであろう。
 
<大河內直矢伏>
③大河內直矢伏の「河内」は難波津に注ぐ幾多の川に挟まれた地域と解釈した。

この名称(川内とも表記される)は古く、古事記の天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった凡川内國造に出現する。

現地名の京都郡みやこ町勝山浦河内・宮原・岩熊・矢山辺りと推定した。

「大」が付くことから、平らな頂の山稜の麓に近接した辺りと思われるが、続く文字列「直矢伏」を紐解くことにする。

「伏」=「人+犬」で人の傍で伏せている犬の状態を表す文字であろうが、やはり「犬」=「平らな頂の山麓」と読む。

「大」と区別すると「犬」=「枝稜線が作る(小ぶりな)平らな頂の山麓」となろう。即ち「直矢」では場所の特定が曖昧で、「伏」を付加して明確にした、と解釈できる。

図に示したように直矢伏=真っすぐな矢のような谷間で小ぶりな平らな頂の山麓のところと読み解ける。古事記の沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が坐した他田宮があった、その上流に当たる。現在の風景ではあるが、標高150mまで、ほぼ真っ直ぐに延びる棚田は見事であろう。日本の原風景を留める地と思われる。
 
<伊岐史乙等・伊岐史麻呂>
伊岐史乙等は古事記の伊伎嶋を示していると思われる。「史乙等」の「史」=「中+又(手)」と分解する。

既出の「中」=「真ん中を突き通す様」と読んだ。すると「史」=「真ん中を突き通す山稜」と紐解ける。

「乙」=「詰まって曲がる様」を象った文字と解説される。古事記の白髮大倭根子命(清寧天皇)紀に登場する菟田首等に含まれている。

「等」=「竹+寺」と分解して、「等」=「山稜の谷間を蛇行する川」と紐解いた。

纏めると史乙等=谷間を蛇行する川の傍らで詰まって曲がる山稜が真ん中を突き通すようなところと読み解ける。図に示した「天津」の地形を表していることが解る。

天石屋の事件に登場した鍛人天津麻羅の場所である。「天神族」は拠点を東へと移しながら過去の地の有能な人材を登用していたのであろう。高天原に人々が住み続けていたことが伺える。

尚、後の孝徳天皇紀に登場する「伊岐史麻呂」の場所も併せて示した。この地は天津國玉神(天若日子命の父親)が坐していたと古事記が伝える場所であるが、邇邇藝命の降臨の際に居残った一族かもしれない。
 
<難波津江口>
引用原文に戻ると、「唐國使人高表仁」を難波津の「江口」で出迎え、「(三韓)館」で接待したと、簡明に記載されている。

ここであらためて難波津の迎賓の場所を纏めてみると、大雀命(仁徳天皇)紀に「掘難波之堀江而通海」と記されている。

山代河(犀川:現今川)の河口付近で浅瀬となっているところを掘って船の通行を容易にしたのが難波之堀江と解釈した。

「江」は入江のように読まれて来たようだが、「江」は揚子江(長江)を表す文字であり、後に大河を示す意味を持つようになったと解説されている。江口=大河の河口が適切な解釈であろう。即ち犀川の河口を示しているのである。

そこを船着場とすると、迎賓施設の見事な陣立てが描かれていることに気付かされる。迎えられた高表仁に「風寒之日、飾整船艘以賜迎之、歡愧也。」言わしめたこととは単に船の飾りだけではなかったのであろう。送迎の使者の多くが「吉士」を名乗る。事前連絡が困難な時代、突然歓迎への即応体制でもあったと思われる。「天神族」、なかなかやるではないか!・・・。

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尚、推古天皇紀に裴世清を迎えた記事が記載されている…、

十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。卽大唐使人裴世淸・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世淸等。爲唐客更造新館於難波高麗館之上。六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客。

…推古天皇即位十六年(西暦608年)では、まだ大唐(西暦618年~)になっていない。隋書俀國伝によれば裴世清は、大業四年(西暦608年)に竹斯國の東方の「海岸」に着き「彼都」で歓迎されたとある。「海岸・彼都」を暈すために行った記述なのだが、西暦608年を敢えて動かさなかったのは書紀編者の”良心”なのかもしれない。詳細は後日推古天皇紀に述べることにするが、明らかに奈良大和を中心とした世界を創出することが彼らに与えられた使命だったのであろう。

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六年秋八月、長星見南方、時人曰篲星。七年春三月、篲星𢌞見于東。夏六月乙丑朔甲戌、百濟遣達率柔等朝貢。秋七月乙未朔辛丑、饗百濟客於朝。是月、瑞蓮生於劒池、一莖二花。
八年春正月壬辰朔、日蝕之。三月、悉劾姧采女者皆罪之。是時、三輪君小鷦鷯、苦其推鞫、刺頸而死。夏五月、霖雨大水。六月、災岡本宮、天皇遷居田中宮。秋七月己丑朔、大派王、謂豐浦大臣曰「群卿及百寮、朝參已懈。自今以後、卯始朝之巳後退之、因以鍾爲節。」然、大臣不從。是歲、大旱、天下飢之。
九年春二月丙辰朔戊寅、大星、從東流西、便有音似雷。時人曰流星之音、亦曰地雷。於是、僧旻僧曰「非流星。是天狗也。其吠聲似雷耳。」三月乙酉朔丙戌、日蝕之。

即位六年から九年(西暦634~7年)にかけて、南の空に彗星が見えたり、日食が見えたり、劔池に変わった蓮の花が咲いたり、旱魃による飢饉が生じたり、挙句には宮が火災したと伝えている。風雲を告げる暗示であろうか・・・。

「劔池」は古事記に二度出現する。大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の劒池之中岡上陵(小野牟田池、直方市感田)、もう一つは品陀和氣命(応神天皇)が造った劔池(二重ヶ池、田川郡福智町金田)である。蓮が生える池としては、多分、後者であろう。金辺川と彦山川の合流点近傍である。
 
三輪君小鷦鷯

一月一日に日食があったと伝えている(検証できそうにも思うが、知識・情報不足で断念)。続いて宮内での乱れを述べている。些か緊張感がなくなって来たようであるが、登場する「三輪君小鷦鷯」、この方の名前がもたらす情報は貴重であることが解った。先ずは地形象形表記として紐解いてみよう。
 
<三輪君小鷦鷯>
「三輪」は迷うことなく「美和」に還元し、古事記に登場する「美和山」(現在の企救半島にある足立山)に坐す君と解釈する。

「小」=「三角の形」として、「鷦」=「焦+鳥」、「鷯」=「尞+鳥」と分解する。更に「焦」=「隹+灬(炎)」と分解される。

「鳥を焼く、焦がす」⇒「縮む」⇒「間隔が狭い、迫る」と意味が展開してくと解説される。

一方の「尞」=「柴で燃やす」=篝(かがり)火」⇒「並び連なる」と展開する。「寮」の意味もこの展開によって、その意味が通じて来ることが解る。

纏めると鷦鷯=二羽の鳥がくっ付くように並び連なっている様を表していると読み解ける。図に示したように山腹の山稜が描く三角の形をした二羽の鳥が並んでいるように見える地形である。足立山の西稜にある妙見山に妙見宮上宮がある。古事記は、その麓に筑紫之岡田宮、また筑紫訶志比宮があったと伝えるところである。

大長谷若建命(雄略天皇)紀に登場する引田部赤猪子が、その麓の先に居たとも述べている。「赤」=「大+火」と分解され、山稜の姿を「炎」に見立てた表記である。「焦」、「尞」全て「火」に関わる文字である。全てを絡ませた文字使い、正しく万葉の世界が展開されているようである。
 
岡本宮・田中宮

更に「火」に繋げて岡本宮が火災し、田中宮に移ったと記されている。ここで「岡本宮」も今一度詳しく調べてみよう。ブログのタイトルにも含めた「岡本宮」は古事記では唐突に出現するだけである。「飛鳥岡」によって「飛鳥」の地にあったことが明らかとなった。既にその場所を比定したように現在の香春一ノ岳の東麓である。今一度記された文字列すべてを読み解いてみよう。
 
<飛鳥岡・岡本宮>
少し振り返りながら述べると・・・「岡」=「网+山」と分解される。即ち岡=山稜に囲まれた山を表す文字である。

「网」は「網」の原字であって「覆い被せる、取り囲む」と言う意味を持つ。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が行幸した筑紫之岡田宮に含まれていた。大きな谷間の中に山稜が延びる地形の場所と推定した。

図に示す通り、香春一ノ岳の東側中腹に幾つかの山稜が見出せる。この盛り上がった中腹を「岡」と呼んでいることが解る。

「岡」に類似する文字には「丘」、「杯」などがあるが、その地形は「岡」の原義に基いた表記によって適切に表されていると思われる。鬼ヶ城(香春城)跡の麓と推定される。

一見簡単な文字列ではあるが、古事記全般を通じて揺るぎのない表現を行っている。書紀の固有の名称も、恣意的な改竄を除くと、そのまま通用するように思われる。が、果たしてそうか、読み続けてみよう。
 
<田中宮>
またまた簡単な表記である「田中宮」の登場である。これに関連する文字列は天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった倭田中直にある。

上記の岡本宮に対して香春岳を挟んで西麓の位置にあった宮と推定される。

頻出の「中」=「真ん中を突き通す様」と読む。五徳川が流れる香春岳西麓の谷間に並ぶ田の真ん中を突き通すような山稜があるところを表していると思われる。

急遽の遷宮であれば、開拓された既存の場所を求めることになろう。その要件を満たす場所であったと思われる。

現在も棚田が長く続く谷間である。当時は国の中心地として多くの人々行き交うところであっただろう。幾多の変遷を経た現在であろうか・・・。

その年の秋七月になって大派王…古事記では沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が春日中若子之女・老女子郎女を娶って誕生した大俣王であろう…大御所の立場から豐浦(蝦夷)大臣に「群卿及百寮」が節度を保つようにさせろ!…と進言したにも拘わらず、大臣は従わなかったと伝えている。そして旱魃があって飢えが発生した。流星に雷、既出の僧旻が天狗を持ち出したり…失政と天災が繋がる、のであろう。

豐浦大臣は既に紐解いた。蘇我蝦夷臣の居場所を端的に伝える字名である。いよいよ風雲急を告げる時が訪れたようである。舒明天皇など眼中にない振舞い、と述べている。それが書紀の記述方針に沿ったものであったかどうか、定かではないが・・・。